プロローグ③
偉大なる航路を往くのは一つの船団であった。複数の商会が島同士の交易を行う際によく行う手法であり、場合によっては海軍の軍艦が護衛につくこともある。ただ今回の場合は海軍の軍艦ではなく、商会が手配した傭兵やお抱えの私兵たちによる護衛船団があった。
この海を渡ることは想像以上にリスクが高い。ただでさえ危険な海だというのに海賊という無法者までいるのだ。島同士、国同士の交易のハードルは非常に高いのも道理である。
だがそこに商機を見出すのもまた商人という生き物だ。かつては個人として活動することの多かった彼らは徒党を組み、多くのグループを形成した。数というのはいつの時代においても大きな力である。そうして安全を確保し、幾つもの国を繋ぐ航路を開拓したのだ。
実績ができれば続く者も増えてくる。当初は商人たちと一部の国で始まったその取り組みは世界政府も巻き込み、今や世界のスタンダートだ。国と国を繋ぐ交易は今や一つの船団を形成して行うのが当たり前である。“大海賊時代”と呼ばれる今の時代、この手法をとらない者はいないと言ってもいいくらいであり、そうでない場合も近くの島へ渡る時くらいだろう。
そして商人というのはどこまでも貪欲な生き物でもある。彼らは物以外の商売を考えついた。それが『旅行』であり、『人を運ぶ』というサービスだ。物を運ぶついでに人を運ぶ。この時代においても商人というのは実に逞しかった。
「……はあ……」
何度目のため息だろうか。数えているわけではないが、既に百を超えてしまっているような気がする。
ため息を溢すのは、金髪の若い女性であった。名をオリン。様々な事情によって世界に名を知られる若い海兵である。しかし今の彼女は“正義”の刻まれたコートを羽織っておらず、完全に私服だ。本人は自覚がないがかっちりと着込んだ服装であり、露出はほとんどない。
そんな彼女へ、背後から声をかける姿がある。
「ため息を吐くと幸せが逃げるそうだ」
小さな苦笑を浮かべてそんなことを言うのは、朱色のミディアムヘアーの女性であった。こちらも随分と若い。こちらの女性は半袖にショートパンツという出立ちであり、オリンとは対照的とも言える格好である。
「イスカ大尉」
その女性の名はイスカという。海軍本部の大尉であり、“釘打ちのイスカ”と呼ばれる武闘派海兵だ。まだ年若い身でありながらその実力は確かであり、オリンが以前所属していた部隊でも何度となく任務を共にしたことがある。
今や世界を敵に回してしまったかつての上司である人物のうちの一人とオリン。スモーカー少将の副官であるたしぎと共に四人で交流を持つ間柄であった。
「任務が憂鬱か?」
こちらの隣に立ちながら言うイスカ。こちらを気遣うようなその言葉に対し、オリンは小さく頷く。
「少しだけ。……元いた部隊でやっていたことに比べると、随分穏やかなはずなんですけど」
「まあそれはそうだろうが……」
イスカもそれには思い当たることがあるのだろう。苦笑と共に同意を返してきた。彼女もまたあの二人の引き起こすトラブルについては経験済みなのだから当たり前かもしれないが。
数秒、沈黙が流れる。互いに並んで視線を水平線へと向けていた。
「コートを着ないのも、そのため息と同じ理由か?」
不意にイスカがそんなことを口にした。オリンは即答せず、一度目を閉じた。
将校以上の階級になると着用を許されるのが“正義”の文字が背中に刻まれたコートだ。それは一つの象徴であり、それを着ることを目標にする海兵も大勢いる。
イスカとオリンは共に大尉の階級にある。それはコートを着ることを許される立場であるが、今の二人はコートを着ていない。下手に目立たないためであるし、必要がないからだ。故に周囲からは若い女性二人の旅行客くらいにしか思われていないだろう。
「どう、でしょうか」
最後にあのコートを着たのはいつだったのだろうかと、そんなことをオリンは思う。
……わかっている。あの日だ。あの人たちを海へと送り出した日。世界の全てが反転してしまった日から、あのコートを着れなくなった。
──オリンの“正義”は、その姿を眩ましてしまったのだ。
「必要なかったのもあります。私の任務はメルヴィユの管理と開拓でしたし」
彼の“金獅子のシキ”が引き起こした戦争の結果としてマリンフォードの近くへと落ちた島、メルヴィユ。成り行きを考えると当然であるがその島はそもそもから存在すら知られておらず、更に言うと長い間シキの支配下にあったために国と呼べるものさえも存在しなかった。
だがその島には強力な力を持つ猛獣が多数存在していたし、数はそう多くないが原住民もいた。
文字通り降って湧いてきた未開の地。そこにどんな資源が、利益があるのか──加盟国は様々な反応を見せた。そこに危惧を抱いたのが“五老星”である。新たな土地を求めて争うことを嫌い、大きな動きが出る前にその管理を海軍本部に任せる決定を下した。
海軍とは強大な力を持つ組織であるが世界政府の一機関でもある。危険な猛獣のいる島であること、マリンフォードの近くに落ちた島であるということを考えるとそれが妥協点としては最適であった。
そして様々な取り決めがなされ、今ではメルヴィユの住民がマリンフォードへ訪れる機会も増えている。当初はオリンも個人的に訪れることはあっても任務として関わることはなかった。しかしあの大事件が起こり、“神への大逆人”となった二人の副官であった彼女の立場は複雑なものになってしまう。
彼女自身に罪はない。だがそんな『事実』だけで納得できるのであれば世界はもっと単純だ。そしてそうした様々な思惑のの結果が“メルヴィユの管理官”という役職であった。
「管理官といっても住民の方と一緒になって色々なことをするだけでしたが」
「だが随分と発展したと聞いているぞ」
「私の力なんて本当に僅かですよ。……皆さんが頑張ったからです」
オリンはこう言っているが、最初にメルヴィユの原住民と接触した海兵の一人であるという事実はかなり意味のあるものであった。海軍が味方とは知っていても彼女以外の管理官は見知らぬ人間ばかりだ。必然住民たちはオリンを頼りにするし、他の管理官たちもオリンに仲介を頼むようになる。
そのため当初は地獄のような忙しさであった。朝から晩まであちこちを走り回り、夜には泥のように眠る。だがそれが救いであったのも事実だ。時間があればどうしても考えてしまうから。
「ようやく目処が立ってきたところでこの任務なので少し……思うところはありますが」
そして他の管理官と住民たちの間の信頼関係も構築され、海軍という組織に対しても好意的になった頃。彼女に一つの任務が命じられた。
“お前に特使を任せたい”
現在の直属の上司である海軍本部元帥、センゴクはそう告げた。そうして託されたのは一通の厳重に封のされた手紙である。
託された際に聞き及んだ内容が事実であるならば、手紙の内容そのものに特異なものはない。当たり前の提案であった。だがそれをオリンという海兵に任せたことに意味がある。
「……私は政治というものが得意ではない。だがそれでもお前がこの任務を与えられた理由は察することができる」
腕を組んで言うイスカ。だがそれは当たり前だ。誰もが『察する』ことができるから、オリンがこの任務についたのだから。
こちらに気を遣っているイスカに対し、オリンは小さく笑みを返す。
「世論が割れている今、海軍としてはメッセージを出したいはずです。秩序を守る立場である海軍としての“正義”に揺らぎはないのだと、そんな言葉を」
言うのは簡単だが、実現は難しい。だからわかりやすい行動で示すことにした。そしてそれを実行する役目を与えられたのがオリンである。
「しかしただ言葉を発しただけでは反発を受けます。だから実際に行動して伝えるんです」
「そのために必要なのが、あの二人の『副官』であったお前だと?」
「実際はわかりませんが……客観的に見て、誰よりもあの二人の側にいた人間が世界政府と海軍の下で従順に従っているという事実は意味を持ちます」
結局のところ、世論が割れている理由は酷く単純なものなのだ。
──“天竜人”に愛する者を奪われそうになり、逆らった。その事実は“悪”なのか?
元々良くは思われていないのが“天竜人”という存在である。そこにこんな事件が起こり、そしてそれが個人に留まらないとなればその感情は伝播していく。
海軍としても非常に難しい状況ではあった。世界政府の一機関であり、大将に至っては“天竜人”の直属でもある。故にあの二人のことを“悪”と断ずるのは既定路線だ。しかしその示し方が問題になる。下手に堂々と宣言でもすれば余計な反感を買うことになるだろう。
故に言葉ではなく行動で。それが海軍の選んだ手段であった。
「まるで生贄だな」
「言い得て妙ですね」
憤りさえ感じさせる呟きのイスカに対し、小さく笑って応じるオリン。いいのか、とイスカはオリンに対して言葉を紡いだ。
「お前の“正義”はそれを許すのか?」
「許すも何も」
微笑。オリンは水平線へと視線を向ける。
「ここで辞める程度の覚悟なら、私はあの日に海軍から抜けています」
あの日、と言うのがどの日のことであるのか。イスカにもそれはわかった。彼女は一度息を吐くと、まるで独白のように言葉を紡ぐ。
「私は、ずっと迷っている」
オリンがこの特使という任務を与えられたのを聞きつけ、同行を願ったのはイスカだ。その理由については聞いていない。だが心強いのは確かである。
優しさなのだろうとオリンは思っていた。真面目で、実直で、そしてとても優しい。それがイスカという海兵であると知っているから。
「海賊によって家族を失う子供を増やしたくない。そのために海兵になった。それを間違いだとは思っていない。事実そうして救えたものはいくつもある。だが……どうしても割り切れない」
イスカが自分の右手へと視線を送る。手袋の下から覗くのは火傷の跡だ。それがきっと彼女の理由なのだろう。
「ままならんな、世界というのは」
正義か、悪か。
良いか、悪いか。
そんなことで割り切ることができたなら、世界はどれほど美しいものなのだろう。
そんなことを……ふと、思う。
「────」
二人で並び、無言で海を眺める。
海というのは平等だ。誰にとっても。
誰にとっても優しく、同時に厳しい。
知らず、両手を合わせてしまう。
(どうか)
この海のどこかにいるはずの、あの人たちが。
無事で、ありますように──……
「すみません」
祈りを捧げ、手を解いた時であった。この商船の船員が声をかけてきたのだ。
筋骨隆々、という表現が的確に思える男であった。海兵の中に紛れていても違和感はないだろう。元々海の人間は必然的に体格が良くなっていくが、他の船員と比べてもその男の体格は随分といい。
「オリン様でございますね」
「はい」
頷きを返す。無骨な雰囲気のその男は丁寧に言葉を紡いだ。
「どうかこちらへ」
ただ、丁寧でありながら有無を言わさぬ口調であった。オリンはイスカと顔を見合わせると、頷きを返す。
何かあったのだろうか──そんな疑問は、数分後に解決することになる。
…………。
……………………。
………………………………。
今回の商船団におけるリーダー役を務める商会。その長は元海兵の女性であると聞いていた。その経緯もあって海軍の取引の一端を担い、規模を大きくしたのだとも。
海兵としては名の通った人物ではなかったが、商人としての彼女はそれなりに名の通った人物だ。共に商会を立ち上げたというこちらも元海兵の男と共にこの海を渡っているのだから並の人物であるはずがない。
そして商人というのは規律について厳格だ。勘違いされやすいが彼らは何よりもルールを重んじる。何故ならルールを破るとそれが弱みになり、そしてそれは商売に影響するからだ。だからこそ『ルールの穴をつく』などという言葉が彼らに対しては使われるわけではあるが。
まあ、それはともかく。
規律について厳格であるということは、逆に言えば彼らが定めるルールの内にいる間であれば揉めることがないということである。だが逆に言えばルールを逸脱した際に揉めるということでもある。
「あ、お姉ちゃん!」
「クオッ!」
──今回のように。
「…………」
頭を抱え、その場に膝をつきたくなるのをオリンは堪えた。その隣ではイスカが状況を察したのかなんとも言えない表情をしている。
そこにいたのは一人の赤毛の少女と巨大な黄色い体毛の鳥であった。少女は立った状態でこちらに手を振っており、その隣で鳥の方は大人しく座っている。
シャオとビリー。“金獅子のシキ”がかつて支配していた島、メルヴィユに住む少女と鳥である。あの戦いの中でオリンたちが最初に出会った原住民であり、ビリーについてはあの戦いにおいて自分たちを助けてくれたという経過もあった。
メルヴィユの管理官であるオリンとは毎日顔を合わせる相手でもある。そしてだからこそ、ここにいる理由がわからない。彼女たちはメルヴィユにいるはずなのだ。
「どうしてここに……?」
「追いかけてきたの!」
こちらへ走り寄ってきたシャオが満面の笑みで言い、何とも言えない表情を浮かべるオリン。その隣でイスカは肩に入れていた力を抜くと黙り込んだ。こちらに任せるつもりなのだろう。まあ当たり前だ。彼女はシャオと面識がない。
どうしたものか、と思うオリン。そこへ一つの声がかかる。
「──確認は取れたみたいだね」
近くにいた数名の船員たち──おそらく作業員だ──に右手で散るように合図をしながらそう言葉を紡いだのは一人の女性であった。合図を受けて男たちが一礼と共に立ち去っていき、オリンたちを案内した巨漢の男性だけがこの場に残る。
その女性は特徴的な容姿をしていた。ウェーブを描く褐色の髪は顔の左半分を覆っており、窺える右目は鋭い光を宿している。口に咥えた煙管からは揺らめく煙が漏れており、また、オリンの見立てが間違っていなければローブに隠れた左腕の部分に膨らみがない。おそらく隻腕なのだろう。
雰囲気でわかる。話にしか聞いていないが、この女性がこの商会の長でありこの船団の責任者だ。
「この子があんたの名前を出したから呼んだんだ。倉庫の隅に隠れてたのを見つけてね」
「…………」
女性の背後に控えるように立っていた巨漢の男が一礼した。おそらく見つけたのは彼だと言うことなのだろう。
「密航者ってのはこの手の航海には付き物だ。とはいえ許されることじゃない。見つけた以上罰を与えるなり海に突き落とすなりなかったことにするなり……まあ、相応の対処は必要だ」
「それは」
「それがルールさ。私が定めたこの航海における規律。あんたのことは知ってるよ? あの“金獅子”が起こした戦争の“英雄”が一人。そんな人間なら船上における規律の重要性は知ってるだろう?」
こちらを貫くような視線であった。だが彼女の言うことは正しい。海の上の船内というのは一つの隔離空間だ。そして帆船というのは多くの者たちの連携によって成り立っている。規律を乱す者がいれば沈んでしまう可能性さえもあるほどに。
密航者というのはその規律を乱す最たるものだ。船員が把握していない船上の人間などトラブルしか起こらない。
「ただまあ、あんたの連れだってんなら話は別さ。この子の年齢を考えると保護者ってのが必要だからね」
言いつつ、女性がシャオと目線を合わせるようにしてしゃがみ込む。お嬢ちゃん、と心なしか穏やかな口調で女性が言葉を紡いだ。
「この際どうやって乗り込んだかについては後回しだ。ただ、この船に乗るにはお金が必要なんだ。お金は持っているかい?」
「あの」
言いかけたオリンを女性が右手で制した。えっと、とシャオが肩から下げていた小さな鞄の中を漁る。
「お手伝いして貯めたの」
シャオが両手でお金を差し出す。だがそれは正しくお小遣いという程度のものでとても足りない額であった。
それを一度見つめた女性は、その後シャオの目の方へと視線を向ける。そして小さく笑みを浮かべた。
「次からは乗る前にちゃんと払うんだよ?」
そう言うと、女性は二枚の硬貨を手に取った。百ベリー硬貨を二枚。それらを指で挟むようにして受け取ると、しゃがみ込んでいた状態からゆっくりと立ち上がる。
「それがルールだ。わかったね、お嬢ちゃん?」
「うん!」
「クオッ!」
どうやらそれが決着となったようだった。それを見てとると、女性はオリンとイスカの方へと視線を向ける。
「狭いかもしれないがあんたたちの部屋で過ごしてもらうよ。その大きな鳥については別に場所を用意する。衛生面のこともあるしね」
「すみません」
頭を下げるオリンとイスカ。本来密航者というのはどういう扱いを受けてもおかしくないような存在である。それをまさか、こうまで穏便に済ませてくれるとは。
「あの、お金は」
「もらったからもういいよ。ああ、食事については別料金だけどね」
その言葉に対し、もう一度頭を下げるオリン。女性は言葉を続けた。
「“十人の英雄”のうちの一人と“釘打ち”に恩を売れるなら悪くないさ。……それに、これは個人的な話だけどね。こういう無謀というか無鉄砲というか、そういう子供を見ると思い出す。私たちはそういう子供に命を救われたんだ」
その時の瞳は、とても柔らかい光を宿していた。だがそれも一瞬のことだ。
「まあでも、保護者ならちゃんと教育しておかないとね。その子が将来恥をかくだけだ」
そんな言葉を残し、女性が男と共に立ち去っていく。それを見送り、もう一度オリンは頭を下げた。そうして見送った後に彼女はシャオの方へと向き直る。
「シャオ、どうしてこんなこと」
「だって」
小さな手を握り締め、シャオが言った。
「──お姉ちゃんも帰って来なくなるって」
咄嗟に言葉を返せなかった。お姉ちゃんも──彼女が言う、先に帰ってこなくなってしまった人たちが誰であるかなど確認する必要はない。
そんなことはない、と言おうとしてオリンは言えなかった。何かを言わなければならないのに、言葉が出てこない。
数秒、そんな時間が流れた。そこへ。
「はじめまして」
見かねたイスカが助け舟を出してくれた。彼女はしゃがみ込むと、シャオの方へとその手を差し出す。
「私はイスカ。海兵だ。船に潜り込むとは大胆なことをする」
「はじめまして! 私はシャオ! こっちはビリー!」
「クオッ!」
イスカに対し、元気よく応じるシャオとビリー。その一人と一羽に対し、呆れたように言葉を紡いだ。
「勇気は認めるが、それは一歩間違えると無謀だ。あまり無茶をするなよ」
どこぞの体を炎に変化させる男が聞けば「どの口が」と言いそうな台詞を口にするイスカ。そんな光景をぼんやりと見つめながら、オリンはシャオの言葉を反芻する。
“お姉ちゃんも帰ってこなくなるって”
それは確かに選択肢の一つであった。何ならそれを勧められたくらいなのだ。
この任務を任された時、センゴク元帥は彼女にこう告げたのだから。
“私は個人の選択を尊重したい。お前はまだ若いんだ。ここで人生を決めるのは早いのではないか?”
それはきっと、海軍本部元帥としての言葉ではないのだろう。しかし部下の未来を想う言葉ではあった。
自分の役目。やるべきこと。やりたいこと。できること。
何よりも──“正義”。
その全てを見失いつつある自分が、海軍という組織に居続ける意味は何だというのだろう?
まるで暗闇の中にいるかのようだ。
一寸先も見えない闇。かつてはこの暗闇を照らしてくれた人たちがいたのに──……
「もし、お嬢さん」
底なしの闇へと落ちかけた思考が、その声によって引き戻された。見れば一人の男性が遠慮がちに声をかけていたところであった。
ローブに包まれた体格はわかりにくいが随分としっかりしている。だが威圧感はない。何より──
(目が……)
その男性は目が見えていないようであった。両の瞳に光はなく、更に額から頬にかけてバツを描くように傷が走っている。白杖を持っていることからも見えないことは間違いないのだろう。
「あ、はい。どうされましたか?」
反射的にそう応じたのはある種の職業病だろう。そんなオリンに対し、いやァ、とその男性は申し訳なさそうに言う。
「甲板に上がりてェんですが、迷ってしまったようで」
「ああ、成程。ややこしいですもんね。あっちの──あ、えっと、右手失礼しますね」
当たり前のように方向を示そうとして、相手が盲目であることに思い至る。一声をかけるとともに優しくその男性の右手を取る。
「あちらの方向に階段があるので、それを上がっていけば甲板につきますよ。あの、よろしければ同行しましょうか?」
「いやいや、そこまで手を煩わせるわけにはいきやせん。ありがとうございます、お嬢さん」
そう言ってこちらの提案を遠慮する男性。彼がこう言った以上、無理に同行するわけにもいかないだろう。
「お気をつけて」
「ええ、ありがとうございます」
そして男性が背を向けて歩き出す。だが男性はふとこちらを振り返った。
「いやしかし、珍しい生き物もいるもんだ。世界にはそんな鳥がいるんですねェ」
世間話のように言い残し、男は立ち去って行った。
──違和感。
ただの会話だけを考えればそうおかしなことではない。誰でもビリーを見ればまず驚く。巨大な鳥というものは確かに存在するが、そうそうお目にかかるものではないのだから当たり前だ。
だからそうではなく、もっと別の何か。もっと根本的な何かだ。
だがその違和感を突き止める前にシャオが声を上げた。
「お姉ちゃんたちはどこへ行くの?」
「え……えっと、ウォーターセブンっていう場所よ。“水の都”なんて呼ばれてるんだけど」
「あ、その名前知ってる! お船を作ってるところだ!」
「よく知っているな」
「勉強してるから!」
ふふん、と胸を張るシャオ。偉いぞ、とシャオの頭を撫でるイスカはそんなシャオの後ろにいるビリーの方へと視線を向ける。
「しかし大きいな……。噂には聞いていたが」
「あ、気をつけてください大尉。大分コントロールできるようになったんですが、ビリーは興奮すると周囲に電撃を撒きますので」
「……メルヴィユというのはどんな島なんだ」
慌てて手を引きながら言うイスカ。そんな彼女を見て大丈夫だよ、とシャオが言いながらビリーに抱きつく。ビリーもまた嬉しそうな声を上げていた。
そんな光景を見つめるオリン。そこで彼女は違和感に気付いた。
(どうして……鳥って)
あの男性に案内していた際、少し離れた場所にビリーはいた。目が見えていれば一発でわかるだろうが、彼は見えていない。
何なら数分に満たないあの時間、ビリーは声さえ上げていなかったはず。ならば何故。
(何者?)
思い返すと、妙に雰囲気のある男であった。腰は低いが同時に芯のようなものも感じたのだ。
あの感覚は、そう。
まるで、かつての上官二人が纏っていた雰囲気に近いような──
◇◇◇
足音が響く。階段を上がるその足取りに淀みはなく、踏み締めるようにしてその男は階段を昇っていく。
「あれが“十人の英雄”の一人……随分と迷っておられるようで」
呟きは虚空へと消えていく。その言葉を聞く者は誰もいない。
「しかし芯のある声でもあった。……会ってみたいもんですねェ、あのお嬢さんが慕う二人にも」
規則正しい音が響く。だが不意に、その音が途絶えた。
「──しかし」
その呟きに込められていた感情は。
きっと、一言では説明できない。
「どうにもこの世界ってのは、ままならねェもんだ」
それは、誰に向けられた言葉だったのだろう。
海の上を、その船団は往く。向かう先は“水の都”ウォーターセブン。
数多の想いと共に。世界の荒波を、進んで往くのだ。
主人公二人がなかなか出て来ないですが次で出てきます&そこでプロローグは終了予定です。
今回、一人の海兵が置かれている状況というのはまあわかりやすいプロパガンダの一つですね。やらかした人間に一番近い位置にいた人物の行動というのは良くも悪くも注目を集めます。「私たちの知らない部分を知ってるはずの人がこう言ってるんだから」は一つの説得力になるものではあるので。
潜在的な味方はそれなりにいるのに未だ二人は孤立した状況です。どうなることやら。