未来が、見えたのだ。
その瞬間が、見えてしまったのだ。
「駄目」
だから駆け出した。その背に向かって走り出したのだ。
地面を蹴った。息を切らして全力で。
視界の中には、彼の姿しかなかった。
抱きしめるように。
庇うように。
頭を貫くような痛み。
焼けるような感覚。
けれど、同時に。
──こちらを抱き締める、優しい腕。
吐息を零す。嗚呼、そうだ。
この優しい手が、好きなのだ。
私を守ってくれる──いつも守ってくれていた、この手が。
だから。
だから、今度は。
私が、あなたを。
◇◇◇
ウタを受け止めた衝撃のまま地面に投げ出されるルフィ。力が抜けた状態でも歯を食い縛り、彼はウタを抱え込んでいた。
ウタを抱える右手に温かな感触を覚える。血だ。スモーカーの放った渾身の薙ぎ払いはウタへと直撃し、彼女のヘッドフォンを粉砕しながら彼女に深刻なダメージを与えていた。
「ウタ!!」
声をかける。僅かに反応があったが応じる声がない。何度か地面をバウンドし、そこで力が入るようになっていることに気付く。
今の衝撃で弾丸が抜けたのか。くそっ、と呟きながらルフィは視線を前に向けた。
「────」
呆然とした表情を浮かべているスモーカー。だが彼はこちらの視線に気付くと、何かを振り切るように白煙を周囲展開した。
ここで止まるような男ではない。当たり前だ。ここで躊躇するような覚悟はしていないだろう。
ルフィもまた、ウタを抱えた状態でスモーカーを睨み据える。だが状況は間違いなく不利。
どうするか──と、そう思ったところで。
──何かが、幾つも広場に着弾した。
直後、凄まじい爆発音と共に周囲に煙幕が広がっていく。
「何だ!?」
声を上げるスモーカーの姿も煙幕の向こうにかき消えた。何が起こったのかわからない中、背後からの気配にルフィが振り返る。
飛び込んできたのは人であった。宙を舞うその人影はルフィたちのいる場所から少し離れた場所を通過し、煙幕の中へと消えていく。地面に落ちる鈍い音が響いた。
何だというのだ。混乱しながらも立ち上がるルフィ。しかし状況は彼の理解を待ってなどくれない。
「ッ、くそ!」
隣へ背後から何かが飛び込んでくる。ウタを抱えながら咄嗟に蹴りを放つルフィ。疲労とダメージ、状況の把握さえも覚束ない状況。それらのせいで随分と鈍い蹴りであったが、普通の人間であれば受け止めることなどできない一撃であったのは確かだ。
「お逃げください!!」
しかし、飛び込んできた影はそれを受け止めた。
何者かはわからない。だがその人物はローブの中から何かを取り出すと、それを周囲にばら撒いた。
──無数の銃声が響き、周囲から悲鳴と怒号が響き渡る。
「銃声!?」
「何だ誰が撃った!?」
「発砲の許可は出てないぞ!?」
住民たちも海軍も国軍も、煙幕の中で響き渡る銃声に混乱し始める。ルフィもまた身構える中、そのローブの人物が言葉を紡いだ。
「“音貝”です! 銃声を記録したものですがそう長くは撹乱できません! どうかお逃げください!!」
早く、とまるで懇願するように言う謎の人物。その声で女性だとわかった。
状況は未だ不明。このローブの人物が誰かもわからない。だが動かなければならないと、ルフィは駆け出す。
「待てルフィ!!」
煙幕の向こうからスモーカーが吠える声が聞こえた。その声には様々な感情が込められていて。
しかしルフィは立ち止まらない。立ち止まることなどできるわけがない。
「────!」
背を向け、一心不乱にルフィは駆け出した。その腕の中にいる大切な人は瞳を閉じ、力無くこちらへと身を預けている。
今すぐ立ち止まり、声をかけたかった。
だが、駄目だ。そんなことをしている暇もないし、それで彼女が良くなるわけではない。
「ウタ……!」
まるで、迷子の子供が泣くのを堪えているかのような。
暗闇の中で誰かを探す子供のような。
だがそれでも、彼の足は止まらない。
止まってはならないと、彼の本能が告げていた。
◇◇◇
イルという女性は、自我というものがわからない。
自分で何かを選ぶことが苦手だ。いや違う。選び方がわからないというべきか。
物心ついた時にはもう、自由意志というものを持たないことを求められていた。望まれたことを望まれた通りに。そうやって生きてきたのだ。
命を拾うことになり、“革命軍”に入ったのも成り行きだ。
“世界を見て回れ”
かつて言われたことのあるその言葉を実践しようとしただけ。どこまで行こうと誰かの言葉に縋りながら、自分の言葉を持たぬのがここにいる女であったのだ。
故に彼女が動いた時、その事実に一番に驚いていたのは彼女自身であった。
彼女を奴隷の身分から救い出してくれた“金獅子”。孫を名乗ることを許してくれたその人を打ち倒した“麦わら”について思うところがあるが、結末については海賊の習いだとも理解している。祖父は敗北した。それに対して外の人間が何かを言うのは彼への侮辱であり、彼女にそんなことができるわけがなかったのだ。
そして“英雄”と“白猟”の戦いについてイルが何かをできるような余地はなかった。そもそもの基礎的な戦闘能力が違う。割って入ったところで邪魔になるだけだ。
故に待っていた。広場全体を俯瞰できる場所で指揮官であるサボの指示を待ち、行動するのが彼女の任務であったからだ。
(……私は)
だがそこへ想定外のことがいくつもいくつも重なることになる。
住民たちの中に紛れていた、おそらくは政府の諜報員であろう男の放った弾丸による戦闘への介入。それによって傾く天秤。その一瞬の出来事に対して何かをできる余裕などなかった。そう、なかったはずなのだ。
──“未来”が視えでもしない限り。
だがそこへ“歌姫”は割り込んだ。憧れであり救いであった“歌姫”のその行動をイルは呆然と見ていた。聞こえてきたのは鈍い音。見えたのは鮮血。
気付いた時、彼女は広場へと飛び込んでいた。
その視線の先にいたのは、“麦わら”へ銃弾を放った男。
一瞬であった。その手に持っていた銃を斬り飛ばし、返す刀でその身を斬った。その勢いのままその男は宙を舞ったのだ。
その時の感情をなんと呼ぶのかを、イルは知らなかった。
それを“怒り”と呼ぶのだと、彼女は誰からも教わらなかったから。
「どうかお逃げください!!」
周囲にばら撒いたのは“音貝”だ。銃声を記録したそれはこの煙幕の中において海兵たちを混乱させるに十分な効果を発揮する。
考えれば単純なことであるのだが、そもそもこんな手段を海軍は想定していないであろう。今の彼らは煙幕と併せて突然の襲撃が起こったのだと考えているはずだ。
しかしそれでも彼らは無闇に撃つことはできない。同士討ちの可能性があるし、それに周囲にはこの国の兵もいれば国民もいる。敵の姿は確認できず、更に言えば周囲の味方の姿だけは見えている。この状況で躊躇なく銃を撃てる者はそうはいない。
イルはこれを想定していたわけではない。この状況に至ったのは偶然である。咄嗟の行動が彼女の側へ天秤を傾けさせたのだ。故に褒めるべきはこの戦い方を考案し、準備をさせていたサボの方だろう。しかし今、イルの方へサボからのアクションがない。
(勝手に動いてしまいましたが、サボ様は……)
当初の予定ではサボの合図に併せてイルが撹乱を行うというものであったが、先走ってしまった。しかしそれで足を止めるような人物でないことをイルは短い間の付き合いで知っている。だがそのサボの姿がない。
ハックは別任務で動いているし、つい先程まで一緒にいたコアラは沖で待機している“革命軍”の部隊へと連絡を入れるために少し離れている。
どう動くべきか、と迷う。とりあえず二人は動いた。ならば後を追わせないようにするべきなのだろうが、この状況から次にどうするべきかがイルにはわからない。
自分も退くべきなのだろうか、それともサボとの合流を──
「────ッ!!」
しかし、その判断をする前に状況が動いた。煙幕の中、一直線に二人の方へ向かう気配がある。
響き渡るのは金属音だ。イルの二刀が十手によって防がれた音である。
「誰だ!?」
息を切らしながらもそう吠えるのは“白猟のスモーカー”だ。格でいうのであればイルは敵わない相手である。だが今のスモーカーは負傷し消耗した状態だ。
足止めなら可能と、一合のやり取りでイルは判断した。少し距離を空け、二刀を構え直す。
「──答えるつもりはねェようだな!」
だが、その一瞬の隙の間にスモーカーは距離を詰めてきた。刃のない十手でありながら、しかしまともに受ければ身体を貫かれてしまいそうな突きがこちらを狙う。
身を捻ることで避けるが、僅かに脇腹を掠めた。しかし距離が詰まった。イルはそこへ斬り上げの一撃を放つ。
スモーカーは自身の体を白煙にし、その斬撃を避けた。再びの金属音。
煙幕によって視界が奪われ、周囲で響く銃声によって混乱する広場。その一角でその二人はぶつかり合う。
(……サボ様)
その最中、イルは指揮官のことを思い浮かべる。指示をくれるはずの人のことを。
この状況の先が今の彼女にはどうしてもわからないのだ。今までの生き方、歩んできた道、在り方をいきなり変えることなどできない。彼女にはまだ道を示してくれる『誰か』が必要だった。
今の彼女にとってそれは“革命軍”だ。故にこそサボの指揮下でその指示の通りに動いていたのだが、肝心のサボの動きがない。
(時間を)
故に彼女は停滞を選択した。
良く言えば待つ、という行為。悪く言えば先送り。
だが悩む時間もない。決めたならばその通りに動くだけである。
混乱が伝播する。状況は以前、先行き不明なままであった。
◇◇◇
まるで、頭が割れるようであった。
「…………ッ!」
壁に寄りかかり、サボは自身の頭を抑える。倉庫から“歌姫”が飛び出した時、サボもまた慌てて飛び出すことになった。倉庫に残る二人には待機と『この後』について言い渡し、“革命軍”にとっても重要人物である“歌姫”を追ったのだ。
だが残る二人への指示や“歌姫”の飛び出しに対してワンテンポ遅れたことなどせいで彼女を止めることはできなかった。目に飛び込んできたのは“歌姫”が“麦わら”を庇い、二人ともが宙を舞う姿であった。
その時、サボの視界に入ったのは砕かれたヘッドフォンであった。“歌姫”の象徴とも言えるそれはかつては“ヒーロー”の証でもあったのだ。故に見覚えがあった。
……そう、そのはずだ。
だから知っていた、それだけのはずなのに。
“助けてサボ! ───が! 私を庇って!”
ノイズのかかった声と、顔の見えない幼き『誰か』の姿。
知らない記憶。知るはずのない記憶。
「…………ッ、この煙幕は……イルか……!」
割れるような痛みを堪えながら、どうにかサボは状況を把握しようと視線を広場に向ける。既に広場を覆うほどの煙幕が立ち込めており、中からは無数の銃声が聞こえてきていた。
元々想定していた策の一つではある。煙幕と音貝による無数の銃声で場を混乱させ、撤退の時間を稼ぐというものだ。元々から“革命軍”では用いられていた手段ではあるし、本来は自分たちが見つかった場合に用いるはずだった手段だ。
(動いてくれたか)
大きく深呼吸をしながらサボは思う。イルという女性はその戦闘能力と性格、性質が非常にちぐはぐな人物だ。並の海賊や海兵では相手にならない程の力を持っているというのに、相手を傷つけることを本能的に拒否するせいでどんな相手でも千日手のようになる。また自己肯定感があまりにも低く、自分から動くということができない。しないではなく、できないのである。
どうにも噛み合わないのだ。普通は力を得ればそれが自信となる。更に言えばそもそも力を得ようとすること自体が主体的な行為であるはず。なのにその全てが彼女にはない。
出会ってからの時間でいうなら非常に短いものであるが、そういった彼女の性質についてサボたちは早々に把握した。何かがある、と最初に勘付いたコアラのおかげでもあるが。
そんな彼女が自主的に動いたことはサボにとって予想外であった。だがこれは嬉しい誤算だ。こちらは数が少ない。故にこうして撹乱を行う意味は大きい。
(状況を整理しろ)
痛む頭を押さえながらサボは思考を動かそうとする。状況は既に動き出しているのだ。それはつまり時間との勝負ということであり、サボもまたいつまでも止まっている場合ではない。
(二人は既に逃げた。海軍は混乱してる。優先すべきはあの二人を逃がし切ること)
本来なら自分たち“革命軍”で保護したいところであるが、それは現状では難しいだろうとサボは判断した。こちらに彼らに対する害意はないが彼らは元々自分たちと対立する組織にいた人間だ。そう簡単に信用してはくれないだろう。
だからこそ落ち着いて話をしたいと思ったのだが、この状況では難しい。ならばとりあえず離脱させることを優先すべきだ。その結果として少しでも信用してくれたならば話はできる。悠長かもしれないがこれが最善であるだろう。
まとまりつつある思考。しかし。
“サボ、───は大丈夫だ。──が側で見てる。……くそ、目を離すんじゃなかった”
再び、覚えのない声が脳裏に響いた。ぼんやりと見えたのは小さな子供の姿。
──あれは、誰だ?
この覚えのない声は、一体何だというのだ?
それらを切り捨てるように大きく息を吐く。だが、一際強い頭痛と共に。
“お前ら知ってるか?”
大きく、心臓が跳ねる音。
“盃を交わすと──”
見えたのは、三人の幼い子供。
顔はわからない。誰かもわからない。だがどうしようもなく心が揺さぶられる。
「…………ッ、何、なんだ……!?」
サボは幼い頃の記憶を失っている。名前さえも忘れた状態でドラゴンたちに拾われてからも過去の記憶は戻らなかった。
ならばこれは、その失った記憶なのだろうか?
自分自身さえも知らない『サボ』という幼い少年の記憶だというのだろうか?
わからない。わからないことばかりだ。
ただ、彼は。
「……守らねェ、と……」
絞り出すように、そう呟いた。
それは、“革命軍参謀総長”としての言葉か。
或いは、失った“過去の自分”の言葉であったのか。
彼には、判断がつかなかった。
◇◇◇
ウタを抱えながら、ルフィは息を切らして全力で走っていた。
スモーカーとの戦いによってついた傷も痛む。だがそれよりも腕の中で気を失っているウタの方が問題だった。
「……ウタ……!」
自分からこんな声が出るのかと、そう思ってしまうほどに弱い声であった。
失敗した──そんな言葉がずっとルフィの頭の中を回り続けている。守ると誓った人。ずっと一緒だと約束した相手。
傷つけさせないと、あの日彼は誓ったのだ。
たとえ全てを敵に回すことになろうとも、絶対に。
「起きてくれよウタ……!」
目を閉じる彼女の頭からは血が流れ続けている。掌で押さえているが、だからこそわかるのだ。
足を止めて手当をした方がいいのか、と考える。だが今のルフィは何も持っていない。全て船の上だ。
“ちゃんと覚えなきゃ駄目だよルフィ”
ふと、そんな彼女の言葉を思い出した。
まだ正式に海兵になって間もない頃。ルフィとウタは他の新兵たちと一緒に様々な訓練を受けた。その中には座学もあったのだが、どうしてもルフィは苦手だった。航海術や簡単な医術など、必要なことはわかるのだがどうにも肌に合わなかったのだ。
彼自身が体験型というか、自ら体を動かすことが得意であったというのもある。そして何よりも。
“ウタがいるじゃねェか”
いつだって隣に彼女がいた。だからずっと頼っていたのだ。
ルフィは自分が何もかもができるような人間ではないと思っている。誰かを頼ることは恥ではないと思うし、実際に『一人では生きていけない』と公言しているくらいだ。
海軍にいた頃はそれで良かった。海軍とは組織だ。組織とは各々が果たすべき役割を分担することで機能する。ルフィができないことができる者がいたし、逆にその者にできないことをルフィがやってきた。そうして彼らは歩んできたのだ。
しかし今はその全てがない。かつて彼の周囲の者たちが持っていた能力こそ、今の彼には必要な者だった。
「…………」
強く、強く奥歯を噛み締める。応急手当ての道具なら船にはある。しかし上手くできるのか。彼女を傷つけてしまうことにならないだろうか。
不安。それは彼が普段あまり感じない感情だ。何とかなるといつも思っていたから。
だが、今は違う。
何とかなるでは駄目だ。
──何とかしなければならないのだ。
「──着いた」
息を切らしながら、ルフィはその場所に辿り着いた。岩場に隠すようにして停められた船。ここまで二人を運んでくれた船だ。
しかし気付く。船の側に誰かがいる。感じる気配は一つだけだ。
──考える時間はない。ルフィは足を止めないまま船の方へと駆け抜けていく。
一撃で終わらせる。そう判断して踏み込んだルフィの目の前で人影もこちらに気付いた。その人影──女性は、両手を挙げてこちらへ言葉を紡いだ。
「待って! 私は敵じゃない!」
ギリギリでルフィが止まった。そこで気付く。彼女はあの時、サボを呼びにきた女性だ。オレンジの髪のショートヘアに、ゴーグルをつけたキャスケットを被っている。
数秒前までのルフィは全力で彼女を排除しようとしていた。それがわからないわけでもないだろうに、彼女は一歩も退いていない。
「手当を!」
ルフィが何かを言う前に彼女は後ろの船を示しながらそう叫んだ。その表情と言葉に嘘はなく、ただ必死さが滲んでいる。
何が嘘で何が真実か。それを全て読み取ることはルフィにはできない。だがその必死さだけは確かに伝わってきた。
「ごめんなさい。少し船の中を見させてもらったの」
船の甲板に上がり、即席でルフィのコートを敷いた上にウタを寝かせるルフィに彼女は言う。その手の中には船内に置いていた救急箱があった。
「まず血を止めるね。支えてあげて」
そして彼女の指示を聞きながらルフィはウタに対して応急処置を施していく。とはいっても処置を行ったのはほとんどが女性であり、ルフィはウタの体を支えながらその指示通りに動くばかりであったのだが。
「私はコアラ。私も“革命軍”の一員なんだ」
傷口を洗い、傷の状態を確認しながら女性──コアラ。
「私たちはあなたたちと敵対するつもりはないの。本当はそういう話はサボくんがするんだろうけど、この状況だとできないし」
言いながらのコアラの処置により、ウタの出血が止まった。思わず安堵の息を溢すルフィに対し、彼女も頷く。
「良かった、見た目ほど傷は深くないみたい。でも頭の傷だからしばらくは安静にしておかないと。……私も医者じゃないから、見立てが正しいかは保証できないんだけど」
「そんなことねェ。──ありがとう」
包帯を巻き始める彼女に対し、ルフィはそう言って頭を下げる。ウタを支える手は力強く見えるのに、どうしようもなく儚くも見えた。
そんな彼に対し、どういたしまして、と告げるとコアラは立ち上がり船を降りる。そして言葉を紡いだ。
「とにかく今は逃げて。この国のことは私たちが何とかするから」
その言葉に対してルフィは何かを言おうとしてできなかった。今の自分にこの国でできることは残っていないだろう。何よりウタの身が心配だ。
優先順位、というものがある。今のルフィにとって何よりも優先されるのはウタだ。彼自身がそう決めたのだし、そうなってしまっている。
だが割り切れることではない。モンキー・D・ルフィという青年は海兵だったのだ。苦しんでいる者がいる場所にそう簡単に背を向けることができない。
そんなルフィの表情に気付いたのだろう。コアラは微笑と共に言葉を紡いだ。
「大丈夫」
そう言うと、彼女は背を向けて走り出そうとする。その彼女の背中に、思わずルフィは声をかけていた。
「ありがとう!」
それに対し、気にしないで、とコアラが応じる。
「私は、私がやりたいようにやっただけだから」
そして彼女は駆け出して行った。その背を見送り、ルフィは一度大きく深呼吸をする。
いつまでも止まってはいられない。帆を張り、ウタを船内へと運び込み、ルフィは海へと彼らの船を進ませる。
──遠くで、大きな音が聞こえた。
振り返ろうとしたルフィはそれを堪える。今の彼にできることはない。そう、思ってしまったから。
◇◇◇
煙幕が徐々に晴れていく中、スモーカーは息を切らして広場に立っていた。その体にはいくつもの傷があるが、これは全てルフィとの戦闘によってできたものだ。正体不明の剣士による傷は一つもない。
「……舐めた真似を」
吐き捨てるように呟く。スモーカーとてわざと攻撃を受ける気などない。だがそもそもあの剣士はこちらを斬るつもりがなかった。最初は気付かなかったが、何度かぶつかり合えば嫌でもわかる。
剣筋は鋭い。だが殺意はない。どうにもちぐはぐであったように思う。
今思えば時間稼ぎが目的だったのだろう。眼前の光景がそれを示している。
──打ち砕かれ、まるで爆弾でも落ちたかのように荒れ果てた石造りの広場。
たった一人の正体不明の男がやってのけたそれが、この戦いを終わらせたのだ。
「ご無事ですかスモーカーさん!」
広場の惨状へと視線を向けていたスモーカーの側へと、彼の副官であるたしぎが駆け寄ってくる。
「おれは大丈夫だ。負傷者は?」
「混乱の中で負傷者は出ましたが重傷者はいません。民間人も確認中ですが今のところは」
「そうか」
流石に訓練された海兵である。煙幕によって視界を奪われ、周囲で無数の銃声が鳴り響く中でもパニックにはならなかったようだ。
スモーカーは広場の一角へ視線を向ける。そこに転がっているのは“音貝”であった。
「銃声を記録するというのはその、あまり考えたことが」
「敵を殺すことが目的ならこんなことをする必要はねェ。普通に撃てばいいだけだ。つまりそうするつもりがなかったってことだ」
ふん、と鼻を鳴らすスモーカー。ルフィはともかく、その後から出て来た者たちはこの場の誰かをできるだけ傷つけないようにしたかったのだろう。
何者かはわからない。だがスモーカーは一瞬だけ見えた金髪の男に見覚えがある気がした。
(海賊じゃねェようだが)
つい先程の話だ。謎の二刀流剣士とスモーカー戦っていた途中で、突然凄まじい衝撃音が響いたのだ。思わず反応した瞬間に剣士は再び煙幕を周囲に展開し、スモーカーから離れようとした。
その剣士を追うために前に出たスモーカーは、煙幕の隙間からその男を目撃したのだ。
ゴーグルをつけたシルクハットを被った金髪の男。その男はしゃがみ込み、地面に両手の拳を当てていた。
何をしているのか、などと考える暇はなかった。スモーカーが判断を下す前にその男は行動を起こしていたのだ。
一瞬。ほんの一瞬だけ視線が交錯し。
──地面を揺らすような、凄まじい衝撃が駆け抜けた。
思わず後方へと飛び退いたスモーカーは、そうして謎の剣士と男を取り逃してしまった。
「…………」
ふう、と息を吐くスモーカー。葉巻の煙も同時に吐き出され、宙で揺れる。
「準備をしろ」
ゆっくりと歩き出しながらスモーカーは言う。だが彼の足が向かうのは港の方角ではなかった。
「あいつらはこの国を出るはずだ。今ならまだ探せば追いつける可能性がある」
言うと共に、スモーカーは地面に落ちている『それ』を拾い上げる。
それは、左耳の部分が砕けたヘッドフォンであった。スモーカー自身が砕いた、かつて戦友であった女性の持ち物である。
「…………」
乱暴というわけではなく、かといって慎重に扱うわけでもなく。当たり前のようにそれを手に取ったスモーカーは無言でそれを見つめていた。
そんな彼の胸中を慮ることはできない。故にたしぎも言葉を探していたのだが、そんなスモーカーの下へ別の海兵が走り寄ってきた。
「スモーカー少将! ヴェルゴ中将より入電です!」
視線でこちらへ来るようにスモーカーはその海兵に合図する。そうしてからたしぎへ視線を送ると、彼女も駆け出して行った。出港の準備のためだ。
それを見送り、受話器をスモーカーは受け取る。
「──スモーカーだ」
『簡単にだが報告は聞いている。……遅くなってすまない』
「あんたが謝ることじゃねェ。おれのミスだ」
通話相手のヴェルゴへとスモーカーはそう応じる。取り逃したことはスモーカーのミスだ。彼は彼の役目を果たしたに過ぎない。
『いやそうでもない。こちらでも少し想定外のことがあったためそちらに着くまで時間がかかる』
「何があった?」
『受け取った少し後に海賊船と会敵した。“リトル海賊団”だ』
「……あまり覚えのねェ海賊だな」
眉を顰めるスモーカー。ただ全く聞いたことがない名前ではない。どこで聞いたのか、と自身の記憶を探る彼にヴェルゴが続ける。
『キミにとって馴染みがないのも仕方がない。“新世界”の海賊だ。……更に言えば、“白ひげ”の傘下でもある』
「──“白ひげ”の?」
思わず問い返してしまう。生きる伝説、“白ひげ”。彼の“海賊王”とも渡り合った、嘘か真か世界を滅ぼす力を持つとされる男。
その男が率いる海賊団の影響力は絶大だ。しかし“白ひげ”の主なナワバリは“新世界”のはず。何故こんなところに傘下の海賊、それも本来は“新世界”にいるような者たちが。
「……例のニュースは本当だったってことか」
先日世界へ流れたニュースだ。最初に動き出した“赤髪のシャンクス”に続いて動きを見せた“百獣のカイドウ”と“ビッグ・マム”。そして“白ひげ”も動き出し、“四皇”が同時に全て動き出すという未曾有の事態になったというものである。
だが“白ひげ”だけは他とは違ってガセではないかという見方があった。動く理由がないだろうという考えである。そして事実、他の“四皇”と比べるとその動きが表に出てこなかったのだ。
しかしそれは目に見えていなかっただけであったということだろう。わざわざ傘下の海賊団が“新世界”からこんなところに来ているという事実。偶然とは思えない。
『こちらも見逃すわけにもいかなかったが、向こうが手早く退いたために取り逃した。ただ気になることがある』
「何があった?」
『私自身は確認していない。だが部下から報告があった。──“火拳”が乗っていたと』
流石のスモーカーもすぐには言葉を紡げなかった。“白ひげ海賊団”の二番隊隊長、“火拳のエース”といえば誰もが名を知る海賊だ。まだ年若い身でありながら“四皇”の最高幹部に相応しい実力を有する怪物。
ただ、“火拳”については元々前半の海で目撃証言があった海賊でもある。だがそれは単独行動であったはずだ。
「……どうなってやがる」
『狙いはあの二人か、それとも別か。……我々も急いでそちらに戻る。だがすぐには戻れない』
「わかっている。──おれたちはあの二人を追う」
言い切ると、スモーカーは受話器を置いた。そして彼は広場を振り返る。
海兵とこの国の兵士たちが住民たちの様子を確認していルところであった。今のところ多少の怪我人はいるが重傷者はおらず、大きな混乱もない。
スモーカーたちを率いていた“国務卿”は呆然とした様子で座り込んでいた。
(追うにしても何人かは残した方がいいだろうな)
この国の状況は未だ不安定なままだ。それを捨て置くことなどできないし、この荒れた広場についても放置はできない。
スモーカーは近くの海兵に目で合図をし、呼び寄せる。そして指示を出そうとしたところで。
「──これは一体どういうことか!!」
広場に、凄まじい声量による一括が響き渡った。スモーカーがそちらへと視線を向ける。そこにいたのは一人の大柄な初老の男だ。おそらく彼が声を上げたのだろう。
その隣には小柄な杖をついた男性がいる。その二人の姿を見て、住民たちや兵士たちの空気が変わった。
葉巻の煙を吐き出しながら、スモーカーはその二人を見つめている。
──この事態の終わりを、予感した。
◇◇◇
「この惨状はどういうことか、ご説明頂きたい。──“国務卿”殿」
大柄な男性はこの国の軍隊を預かる“将軍”であるらしい。その隣にいる男性は“先生”と呼ばれ、この辺りのまとめ役のようなことをしている人物であるとのことだ。その二人は座り込んでいた“国務卿”のところまで歩み寄り、そう言葉を紡いでいる。
住民たちは縋るような目で彼らを見ているし、兵士たちは居心地悪そうにしている。何とも重い空気だ。
ちなみにスモーカーにこのことを告げたのは負傷したCPの諜報員だ。彼は住民たちに紛れ込み、この国の状況をずっと探っていたらしい。おそらく“国務卿”が動いたのもこの諜報員からの情報によるものなのだろう、とスモーカーは内心で思った。
ちなみにスモーカーは知らないがルフィに海楼石の弾丸を撃ち込んだのはこの諜報員であるし、その後にイルによって吹き飛ばされた後少しの間気を失っていたらしい。
色々と言いたいこともあるが負傷している相手である。部下たちに諜報員の手当ての指示を出すと、スモーカーもまたその三人のところに歩み寄る。
「──“麦わらのルフィ”が現れた」
項垂れた状態の“国務卿”は“将軍”と“先生”が眼前に来ても顔を上げないままだ。故にスモーカーが状況を告げる。
「……貴殿は?」
腹に響く声であった。“将軍”のその問いに対し、スモーカーは頷いて応じる。
「海軍本部少将、スモーカーだ。……この広場については“麦わらのルフィ”と正体不明の襲撃者とおれたちの戦闘によるものだ」
簡潔に状況を説明する。成程、と“将軍”は頷いた。
「して、その者たちは?」
「現在逃亡中だ。これからおれたちで追撃する。……ここにも何人かは残すつもりだが」
チラリと慌ただしく駆け回っている部下たちへとスモーカーは視線を送る。承知した、と“将軍”が頷いた。
「つまりこの事態はその“麦わら”が起こしたということか?」
「……確証はないが」
問いに対し、スモーカーは曖昧に頷く。状況証拠だけで言えば“麦わらのルフィ”が住民たちを扇動し、この事態に至ったというのが正しい味方だ。住民たちは彼を“救世主”と呼び、そして彼はそんな住民たちを守るためにわざわざその身を晒したのだから。
そう、目の前にあった事実から考えればそれが正しい。しかしどうしてもスモーカーは納得できない。彼をよく知っているからこそ、『こういうこと』をする人間ではないと知っているのだ。
「──何が、確証だ」
不意に、吐き捨てるような声が聞こえた。
「どこまで……どこまでお前らは!!」
続いて、怒鳴り散らすような声。
その声の主は、先程まで項垂れていた“国務卿”であった。彼は顔を上げ、憤怒に染まった瞳で“将軍”と“先生”を睨み据えている。
そんな彼に対し、スモーカーと向き合っていた“将軍”が言葉を紡ぐ。
「“国務卿”殿、冷静に」
「何を白々しい!! お前の隣にいる奴が黒幕だろうが!! 調べはついてんだよ!! 何が“麦わらのルフィ”だ!! こいつらをまとめてたのはあんただろうが!!」
立ち上がり、“先生”に掴み掛かろうとする“国務卿”。それを間に割って入ることで“将軍”が止めた。
「言葉には気をつけた方がいい。あなたの立場で確証のないことを語るべきではない」
「確証!? 何が確証だ!! そいつがおれたちを恨んでることなんざこの国中の人間が知ってるだろうが!!」
腕で遮られた“国務卿”が“将軍”へと怒鳴りつける。スモーカーはただ黙し、状況を見守っていた。他の海兵たちも兵士たちも、住民たちでさえも何も言えずに黙り込んでいる。
「そいつの息子は!! あいつは“天竜人”に殺された!! だからおれたちを恨んでんだろうが!! この国を!! 世界政府を!! だからこいつらを扇動して国を潰そうとしたんだろうが!!」
スモーカーの眉が跳ねた。しかし、その荒れ狂う言葉の嵐を叩きつけられている“先生”は黙したままだ。
「だから祭り上げたんだろ!? そりゃそうだ!! あんたにとっちゃ“救世主”だ!! 自分にできなかったことをやってのけた“英雄”様だからな!!」
「──“国務卿”殿」
怒鳴り散らす“国務卿”の肩を掴む“将軍”。その言葉には重い響きが込められていた。
「それ以上はあなたの品位も損ねることになりますぞ」
「品位!? そんなもんでこの国を守れるか!? 何もわかってないのはお前もだ!!」
ふざけんなよ、と“国務卿”は“将軍”へと怒鳴りつける。
「生活が苦しいだの!! 兵士の家族がどうだのと!! 毎日毎日国王に向かって偉そうにほざきやがって!! 今のこの国の窮状を作ったのはお前らだろうが!!」
そこで一度、“国務卿”は言葉を切った。スモーカーは黙したまま万が一に備えているし、“将軍”も“先生”も彼の言葉を待っている。住民たちもまた彼へと注目していた。
息を切らす“国務卿”は一度大きく深呼吸をした。そして右手で頭を抱えるようにしながら、吐き捨てるように言葉を続ける。
「……資源がなくなるなんてのはな、先王の時からわかってたんだよ」
まるで今にも泣きそうな声であった。誰もが彼へと視線を送り、言葉を待っている。
「この国は資源があったから発展してきたし豊かだった。それがなくなればどうなる? 冗談ではなく、国が滅びる。なんならもっと酷いことになる。だから先王は資金がある内に色んな事業を始めた。……どれもこれも失敗したがな」
当たり前の話だ、と自嘲するように“国務卿”は言う。
「資源が尽きることを知ってんのは一部の人間だけだ。知らないから危機感なんてあるわけがないし、新規事業なんてのはいきなり儲かるもんじゃない。案の定事業は失敗だ。当たり前だな。目の前に鉱山って儲かる働き口があるのに、成功するかどうかもわからないような場所で働きたい奴がいるかって話だ。……残ったのは負債だけを抱えて失敗した事業の山。その処理で金がなくなり、そこへ追い打ちのような資源の枯渇だ」
笑わせんなよ、と“国務卿”は言う。
「税金が重い? 生活が苦しい?──そうならないようにしようとした全てを否定したのはお前ら自身だろうが!! 挙げ句“救世主”だと!? どこまで愚かなんだ!!」
成程、とスモーカーはそこで得心がいった。
この場で住民たちを前に“国務卿”は言っていたのだ。
“貴様らに自ら考えて立ち上がるような気概はない”
軽蔑するように。
“誰かの言葉に従うことしかできない。それでいて必要なことはしないのがお前らだ”
吐き捨てるように。
その時点で彼はきっと、この国の者たちを『そういうもの』だと受け入れていたのだ。
「縋ることしかできないなら何故国王へ!! おれたちの王に縋らない!? 誰よりもお前らを救おうとしたのは国王だ!! それを悪王だと!? 先王の方がよかっただと!? ふざけんのも大概にしやがれ!!」
それは怒りの発露であった。この場にいる住民たちを、彼が言う『何もしなかった者たち』を糾弾する言葉。
「……それが事実であるというならば。その事情を表に出せば」
「あんたやっぱり政治は駄目なんだな。国王の言う通りだ」
その怒りの発露に対して言葉を紡いだのは“将軍”だ。しかし、そんな彼に対して軽蔑するように“国務卿”は言う。
「出せるわけないだろ。資源がなくなるなんて情報を大々的に広げたらこの国は本格的に終わってしまう。他の国や世界政府からしたら金もまともに稼げなくなった国なんざいい狩場だ。国なんてのは足元見られた時点で終わりなんだよ。だからそうなる前に別の稼ぎ口を見つけなきゃならなかった」
全部ご破算だよ、と“国務卿”は言う。
「この場に海軍がいるってことはこの国の状況を世界政府に完全に知られたってことだ。そうなりゃ金の借り入れもできなくなるだろう。先の見えない国相手に優しくしてくれる国はない。泥舟ってのは見捨てるのが正しい選択だ。おれだってそうするさ。……詰んだんだよ、もう」
ちくしょう、と呟き、“国務卿”が座り込む。空気が重い。誰もが言葉を発せぬまま、座り込んだ彼を見つめている。
皆混乱していた。当たり前だ。『悪いのは国王であり国』、『今の状況を変えるためには革命しかない』と、そんな風に誰もが考えていたのだ。しかし今“国務卿”が暴露したのはそんな単純な話で決着がつくようなことではないという真実である。
そんな空気を察したのだろう。自嘲するような笑みと共に、大体、と“国務卿”が言葉を零す。
「なんでこんなに若いおれみたいな奴が“国務卿”なんてやってると思ってるんだ? どいつもこいつも逃げたからだよ。事業失敗して負債だけを残した奴らは全員逃げたんだ。他国かあの世かは知らないがな。どうでもいい」
目の前の現実が、文字通り“反転”してしまった。
彼らは思っていたのだ。この目の前にいる男は、“国務卿”は自分達を苦しめる国王の部下で。それをどうにかできれば明るい明日が来るのだと。
だがそれは真実ではなかった。目の前の男は彼が言う『詰んだ』状況でもどうにかしようとしていた、むしろ足掻いていた側の人間。苦しんでいた側の人間であり、そしてそれは国王もまた同じだったのだろう。
──足場が、揺らぐ。
自分達の理由。立ち上がった根拠。その全てが根本から覆されていく。
住民も、兵士たちも。知らずその場に座り込む者たちも現れ始めた。それはきっと、現実を理解した者たちからだった。
感情は伝播する。
重苦しいその感情を──人は、“絶望”と呼ぶのではなかったか。
「まだだ」
だが、一人だけ。
杖をつく、その男だけがまだ立っていた。
「我々はまだ生きている。……すまなかった。あの子の友人であったキミたちを、もっと信じるべきだったのだろう」
言葉を紡いだのは“先生”だ。誰もがまるで縋るようにその姿を見つめている。
だが一人。憎悪さえも籠った瞳を向ける男がいた。
「そんな言葉になんの意味がある!?」
「──まだ生きている」
その怒声に対し、“先生”はあくまでその言葉を繰り返した。
「キミの言うように遅いのかもしれない。だがまだ我々は生きている。ならばまだ何もかもを投げ出し、諦めるのは早いだろう」
張り上げるような声ではなく、静かな口調。問いかけるようなその言葉が、周囲へと伝播する。
「私を含め、我々はようやくキミたちの──陛下の想いを知った。ならば次は大丈夫だ。苦しいかもしれない。辛いかもしれない。報われないかもしれない。だがそれでも、並んで同じ方角を向くことはできる」
「もう無理だ。時間がない」
「時間はある。……我々はそれを貰ったのだ」
誰からなのかは、きっと口にする必要はなかった。
もっと酷い結末もあり得たこの事態。それがこの国の民に死傷者が出ない形で収まったのは間違いなく『首謀者』のおかげだろう。
「どこまでも浅ましい理解であるのだろう。だが我々はどうしようもなく間違える前にこうして向き合えた。ならばそうすることがきっと、あの献身への報いであるはずだ」
その言葉の意味がわかる者はそう多くないだろう。彼がいうどうしようもない間違い──それはあの“英雄”によって止められた、自己犠牲の果てに起こっていたであろう一つの悲劇。
だがそうはならなかった。だからこそ彼はここで立っている。
「いいのかよ。あんたは、それで」
俯き、そう言葉を紡ぐ“国務卿”。対し、“先生”が頷く。
「それがきっと、我々の償いであり責務だ」
「そうじゃない」
そうじゃないだろう、と首を振って“国務卿”は言う。
「あいつのことは。あんたの息子のことはいいのか? 恨んでるんじゃないのか?」
「恨むものか。あの子が愛した国だ。……だから私はこうしている」
それがきっと、彼が立ち上がろうとした理由なのだ。そこには復讐の意思も憎悪の感情もない。正しく想う気持ちだけがある。
何かを言おうとした“国務卿”が、終ぞ何も言えずに項垂れる。それをしばらく見つめていた“先生”であったが、彼は一度目を閉じると成り行きを見守っていたスモーカーの方へと振り返った。
「少将殿。今回の件については」
「──おれたちは国の政治に介入するつもりはない。革命についての沙汰はその国の法で決着をつけるべきだろう」
言い切る。そもそも海軍はあくまで軍隊であり、政治家ではない。組織として国への影響力はあるがそれを積極的に使うことはできるだけ避けているし、そうするべきだろう。
「だが首謀者である“麦わらのルフィ”については別だ。後日調査はさせてもらう」
「……ええ」
頷く“先生”。その瞳に宿る強い意志を受け、スモーカーは小さく息を吐いた。
実際に起こっていたこと、起ころうとしていたことの想像はできる。そしてそれはきっと真実であるが、しかし証拠がないのもまた現実。そして何より、スモーカーの中にある『何か』がそれを真実とすることを是とした。
それは、“情”であったのだろうか。
それとも、世界を敵に回しながらもその在り方を曲げず、“正義”を背負った彼への“敬意”であったのだろうか。スモーカー自身にもわからなかった。
「おれたちは今回の件の首謀者を追う」
改めての宣言。それが一つの決着となる。
そこへ。
「スモーカーさん! 報告が!」
こちらへと走り寄ってくる海兵──たしぎの声がした。スモーカーはそちらへ視線を向けると、たしぎの方へと歩いていく。
その、背中に。
「──我々は、いつか罰を受けるのでしょう」
まるで懺悔のような、そんな言葉が聞こえた。
スモーカーは足を止めない。その言葉は、聞こえなかったことにした。
「準備は終わったか?」
「それが何故か船底から舵が破壊されていまして……! 出港できません!」
「なんだと?」
どういうことだ、とスモーカーは問う。
「船には見張りもいたはずだろう」
「それが誰も気付かないうちに破壊されていたようで……」
慌てた様子のたしぎ。ルフィたちかと思ったが、すぐに違うと思い直す。そんなことをする余裕はなかっただろう。
ならばあの正体不明の襲撃者たちがやったというのが妥当か。だがどうやって?
(想定よりも厄介な奴らのようだな)
手段は不明。だが目の前に実績があるなら受け入れるしかない。
これだけのことができる者たちとなると限られてくる。スモーカーの予想が正しいのであれば、あの二人を助ける行動を取ったのも理解できるのだ。
「基地へ連絡を入れろ。こちらに代わりの軍艦を回すように言え。同時に周辺の捜索だ。そう遠くには行ってねェだろう」
「は、はい!」
そしてたしぎが走り出す。それを見送り、スモーカーはふと広場を見た。
「…………」
今更ながら、戦いの傷が痛む。鍛錬で戦うことはあったが、本気でやり合ったことはなかった。まさかこんな形で戦うことになるとは。
互いにまだ戦える状況であった。決着は着いていない。そしてあの二人が賞金首である以上、対峙すればスモーカーは再び戦うことになるだろう。それが海兵というものであるのだから当然だ。
ただ、やはり。
気分がいいものではないのは、確かで。
「馬鹿野郎が」
呟いたその言葉に込められた感情は、どんなものであったのだろうか。
◇◇◇
何を間違えたのだろうか。
あの国に残り、見届けることを選んだことか?
それとも、あの国を訪れたことか?
いや、もしくは。
──見捨てなかったことか?
「違う」
とてつもない自己嫌悪と無力感の中、青年が呟いた。
選択は間違っていない。だってそうなのだ。自分の望みは彼女の“笑顔”であり、幸せになって欲しいというそれだけのもの。しかしだからこそあの選択をしたのだ。
見届けず、早々に離れたとして。
彼らを見捨て、背を向けたとして。
きっとその後に、彼女は笑えなくなってしまう。
だから間違いじゃない。そうだ、選択は間違っていなかった。ならば何を間違えた──いや、違う。
──何が、悪かった?
一体誰が。
一体何が。
彼女を。
誰よりも大切な人を、傷つけた?
「……おれが、弱いからだ」
あの時、彼女が──ウタが来ていることに気付いていれば。
あの時、こちらを狙う銃口に気付いていれば。
──あの戦場の全てを、把握していれば。
傷つけることはなかった。守れたはずだ。
こんなことには、ならなかったはずだから。
「今のおれじゃ足りねェ」
海を往く船の上。“英雄”と呼ばれた青年は渇望する。
全てを把握する力。何も見落とさない力。戦場の全てを把握し、絶対に傷つけないために。
手本ならある。“神”を名乗り、恐怖で空島を支配していた怪物。あの男はその“見聞色の覇気”で島全体を把握していた。
不可能ではないのだ。全てを把握し、知覚し、そして。
──“未来”さえも。
この力の先にはそれがある。それを掴むことができるなら。
きっともう、彼女を傷つけることはないはずだ。
「────」
かつて“英雄”と呼ばれた青年は、力を求める。
それは大切な人を守るため。そのために彼は限界さえも超えようとしていた。
その先に待つのは、祝福か。
或いは、破滅か。
ただきっと、彼はこの時に決めたのだろう。
──自分の命の、使い方を。
決着回です。かなり長くなってしまいました。
ちなみに今回のテーマは『悪い人はいたのか?』であり、今の二人にはかつてのように全てを万事解決するだけの力がなく、それでも助けられる誰かを見捨てられないという矜持が残っている。そんなお話です。
後はまあ、逃亡編で最初に失うものとしてのウタのヘッドフォンであったりかつての戦友であったり、そして今のままでは駄目だという無力感であったり。ここで踏み間違えると取り返しのつかないことになりそうですね。
この概念における逃亡編って色んなすれ違いも一つの魅力だと個人的には思っているので、今回の二人とスモーカーたち海軍、表向きの事実と裏の真実、そしてサボたち別勢力との絡み。この国についてはその事情の根底にもすれ違いがありました。
再び二人は海へと逃亡します。
次回は決意のお話とか書きたいな、と。