プロローグ④
海というのは非常に広い世界だ。わかっていたことであるのだが、今になって余計にそう思うようになった。
どこまでも広がる水平線を見ていると、まるで世界から自分たちが切り離されてしまったかのように感じる。かつては海の広さに感動し、喜んでいたというのに。今はこの広さが恐ろしく感じる。
ウタは今、後方を見張る位置に座り込んでいた。両手で双眼鏡を持ち、水平線を見つめている。影一つないこの海は一見穏やかだ。しかしいつその表情を変えるかわからない。
故に常に警戒の意識を持って海を見つめる彼女に対し、船を操るルフィが声をかける。
「ウタ、少し寝た方がいいぞ」
「ううん、大丈夫」
振り返らぬままウタはそう応じた。今の彼女の役割は後方の海の警戒だ。追われている立場であるということ、偉大なる航路という異常な海にいるということ、一つ間違えれば簡単に沈んでしまうような船であるということ。
そして何より──たった二人であるということ。
そんな状況において、休める時間というのははあまりに少ない。二人は常に何かしらの役目を追わなければならなかった。
通常、船というのは複数人の手による連携によって航行する。規模が大きくなればそれに比例して必要な人数も多くなり、軍艦ともなれば数百人規模で運用するのが基本だ。
今の二人の船は小型の船であり、航行するだけならば一人でも不可能ではない。しかしここは偉大なる航路。船を動かすことに集中し、周囲への警戒を怠ることにでもなれば即座に沈みかねないほどに危険な海だ。故に二人は航行中、片方が船を操作し片方が周囲への警戒を行うという役割分担をしていた。
「無理すんなよ」
「ルフィもね」
問いかけるルフィの声はいつもの通りであるが、声そのものに張りがないように感じた。長い付き合いだ。普段と違う部分があればすぐにわかってしまう。
だが、今それを指摘しても状況は好転しない。それにルフィがそう振る舞うのであれば尊重したかった。命懸けで自分を守ってくれている彼の想いを無碍にしたくなかったのだ。
「…………」
だがウタもまた体調は良くない。体が重く、思考が鈍くなっているのを感じる。日を追うごとにその体は確実に疲労とダメージを蓄積しているのだ。それはきっとルフィも変わらない。
徐々にではあるが、確実に追い込まれている現状。どうしようもない現実が二人へと襲いかかっている。
──一体、いつまで。
そんな言葉が何度も何度も脳裏を過ぎる。そしてその度にそれを振り払うのだ。
「……ずっと一緒に」
それが約束であり、誓いであって。
彼が約束してくれたことであるのだから。ならばそれを信じ、抱え、決して諦めないことしかウタにはできない。
再び海へと視線を向ける。広がるのは水平線だけだ。
島はいつ見えるだろうか?
そこでは追われることはないだろうか?
敵は──いないだろうか?
「…………」
わかっている。全て戯言だ。
訪れる島が加盟国ならその島において自分たちは賞金首、犯罪者だ。非加盟国であったとしても元は海兵であった自分たちに好意的な島は少ないだろう。
そして追撃が終わることはない。賞金首になってしまった自分たちのために追撃部隊まで組織されているのだ。この世界の“神”に逆らった自分たちを世界政府は許すことはないだろう。
そして敵。そんなもの、全てが今更だ。
──世界を、敵に回す。
あの日、二人がやったのはそういうことだ。
「……どうしたらいいのかな」
右手の小指へと視線を向ける。絶対に忘れることのない、“約束”の感触は今でも残っている。
まるで縋るようにその小指を自身の唇へ当てた。
(お願いします)
何へと祈るのか。何を祈るのか。何一つわからないままに、彼女は祈る。
だって、そうだろう?
それぐらいしか──できることなんて、ないのだから。
「…………」
どれくらい祈っていたのか。目を開け、ウタは改めて水平線を見る。そこに違和感を感じた。
反射的に双眼鏡を覗き込み、水平線を見つめる。数秒、位置を確認し──
「ルフィ!」
「──どうした」
呼びかけた時、既にルフィはウタの隣へと移動してきていた。そのルフィに対し、双眼鏡を渡す。数秒後、ルフィもまた『それ』を見つけたようであった。
「こっちに向かってきてるみてェだな」
「何かに追われてるみたいだけど……」
はっきりとは見えなかったが、何かがかなりの速度でこっちに向かってきているのが見えた。
「どうするルフィ?」
「逃げるのは無理そうだな」
双眼鏡を覗き込みながら言うルフィ。彼は双眼鏡をウタへ渡すと、よし、と頷いた。
「──ちょっと行ってくる」
肉眼でも徐々に捉えられるくらいの大きさになりつつある水平線の『何か』を見据えながら彼は言う。そしてルフィは麦わら帽子を脱ぐと、それをウタへと被せた。
直後、その体が宙へと躍り出る。
「気をつけて」
その声は届いたのだろうか。
返事の声もないままに、その青年は宙を駆けて行く。
◇◇◇
その男の名は、ザンバイという。
彼らの制服といってもいい一家共通の衣装──ゴーグルとまるでオーバーオールのような銅丸鎧を身に纒った男だ。彼の他にも周囲には似たような服装の者が大勢いる。
彼らは“フランキー一家”という。“水の都”と評される“ウォーターセブン”に居を構える者たちであり、名目上は船舶解体業者を名乗る集団だ。
「踏ん張れソドム! ゴモラ! 追いつかれちまうぞ!」
ザンバイが声を張り上げる先には巨大な馬のような生物がいた。『キングブル』という水陸両生の魚であり、ウォーターセブンにおいては最早欠かせない存在でもある『ヤガラブル』の一種だ。ソドムとゴモラという名を持つその兄弟はフランキー一家が載る大きな船のようなものを必死で引いている。
キングの名を持つだけはあり、彼らは巨大だ。大抵の海獣はむしろ蹴散らしてしまえる。しかし今の彼らは文字通り必死で迫るものから逃げてきていた。
「駄目だ全然効いてねェ!?」
「小型の海王類なら仕留められる砲弾だぞ!?」
「鱗が硬過ぎる!」
聞こえてくるのは砲撃の音と多くの悲鳴。そう、今の彼らは追われている身であった。
追ってきているのは巨大な海獣である。俗に海王類と呼ばれる生物が存在するが、彼らの大きさや種類は様々だ。それこそ危険度も個体によって大きく違う。
そんな彼らを追ってきている海王類はまさしく危険度で言えば間違いなく最上位。見た目こそ巨大なウツボのようであるが、その全身が強靭な鱗に覆われており、その口元に見える牙は下手な刃物より遥かに鋭い。あんなもので噛み付かれては人間などひとたまりもないだろう。
「アニキがいねェ時に限って……!」
周囲の声を聞きながらザンバイは拳を握り締める。今回の仕事について、棟梁であり『アニキ』と彼らが慕う男は来ていなかった。別の仕事があったためだ。とはいえ今回の仕事はそう難しいものではないし、事実今は仕事を終えて帰ってくる途中であったのだ。
だが、順調であったのはそこまでだった。のんびりと帰途についていた途中、不意にソドムとゴモラが何かの気配を察知した。何事かと思う暇もない。そこで現れたのがあの怪物だ。
「どうするザンバイ!? 島までまだあるぞ!?」
「逃げるしかねェだろう! 倒せるような相手じゃねェ!」
言いつつ、ザンバイは何かないかと思考を巡らせていた。明確に定まっているわけではないが彼は一家において他の者たちを束ねる立場に立つことが多い。命じられたわけではないし決めたわけでもないが、自然とそうなっているのだ。おそらくリーダーとしての資質があることを自然と周囲もわかっていたのだろう。
だが、リーダーシップでは乗り切れないことなどいくらでもある。現に今がそうであった。
(アニキがいてくれたら……!)
文字通りの社会の底辺。夢を抱くも敗れ果て、落ちぶれるところまで落ちてしまった者たち。今日食べることさえもままならない、どうしようもない自分たちを救ってくれた人。
あの人がいたら、きっと何とかなるはずだ。だが今は──
「ザンバイ! 船だ! 船があるぞ!」
「なっ……!?」
思考が引き戻される。一人が指差した方向を見ると、確かに小さな船が波間を漂っていた。
丁度進路上だ。このままではぶつかるし、あの小さな船では最悪の場合引っ張ってきた海王類に轢き潰されかねない。
「どうする!?」
「どうするも何も……どうしようもねェ! 助けてる暇なんて──」
焦った声色での問いに対し、こちらもまた焦った声色で返すザンバイ。その彼の視界に『それ』が映ったのは、きっと偶然だった。
認識できたのは白いコートだ。見覚えのあるそれが、ザンバイの視界を一瞬で駆け抜けていく。
いや、ザンバイだけではない。この場の全員が一瞬、その姿を捉えたのだ。
どうしてだろう。目で追えるような速度ではないはずだったのに。思わず人の目を引き寄せてしまう『何か』があったのだろうか。
だが、疑問を抱く時間もない。次の瞬間には一つの結果が示された。
「ゴオッ!?」
短く、しかしだからこそ明確な苦悶の叫びであった。
まるで張り飛ばされるようにその顔面を打ち抜かれた海王類が上げた声であるということを理解するのに、数秒の時間が必要だった。
誰もがその怪物を見ていた。大量の砲弾を受けてもびくともしなかった巨大な体躯。それが完全にのけ反っている。
「────」
まるでゆっくりと歩く時の足音。それほど静かな音と共に、その青年が降り立った。
黒髪に、薄汚れた白のコート。その背に刻まれた“正義”の文字が異様な存在感を放っている。
「誰」
「海兵」
「何が」
反射的な幾つもの呟きはしかし、すぐにかき消される。
「ゴオオオオッ!!」
のけぞった体躯を戻しながら、大気を震わせる叫びを上げる海王類。その瞳は殺意に満ちており、ザンバイたちは反射的に身を竦ませる。
だが最早、その海王類は彼らを見ていなかった。その視線の先にいるのは青年だけだ。
「“ゴムゴムの”──」
そして、青年が応じるように甲板を蹴る。宙に浮く体。吸い寄せられるようにその姿にこの場の全員の視線が吸い寄せられる。
いつの間にか、彼らのうちにあった焦りも恐怖も消えていた。あったのは──
「──“バズーカ”!!」
鈍く、重い音が響いた。大気を震わせる轟音。しかし、海王類の悲鳴はない。
だがゆっくりとその体躯が倒れていく。悲鳴を上げることさえもできなかったのだ。
「う、お」
何が起こったのか。彼が何者なのか。正直、理解できている者はいないだろう。
だが、わかったことが一つある。
──命を、救われた。
「「「ウオオオオオオオッ!!」」」
その叫びはどんな感情からのものなのだろう。助かったという安堵からか、それとも今目の前で見た常識の枠を超えた光景に対する興奮か。
「…………」
ゆっくりと青年が甲板へと降り立った。変わらず音は静かだ。背に負った“正義”の文字が、普段は鬱陶しいと感じるのに今日だけはとてつもなく頼りになった。
「な、なあ。あんた」
青年へ声をかけようとするザンバイ。そこへ声が響く。
「ご、お、オオッ!!」
それは『王』の名を持つ生物の誇りか。力を振り絞るようにしてその海王類が起き上がり、青年を睨みつける。
対し、青年は。
「──お前とは戦うだけ無駄だ」
一言。呟くような声と共に視線を向ける。
瞬間。
絶大なる“何が”が、宙を駆け抜けた。
その“何か”を向けられたわけではない。ただ近くにいただけだというのに、ザンバイたちは全身に泡立つような悪寒を感じた。
「……ぐ、オ……!」
その『王』は一瞬だけ“何か”を堪えた。しかしすぐにその身を翻し、海の中へと潜っていく。
青年が息を吐いた。周囲を駆けていた“何か”の気配が霧散する。
「…………」
別に示し合わせたわけではない。だが自然と、誰もがその場に膝をついていた。
理屈ではない。ただ本能がそうさせたのだ。
きっと、それを。
──“覇王”の資質と、人は呼ぶのだ。
◇◇◇
「──あんたは命の恩人だ! どうか礼をさせて欲しい!」
膝をつき、ザンバイと名乗った男がそう言って頭を下げた。彼だけではなく、その背後には似たような格好をした者たちが同じように膝をついて頭を下げている。
麦わら帽子とローブで姿を隠すようにしたウタを背後に庇うようにしながら、ルフィは彼らに対してどう対応するべきかを考えていた。さっさと立ち去るつもりでルフィは言葉もそこそこに船に戻ったのだが、それを追いかけてきたのだ。そしてどうしてもと言われ、こうして甲板に上がってきている。
「礼って言われてもなァ……あのままだとおれたちも巻き込まれそうだったからこうしただけだぞ」
「そうであっても命を救われたのは変わらねェ! 恩人に礼の一つもなく帰したとあっちゃフランキー一家の名折れだ!」
これである。海兵時代にどうしても礼を、と言われる機会は多かったしこういうシチュエーションについても割と経験豊富だ。しかしかつてのように軽々に礼を受けることはできない。
頭を掻くルフィ。その彼に対し、ザンバイとは別の男が言葉を紡いだ。
「おれたちはウォーターセブンに帰るところなんですが、もし目指すところがあるならそこまで送ります」
「……目指すところってのはねェんだけど」
逃亡中の身だから当たり前だが、目的地があるわけではなかった。
チラリとルフィはウタの方へと視線を向ける。彼女もまた迷った表情を浮かべた上で。
「……どこか島に寄らなくちゃいけないのも……確かだし」
そう、呟くように言った。
「わかった」
その彼女に対し、頷きを返すルフィ。そのままザンバイたちの方を向き直ると、じゃあ、と彼は言葉を紡いだ。
「そのウォーターセブンってとこに行くよ」
「本当ですか!? よしおめェら準備しろ!」
「「「おう!!」」」
羽起きるようにして立ち上がり、バタバタとザンバイたちが動き始める。その中の一人がこちらへと言葉を紡いだ。
「船は鎖で繋いで曳航するんで、ゆっくりしててもらえたら」
そしてその男もバタバタと足音を響かせて中へと走っていく。その光景を見送りながらルフィはウタへと問いかける。
「ウォーターセブン、ってウタは知ってるのか?」
「うん。行ったことはないけど……」
「どんなとこなんだ?」
「世界政府御用達の造船会社がある島……だったはず」
思わずルフィは眉を顰めた。そして、小さく息を吐く。
それ以上は何も言わなかった。寄り添うようにして二人は海を見つめている。
こうして、“堕ちた英雄”たちは“水の都”を訪れることになる。
それが幸であったのか、或いは不幸であったのか。
今はまだ、誰もわからないままである。
というわけで今回でプロローグ終了。
原作とは違って最初に友好的な関係を築く相手がフランキー一家という。
続々とメンツが揃いつつありますが、はてさてどうなることやらです。
基本的に全員に見せ場を用意したいなぁ、と思いながら書いています。
楽しんでもらえたら幸いですね。