朝起きることが辛くなったのは、いつからだろう。
元々朝は強い方だ。起きて、顔を洗って、身支度をして。その後に寝坊助な部隊の者たちを起こしていくのが海の上での彼女の役目であった。
当たり前のようなその日々が、何よりも大切だったのだ。
しかし、その役目を失ってから時間が過ぎた。だからこれは喪失感と──恐怖。
「…………」
自室の机。そこに置かれた小さな箱の中にペンダントがあった。
カチリという音を立てて開くそれは本来、小さな写真を入れるためのものだ。だがそのペンダントの中に入っているのは二枚の何も書かれていない小さな紙である。
その女性──オリンは小さく吐息を零した。そこには安堵が滲んでいる。
これを見ることが毎日の日課であった。祈るようにしてこのペンダントを開き、中身を確認する。そして。
「────」
祈るのだ。ただただ真摯に、手が白くなるほどに強くペンダントを握り締めて。
祈る相手は“神”ではない。そんなものに祈りはしない。故にこれは祈る相手さえも定まらぬもの。
情けないと彼女は思う。祈ることしかできない。信じることしかできない。
──もしも、力があったなら。
何かができたのだろうか。
「…………」
服を着替え、意識を切り替える。部屋を出る瞬間、部屋の隅にかけられたコートが目に入った。
背に“正義”の文字が刻まれたそれは海兵にとっての誇りである。しかし今の彼女はそれを羽織ることはできなかった。
(何が“正義”)
何度目かもわからない呟きを内心で零し、オリンは部屋を出た。廊下を歩き、出て行く先はとある集落だ。
見渡すと、腕に羽の生えた者たちがいる。そうでない者もいるし、海兵の制服を着た者もいる。
ここはメルヴィユ。かの“金獅子のシキ”との戦いでマリンフォードの近くに落下した島だ。今は世界政府直轄の土地となっており、海軍本部が管理をしている。オリンが出てきたのはこの島にいくつか造られた宿舎だ。現在は主に世界政府や海軍本部から派遣された者たちが使用している。
「クオッ!」
朝日が眩しい──そんなことを思ったところで、聞き覚えのある鳴き声が聞こえた。見ると、黄色い体躯を持つ鳥がこちらへと飛来してきた。
まるで飛びつくようなそれを受け止めるオリン。最初の頃は勢いが良過ぎて吹き飛ばされたが、最近ようやくこの鳥──ビリーも加減を覚えたらしい。ぶつかりこそするがこちらを吹き飛ばすようなことはしない。
「おはようビリー」
「クオッ!」
嬉しそうにビリーが鳴いたその瞬間、オリンは手を離して少し距離を取った。直後、空間を電撃が叩く。
ビリーが持つ特殊な力だ。曰く『生態』とのことであるが、オリンには生物学のそういった詳しい部分はわからない。ただ単純に彼が興奮すると危険だということだけは認識している。
「もうちょっとコントロールを覚えないとね」
「クオッ……」
苦笑して言うと、しょんぼりした様子で肩を落とすビリー。その彼を撫でていると、こちらに走り寄ってくる少女の姿があった。
「おはようお姉ちゃん!」
「おはようシャオ」
走り寄ってきたのは一人の少女であった。名をシャオ。彼の戦いでオリンの上官であるルフィとウタとも交流を持ち、その後においても世界政府とメルヴィユの住民の橋渡し役にもなった少女だ。
シャオがビリーの羽を撫でると、嬉しそうにビリーが鳴いた。シャオもまたそんな姿を見て笑う。
微笑ましい光景だと思う。だがどうしてもオリンの心は晴れない。
(メルヴィユの管理者といえば聞こえはいいけど)
今の彼女はこの場所の管理者の一人として名を連ねている。最高責任者は別にいるが、現場における実質的な責任者は彼女だ。その任務内容は原住民たちとの関係作りや島の開拓など多岐に渡る。
重要な役割であることは彼女自身もわかっている。長い間“金獅子のシキ”の管理下に置かれていた彼らは世情に疎い。最初の接触者の一人であるオリンを前面に出すことは彼らの警戒を和らげる意味でも効果はある。だがそれは建前。丁度いい役目があったからここに押し込まれただけだ。
“一から十まで説明する必要はないだろう?……あの二人の副官として、お前もまた名が知られている”
この任務の指示を出した人物──センゴク元帥は酷く疲れた様子でそう言った。同時に部隊の事実上の解散も告げられ、かつて“新時代の英雄”と呼ばれた部隊に所属していた者たちは全員が他の部隊へと異動になったのだ。
オリンだけは元帥直下の機関として新たに創設されたここメルヴィユ管理の責任者とされた。他の責任者たちが将官、左官クラスの人間ばかりの中で大尉の階級である彼女が配属されたということはそういうことだ。
──即ち、左遷と監視。
「大丈夫?」
シャオにもわかるくらいに沈んだ表情をしていたのだろう。首を振って、何でもないと言葉を紡いだ。
ふと、空を見上げる。憎らしいほどに青い空だ。
──この空の下のどこかで。
あの人たちは──
「あ、カモメさんだ」
「クオッ」
オリンが気付くのと同時に、一人と一羽もまたそれに気付いた。空からこちらへと降りてくるのは一羽のカモメだ。
ニュース・クー。この世界で最も広い範囲へと情報を届けるカモメだ。そのカモメはこちらへ一直線に近付いてくる。
「ありがとう」
そのままニュース・クーが差し出してきた新聞を受け取る。同族……と言っていいのかわからないが、ビリーがニュース・クーを覗き込むようにして近寄ってきた。自分の数倍以上のサイズのビリーを見てニュース・クーも少し警戒している。
「ダメだよビリー」
「クオッ」
そしてそんな彼をシャオが嗜める。その光景を横目に見ながらオリンは新聞を広げた。届けられたのは『世界経済新聞社』だ。“新聞王”とまで謳われる男が発行する、世界で最も広い範囲へ情報を届けている新聞社である。
あの“事件”以来、海賊を筆頭に様々な動きが世界中で始まっている。加盟国同士でも緊張状態にある国まであるという始末だ。今日は一体どんな憂鬱なニュースが載っているのか。
そう、思ったところに。
「……ああ」
思わず、声が漏れた。
一面に大きく載せられた写真。それと共に書かれた言葉。
「どうしたのお姉ちゃん?……あ、お兄ちゃんとお姉ちゃんだ!」
「クオッ!」
新聞を覗き込んだシャオが声を上げ、ビリーも嬉しそうな声を上げた。
「大佐、准将」
喘ぐような声が漏れる。その瞳が文字を追う。
『海賊に襲われた集落を救ったのは、二人の“堕ちた英雄”。
だが彼らの魂は、信念は、その在り方は損なわれていなかった』
その新聞の一面に書かれた言葉。
それは、彼らを信じる者たちへの希望たる言葉であった。
──“英雄、健在”。
◇◇◇
世界で最も多くの者に読まれる新聞を発行する新聞社である世界経済新聞社。その内部は戦争でも起こっているかのように多くの者たちが動き回り、声を上げていた。
「クワハハハ! どんどん情報を集めろ! 本番はここからだぞ!」
その中心にいる男──“新聞王”モルガンズは上機嫌で社員たちに発破をかけている。彼自身もまた机に大量の資料を積み、更に社員たちが上げてくる情報や原稿に目を通している。
情報というものは集めればいいというものではない。まずはそれの裏取りが必要であり、その上で紙面に上げるべき情報の取捨選択が必要だ。更に言えばその上げ方も考える必要があるのだ。順番、見せ方、表現方法……それ一つで読者側の受け取り方が変わってしまう。
だからこそモルガンズは楽しみながらそれをなす。活字で人を、世界を踊らせる。それができる立場なのだから面白くないわけがない。
「すみません社長」
手に資料を持った若い青年がこちらへ走り寄ってきた。新入りの記者の一人だ。先日モルガンズが色々と教えを授けた相手でもある。
本来なら新人には相応の研修期間を設けるのだが、今はとにかく人手が必要。彼の場合はすぐにそれなりに動けると判断したため一端の記者として動き回っている。実際、既にいくつか記事の草案も書き上げているくらいだ。
「おお! いいところに来たな!」
丁度その青年の書いた文章を確認していたこともあり、モルガンズは彼を手招きする。そして彼に紙を渡すと簡単に説明を始めた。
「実に丁寧な文章だ。素晴らしい。これは教養のある人間しか書けねェ代物だ」
「あ、ありがとうございます」
いきなり褒められて恐縮する青年。その彼に対し、しかし、とモルガンズは器用に羽を立てて言葉を続けた。
「今回の特集記事には不向きな文章だ。事実も真実も揺るぎはねェが、伝え方は無数にある。その文章じゃ読者には受けねェ」
「えっと……どのあたりでしょうか。その、情報は自分なりに取捨選択したのですが」
手元の紙を見つめながら青年が問う。モルガンズは頷いた。
「先日に出した件の二人が健在であることを示した報道。今回はその反響を受けての特集記事だ。それはわかるな?」
「はい。だから例の海賊の詳細もできるだけ載せようと──」
「それが間違いだ。読者はあの二人がぶっ飛ばした海賊がどんな奴であるかなんざ興味はねェ。そんなもんは一行でいい。これが“四皇”の傘下なり億越えの有名な奴だってんなら話は変わるだろうがな」
打ち倒された海賊は事件の肝ではない、とモルガンズは言う。今回の海賊自体は懸賞金から見ても片田舎の集落を襲ったところからしても小物だ。故に重要なのはあの二人がやったことである。
「今世界が欲してるのは“英雄”の情報だ。それ以外は極力削ればいいのさ」
それで十分だとモルガンズは言う。必要なのは受け手側の求めているものをしっかりと見定めること。そうすれば自ずと何を載せるべきかは決まってくる。
「なるほど……わかりました」
青年が頷く。そこでモルガンズはとあることを思い出した。そもそもこの青年は何かを伝えにここに来ていたのだ。
「それで用件はなんだったんだ?」
「あ、それなんですが」
「──私よ」
青年の後ろからそんな女性の言葉が届いた。聞き覚えのある声だ。モルガンズの表情が一瞬だけ──それこそほとんどの者が気付かないほどの一瞬だけ険しいものになった。
だがすぐに笑顔を浮かべると、モルガンズは両手を広げて立ち上がる。
「これは随分と珍しい来客だ!」
「偶然近くに用事があったものだから」
現れたのは一人の金髪の美しい女性だった。しかしただの女性ではない。そもそもただの人間がこの移動する本社に乗り込めるわけがないのだ。
名をステューシー。“歓楽街の女王”の異名を持つ人物であり、闇の世界の顔役の一人である。モルガンズとはその立場上それなりの付き合いがある相手だ。
「折角だから情報提供もしてあげようと思って」
「ほう、情報!」
小さな笑みと共に言うステューシーに対し、大袈裟なリアクションで応じるモルガンズ。そのまま彼は周囲を見回すと、近くにあった椅子を置いた。
その椅子に腰掛けるステューシー。その対面に座りつつ、モルガンズは言葉を紡ぐ。
「その見返りは?」
この女が情報を無料で寄越すはずがない。故の問いかけだったのだが、ステューシーは肩を竦める。
「私の商売にも影響が出そうだもの。情報交換が見返りでどう?」
「商売ねェ……」
どちらのことだ、とは口にしなかった。それを口にするメリットはない。
互いに腹の読ませない者同士の対峙。周囲の社員たちは自然と距離を取っていた。
「それで情報ってのはなんだ?」
「──“白ひげ”が動き出したわ」
モルガンズの眉が動く。彼が少し離れた場所にいる社員に視線を送ると、視線を向けられた社員は急いで駆け出した。情報の裏取りのためだ。
「目的はあの二人か?」
「さあ? でもタイミングを考えればその可能性は高いでしょうね」
ふむ、と顎に手を当てながら考え込むモルガンズ。どう、とステューシーは彼に問いかけた。
「情報としては悪くないと思うけど」
「成程、確かに。……それで、何を聞きたい?」
「今後の世界について。あなたの見解を聞きたいわ」
ジッ、とモルガンズは目の前の女の腹の中を読もうとその瞳を見据える。だが何も読めない。
この手の戦いでは不利だ──そう判断すると、モルガンズは言葉を紡いだ。
「まだ賽が投げられただけに過ぎねェな。だが中心にいるのは──」
机の上に転がっていたチェスの駒を手に取り、机に並べる。
キングとクイーン。それが誰を暗示しているかなどわかり切っている。
「──あの二人だ」
◇◇◇
偉大なる航路における、とある島。
非加盟国でもあるその島に、その笑い声が響いていた。
「ゼハハハハ! こいつは面白ェ!」
声を上げて笑っているのは“黒ひげ”マーシャル・D・ティーチだ。彼は新聞に書かれた記事を見て楽しそうに笑っている。
そこに書かれているのは二人の“堕ちた英雄”の活躍だ。海軍も国救援も間に合わぬ状況、現れた二人が海賊を撃退した。世界のルールに真っ向から反してなお、彼らは人を助けたのだ。
「海軍の面目も丸潰れだ」
そんなことを言うのは巨大な長銃を持つ男──ヴァン・オーガーだ。彼の言う通り今回の件は海軍の面目が立たない話である。
世界政府の象徴であり絶対的な存在たる“天竜人”。その存在に対して正面から“否”を叩きつけた“新時代の英雄”。当然そんな存在を許容できるはずもなく、つい昨日までは“英雄”として持て囃されていた二人は大罪人となってしまった。
しかしその二人はそれでもなお海賊に襲われる集落を守った。その事実は大きい。
「あァそうだ。しかも見ろ。どうやらこいつらは一度通報されて海軍の追撃も受けてるみてェだ。それでも市民を守るってんだから大した“正義”だ」
ティーチの口調には馬鹿にした様子はない。つい昨日まで自分達を“英雄”と呼び、縋っていた者たち。その者たちから通報されるという経験をしてなお彼らは弱者を守ったのだ。
本当に大したものだとティーチは思う。故の“健在”であるのだとも。
「折れてねェならそりゃ“健在”だ。“復活”じゃねェ。海軍にすりゃたまったもんじゃねェだろうがな」
「……ああ……ゴホッ、そりゃ……そうだ……」
咳き込みながら同意するのはドクQだ。
「民衆にしてみれば……奴らは“理想”だ……ゴホッ」
そう、“理想”。まさしくドクQの言う通りなのである。
世界政府も海軍もこの海の秩序を守る存在であるが、“天竜人”というある種の矛盾を抱えてもいる。その横暴は明らかに度が過ぎているが誰もそれを咎めることはしないしできなかった。だからこそ“革命軍”という存在が生まれたと言える。
しかしその“革命軍”がならば理想なのかというとそうではない。彼らは現状ではどうしても秩序を破壊する側であるし、そもそも組織規模では世界政府には及ばない。結局世界政府が倒れたら誰が秩序を守るのかという問題が残ってしまうのだ。
しかし、そこへこの二人だ。
真っ向から“天竜人”に対して“否”を突きつけ、それでいて民衆を守るという“正義”を捨てていない。その守るべき民衆に背後から刺されようとも彼らは民衆を守ったのだ。
その在り方は正しく、人々が掲げる“理想”であろう。
「それがわかってるからこの手配書だ。共に億越え──“金獅子”を討ち取ったことを考えりゃ随分安いがな」
世界政府がその首に懸けた懸賞金。それは二人を“罪人”だと定義したということである。しかし今回のこの報道を見て民衆は思うだろう。
──これが“罪人”なのか?
無論、“天竜人”という絶対的な存在への反逆は大罪だ。だがそれ以外の部分において彼らはむしろ民衆の側に立っている。故に厄介なのだ。ただただ罪を犯したと切り捨てるにはその影響力が大き過ぎる。
全ての人間がそう思うわけではないだろう。意見は様々だ。しかしそういう形で『意見が割れる』という事実そのものが海軍にとっても世界政府にとっても厄介なのである。
「それでどうするんだ船長? 場所は近いぜ」
問うてきたのはジーザス・バージェスだ。彼に対してはラフィットが言葉を紡ぐ。
「近付かないほうがいいでしょう。追撃部隊も出てるようですから」
「だが億越えの首を探してたじゃねェか。丁度いいだろ」
「ホホホ、お馬鹿さんですね。そんなことをしたら無用な敵を作ることになります」
見なさい、とラフィットは自身の持っている新聞をバージェスに渡す。示された場所を見、バージェスが眉を顰めた。
その彼に対し、ティーチが酒を煽りながら言葉を紡いだ。
「“赤髪”が動いてやがる。それだけじゃねェ。海軍内部でも離脱者が出始めてるらしい。──ゼハハハハ! 随分と愛されてやがる! 羨ましいことだぜ!」
海の皇帝“四皇”が一角たる“赤髪”が動いたことは比較的早くに世界に広がった情報だ。故にこそ“歌姫”が“赤髪”の娘であることを世界が確信したわけでもあるのだが、それはつまり手を出すと“四皇”と事を構えることになるということを意味している。
そして海軍もだ。今回の件を受けてそれなりの数の離脱者が出ており、組織内もかなり荒れているとのことだ。それだけの影響力をあの二人が保持していたということであり、裏を返せば下手に手を出すとそれらが一気にこちらへ向かってくるということでもある。
故に手を出すべきではないと判断した。向こうから来るのであればともかく、目に見えている爆弾へ突っ込んでいく意味はない。
「だがこの状況、おれたちにとっては追い風かもしれねェ」
呟くティーチ。彼の頭の中には既に計画が練られ始めている。
ここから世界は荒れていくだろう。そうなれば名を上げるチャンスはいくらでも増える。
「どういうことだよ船長?」
「“赤髪”が動いたってことは他も動き出す。そうなりゃ海軍は戦力が必要になるが、“七武海”の穴は空いたままだ。そこへ強力な戦力が加入を求めればどうする?」
「──そういうことか」
問いかけてきていたバージェスも得心が行ったらしい。ティーチは高らかに宣言した。
「さァ成り上がってやるぜ!!」
世界政府も海軍も今は戦力を欲している。クロコダイルの穴は未だ埋まっていない。ならばそこに食い込む隙はいくらでもあるのだ。
その先の“計画”のため、海賊“黒ひげ”が動き出す。
──世界を揺るがす大事件が起こるのはまだ、もう少し先の話。
◇◇◇
「今回の事件で決定的な流れを作ったのは“赤髪”だ」
モルガンズはそう切り出した。海の皇帝たる“四皇”が一角、“赤髪のシャンクス”。彼が動き出したことは既に世界中に知れ渡っている。
だが対面のステューシーはそんなモルガンズの言葉に疑問を投げかける。
「あらどうして? あくまで主導権は世界政府だと思ったけど」
「罪人として糾弾したのは世界政府だが、それだけだと弱ェのさ。結局のところ“天竜人”をぶん殴ったという事実以外にあの二人がやらかしたことはねェからな。それだけじゃ市民感情は追いつかねェ」
「その市民感情を後押ししたのが二人のバックボーンでしょう?」
「それが真実って保証がどこにある? 噂にすらもなってねェような出生の真実だぞ? 作り話と捉える奴の方が多いに決まってる」
そう、本来はそうなるはずだったのだ。“天竜人”を暴行するという前代未聞の事件。だがそれだけでは実を言うと市民感情は付いてこなかっただろうとモルガンズは思う。それはルールを破る行為ではあるが、“悪”と市民が捉えるには弱い出来事だからだ。
故にこそ“犯罪者の子供”という情報が意味を持つ。『だから』罪を犯した──そう納得させるためだ。しかしそれも本来なら意見も割れたはずである。事件を起こした直後にその情報が出たとしてもあまりに都合が良過ぎるのだ。偽の情報だと疑う者も多いはずである。
だがそれを真実とする出来事が起こった。
──“赤髪のシャンクス”、動く。
穏健派とも知られるはずの彼が動き出した──それが世界に与えた衝撃は大きく、そしてその動きはあの情報が真実であることを世界に確信させた。
「事件直後に動きを見せた“赤髪海賊団”。あそこまで露骨だと“赤髪の娘”って情報が真実であることは間違いねェ」
実を言うとモルガンズも半信半疑であったのだ。“歌姫”のバックボーンは謎が多いがそれでも彼女は“海賊嫌い”として知られていたし実際の振る舞いもそうであった。少なくとも“赤髪”との接点はモルガンズも世界政府から情報を貰うまで知らなかったのだ。
故にこそ“赤髪の娘”という情報をモルガンズは『世界政府からの情報』という形で新聞に載せた。確信がなかったが故である。
だが、それが真実であるということを他ならぬ“赤髪”がその行動で証明した。
「穏健派だと言われてるが“赤髪”も海賊だ。無関係な相手なら捨て置くだろう。しかしそうしなかった。いや、できなかったのかもしれねェが」
「できなかった、か」
「そうだ。それはつまり“歌姫”が“赤髪”にとって重要な存在であることを意味している。そしてそうなればそこに利を見る奴が現れる」
小さな音を立て、モルガンズは机の上にチェスの駒を並べた。最初に置いた二つを取り囲むようにしていくつもの駒が並べられていく。
「今の盤面だ。まずは中心にいる二人。それを追うのが海軍であり世界政府だ」
白いキングとクイーンの駒に対し、相対するように白と黒のルークの駒をモルガンズが置く。それぞれが海軍と世界政府なのだろう。
それは同一の組織ではあるが、しかしその方針や在り方が違う機関である。
「そして動き出した“赤髪”。まず間違いなく目的は件の二人だ」
今度は黒いビショップの駒を別の位置に置くモルガンズ。それはまるで白いキングとクイーンを見守るような位置だった。
「その傘下が既に動き出してるって情報もある。“白ひげ”も動くってんなら残る“四皇”も必ず動くだろう」
そして残る白と黒のビショップを等間隔に配置する。四つのビショップが“四皇”を示しているのだろう。
「だが“四皇”に好き勝手させる程海軍も耄碌しちゃいねェ。元々“新世界”が奴らの本拠地。“楽園”での分は海軍にある」
「まずこちら側に来るだけで一苦労でしょうね」
「互いの牽制もあるだろうからなァ。──そこで動き出すのが“楽園”にいる海賊と非加盟国だ」
いくつもの白と黒のポーンを並べるモルガンズ。彼はキングとクイーンを取り囲むようにしてポーンを配置していく。
だが彼のそんな言葉を聞いてステューシーが問いかける。
「加盟国は動かないと?」
「現状ただの貧乏くじだ。関わるメリットがねェ」
世間的には“大罪人”であり賞金首。だがその本質はかつて世界に愛され、信じられていた“英雄”だ。それを討伐したとして得られるメリットは多少の金と表向きの名誉だけ。それ以上に無用な恨みを買いかねない。
「だが海賊と非加盟国は違う。できるかどうかはともかく、この二人の身柄を抑えられれば“赤髪”相手に交渉ができる。後者については“赤髪”じゃなくてもいい。世界政府にも交渉を仕掛けられるだろう」
「四面楚歌ね」
取り囲まれたキングとクイーンの駒を見つめながらステューシーが言う。つい先日の報道では彼らは海賊に襲われる民間人を救うという行動をした。だが本来、誰よりも助けを求めているのは彼らであるはずなのだ。
しかし現実は周囲全てを敵に囲まれたに等しい状況。個人レベルであれば協力者はいるだろう。しかしそれが組織になると難しくなる。
「そして革命軍だ。これも動き出したと聞いてる。……これに関しては当たり前だ。ここで動かねェようだとその理念が瓦解する」
そして盤面のどの駒からも一定の距離を置いた位置へナイトの駒をモルガンズが設置する。
革命軍があの二人の身柄を抑えに動くのは既定路線だ。そもそも世界政府、そして“天竜人”と正面から敵対しているのが革命軍である。その彼らが正面から“天竜人”に逆らい、世界を敵に回しながらそれでも弱者を救った二人を見捨ててしまえばその存在意義に関わる。
モルガンズは両手を広げ、眼前の来訪者に告げる。
「これが現状だ」
「成程、興味深いお話だったわ」
ステューシーが立ち上がる。彼女は身なりを整えると、それで、と言葉を紡いだ。
「あなたは盤面のどこにいるの?」
「──おれはジャーナリストだ」
立ち上がりながら“新聞王”はそう告げた。数秒、二人の視線が交錯し。
「この先もそうであって欲しいわね」
ステューシーはそう告げると、靴の音を響かせながら立ち去っていく。それを見送り、彼は小さく呟いた。
「……釘を刺しに来たか」
えっ、とこちらに近付いてきた社員が疑問の声を上げた。その彼に対して首を左右に振ると、なんでもないというように声を上げた。
「さあこれからが大忙しだ! どんどん情報を仕入れろ!」
そうして社員たちを激励しながら、改めてモルガンズは思う。
──盤面が揃っただけだ。
しかもこの盤面はいつ新たな何かが割り込んでくるかわからない不安定なものである。その中心にいる二人が何をするかによっても大きく変わる。
モルガンズはジャーナリストだ。だが同時に彼はエンターテイナーでもある。
故にどこにも属さない。だがどうせなら面白い方がいい。そういう意味ではやはり中心にいる二人へとどうしても期待してしまう。
何が起こるのか。何を成し遂げるのか。
ただただ、楽しみである。
◇◇◇
世界は動き始めている。しかしその中心にいる二人はその激動を知らないままだ。
「……上手くなったね、ルフィ」
彼が奏でるハーモニカの音に対し、そんな言葉を口にするのはウタだ。まだその演奏は未熟であり、滑らかではなくつっかえる部分も多い。
だがそれでもそのハーモニカは正しく音楽を奏でていた。
「ししし、練習したからな」
笑顔と共に言うルフィ。今の二人は海の上にいた。再びの逃避行である。
二人の元部下がいたあの集落の者たちは親切にしてくれたが、だからこそずっとは留まることはできなかった。彼らが良いと言ってくれても世界がそれを許さない。
故にこそ再び当てのない逃亡へと戻ったのだ。しかし少し前までと比べると心に少し余裕がある。
「いつか……うん、いつか。ルフィの伴奏で歌いたいな」
ルフィが持っているハーモニカを見つめながら、所謂体育座りの体勢のウタは言う。あのハーモニカはあの集落で元部下の青年がくれたものだ。いつかの記憶、なんでもない日の思い出。それを彼もまた覚えていた。
全てを失ったと思っていた。今目の前にいる人以外の全てを。だがそうではないと知ることができた。
だが、それでも。
それでもまだこの体は動かない。いつも震えが先に来る。恐怖が心を覆うのだ。
「おう、待ってろ」
けれど、目の前の人は笑顔でそう言うのだ。
戦うことのできない女。足手纏いな女。人生を奪った女。
そんな存在へ、彼は笑いかけてくれる。
──どうして?
そんな一言さえ聞けない自分が嫌になる。
「────」
再び、ルフィがハーモニカの演奏を始めた。そのメロディに誘われるように、呟くような言葉がウタの口から零れ落ちる。
たった二人の演奏会。会場で行われるそれは、目の前の人に捧げるために。
音楽とは届けるもの。それはかつて“歌姫”が“正義”と共に掲げたものでもあった。
だからこそ、二人は音楽を奏でている。
──目の前の大切な人へ、届くように。
海を往くは孤独な船。
その前途は未だ見えず──……
ここでようやく長い長い逃亡編のプロローグが終わったのかなー、と。
否定も肯定もされた、盤面の配置も終わった。さてこれからどうするのかというお話。
本編でどえらいことになりつつある方が登場。前回のモルガンズさんが部下に対しての教育という形をとっていたので、今回は対話という形式で現状説明。
実際この二人は世界の騒動における中心過ぎる……。