かつての記憶。それは任務から帰還し、部隊全員が一日の休暇を与えられた日の記憶だ。
ルフィとウタ。世界に名を轟かせる二人の部隊に所属する海兵たちは全体的に年齢が若い。完全に新設された部隊であり、前身の部隊がなかったことも影響しているのだろう。
故に休日は好き勝手に過ごしている者が多い。まあ指揮官二人が一番自由なのでそれに倣った結果だろう。
だが、その日は珍しく部隊の者たちのほとんどが一つところに集まっていた。
「……なあ、これ壊れてんじゃねェか?」
部隊員たち全員が入ってもなお余裕のあるその一室。そこでそんなことを言っているのは麦わら帽子を被った青年──ルフィだった。彼の手には縦笛が握られており、それを周囲の者たち数人が見守っている。皆笑顔だった。
「吹き方があるんですよ、大佐。力任せに息を吹けばいいわけじゃないんです」
微笑を浮かべながら言うと、ルフィの持っている縦笛と同じものを手に持った女性海兵──オリンがその縦笛で音楽を奏でる。美しい音色が奏でられた。
その短い演奏が終わると、おおー、とその光景を見守っていたウタが拍手をする。他の者たちもだ。
「流石だねオリン」
「いえいえ」
ウタの言葉に微笑を返すオリン。二人の部隊における副官の位置にいるオリンは楽器演奏に関して抜群の才能を誇る人物だ。故に指導役も担っているのだが、その彼女でもルフィの指導は中々上手くいかない。
「いけると思ったんだけどなァ……」
「いや何を見てそう思ったの?」
頭を掻きながら言うルフィにウタがツッコミを入れる。周囲からも笑いが漏れた。
彼らがいるのは訓練室だ。だがそれは肉体を鍛えるための部屋ではなく、楽器の演奏のための部屋である。防音もしっかりとしているこの部屋は広報任務で楽器演奏の役目を追う者たちがその練習をするために使う場所の一つであった。
一日の休日をどう過ごすか考えながらルフィとウタは二人で本部内を歩いていたのだが、その中で漏れ聞こえる楽器の音を聞いたのだ。そして部屋に入るとオリンを中心として何人かが自主練習をしており、そこへ二人が入ってきた格好だ。
元々偶然集まった者たちでのんびりと練習していただけだったらしいのだが、時間を追うごとに部隊の者たちが続々と集まってきて今やほとんどが室内にいる。いくつかのグループが形成されており、自由に練習したり雑談に興じていた。
そんな中でルフィが楽器に興味を持ったため、まずは近くにあった縦笛を試したのだが……結果は案の定である。
「だってよ、皆凄ェ簡単そうに音出してるだろ?」
「まあ、気持ちはわかるけど」
言いながらウタは周囲に視線を走らせた。彼女はこの場の者たちの演奏技術について誰よりも知っている。何せ海軍が誇る“歌姫”を支える演奏部隊だ。その技術水準はかなりのものである。
「演奏できたら楽しそうなんだけどなァ」
うーん、と首を捻るルフィ。そんな彼に対し、全体的に若い者が多いこの部隊の中でも更に若い──ルフィと同じ年齢の海兵が右手を上げた。
「大佐、これとかどうッスか?」
そう言って彼が差し出したのはハーモニカだった。それを受け取りながらルフィが言う。
「小せェな」
「それがハーモニカの利点ッス。持ち運びが楽なんでどこでも練習できるッスよ」
「へー」
頷くルフィ。それを右手で弄びながら彼はその海兵へと問いかける。
「これ練習したらウタの曲も演奏できるのか?」
「勿論ッス!」
グッ、と親指を立てて言う海兵。そっか、とルフィは頷いた。そして演奏しようとするのだが。
「……そもそもどうやって持つんだ?」
「両手で持つんスよ。向きもありますんで……ええと、右手はこう、少し隙間を」
「こうか?」
「そうッスそうッス」
小さな楽器を相手に四苦八苦するルフィ。そんな彼の姿を見つめながらウタは微笑を浮かべていた。
そして彼女は、ねえ、と問いかける。
「私の曲を演奏できるようになりたいの?」
「ん? おう」
「どうして?」
純粋な疑問だった。それは勿論、ルフィが自分の曲を演奏できるようになってくれたら嬉しい。だが演奏ともなると相応の時間をかけた練習が必要だ。ルフィはウタたちの練習する姿をずっと見ている。簡単ではないことはわかっているはずだ。
ルフィが音楽を好むことは知っている。だが今までは自分から歌うことはあっても楽器の演奏をすることはなかったと思うのだが。
「理由は色々あるけどよ。まあ、楽しそうだったしな」
周囲へ視線を送りながらルフィは言う。
「ライブの度に思ってたんだ。だからやってみたくなった」
「ふーん」
ルフィらしいな、とウタは思った。楽しそうだから──それは入り口としては珍しくない動機であるし、ルフィらしい理由である。
納得を覚えたウタ。そんな彼女の様子を見てとってか、ルフィは再びハーモニカの扱いについて教わり始める。
その光景を見守るウタもまた、立ち上がると歌の練習を始める。
穏やかだった。当たり前のように過ぎていく日々だった。
ずっと、ずっと。
こんな風に過ごせたらと。
誰もがきっと、願っていた。
願って、いたのだ──……
◇◇◇
彷徨うようにして辿り着いた島は、穏やかな気候の小さな島であった。
どこかフーシャ村に似ているとそんなことをウタは思った。海岸の側に集落があり、いくつもの漁船が港には並んでいるが大型の船はない。どれも小型のものばかりで、それがこの島の経済力を示しているように見えた。
そんな集落の奥には耕作のためと思しき開けた場所があるが、そこから島の中心に向かっては深い森に覆われた山となっている。
いずれにせよ、選択肢は一つだった。人のいる場所に近付けばどうなるかをウタもルフィも最初に訪れた島で理解していたのだ。
故にその集落がある場所からは離れた場所に船を停めた。そして二人は寄り添うようにして島の中へと入っていく。
「…………」
共に無言であった。疲労が溜まりつつあったということもあるし、何を話せばいいのか分からなかったのもある。
あの日からそれなりの時間が経ったように思う。だが状況の変化はない。二人は今も逃亡を続けている。
どうするのだろう。
どうしたらいいのだろう。
そんなことばかりを考えながら、しかしどちらもそれを言えないでいた。
「……山の中はあまり人の手が入ってないみたいだね」
地面に落ちた枝を踏んだことによる乾いた音を響かせながらウタは言った。山中には道らしい道がない。つまりは整備がされていないということだ。
この島を遠目から見た時、港近く以外に特に建造物の姿を確認できなかった。集落の背後には切り開いて作ったのであろう農地があった。おそらくであるが、この島の住民たちの生活は漁業と農業がメインで山から得られる糧はそこまで比重が大きくないのだろう。
だがそうであるなら二人にとっては好都合であった。島の住民とは出会わない方がいい。正直な話、現状ではあまりいい未来が想像できなかった。
「フーシャ村に似てるな。……あっちは山賊がいたけど」
やはりルフィもまた故郷のことを思い出していたらしい。
忘れられたように存在する場所──フーシャ村。この二人が幼少期から育った場所であり、二人にとっては大切な故郷だ。
何度か里帰りをしたこともあるその場所はしかし、大切な場所であるからこそ今の二人は立ち寄ることができない。
それをわかっているからなのだろうか。あの村のことを思い出したのは。
「……ダダンたちは元気かな」
「元気に決まってる」
小さくルフィが笑った。大切な“家族”たち。彼らは今どうしているだろう。
「事件のことも……知ったかな」
「……知っただろうな」
どんな風に思っただろうか。何と言っただろうか。
……見限られて、いないだろうか。
「──遂にやりやがったか」
普段の彼らしくない口調。誰かの──否、ウタもよく知る人物の口調を真似してルフィが言った。
「ダダンならそう言うんじゃねェか?」
「そう、だね」
精一杯の笑顔を浮かべたルフィに対して、ウタもまた必死で笑顔を浮かべた。
……ちゃんと笑えているだろうか。
わからない。わからなくなってしまった。
(私は、どうやって笑ってた?)
どうやって、生きてきた?
どうやって、戦っていた?
わからない。わからなくなってしまった。
何よりも、だ。
──私は、どうやって歌っていた?
自分にとっての誇り。大切なもの。大切な人が愛してくれたもの。
それを見失ってしまった。
あの日からウタは一度も歌うことをしていない。できる余裕がなかったのも勿論ある。状況が許さなかったのも事実だ。
だがそれ以上に、“歌う”という行為そのものを見失ってしまった。
(私が、“歌姫”なんて呼ばれてたから)
何度も考えたことだ。この状況の発端はウタが“天竜人”の目を付けられたことによって始まった。そしてあの時に“天竜人”は言ったのだ。
“毎日わちしのために子守唄を歌うんだえ〜!”
思い出すだけで身が震える。人間の全てを奪おうとする存在。何もかもを台無しにしてしまえるだけの力を持つ絶対者。
積み上げた全ても、築き上げてきたものも無意味なのだと理解させられた。
──あの時、ルフィが助けてくれなかったら。
きっと、自分は──
「何だあれ?」
震える体を抑え込むようにして両腕で自身の体を抱き締めていたウタは、少しだけ前にいたルフィのそんな言葉で強制的に意識を切り替えた。
思い出す。そんな行為だけで全身から汗が噴き出していた。
頭を振って強引に思考を打ち切る。そして顔を上げたウタもまた、視界に映ったものに困惑した。
「……倉庫?」
視線の先にあったのは、そうとしか表現できないものであった。少しだけ開けた場所に、木々に隠されるようにして無骨な建物が並んでいたのだ。だが数は多くない。全部で五つしかない。
ただ大きさはかなりのものであった。だからこそウタは倉庫であるのかと考えたのだが。
「人の気配はねェけど」
「家、っていうには大きいし……少し不自然な気がするけど……」
周囲を警戒しながら二人は開けた場所に出る。それは石で作られており、窓も小さなものがいくつかあるだけという家というには不自然なものだった。それこそウタの言う通り倉庫という方がイメージに近い。
だが倉庫であるならば妙だとも二人は思う。二人はできるだけ人里には近付かないようにしていた。そのため海岸近くの集落からこの場所はかなりの距離があるのだ。倉庫というにはあまりにも距離があり過ぎる。
「放棄された場所、っていうわけでもなさそうなんだけど……」
「……どっちにしても離れた方がいいかもな」
どういうものであるかは不明であるが、人が建てたものであるということは間違いない。ならばここには人が来る可能性があるということだ。
ルフィの言葉に頷きを返すウタ。だが彼らが動く前に声が響いた。
「そこにいるのは誰ッスかー?」
緊張感のない声だった。それこそ顔見知りに声を欠けるような調子であった。
思わず身構える二人。すぐさまルフィがウタを庇うような位置に立った。逃げないと──そう思って行動する前に、建物の影からその人物が現れる。
「山には熊も出るッス。危ないから──」
現れたのは若い男だった。どこかで見たような麦わら帽子を被り、首にはタオルを巻いていた。両手には軍手をしているその男はどこからどう見てもこの島の住民だ。
普通ならすぐに何かしらの行動を起こしただろう。だがルフィもウタも固まってしまった。
「──え」
その青年と目が合う。相手の方も驚愕で目を見開いた。おそらくだがこちらも似たような表情をしているだろう。
そこにいたのは、二人もよく知る人物。
「え、ちょ……見間違い……じゃない、ッスよね……?」
幾度となく共に戦場を駆け、修羅場を越え、笑い合った大切な仲間。
「なんで」
思わずウタの口からも声が漏れる。
──かつて部下であった青年が、そこにいた。
◇◇◇
二人の率いていた部隊はトップ二人が若いこともあるが、全体的に若い海兵によって構成されている。今目の前にいる青年はその中でもかなり若い海兵であり、ルフィと同い年の青年である。見習い期間を経てから最初に配属されたのが二人の部隊であり、明るい人柄ですぐに馴染むことになった。
騒ぎというかトラブルを持ち込むのは大体がルフィとウタの二人なのだが、それを大きくするのが彼らの部隊の若い衆である。そして最終的にオリンを中心とした比較的年上のメンバーが謝罪行脚する。……まあ、年上メンバーも騒いではいるので共犯ではあるのだが。
「良かったッス……! お二人のことは機密だって言って何も教えて貰えなくて……!」
今にも泣き出しそうな表情でその青年は言った。それに対し、二人は小さく頷く。
現在、三人は開けた場所に向かい合うようにして座り込んでいた。ルフィとウタは寄り添うようにしており、青年はその対面に座り込んでいる体勢だ。
やはりというべきか青年からは邪気を感じなかった。だがかつての部下に対してもそうして探りを入れてしまう事実に気付き、二人は奥歯を噛み締める。
「無事、とは言えないのかもしれないッスけど……」
そんな二人の内心には気付かないまま、言葉を選ぶように言う青年。二人の姿を見てどういう逃避行を辿ってきたのかを察したのだろう。
薄汚れた衣服に、隠しきれない疲労の滲んだ顔。大きな傷こそないが無事とはとても言えない姿であった。
続きの言葉を探すように右手を空中で彷徨わせる青年。たまに見る彼の癖だ。
懐かしい、とそんなことを思ったのはウタだ。前にそれを見たのは随分と昔のことのように感じながら、彼女は言葉を紡ぐ。
「……あの後、部隊の皆はどうなったの?」
それはずっと気になっていたことだった。あの事件において罪人として指名手配されたのは二人だけだ。あの時ヴェルゴ中将が寄越してきた新聞にもそう書かれていたし、それは間違いのないことだと思っている。
二人の部下たちは事件とは関係ない。副官でもあったオリンは二人を逃したこともあって咎められる可能性を考えていたが、それは記事にはなかった。だが指揮官である二人がこんなことになったのだ。部隊にも何かしらの動きがあったはず。
「そう、ッスね。色々あったッスけど──」
青年が言いかけたその瞬間だった。
────!!
響き渡る鐘の音。甲高い金属音はそれが尋常でない状況であることを伝えてくる。
なんだ、と二人が腰を浮かせようとするがそれよりも先に青年が反応していた。勢いよく立ち上がった彼は険しい表情を浮かべ、二人の方へと言葉を紡ぐ。
「ここには島の者が来ます。お二人は身を隠していてください」
そしてそのまま青年は走り出した。未だ鐘の音が鳴り響く中、二人は視線を交わし合う。
「…………」
動いたのはルフィだった。腕を伸ばし、ウタを抱えた状態で近くの建物の上へと上がる。
そこで気付いた。建物の上からであれば、この島で集落が存在する海岸の辺りを一望できる。
「ルフィ、あれ」
ウタがある方向を指差す。集落の存在する海岸の更に向こう。そこに見えるのは二隻の船。
海軍の船でもなければ、商船でもない。その船が掲げる帆には髑髏が掲げられている。
「──海賊か」
かつて“英雄”と呼ばれた男が呟くその言葉には。
一体、どんな感情が込められていたのだろうか。
◇◇◇
青年が集落に辿り着いた時もまだ鐘の音は鳴り響いていた。これは緊急事態を告げるための鐘だ。そして今の時代における緊急事態など一つしかない。
住民たちは互いに声を掛け合いながら山へと向かって逃げ出している。その動きに逆らうように青年は一直線に自宅へと向かうと、自室から海兵の帽子と長銃を持ち出した。そのまま家を出る瞬間、壁近くに置かれた写真へと一瞬だけ視線を送る。
そこに写っているのは赤ん坊を抱く男女の姿だ。その写真に対して何かを誓うように頷きを向けると、彼は外で声を張り上げた。
「早く山へ逃げるッス! 荷物は捨てて!」
そんな風に声を張り上げる青年をこの島の住民たちは皆知っている。小さな島であり集落だ。誰もが顔見知りである。
幼き頃から知る彼が海兵になり、更に彼が“新時代の英雄”の部下となったことはこの島の者たちにとって誇りでもあったのだ。故に彼の言葉に住民たちは素直に従う。
声を張り上げながら青年は麦わら帽子を背中に回し、海兵帽を被った。見える海賊船は二隻。
ここは小さな島だ。大人もそれなりにはいるが、海賊と戦えるような戦闘訓練を受けた者など青年くらいだろう。
「通報は!?」
「何度もした! すぐに向かうとは言ってたが……!」
「間に合うはずがないッスね」
海岸近くにいた男性へと声をかけた青年は返答に対してそう言葉を紡ぐ。ここは加盟国に属した島ではあるが辺境だ。国からの軍であろうが海軍であろうが、ここに到着するには相応の時間がかかる。
(仕方がないッスね)
今目の前にある現実を改めて理解すると、青年は内心だけで覚悟を決めた。
あの破天荒な上官たちと共に青年も相応の死線を潜ってきている。そこで学んだ大切なことは状況の理解であり冷静な思考力だ。上官たちのような人間離れした実力を持たないならば、それを別の何かで補うしかない。
それは本来なら人数であり戦術であり手段である。だが今はその全てがない。しかし、だからなんだというのか。
海兵帽を被り直す。これを被ると決めた理由はこの島にあるのだ。ならばやることは決まっている。
「時間は稼ぐッス。皆と一緒に山へ」
「お前はどうするんだ!? まさか戦う気か!?」
焦った様子で言う、青年のそれと同じような麦わら帽子を被る中年の男性。そんな彼に対し、右手に持った長銃を少し持ち上げながら青年は言った。
「自分は海兵ッスよ?」
青年が海兵になったことを、あの英雄たちの部下として戦っていたことをこの島の住民たちは誇りに思っていた。故に迷いを見せながらも男性は青年を残して走っていく。
海の方へと視線を送る。既に海賊船はかなり近い場所にまで寄ってきていた。上陸まで時間はかからないだろう。
──この集落は荒らされる。
それはもう確定した現実だった。後は被害をどこまで減らせるか。
「急いで誘導を──」
「────」
指示を出そうとした青年の耳に、小さな悲鳴が届いた。弾かれたように顔を上げ、声のした方へと走っていく。海賊船からはいくつもの小船が出ており、海賊たちは声を上げてこちらへと迫ってきていた。
それを横目に見ながら青年は声の元へと辿り着いた。そこでは一人の幼い少女が座り込んでいる。何かを抱え込むような格好のその少女は目に涙を一杯に溜めており、今にも泣き出しそうだった。
「何をしてるッスか!?」
思わず声を上げて少女の下へと走り寄る。見知った少女だった。どちらかというと内気な子で、人見知りの激しい子。外で遊び回るよりも本を読んだりする方が好きな子だ。
こういった緊急事態において子供は最優先で親か周囲の者たちが連れ出すのがルールである。だというのにどうして。
「……これ……」
腰が抜けたのか、立ち上がれない様子の少女は涙を零しながら抱え込んだものへ視線を向ける。
──それは、ヘッドフォン。
とある人物のそれを模したもの。少女にとって──否、島の者たちにとって“ヒーロー”であった者の象徴であった。
そんなもの、と青年は言えなかった。言えるはずがなかった。
だって彼も同じなのだ。彼もまた麦わら帽子を持っている。
あの二人を──“新時代の英雄”を、青年もまた信じているのだから。
「……大事に持ってるんスよ。失くさないように」
だからこそ、彼はそう言葉を紡いだ。そして青年は少女を抱え上げる。誰かにこの子を預けなければ。
しかし、そんな時間はなかった。
────!!
響き渡るのは荒くれ者たちの声。海賊たちが上陸したのだ。
くそ、と青年は呟きを漏らした。とにかくこの子を──
「おいおい、こんなところに海兵かよ」
咄嗟に避けることができたのは偶然か、それとも彼が越えてきた数多の戦いの経験がそうさせたのか。
轟音と共に地面が割れた。青年と少女の眼前、地面を割ったのは巨大な鉄の塊だった。
「…………ッ!」
「きゃあっ!」
青年はその場から飛び退くようにして大きく後退し、抱え込まれていた少女は大きな悲鳴を上げる。
現れたのは巨大な体躯を持つ海賊だった。武器と呼ぶにはあまりにも無骨。鉄の塊のような棍棒を担ぐ海賊が青年たちを見下ろしている。
「休暇、ってとこか? 運のねェ奴だ。いや逆か?」
「…………」
青年は海賊から目を離さないままにジリジリと距離を取る。あのふざけた破壊力の棍棒を易々と振り回せる膂力。それだけで理解した。
──勝てない。
おそらくこの海賊は、自分とはレベルの違う相手だ。
「まあどうでもいい話か。……ん?」
海賊が何かに気付いた。その視線は海兵が抱える少女に向けられている。そしてその視線は青年にも向けられ──そして、その海賊は笑った。
「くっ、ははっ! なんだそりゃ!? おいおいおいおい何だこの島は!? まさかあの“英雄”サマが助けてくれるとでも思ってんのか!?」
大声で笑う海賊。その声に釣られたのか、周囲の海賊たちも集まってきた。
ジリジリと後ろに下がりながら少女を下ろす青年。彼女を背中に隠すように庇いながら長銃を手に取った。
「どうしました船長?」
「どうもこうもねェ! 見ろよこいつら!」
集まってきた海賊の問いかけに対し、笑い声と共に言う海賊。彼は海兵帽を被る青年とその青年が庇う少女を指差しながら笑っている。
背後の少女が青年の服の裾を握り締めたのを感じた。おそらく逆の手ではヘッドフォンを抱え込んでいるのだろう。震えているのがこちらにも伝わってきた。
「よりによってあの大犯罪者の麦わら帽子とヘッドフォン! 笑わせるなよ海兵! あいつらに比べりゃ海賊なんて可愛いもんじゃねェか!」
「そういやさっき逃げてた連中も麦わら帽子持ってたな」
「おいおい、この島は犯罪者の島かァ?」
船長と呼ばれた棍棒を持つ海賊。その言葉に続くように海賊たちが笑い声を上げる。青年は長銃を握る手に力を込めながら、小声で少女へと言葉を紡いだ。
「……合図をしたら全力で山に走るッスよ。振り返っちゃダメッス」
ビクリ、と少女の体が震えた。青年は長銃を構える。
その、瞬間だった。
──鈍く、重い音。
衝撃が頭を貫き、青年の体が倒れ込む。
少女の悲鳴が響き渡る。
「危ねェだろ? 銃は人に向けちゃいけません、って親から学ばなかったのか?」
見えなかった。あの棍棒で頭を殴られたのだと、青年は遅れてきた激痛で理解する。
「船長はいいのかよ」
「おれのは棍棒だろ。ついでに言うと銃じゃねェ」
「屁理屈〜」
笑い声が響く。荒い息を吐きながら、青年は近くに転がった銃へと手を伸ばそうとした。
「おいおい、そりゃ駄目だ」
「……ぐ……」
だが、頭を掴まれて持ち上げられたせいで銃には手を届かなかった。視界の端にいる少女は座り込み、ガタガタと震えている。
周囲からはいくつもの悲鳴と海賊たちの声が聞こえてきている。くそ、と呟いた青年の口からはしかし、声ではなく血が溢れた。
「いやしかし、根性あるな海兵。おれの棍棒を受けて意識残してるのは大したもんだ」
言うと、ふむ、と海賊は頷く。
「おれは根性ある奴は好きでな。どうだ海兵? 海賊にならねェか? そうすりゃお前の命は助けてやるぜ?」
海賊は笑う。周囲の海賊たちからは船長の悪い癖が出たよ、という声が上がった。
「海賊は良いぜ? 好きなように生きられる。今はそういう時代だ。……ああ、そういやどこぞの“英雄サマ”も“新時代”なんて言ってたな」
ピクリ、と青年の指が動いた。その瞳が自分の顔を掴む海賊を捉える。
意識は朦朧としていた。だがその言葉は。あの人たちの“信念”は。
「……ふざ、ける……な……」
震える右手で、海賊の手を掴む。
「あァ?」
「誰が、海賊、なん──」
「──そうかい」
言い切る前に青年はまるでゴミでも捨てるかのように投げられた。近くに積まれていた荷物にぶつかり、その衝撃で彼は呻き声を上げる。
「そりゃ残念だ。……おい、このガキは連れて行け。売れば金になるだろ。他の連中もだぞ。抵抗するなら殺していいが」
海賊が周囲の者たちに指示を出す。だが彼らが行動に移る前にその青年が立ち上がった。
「させ、るか」
「頑張るねェ」
その言葉には呆れも混じっていた。だが青年の意識は既に朦朧としている。頭部からは大量の血が流れており、その体は震えていた。
だが、譲れないのだ。
それだけは。
あの人たちの──“信念”だけは。
「…………」
だが、青年の口からは言葉を紡げなかった。代わりに溢れたのは血液で。
膝を折る青年。その視界の中にはこちらに歩み寄ってくる海賊の姿がある。自分へのトドメと少女を連れ去るためだろう。
やめろ、という声さえ出なかった。
その青年に、棍棒が振り下ろされようとして。
──しかし、その棍棒が地面に到達することはなかった。
「……あ……」
視界の中に入ったのは、麦わら帽子。
その背に負うのは“正義”の文字。そのコートは薄汚れ、“正義”の文字も燻んでいた。だが青年は知っている。そこに陰りなどないことを。
その男を、世界は信じた。
その男を、“悪”は恐れた。
旧時代の伝説さえも打ち破った海兵。新たなる時代の旗手であった男。
「……悪ィ。遅くなった」
棍棒を片手で受け止めたその男は、呟くように言葉を紡ぐ。
「……大佐、自分は……」
涙も混じった声で青年は言う。その青年へと背を向ける彼はしかし、小さく首を振った。
「お前は……」
呻くような海賊の言葉に対し、その人は──モンキー・D・ルフィは何も言わなかった。ただ彼はこちらに背を向けたままに言葉を紡ぐ。
「いつも通りだ」
その口調は、かつてのそれと変わらないもので。
「──後ろは任せた」
はい、と掠れた声で応じた。
嗚呼、そうだ。そうなのだ。
この人の背中に夢を見た。
この人の背中に憧れた。
正しくそれは、“希望”であったのだ。
海賊という“悪”に蹂躙される場所に現れた、“正義”を背負う者。
力無き者、弱き者、この時代に苦しむ者。
その者たちにとってその存在は希望であった。未来であった。明日であった。救いであった。
いつか、いつかきっと。
この時代を終わらせてくれるのだと。
世界はそう、信じていた。
──なればこそ。
人は、彼を“英雄”と呼んだのだ。
海賊たちがその存在を前に気圧される。当たり前だ。彼は“伝説”をも討ち取った男である。こんな田舎の島を襲うしかないような海賊たちにどうにかできるような相手ではないのだから。
「ビビんじゃねェ!!」
だが、一つの海賊団の長を務める男だけはそこで意地を通した。
「何が“英雄”だ!! たった一人──」
己を奮い立たせるようなその言葉はしかし、最後まで紡がれることはなかった。
瞬き程の一瞬。その一瞬で海賊との距離を詰めたルフィがその顔面へと拳を叩き込んだのだ。確か“ゴムゴムの銃弾”と彼が言っていた技だと青年は思う。
その一撃によって悲鳴さえも上げられないままその海賊は吹き飛び、倒れ込む。
「せ、船長!?」
「ひ、ひいっ!」
「逃げろバケモンだ!」
悲鳴を上げ、すぐに背を向けて走り出す海賊たち。彼らは倒れた船長をも見捨てて一直線に逃げ出した。
周囲からはまだ悲鳴と声が聞こえる。ルフィは振り返らないまま言葉を紡いだ。
「行ってくる。……後は頼んだ」
そしてそのままルフィはその場から飛び出していく。そんな彼と入れ替わるように、青年の側に別の影がしゃがみ込んできた。
「立てる?」
「……准将……」
現れたのはウタだった。だが彼女は正義のコートを纏うルフィとは違い、上で会った時のような全身を覆うようなローブを身につけている。
青年が頷くと、ウタは近くで声も出せずに震えて座り込んでいる少女へと視線を向けた。そのまま少女の下へと歩み寄りながら声をかける。
「もう大丈夫。……悪い奴はあの人がやっつけてくれるから」
「──ッ」
少女の瞳がウタを捉えた。その表情が歪む。そして。
「う、あ、うああ──」
少女はようやく大声で泣き出した。慰めるようにその頭を撫でるウタはそこで少女が縋るように抱え込んでいたものに気付く。
それは見覚えのあるヘッドフォンだった。彼女が着けているヘッドフォンを模したもの。
「…………」
少女を撫でる手とは逆の手でウタは自分のヘッドフォンに触れる。
世界を敵に回した二人。その二人を象徴する麦わら帽子とヘッドフォンは相応の扱いを受けたはずだ。下手をすれば“悪”の象徴とすらなかったのかもしれない。
だがこの少女はそれを抱え込み、縋るようにして泣いている。それはどうしてなのか。
──今のウタには、答えを出せなかった。
◇◇◇
海賊たちは“麦わらのルフィ”によって殲滅された。負傷者は出たが奇跡的に死者は出ず、船長であった海賊を含めて複数人の海賊たちは縛られて砂浜で監視されている。この後国から来る人間に引き渡すとのことだ。
ルフィが現れたことによって海賊たちは仲間も捨てて二隻の船で逃げ出した。そちらについては既に海軍に連絡が入っており、こちらへ向かう途中で捜索を行うとのことだ。
人命は失われなかった。だが家はいくつも壊されたし燃やされた。この島の建物は通常イメージする家とは違い、テントに似た形状をしている。それが文化なのかもしれないが、壊れやすいものではあったのだ。
守れなかった──そう考えていたルフィとウタだが、この島の住民たちは深刻に考えていないようだった。
「屋根の布を持ってきたぞ! 組み木を手伝ってくれ!」
「種籾も無事だ! 手の空いてる奴は運ぶから来てくれ!」
「時期的に備蓄を増やしてたのが不幸中の幸いだったな!」
集落を襲われたというのに、住民たちには活気があった。その光景には流石のルフィとウタも驚いている。
二人は海兵だ。その生活の中で多くの場所を訪れた。海賊に荒らされた集落などいくらでも見てきたし、無力感を抱いたことも幾度となくある。だがこの島の住民たちはそんな彼らが知る者とは大きく違ったのだ。
「この辺りは定期的に大きな嵐が来るッスからね。こういうのは慣れたもんですよ」
集落の復興のため、集落の広場に住民たちは集まっていた。そこでは負傷者の治療を行う者や復興のための段取りなどが行われている。入れ替わり立ち替わり人が来ては動いている状態だ。
そんな場所の隅にルフィとウタは青年と共にいた。最初は手伝いをしようとしたのだが、ミイラ男のように頭に包帯を巻かれた青年と共に休んでいるように言われたのだ。
「お二人も見たッスよね? 山の中にある建物って元々避難所なんス。ただ最近は海賊から逃げるための場所でもあるんスけど」
「逃げるための……」
ウタが呟く。青年は頷いた。
「命が何より大切ッスからね。奪われるだけで済むならそれで済ませようって考えッス」
それは弱き者にとっての知恵である。取り返しのつくものを奪われることを許容し、再建を目指す。それを諦めではない。
戦わない、という在り方。それは一つの戦い方だ。
二人は広場から集落を見る。テントに近い構造の建物とはいえ、既にいくつかの家は再建されつつあった。
たくましいものだと思う。人というのはこうも強いのかと、そんな風に思った。
「……アラバスタみたいだな」
ポツリとルフィが呟いた。クロコダイルという海賊の陰謀によって荒らされた国。あの国の民もまた強い人たちだった。
そんな中、ウタは柱の影からこちらを伺う少女に気付く。ヘッドフォンを着けたその少女はあの時、青年が庇っていた少女だ。
「ん、どうしたッスか? そんなとこに隠れてないで──」
青年が言い切る前に少女は走って行ってしまった。あー、とばつが悪そうに彼は頰をかく。
「人見知りする子でして……」
「それはいいけど……」
チラリとウタは周囲を見る。この島の住民たちは二人に対して悪意も害意も持っていない。助けたという事実のお陰かとも最初は思ったが、どうやら違う。先程の少女もそうだが、この島の住民たちは麦わら帽子とヘッドフォンを着けている者が非常に多いのだ。
麦わら帽子だけならおかしくはないと思う。そう珍しいものではないからだ。だがそこにヘッドフォンがあると話が違う。
麦わら帽子とヘッドフォン。
それはかつての“ヒーロー”の象徴であり、しかし今は“罪人”の象徴であるはずだ。それをどうしてこの島の住民たちは身に着けているのか。
「流石にマリンフォードで着けるとなると色々言われると思うッスけど、ここは田舎の島ですし。……なんというか、この島の皆は思ってるんですよ」
二人の視線に気付いたのか、青年はそう言った。その上で彼は断言する。
「──お二人は間違ってない」
何を、と聞く必要はなかった。言葉を探す二人に対し、青年は続ける。
「いやまあ、堂々とは言えないッスよ? でもそれが答えッス。……それだけッスよ」
それ以上青年は何も言わなかった。ウタは何度も言葉を紡ごうとして、しかし声にならずに口を閉じるということを繰り返す。ルフィもまた何も言えなかった。
──彼らの想いを、どう受け取ったらいいのだろう。
二人は罪人だ。それを堂々とこの青年は肯定した。それ自体は嬉しく思う。だけどそれは許されないことでもあって。
「間違ってないってのは、本気で言ってんのか」
思わずといった調子でルフィが言った。語気が強いのは彼もまた動揺しているからだろうとウタは思う。
だが青年は躊躇しなかった。頷きを返してくる。
「誰の下にいたと思ってます?」
なんでもないことのように、青年はそう言い切った。何を今更というように。
──いつの間にか、二人は心を閉じようとしていた。
最早信じられる人などいないのだと。この終わりなき逃亡を二人だけで乗り切らなければならないのだと。
絶望の闇の中を生きていくしかないのだと。
だけど。
(全部じゃ、ない……?)
もしかしたら。
まだ、自分達には。
「…………あ、あの」
不意に聞こえてきた声でウタは思考を一度閉じた。見ると先程走って行ってしまった少女がこちらへと歩み寄ってきている。
「あ、ありがとう」
そして、少女はそう言った。
礼なんて──そう思わず口にしようとして、ウタは止めた。代わりに別の言葉を紡ぐ。
「どう、いたしまして」
少女の表情に笑顔が宿った。花が咲くような──そんな笑顔。
戸惑いのようなものがウタの中に芽生えた。だが少女はそんなウタに対して次の言葉を紡いでくる。
「あ、あの……歌、を」
「え……」
予想外の言葉だった。少女は顔を赤くしながら服を握りしめている。その言葉を口にするのにとてつもない勇気を必要としたようだった。
そんな少女の姿を見つめながら、ウタは思う。
(……歌……)
最後に歌ったのはいつだっただろう。随分と前の気がする。
歌。大切なもの。好きなもの。私の誇り。
──だけど、そのせいで。
この歌声のせいで、私は──
「ウタ」
ルフィがこちらの手を握ってくれたことで、思考が途切れた。額に汗が浮いているのがわかる。胸の奥に何か重いものがあった。早鐘のように心臓が鳴っている。
俯いてしまうウタ。そんな彼女に対し、青年が言葉を紡ぐ。
「実はこの子、あの日にマリンフォードにいたんです」
「マリンフォードに?」
青年の言葉にはルフィが応じる。ウタの視線の先では心配そうな少女の顔が見えた。
「そうッス。この子だけじゃなくて何人かで。まあ自分のコネというかそういうので招待したんスよ。……この状況でこんなこと言うのは良くないかもしれないッスけど。この島の皆はお二人のファンなんですよ」
胸に、何かが灯る。
「お二人は“ヒーロー”なんです。今もそれは変わってない」
その言葉は、今の二人にとってはあまりにも重い言葉であった。
──“ヒーロー”。或いは“英雄”。
二人は多くの者からそう呼ばれた。だがそれはあの日に全て反転し、犯罪者となり今は逃亡者だ。蔑まれるような立場になってしまった。
だが青年は言うのだ。反転などしていないと。
今でも──“ヒーロー”なのだと。
「だから、その」
それ以上は青年も何も言えないようだった。ルフィがこちらを握る手の力が強くなる。
ウタは一度大きく深呼吸をした。一度ではない。二度、三度と繰り返す。
……少しだけ、心臓の鼓動が落ち着いた気がした。
「好きな曲は……ある?」
色々な言葉を探した挙句、出てきたのはそんな問いであった。少女は恥ずかしそうに俯きつつも。
「……“風のゆくえ”」
確かに、そう言葉を紡いだ。
「そっか。……うん、そっか」
真摯で純粋な言葉であった。幼き少女のその言葉が、じわりとウタの中に染み込んでいく。
──嗚呼、そうか。
「ありがとう」
何もかもなんてことは、なかったんだ。
今目の前に、私の歌を愛してくれる人がいる。
こんな風になった自分に、それでも歌を望んでくれる人がいるのだ。
「ライブみたいにはいかないけど」
呟くように言うと、ウタは立ち上がった。少女の顔が笑顔になる。
対し、ウタ、とルフィが彼女の名を呼んだ。その表情にはこちらを案じるものが宿っている。
「大丈夫」
そう言葉を返した。そうだ、大丈夫だ。
──願われた。望まれた。
それはきっと、ウタにとっては始まりの理由。
この歌を望んでくれる人がいるのなら。私は、何度でも。
「────」
リズムを刻む。久し振りだがちゃんと体は覚えていた。
なんだなんだと、周囲の者たちが集まってくる。それを見てか、青年がルフィへ声をかけた。
「大佐、いいんスか?」
「ウタがそうしたいってんならいいさ。……それに」
歌い始めるその瞬間に。
ウタはルフィのその言葉を耳にする。
「ウタの歌はおれも好きだからな」
その言葉を聞いて、ウタは内心で吐息を溢した。
変わらないものが、一つある。
彼がこの歌声を愛してくれていることは、あの日からずっと変わらぬこと。
だからこその誇りで。
だからこその──歌だ。
この人が隣にいてくれるのなら。
私は、まだ──……
◇◇◇
響き渡る拍手の音。そんなものはいつ以来なのだろうとルフィは思う。
いつもそうだった。彼女のライブが終わると空を割るような拍手が鳴り響いていたのだ。
ルフィはその音が好きだった。彼自身も愛するあの歌声が届いたことの証明であり、大勢の人を幸せにしたその証明でもあったから。
“平和を届ける正義”
ウタが掲げると決めた、背負うと決めた正義。未だ己の正義が定まらないルフィは彼女の正義を守ろうと決めた。そうしようと誓ったのだ。
故にこそ、それを踏み躙ろうとする者たちと戦ってきた。“平和”が遠いこの時代で。ずっとずっと。
「……よかった」
彼が愛する“歌姫”が、その本領を発揮している。
彼女の周囲には笑顔が溢れていた。それはきっと彼女が求めていたもの。望んだもの。愛するもの。何よりの願い。
きっと、彼女の心はまだ傷付いている。その傷はすぐに癒えるようなものではない。
だけど、今は。
今だけは。
「────」
ふと、目が合った。一瞬のことだ。だがそれで十分である。その一瞬で伝わったのだから。
その瞳は、とても綺麗で。
理想とは違うけれど。
それでも、きっと。
きっと、ここから未来へ進んでいけると。
その輝きが、そう思わせてくれた。
握り締めた拳は、新たな誓い。
たった一人。だが誰よりも大切な人のため、青年は世界を敵に回した。
後悔などない。あろうはずもない。
覚悟はある。鈍るはずもない。
だから、どうか。
どうか、笑っていて欲しいと青年は思う。
──それこそが、彼の“正義”であるのだから。
…………。
……………………。
………………………………。
人の口に戸は立てられない。
片田舎の集落が海賊を撃退したというだけのことだ。わざわざニュースにするようなことでもないし、埋もれて消える日常であるような出来事だった。
しかし、誰かが願ったのだ。
その“英雄”たちの生き様を。
知って欲しいと、そう願った誰かがいた。
「──クワハハハ!! たまらねェな!! それでこそだ!!」
願う者がいるならば、それを届ける者もいる。
それは、世界を渡る“ビッグ・ニュース”。
──“英雄、健在”。
二人を“悪”だと断じる人間もいれば逆もいる。今回はそういうお話です。
世界を敵に回したというけれど、それは全ての人間を敵に回すということとイコールではないはず。
少しだけ前を向けました。だが立ち直るにはまだ遠い。
しかし堕ちていくだけではない。ここからです。
ちなみに俗に暗黒時代と呼ばれた時代のヨーロッパでは実際に山の中に隠れた集落を作るということをしていたらしいですね。海賊対策として。今でもその名残があるとか。
次回は多分、今回最後に出てきた人が楽しそうに喋ってくれます。おそらくきっと。