世界を敵に回す、ということ
覚悟はしていた。
この世界のルールそのものに牙を剥いたのだ。追われるのは当たり前のことであるし、それに文句を言うつもりもない。
それこそが定められていた“法”であり。
破ってしまった自分達はもう、“無法者”になってしまったのだから。
「……ごめん」
彼にとっての幼馴染の言葉。俯く彼女の頭を優しく撫でる。
「もう謝るなよ」
このやりとりは何度目だろうかと、そんなことを青年──ルフィは思う。
「ウタは何も悪くねェだろ。殴ったのはおれだ」
その言葉に、違う、とウタは言う。
何度も、何度も。
「私は、また。また、ルフィの未来を──」
「何度だって言うぞ」
その体を抱き寄せ、それ以上の言葉を口にさせないようにする。
すっぽりとルフィの腕の中に収まるウタ。その体が小さく震えた。
「……ずっと一緒だ」
何かを噛み締めるような音が響き。
そして、押し殺すような嗚咽が聞こえてきた。
優しく、その体をルフィは抱き締め続ける。
……彼女の涙が、止まるまで。
実を言うと、この時は楽観的に思っていた。
なんとかなる。
二人で一緒ならなんとでもなると……そんな風に。
──けれど。
その考えの甘さをすぐに後悔することになる。
自分達は本当に世界を敵に回したのだと。
そう、理解することになってしまったのだ。
◇◇◇
「私はあなたたちの味方です」
訪れた島で出会った人はそう告げてきた。穏やかな雰囲気を纏う女性であり、その夫であるという恰幅のいい男性も彼女のその言葉に頷いていた。
今から思えば無防備であったし軽率だったと思う。しかしどうしようもなかったのも確かだ。
ルフィが“天竜人”を殴ったあの日から二人はずっと船を前へと進ませ続けた。途中でいくつかの島には立ち寄ったがそこでは人のいる場所には近付かないようにし、人目に隠れて食料の補給を済ませるとすぐに出港することを繰り返してきたのだ。
とにかくシャボンディ諸島から離れなければならないというのが共通認識であった。だからこそ今日までまともに気の休まることもないままここまで来たのだ。しかしどうしても必要なものはある。だから一か八かで人のいる場所に来たのだが──
「ここは宿でもあります。とにかく体を休ませてください」
こちらを気遣うように言うその女性の言葉に二人で小さく頷く。
どうしようもなく疲れていたし、張り詰めていたものが解けていくような感覚を覚えた。そして案内されるままにその夫婦が経営しているという小さな宿の一番奥の部屋に通される。
「…………」
二人とも、無言だった。
壁に背を預け、寄り添うようにして座り込む。
「……ルフィ」
「……ウタ」
互いの存在を確かめるように、小さく互いの名前を呼ぶ。お互いの名前を呼ぶことが、その存在の証明だった。
落ちていく瞼。その最中で思う。
これからどうしたらいいのだろう。
この先はどうなっていくのだろう。
未来への漠然とした不安。考えないようにしていたことだが、落ち着けるようになったためにどうしても考えてしまう。
「ごめん」
彼女のその言葉は何度目だろうか。その言葉に対し、ルフィの答えは決まっている。
「気にすんな。……なんとかなる」
その体を抱き寄せるようにしながらルフィは言う。
かつては先の見えない未来に憧れていた。無法者である“海賊”になり、この世界を冒険するのだと。そんな風に思っていたのだ。
しかし今のルフィにはかつてのような憧れはない。あるのは漠然とした不安だけ。
だがそれでも言うしかないのだ。
──なんとかなる、と。
「……少し寝よう、ウタ」
「……うん」
ゆっくりと、瞼が落ちていく。
ズキリと、頭に鈍い痛みが走った。
──目が覚めたのは、その気配を感じ取ったからだ。
どれぐらい眠っていたのか。数時間くらいだろうかとルフィは思う。ゆっくりと目を開けた彼の服の裾をウタが握った。彼女もこの気配を感じ取ったのだろう。
「ウタ」
「……うん」
それだけでお互いの言いたいことが伝わった。ルフィは立ち上がり、窓の外へと視線を向ける。
感じるのはいくつもの気配。息を殺しているが、彼の“見聞色の覇気”はそれをしっかりと捉えていた。
統率の取れた動きだ。この建物を取り囲む気配はセオリーに従った動きをしている。それはつまり、海賊や賞金稼ぎといった集団とは違う存在であるということだ。
そうなれば答えは一つしかない。──海軍だ。
偶然ではないだろう。誰かが呼んだのだ。そしてその誰かがわからないほどに二人はものを知らないわけではない。
最初からか、或いは途中からか。いずれにせよこの状況が全てを物語っている。
「……ウタ。掴まってろ」
その判断をしてしまえば後は早い。ルフィはウタを抱き上げ、ウタはそんなルフィの首へと腕を回してしがみつくように体を密着させる。
出来るだけ音を立てないようにしつつ廊下へと向かう。周囲の気配は数が多いが建物内にはまだ入ってきていない。そしてその強さにもばらつきがある。一つだけ一際強い気配を感じる方向とは逆方向へとルフィは歩いていく。
意図的にそうしているのだろう。周囲の気配からは声が聞こえず、微かな移動音が聞こえるだけだ。おそらくやり取りは全てハンドサインで行っているのだろう。ルフィもウタもその手の訓練は受けているからよくわかる。
「…………ッ」
ウタがルフィの服を掴む力が強くなった。もしかしたら、と少しだけ期待していたのだ。
周囲にいるのは海軍ではなくて。
何か。そう、別の何かだと。
だが二人の経験と記憶がそれを否定する。この統率の取れた動きには覚えがあるのだ。これは建物内に立て籠った犯罪者に対しての動きであり、そして今この建物内にいるのは自分達だけなのだから。
強い気配がある方向とは逆方向。その先にあるのは夜の森だ。
「離すなよ」
腕の中でウタが小さく頷く。それを合図に、ルフィは眼前の扉を蹴り抜いた。
本来なら誰もが寝静まる夜に似つかわしくない音が響き渡る。同時、幾つもの光が一斉に周囲を照らした。
「いたぞ!」
聞こえた声の方へとルフィは視線を向ける。そこにいたのは。
「……くそ」
思わず、小さな声が漏れた。
見慣れた制服を纏う大勢の海兵たち。そちらがこちらへと視線を向けていた。
かつて、ルフィとウタは彼らを背負うようにして戦っていた。
しかし、今は。
その背を追い立てるように、彼らはこちらへ銃を向ける。
──それが現実なのだと、そこでようやく思い知った。
◇◇◇
響き渡る鈍い音を聞き、その海兵──ヴェルゴはそちらへと視線を向けた。指揮を執る自分とは真逆の場所から出てきたのだろう。彼の中では想定の範囲内だ。
「出てきた!」
「追え!」
「見失うなよ!」
つい先程までは声を殺し、足音さえも消すようにしていた海兵たちが次々と声を上げる。その声色は葛藤のようなものが滲んでいた。おそらくだが、声に出さないと彼らは動くことさえできないのだろう。だから必要以上の声を出し、自分がすべき行動を確認するように叫んでいるのだ。
仕方がないとヴェルゴは思う。海兵というのは大なり小なり正義感が強い人間ばかりである。どうしたって納得できないこの任務、進んで志願した自分を含む数名を除けば迷いが生じるのは当然なのだ。
(たった二人に海軍がこうも振り回されているとは)
海軍とは世界政府が持つ最大の戦力だ。その力の根拠は圧倒的な『数』によるものである。世界中の海から人を集め、世界中の海の治安を守る。この“大海賊時代”においては時に多くの非難を浴びる海軍であるが、それでも一定の秩序を保てているのは海軍の存在故であることも確かだ。
故に本来なら海兵二名が問題を起こしたくらいで揺らぐような組織ではないはずなのだ。実際海軍を抜けて海賊になった例もあるし、それなりに大きな不祥事が起こったとしても海軍という組織そのものが大きく揺らぐようなことはなかった。
しかし、今回の二人はあまりにもその影響力が大き過ぎる。
たった二人の海兵が、民衆にとっての海軍という“正義”の“象徴”となってしまっていたほどに。
(世界政府さえも動揺している状況だ。致し方ないのだろうが……)
事件だけならば混乱で済んだだろう。だがその後に世界中にばら撒かれた情報が厄介だった。あの二人がどれほどの功績を挙げようと『大犯罪者の子供』という事実に嫌悪感を示す者は一定数いる。そしてそれを否定する者もだ。
このように二つの対立する意見が出る状況というのは実に厄介である。それはいつしか同意見を持つ者同士で集団を作り、そして派閥となっていく。そして異なる意見を持つ派閥同士ではどうしても争うようになるのだ。
今の所海軍内では二人を否定する者は少ない。しかし民衆は既に割れ始めているという。そうなるとその影響は世界政府に及び、そして海軍にも及ぶことになるだろう。
更にはこの状況を好機と見たか動き出した勢力もあるのだ。たった二人が起点となった事件が随分と大事になったものである。
「通報してやったんだ! 報奨金を寄越しな!」
思考の海に沈みかけていたヴェルゴをその声が引き上げた。見れば、あの二人がこの場所にいることを通報してきた夫妻が近くの海兵に対して声を荒げている。
その光景を見咎めたヴェルゴはその夫妻の下へと歩み寄ると声をかけた。
「失礼。今回の協力者の方でしょうか」
「ええ。通報するだけでも報奨金を出すって聞いたもの」
女性の方が当然のようにそう言った。その側では男性の方も腕組みをして頷いている。夫婦に詰め寄られていた海兵はそんな夫婦の姿を見て苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
現役の海兵が“天竜人”を暴行するという大事件。その首謀者が逃げたという事実を受け、世界政府はあの二人を指名手配するという判断を下した。前代未聞とも言えるこの事件は既に世界中に伝わっており、何かしらの判断を下さないわけにはいかなかったのだ。
「無論です。しかし少し手続きが必要でして。……すまないが、このお二人の手続きを」
「はっ。──どうぞこちらへ」
近くにいた別の海兵へと声をかけると、その海兵がその夫婦をこの場から別の場所へ誘導し始める。とりあえずこれでこの場は治まった。
「……気に入らないか?」
その夫婦の姿が遠くなったところで最初に詰め寄られていた海兵へとヴェルゴが声をかけた。その海兵は慌てた様子でいえ、と首を振る。
「申し訳ありません」
「謝ることじゃない。……この任務が辛いなら外れてもいい。強制はしない」
「そんな。……いえ、大丈夫です」
首を振る海兵。構わんさ、とその海兵へとヴェルゴは告げた。
「この任務に乗り気な海兵などいないだろう。相手が相手なんだ。……おれ自身も乗り気にはなれん」
「そうなんですか? しかし中将殿はその、志願されたと」
「そうだな」
海兵に対して頷きを返す。彼の言う通りである。ヴェルゴはこの任務──二人の追撃という任務に自ら志願したのだ。
その理由は様々だ。だがこの場でこの海兵を納得させるには一言でいい。
「誰かがやらなければならない。理由はそれだけだ」
言い切ると、ヴェルゴは指示を出す、と言葉を紡いだ。
「当初の予定通り五人ずつで編成を組んで捜索を。夜の森だ。大型の獣はいないという話だが十分気をつけるように」
「は……はっ! 了解しました!」
慌てた様子で海兵が動き出す。それを見送りヴェルゴもまた歩き出した。
目指す先は夜の森だ。結局のところあの二人と正面から相対できる海兵はこの場においてヴェルゴしかいない。数で押せば削れはするだろうがそれは下策だ。
「…………」
森へと分け入る最中、ヴェルゴの視界にそれが映る。
それは町外れにある廃棄物の集積所であった。そこにはいくつものゴミが固めて集められていたが、その中に見覚えのあるものを見つける。
──麦わら帽子と、ヘッドフォン。
かつてヒーローの象徴であったはずのものが、無数に打ち捨てられていた。
◇◇◇
一際強い気配が迫ってきていることをルフィは感じていた。
振り返ればみえるいくつもの光。あれは海兵たちがこちらを追ってきている姿だろう。だが彼らについてはあくまで一海兵だ。数名強い気配を纏った海兵はいるが、それでもルフィからすれば確実に倒せる相手。
だが一つ。光源を持たずに真っ直ぐにこちらへと向かってきている気配がある。
「……強ェな」
ルフィは思わず呟く。他の海兵たちが文字通り少しずつ周辺を探しているのに対し、その気配だけが真っ直ぐにこちらを目指して迫ってきている。おそらくは“見聞色の覇気”によるものだろう。
逃げ切ることは難しいかもしれないとルフィは思った。一直線に船を隠した場所へと向かっているが、相手の速度とこちらの速度を考えた場合船の準備をする間に追いつかれてしまいそうなのだ。
だが現状で打てる手はない。とにかく逃げるしかないのだ。
森の中、道なき道をウタを抱えながらルフィは行く。幼少期に放り込まれたジャングルに比べたら随分と走り易い森だ。あの経験がこんな形で役に立つとは。
伺うように時々背後を振り返りつつ前へと進む。海兵たちの明かりは相変わらず遠いが、件の強い気配だけは変わらず追ってきている。
「抜けたぞ」
「──うん」
森を抜け、海岸に出た。ルフィはウタを降ろし、二人で視線の先にある小舟とその向こうの海を見る。
偉大なる航路を渡るにはあまりにも頼りない小舟。闇に閉ざされ、一寸先も見えない海。
それはまるで、自分たちの未来そのものであるかのようで。
「……行こう」
ふと、どちらかが呟いた。そうだ、行かなければ。
それが選んだ選択なのだから。
しかし。
「──この海を渡るには、あまりにも頼りない船だ」
響いたのは二人以外の声だった。弾かれたように振り返ると、そこには一人の海兵がいた。
サングラスで目を隠した精悍な顔つきの男だ。ルフィはウタを庇うようにして前に出る。だが男は構えを取らないままだ。
二人は表情に出さないままに困惑する。強い気配を感じる相手だ。しかし敵意を感じない。まるで立ち話でもするかのような雰囲気でその男はそこに立っているのだ。
「おれはヴェルゴという。階級は中将だ」
「…………?」
聞き覚えのない名前だ、とルフィは思った。海軍本部の中将ともなればルフィは大体の相手と面識がある。名前はともかく誰であるかはわかると思うのだが。
しかしルフィとは違い、ウタの方には心当たりがあったらしい。まさか、と声を上げる。
「“新世界”の海軍基地の……?」
「知っていてもらえて光栄だ」
ヴェルゴが頷く。誰だ、とルフィが問いかけるとウタが応じた。
「海軍本部はシャボンディ諸島の近くにあるけど、海賊は“新世界”にもいるでしょ。だから“新世界”の方にはいくつかの基地がある。……ヴェルゴ中将は“新世界”の海軍基地の一つを預かる基地長よ」
言い切ると、確認するようにウタがヴェルゴに視線を向けた。ヴェルゴが肯定の頷きを返す。
「キミたちの活躍については聞いていた。一度会ってみたいと思っていたが……こんな形になるとは」
残念だ、と首を振るヴェルゴ。そんな彼にウタが問いかける。
「“新世界”の基地長が……どうしてここに」
「自ら志願した。理由は……まあ、そうだな。本部の彼らにこの任務はあまりにも酷だろう。──見るといい」
言うと、ヴェルゴが懐から何かを取り出した。思わず身構えるルフィだが、その眼前に落ちたものを見て眉を顰める。
それは新聞だった。ルフィは警戒を込めた視線をヴェルゴに向けたままだ。故にウタがその新聞を拾い上げる。
──そしてその一面を見た瞬間、その目が見開かれた。
「これって……!」
「本当に残念だ」
驚愕の声を漏らすウタに対し、ヴェルゴは言う。ルフィは構えを崩さないままウタに声をかける。
「何が書いてあるんだ?」
「……指名、手配って……」
誰を、などとは聞く必要はなかった。そうだ、とヴェルゴが告げる。
「──“天竜人”への暴行事件。それを世界政府は“神への反逆”と認定した」
◇◇◇
わかっていたことではあった。そうなるのだろうと理解もしていた。
だが、どこか。心のどこかで。
──もしかしたら。
もしかしたらそうならないかもしれないという期待もあったのも……確かで。
「“革命軍”がその筆頭ではあるが……“天竜人”へ危害を加えた、或いは加えようとした犯罪者の例はそれなりにある。だが現役の海兵、それも大佐の地位にある者がそれをやったというのは前例にない出来事だ」
肩を竦めるヴェルゴ。彼は淡々と言葉を続ける。
「“天竜人”とは世界政府が定めた絶対的な存在。それに反逆するということは世界政府そのものへの反逆と同義だ。……その理由がどんなものであろうと」
その言葉で理解した。……理解を、させられた。
かつて自分たちが所属していた組織はもう、敵になったのだと。
なって、しまったのだと。
「正直気は進まない。基地の部下たちがファンでね。……だが、先程言ったように誰かがやらなければならない役目だ」
さて、と切り替えるようにヴェルゴが構えを取った。ルフィと同じ徒手空拳の構えだ。
「一応言っておこう。──降伏を」
「無理だ」
それは互いにとってわかりきっていた問答だった。しかし、必要なことでもある。
残念だ、ともう一度ヴェルゴが首を振った。そして互いの視線が交錯し。
──ルフィが一度、大きく深呼吸をした。
直後。
「ギア、2」
先手を打ったのはルフィだった。常人では目で追うことさえも困難な速度でヴェルゴに迫る。
鈍く、そして重い音が響いた。
二つの拳が激突し、二人はその衝撃で互いに地面を削りながら後退する。
「流石だ」
次に動いたのはヴェルゴだった。“剃”により一瞬でルフィとの距離を詰め、その拳──否、“指銃”を放つ。
通常であればゴムの体である“指銃”はルフィには通用しない。だがヴェルゴは海軍本部中将の地位にいる海兵だ。“武装色の覇気”は当然のように習得しているし、その圧力はルフィの目から見ても危険なものだった。
「む」
故にルフィは受けるのではなく避けるのを選択。それも左右や上ではなく、身を低くすることによって避けた。
ルフィの頭上を掠めるようにしてヴェルゴの“指銃”が通り抜けた。風を裂くような音が響く中、ルフィは眼前の腹部に向かって全力で拳を叩き込む。
硬い感触。反射的に“鉄塊”によってガードしたのだろう。だがルフィはそのまま止まることなく拳を振り抜いた。
轟音と共に、ヴェルゴの体が森へと叩き込まれた。ルフィは一度自分の拳を見つめると、何かを確認するように一度開き、もう一度握り締める。
「──逃げよう」
それはかつて、“天竜人”を殴り飛ばすという大事件を引き起こした時と同じ言葉であった。
ウタが小さく頷く。そのままルフィはヴェルゴが吹き飛んだ方向に背を向けると船に乗り込んだ。
帆を張り、夜の闇の中へとその小さな船は漕ぎ出していく。
その最中で思うのは、あの日モモンガに言われた言葉だ。
“我儘を言うな”
……ああ、本当にそうだ。
おっちゃんの……言う通りだった。
“嫌なことなど、この先いくらでもあるんだ”
覚悟はしていた。していたつもりだった。
ルフィはあのヴェルゴという人物を知らない。だがいつかは知っていたのかもしれないのだ。そして肩を並べて戦っていたのかもしれない。
「……くそ」
だが、そんな未来はもう訪れない。
海軍という組織は二人にとっての敵となり。
──二人の呼び名は“犯罪者”であり“賞金首”となってしまったのだから。
◇◇◇
ゆっくりとヴェルゴはその身を起こした。その動きには僅かの乱れもなく、服の埃を払い始める。
ついうっかり寝てしまった──誰にするわけでもない言い訳を口にする。その彼の耳にいくつもの足音が届いた。
「中将殿!」
「すまない。取り逃した」
先頭に立っていた海兵の言葉に対してそう応じる。そのままヴェルゴは指示を出した。
「軍艦を回して追跡の準備を」
「はっ! 急げ! 捜索中の海兵たちにも指示を出せ!」
今回の任務においてヴェルゴの副官の立場にいる海兵が応じると、バタバタと他の海兵たちも動き出す。それを見送る中、中将殿、と副官が言葉を紡いだ。
「お身体の方は」
「問題ない。少し油断した。……流石にそう簡単な相手ではないな」
「それは……そう、でしょう」
言い難そうにしながら頷く副官。その言葉の裏にあるものを感じ取り、ヴェルゴは言葉を続ける。
「君も志願したと聞いているが……どうしてだ?」
「どうして、とは」
「この任務ははっきり言って貧乏くじだ。世間の意見が割れているとはいえそれも冷静になればある程度は落ち着く。よりにもよって世界でも指折りの犯罪者である二人の子供であったという事実が混乱させているだけだ」
更に言えば、それが公になっていない隠されていた真実であった点も大きいのだろうとヴェルゴは思う。だが難しい問題でもあるのだ。実績がないうちにその事実が公になればどうしても色眼鏡で見られるし、その出生を利用しようとする者は必ず現れるだろう。
実際、ルフィの方は『ガープの孫』という事実のせいで当初は彼個人としての人格と実力に目が向き難い状態になっていたという。それを全て覆してきたからこその“新時代の英雄”なのだろうが。
「事件単体で言えば潜在的には同情心を持つ者の方が圧倒的に多いだろう。彼の行動が間違っていたのかと言えば間違っていたと言える。その行動はルールに反することだからだ。しかし人はルールにおける審判だけで納得はしないものでね」
厄介な話だ、とヴェルゴは言う。理性と論理だけで人間は生きていけない。どうしたって“感情”を無視することはできないのだ。
「後輩が……あの二人の部隊に所属していまして」
「……後輩が、か」
「はい。入隊の年齢下限ギリギリの時に入って来た奴で。見習いの時は自分が指導役でした。正式に海兵になってからすぐにあの二人の部隊に異動になって。毎回傷だらけになりながらあの二人の下で戦っていたんです。でも楽しそうで。毎日……楽しそうでして」
何かを堪えるような声だった。ヴェルゴが頷きを返す。
「見てられないんです。最初志願兵がいないならあの部隊の人間を追撃部隊にするなんて話もあったんでしょう? 責任を取らせるなんて言って。そんなのあんまりだ」
「だから志願したのか」
「はい。……中将殿は」
「似たようなものだ。……おれはあの二人と接点がほとんどない。“金獅子のシキ”との戦いではおれも戦場に立っていたが、決着後にあの二人が目を覚ます前に戻らざるを得なかった」
だからあの二人を直接知らない、とヴェルゴは言う。
「見知った相手ではどうしても情が湧くだろう。そういう海兵がこの任務に就いても状況の悪化にしかならない」
「だから志願されたと」
「誰かがやらなければならない話だ。そうだろう?」
苦笑するヴェルゴ。そんな彼に対し、副官は帽子を被り直しながら言う。
「こんなことを言うと怒られるかもしれませんが……私はあの二人を尊敬していました。いつかこの“大海賊時代”を終わらせてくれるのだと。そんな……ことを」
「怒るようなことではない。多くの海兵が君と同じ想いを抱いていたはずだ」
「ッ、何故、こんな」
そこで副官は言葉を切った。そんな彼に対してヴェルゴは言葉を紡ぐ。
「その答えを口にできないのが海軍だ」
その言葉を受け、副官が小さく唸るような声を漏らした。ヴェルゴはその姿を一瞥すると、夜の海へと視線を向ける。
(これで自分たちの置かれた状況は理解したはずだ。これからどうする?)
荒れ狂う時代、その中心にいる二人へと。
自らこの任務へと志願したもう一つの理由を思い浮かべながらヴェルゴは思う。
(お前たちの動き次第で我々も立ち回りを考えなければならない。……そう簡単に潰れて貰っては困るところだが)
戦闘能力という点については問題ないとヴェルゴは思っている。あの“金獅子のシキ”との戦いを彼は戦場の最前線で見ていたのだ。あの力を上回れる猛者はそういない。
だがその環境が問題だ。あの二人はここから先、孤立した状態でこの偉大なる航路で逃避行を続けることになる。
その先に見出すのが何であるのか。或いは何も見出せずに潰れてしまうのか。
今はまだ……誰も知らないことであった。
◇◇◇
ヴェルゴによって渡された新聞に書かれていた情報は、二人の予想よりも大きなものであった。
一面には先程見た情報が載せられている。世界政府が二人を指名手配し、賞金首としたという情報だ。罪状は“天竜人への反逆”。派手な見出しの下にある文章には世界政府が二人を賞金首とした理由が淡々と書かれていた。
──曰く、“この世界で最も貴き存在への反逆”。
──曰く、“捕らえようとした海兵への暴行”。
──曰く……
物は言いようであるし、あの“天竜人”がウタに対して行った行為については一切が書かれていない。それが世界政府にとっての『公式見解』ということであろう。
「……ッ、こんな、なんで」
呻くような声が漏れる。
そこに書かれていた文章は二人を徹底的に“犯罪者”として扱うものであった。そこには敬意もなければ情もない。ただただこの世界における絶対的なルールを破った二人を責め立てるような言葉が並んでいる。
──どうして。
私たちがやってきたことは……何だったんだ。
その言葉は声にならなかった。溢れ出る涙をウタは拭う。成し遂げてきたこと、積み上げてきたこと、ルフィと共に歩んできたこと。多くの海軍の仲間たちと共にあったこと。その全てがウタにとっては誇りだった。人生だった。全てだった。
なのに、こんな。
そんなものは──二人で歩んできた道には、積み上げた全てには何の価値もなかったかのような。
「……何か落ちたぞ」
新聞の間から落ちた紙を対面に座っていたルフィが拾い上げる。その一枚の紙に目線をやると、ルフィの眉間に皺が寄った。
「手配書だ」
こちらが問う前にルフィが言った。彼はそのままその一枚の紙を足元に置く。
手配書が出ているというその事実に対しては衝撃はなかった。世界政府の発表としてこうも徹底的にこちらを否定したのだ。ないほうがおかしいくらいである。
新興の海賊や無法者が名を挙げる時は大体こういう形で手配書が出る。如何にその存在が“悪”であるかを徹底的に糾弾するのだ。そうすることによってその存在が“悪”であると民衆へと教え込むのである。
だがまさか、それを自分たちで体験することになるとは。
(ああ、そっか)
もしかしたら、という希望をウタは心のどこかで持っていた。理性では無理だとわかっていても、それでもあの日々を信じたかったのだ。
大切な人の隣でずっと笑っていた日々。
頼りになる仲間や友人たちと共に過ごす日々。
背中を預け合い、助け合い、そうやって“信頼”を築いてきた日々を。
“ありがとう”
その声は誰の言葉であったのだろう。
いつかの記憶。いつもの記憶。その言葉を無数にウタは貰ってきた。
──当たり前。
笑顔と共にそう返すのが、彼と私にとっての──
「大丈夫か?」
「……うん、平気。大丈夫。大丈夫だから……」
俯いている自分の肩に触れるルフィに対し、ウタはそう言葉を返す。
心が軋んでいた。悲鳴を上げていた。今すぐに叫び出したかった。何もかもを放り出してしまいたい気持ちだった。
(耐えろ)
でも、駄目だ。
目の前の人を──世界で一番大切な人を巻き込んだのは私だ。それが勝手に折れてはいけない。泣き言なんて言ってはいけない。
耐えるのだ。堪えるのだ。大丈夫、まだ大丈夫だ。
だから。
「少しでも今は情報が欲しいから。だから」
──そこで新聞をめくってしまったことは。
きっと、避けられないことだったのだろう。
「……嘘……」
呆然とした声が自分のものであることを、ウタは最初自覚できなかった。
そこに書かれていた見出し。それを見てルフィも息を呑んだ気配が伝わる。
──“堕ちた英雄の秘密!! この結末は必然であったのか!?”。
読者を煽るようなその見出しの下に書かれていたのは、二人の出生の秘密。
ウタの父親が“赤髪のシャンクス”であるということと。
ルフィの父親が“世界最悪の犯罪者”ドラゴンであるということ。
その生まれからしてあまりにも深い業を背負う二人がこうなったのは必然であるというような記事で。
それはウタにとっては、何よりも許せないことで。
──何かが、折れる音がした。
「シャンクスは関係ない!!」
絶叫のような声が響いた。視界が滲む。思わず頭を抱えてしまった。
これは駄目だ。これだけは認められない。
「何で!? どうして!? 私を置いて行ったくせに!! 振り返りもしなかったくせに!! 忘れたいのに!! 忘れたかったのに!! もう関係なんてないのに!!」
──力強い腕が、ウタを包んだ。
ルフィがウタを抱き寄せたのだ。
「────」
何も言わずにこちらを胸の内へと抱き締めるルフィ。その服を涙で濡らしながら、縋り付くようにウタは絶叫する。
「どうして苦しめるの!? シャンクスの娘!? あいつは私を捨てたのに!! どうしてこんなところまで追ってくるの!? ずっと!! ずっとっ……必死に、私、ずっと……! どうしてっ……!」
あの事件が起きなければ予定されていたイベント。その後にこの事実が公表されることは決まっていた。だがそれはウタにとっては“決別”の意味があったのだ。
もうウタにとって“赤髪のシャンクス”も“赤髪海賊団”もただの敵であるのだと。“正義”を背負うウタにはもう、あの人たちは関係ないのだと。そんな風に割り切るために。
かつての、“赤髪海賊団の音楽家”を過去のものにするために。
だから。だから公表することも受け入れたのに。
なのに、これでは──
「大丈夫だ」
「何が……大丈夫なの?」
ルフィの言葉に、彼を見上げるようにして顔を上げる。涙で滲んだ視界では、彼の表情はわからなかった。
「ルフィだって……顔を見たこともないような。そんな人の息子だって理由だけで。それだけでこんな風に書かれてるのに」
「……前にも言ったけどな」
優しく彼はこちらの涙を拭ってくれた。トレードマークの麦わら帽子をこちらに預けるように被せながら、彼は言葉を続ける。
「父ちゃんは会った記憶もねェから別にいいんだよ。忘れてたくらいだ。……ウタはよ、シャンクスと一緒にいた時間も長いからな。でも大丈夫だ」
その人は笑顔だった。無理をした笑顔なのはすぐにわかる。それだけの長い時間を共にいたのだ。
……けれど、甘えてしまった。
「なんとかなる」
その優しさに縋ってしまうしかないほどに。
嫌なことから目を背けるしかないほどに。
「……いや、違うな」
もう、心が折れていた。
「おれが──なんとかするから」
全てを吐き出すような叫びが、夜の海に響き渡る。
……きっとこの日、“歌姫”は一度死んだのだ。
積み上げてきたもの。築き上げてきたもの。今までの人生。その全てを否定されたような気持ちになってしまって。
何もかもを、失ってしまって。
立ち上がるための“何か”が、見つからなくなった。
「……ルフィ……」
もう、この人しか残っていない。
私にはもう、ルフィしか。
──唇に、柔らかい感触。
二度目のキスは、涙の味がした。
泣き続ける“歌姫”を、その青年は優しく抱き締め続ける。
ただ、その青年がどんな表情をしているのか。どんな想いを抱いているのか。それは誰も知らないことで。
夜の闇を、“堕ちた英雄”は往く。
その孤独な戦いは、まだ始まったばかりであった。
前話からの続きの世界線です。
追撃者ヴェルゴ概念と覚悟はしていたけれど思った以上に現実は過酷であった、という概念を元に逃亡編第一話のイメージでした。
このヴェルゴさんは紳士モードなのでめっちゃ頼れる人感凄い。ただまあ裏を考えると……この世界線だととんでもない重要人物じゃないかヴェルゴ……?
事件でウタはショックを受けていますし足の傷も完治していませんが、それでも心が折れたところまでは行っていないのかなー、と。
ここで一度完全に折れてしまったのかな……というお話です。
世界線的にはストロングワールド世界線の続きです。
今後もこの世界線での続きは書いていく予定です。
とりあえず逃亡編のお話いくつかとW7、エレジア編を書きたいんですがエレジアはともかくW7の構想が……。
気長にお待ちください。