第四話 命の価値 後編
娯楽や嗜好といったものは余裕があるからこそ生まれると、そんな風に語った学者がいた。
何故かその言葉だけを覚えているのだが、その学者が誰であったのか、どこで聞いたのかは思い出せない。
ただ、このウォーターセブンを見ているとその言は的を得ているように思える。この場所には活気があり、余裕があり、文化があり、そして娯楽と嗜好品が溢れていた。
配属先や任務の内容によっても異なるが、海兵というのは総じて多くの国に関わることになる立場だ。特に階級の低い頃は様々な場所に派遣されるし、その先で結果として多くの経験を積むことになる。
それはここにいるオリンもイスカも変わらないことであった。片や“新時代の英雄”と謳われた海兵二人にとって最初の部下とでもいうべき人物であり、片や若くして海軍将校になり部隊を率い、今や“火拳”の名を持つ海賊と幾度となくやり合った人物である。必然、多くの国を見ることになった。
百聞は一見に如かず──それはオリンのまだ若い人生において確信を持って語れることである。そして実際に目にするこの島は今まで訪れた場所と比べても豊かであるように思えた。
……色々あってついてきた少女が、思わず目移りしてしまうくらいに。
「ありがとうおじさん!」
人通りも増え、多くの人が行き交うようになった。そうなるとその人々を相手に商売をしようとする者も増えてくる。この街は“海列車”の影響もあって観光客も多く、それらを相手にした店も少なくない。
オリンとイスカは任務でウォーターセブンを訪れているのだが、隠れてついてきたシャオとビリーは違う。彼らは半ばというか九割くらいは観光気分であった。
元々メルヴィユという島とマリンフォードしか知らない少女と鳥だ。目に入るもの全てが珍しいのか、あちこちに視線を送っていた。その中で見つけたのが『水水あめ』である。ヤガラブルからビリーと共に飛び出した彼女は突撃するように水路の端にあったその屋台へ飛び込み、そこで見覚えのある人物と再会したのだ。
「どういたしましてでさァ、お嬢さん。そちらの鳥さんには……こっちの水水肉が良いかもしれないねェ」
「クオッ!」
シャオの言葉に対し、笑みと共にそう答えながら『水水肉』をビリーへ差し出す一人の男性。短い髪のその男は、名をイッショウという。
オリンたち一行が乗っていた商船は決して小さな船ではないが、長い船旅だ。時間が過ぎれば乗客同士は自然と顔見知りになる。更に言えば船の上とは意外と退屈な時間も多い。イッショウはそんな中で軽く世間話をするようになった相手だ。
様々な島を渡ってきたという彼が語る他の国の話はシャオの興味を引き、そこに連なってオリンとイスカも話をする機会が多かった。船を降りる時に縁があればと言っていたのだが、まさかこんな形でこうも早く会うことになるとは。
「すみません。お代は支払います」
「あァ、良いんですよお嬢さん。お気になさらず」
シャオたちに追いつき、財布を取り出そうとするオリンに対してイッショウはそう言って首を左右に振った。こうも丁寧に返されるとこれ以上食い下がるのも失礼に思える。
「すまない。好意に甘えてしまうな」
オリンの隣では恐縮するようにイスカもそう言って頭を下げた。イッショウが頷きを返してくる。
「良いんです、子供ってのは笑顔が一番でさァ」
邪気のない言葉と表情であった。そのまま彼は近くで美味しそうに肉を口にしているビリーに軽く触れようとする。瞬間。
「────!」
止める暇などなかった。食事に集中していたビリーが死角から撫でられたことに反応し、その特異な体質でもある電撃を放ったのだ。
常人ならば一瞬で意識を刈り取られるような威力の電撃。だが、しかし。
「ほう……これはこれは、珍しい生き物もいたもんだ」
その電撃を全身で浴びながら、イッショウは微動だにしなかった。それどころか何事もなかったかのように笑っている。
「ああいや、すいやせんねェ。驚かせたようで」
「……クオ……」
ある程度コントロールできるようになったとはいえ、それでもビリーの電撃の制御は完璧ではない。こういう事故はたまにある。その度に彼は意気消沈とするのだが、今回はどこか呆然とした様子でイッショウを見ていた。
問答無用の強力な電撃である。不意に喰らえば屈強な海兵でもダメージを受けるし、オリンも何度か喰らって意識を飛ばしたことがあるくらいだ。だというのに、この男は。
まるで何もなかった──いや、このくらいはただじゃれつかれただけかのように。
「おじさん凄い!」
得体の知れない相手に対し、思わず生まれてしまった警戒心。おそらく隣のイスカも同じであっただろうそれをシャオのその言葉が振り払った。慌ててオリンは頭を下げる。
「申し訳ありません! その、お身体は」
「大丈夫ですよ。こう見えて頑丈なもんでねェ」
頑丈の一言で片付けて良いのだろうか。だが本人が言う以上大丈夫なのだろう。多分。
「ビリーの電撃凄いのに。空を飛んでた時に私も気を失ったことあるし」
「ちょっと待ちなさい。それは初めて聞いたんだけど」
そして疑問はシャオのそのセリフによって掻き消えた。あっ、とシャオが慌てて口を塞ぐ。そんな彼女に対し、はあ、とオリンは息を吐いた。
「あなたの安全をあなたのお母さんから任されてるんだから、無茶はしないで」
「……ごめんなさい」
「……クオッ」
反省する一人と一羽。どことなくシュールだった。
そんな彼女たちを横目に、すまない、とイスカがイッショウの方へと向き直る。
「体は本当に大丈夫か?」
「ええ、お気遣いなく」
気を遣わせないようにという配慮だろう。力瘤を作るようなポーズを見せるイッショウ。その動きからは確かに何の異常も見られない。
それはそれでどうなのだとオリンもイスカも思うのだが、詮索するようなことではないのも確かである。だがどうしても態度に出てしまったのだろう。ああ、とイッショウが朗らかに笑う。
「こんなご時世です。自分の身くらい自分で守れねェようでは、他の島にも満足には行けねェでしょう?」
「それは……」
否定しようとしたイスカはしかし、そこから先の言葉を紡げなかった。彼女も理解しているのだ。この“大海賊時代”とも呼ばれる時代、海という領域の危険度は非常に高い。ただでさえ自然という敵と戦うのに、海賊を筆頭とした無法者まで蔓延っているのだからその危険度は凄まじい。
彼の“海賊王”の処刑から二十年近い時間が過ぎたというのに、未だ状況は変わらない。むしろ悪化しているかのようにさえ感じている者も多いくらいだ。海軍も場当たり的な対応以上のことはできず、現状維持が精一杯というのが現実である。
──だが、それでも希望はあったのだ。
誰もがあの日にこの時代の終焉、その希望を見た。“大海賊時代”が始まってから生まれた二人の“英雄”に夢を見たのだ。きっと彼らがこの時代の先にある“新時代”を見せてくれるのだと。そのために戦うのだと。戦うことが──できるのだと。
(海軍を去った人達を、私は否定できない)
言葉を詰まらせてしまったイスカの背を見つめるオリンもまた言葉がない。あの時、あの戦場にいたオリン自身があの二人に希望を抱いたのだ。最も近くにいたからこそ、その姿はあまりにも眩しく見えた。
ある種の崇拝と、そう言ってもいいのかもしれない。
あの“英雄”たちと共に戦えるならば、どんな地獄だろうと共に征くと。その果てにきっと“新時代”という“平和”が──あの人の掲げた“正義”があると、そう思ったのだから。
故にこそあの事件が起こり、全てが反転した時に失望した者たちを責めることはできない。この世界の仕組み──“世界政府”と“天竜人”に対して絶望するにはあまりにも十分過ぎる理由だったのだから。
それでもオリンやイスカは海軍に残ることを選択した。イスカの理由はわからない。だがオリンは──
「──まァ、自分の身を自分で守ればいい程度で済んでるのは皆さんのお陰です」
小さな笑みと共にイッショウが告げた言葉に、オリンもイスカも目を見開いた。そんな自分たちに気付いているのかいないのか、彼は光を失った瞳を道ゆく人々へと向けて言葉を紡ぐ。
「人間ってのは弱ェもんだ。自分の身を守るだけで精一杯な状態だと、隣にいる誰かに目を向けることなんざできやしねェんです。しかし、少なくともこの島はそうじゃねェでしょう? これは間違いなく皆さんが作ったもんだ」
イッショウは言う。この島の活気は、海軍という存在が作ったものであるのだと。
「この時代に隣人を気遣えるだけの余裕を持てる──それは何よりも得難い成果だ。そしてそれを当たり前と思える国があるというのは素晴らしい。全てとはいかねェでしょう。しかし0と1は違う」
暖かなものが、胸の内から込み上げてきた。
こんな言葉をまさか、こんなところで貰うことができるとは。
「色々と言われるているんでしょうがねェ……ええ、私は少なくとも皆さんを尊敬し、感謝していますよ」
誇りを持っている、つもりだった。
海兵という在り方に、“正義”を掲げて戦うことに。背中に回した市民になんと言われようと、どれだけの理不尽があろうと。それでもと言い続けるのだと誓ったはずだった。
だがやはり所詮は一個の人間だ。どうしたって精神も肉体も疲弊する。
しかしその疲弊も、たった一つの言葉で。
「お姉ちゃん?」
こちらを呼ぶ声。見れば、シャオが不思議そうな顔でこちらを見上げていた。オリンはしゃがみ込み、そんなシャオと視線を合わせる。そしてオリンが何かを言う前に、その少女は言葉を紡いだ。
「大丈夫?」
それは純粋な気遣いであった。だがオリンは一瞬呆気に取られてしまう。イスカもまた驚いている気配が伝わってきた。
だが同時に理解する。これこそがイッショウが言っていたことなのだと。
自分自身のことで精一杯の人間に他者を気遣う余裕などない。それができる人間がいたとしても、人はそういう存在を聖者と呼ぶ。それは即ち特別であるということの証左なのだ。
だがここにいる少女は聖者ではなく、ごく普通の幼き子供だ。そしてイッショウとは違い、自分の身を自分で守ることさえも難しいような存在。そんな彼女がこちらを気遣う言葉を口にした。それが意味することは一つしかない。
「うん、大丈夫。ありがとう」
その頭を軽く撫でる。シャオが笑った。
この笑顔がここにあるということ。それがきっと海軍の成果の一つなのだろうと、そう思った。
「優しいお嬢さんだ」
イッショウが立ち上がる。彼はもう一度ビリーを軽く撫でると、こちらへ一礼した。
「しばらくここには滞在するつもりです。また会うこともありましょう」
「バイバイおじさん!」
「クオッ!」
シャオとビリーが元気よく片手と片翼を上げる。それに対し、イッショウもまた片手を上げた。
そうして立ち去って行こうとするイッショウ。そんな彼に対し、イスカが反射的に言葉を紡ぐ。
「──ありがとう」
その時の背中はどこか頼りないように見えた。毅然とした態度を保ち、海兵として模範となるような振る舞いをする普段の彼女からは想像できないような弱いもの。
「これは妙なことを」
そんな彼女に気付いているのか、いないのか。
イッショウはただ、当たり前のように言葉を紡ぐ。
「礼を言うのはこっちだ」
そして彼は立ち去って行く。その姿を見送ると、ふう、と何かを切り替えるようにイスカが大きく息を吐いた。
「私たちも行こう。まだ時間に余裕はあると思うが」
「はい。人通りも多くなって来ましたし、混み合わないうちに」
「どこに行くの?」
イスカとオリンの互いの認識確認の言葉に対し、シャオが首を傾げながら問いかけてくる。そういえば、とイスカが腕を組みながら言葉を紡いだ。
「言っていなかったか。私たちのお仕事だ」
「お仕事?」
「ああ。正確にはオリン大尉の任務だが」
イスカがオリンの名前を出したことで、シャオがオリンの方へと視線を向ける。オリンが頷きを返した。
「ここの市長さんに一つお願いをしに行くのよ」
「お願い?」
「そう。──私たち海軍がここに駐屯することを、お願いするの」
お願いというが、これは事実上有無を言わせぬ決定に近いということをオリンは知っている。だが彼女は海兵であり軍人だ。上の命令には従わなければならない。
ただこの案についてはオリン自身も納得の部分がある。これから先、更に荒れていく世界を前にして海軍が取れる手段の一つであるのだから。
(守るために)
そして今、漠然とした理由に輪郭ができたような気がする。それはきっと、イッショウの──彼のくれた言葉のおかげだ。
──隣人を気遣える余裕を。
それを持っていてくれているこのウォーターセブンという場所を守るために。
日常とは変化のないものだという。だがそれは数多の努力と献身によってようやく保たれるものだ。
そしてその努力と献身をするのが海軍という存在であり、それを期待されている。
ならば、きっと。
それを為すことが己の役目であるのだろうと。
あの人たちの“正義”を守ることなのだろうと。
そんな風に、思うのだ。
◇◇◇
ある意味、『海賊』という存在は今の時代を象徴するものであるだろう。その海賊たちの王と呼ばれた男の最期の言葉、その宣言が今の時代を創り上げたのだから。
この世界に存在する不幸、その全てが海賊によるものであるとは言わない。しかし“悪”といえば海賊であるし、“脅威”といえば海賊であると多くのか弱き市民は思うだろう。
そこには男女も貧富も年齢さえも関係ない。あえて言うならば運だろうか。その存在に襲われる可能性という“恐怖”を罪なき人々は常に抱えている。
だが海賊と一口に言っても様々だ。その勢力の大きさも在り方も一言で定義することは難しい。彼らを定義する上で共通するのは『無法者』というその一点のみであろう。彼らはこの世界の秩序たる世界政府のルールに従わない存在であるのだから。
そしてその海賊の中でも一線を画する存在がある。俗に“四皇”と呼ばれている海賊たちだ。
──“白ひげ”、“赤髪”、“百獣”、“ビッグ・マム”。
偉大なる航路後半の海、俗に“新世界”と呼ばれるその海に皇帝の如く君臨するその存在は最早ただの無法者とは呼べぬほどに強大だ。何故なら彼らの縄張りにおいては彼らこそが『法』であり、それは即ちそれを矯正できるだけの力を持つということであるが故に。
そして何の因果なのだろうか。その一角たる“赤髪”は海軍の“新時代の英雄”の父である。
ウタとシャンクス。決して短くはない時間を親子として過ごした二人はしかし、とある日から決定的な断絶を迎えた。それだけならばそれでもいい。
未練はあれど、想いはあれど。最早互いの道が交わることはないのだと、わかり合うことなどないと思っていたのだから。
(どうして)
あの日、追撃部隊を名乗ったヴェルゴ中将から渡された新聞に書かれていたことを思い出す。
──“歌姫”は“赤髪”の娘である。
言ってしまえばただの事実。だがその事実が彼女の積み上げてきたものを奪うことになる。
海軍で過ごしてきた日々は。“歌姫”と呼ばれ、戦い抜いてきた日々は。
置き去りにしたはずの過去に、こうも容易く否定される程度のものでしかなかったのだと。
そう、受け入れるしかなかった。
今やウタは“赤髪の娘”であり、ルフィは“世界最悪の犯罪者の息子”だ。今や彼らの存在には必ずその枕詞がつくようになってしまった。
無論、個人としての彼らを見てくれる者はいる。部下であった彼がそうであったように。
だが一つ前に訪れた国のように今の彼らをウタとルフィというただの人間として見ることのない場所の方が多いのだろう。それを悪だと断ずるつもりはない。彼らとて必死なのだ。個人としての二人を知らない以上、その枕詞に重きを置くのは当たり前のことである。
そして世界には二人の人格を知らぬ者の方が多いのだ。それは即ち、二人を見る者はそのほとんどがその名の前に付けられた枕詞にまず目を向けるということである。
「───」
自分の手を握ってくれているルフィの手に、もう片方の手を重ねる。まるで縋るようにしてウタはその手を包み込んだ。
──遠く、喧騒の声が聞こえる。
中身はわからない。ただこの島には人の営みがあり、活気がある。ある種の平和がここにはあるのだ。
しかし今の自分たちはそこに混ざることはできない。仮面を着け、正体を隠し、人目を避けるようにしてでしか街を歩くことさえできないのだ。
世界に人は溢れていて、そこには笑顔も喜びもあるというのに。
──その全てから、置き去りにされているかのようだった。
「シャンクスか」
沈んでいく意識を引き上げたのは、ルフィのその一言だった。こちらの手を優しく握り返す彼は、仮面の奥から真っ直ぐに電伝虫を見据えている。
その言葉に込められた感情は、どんなものであったのだろう。
『あァ、そうだ。今の世界情勢を語る上で海賊の存在は無視できねェ』
モルガンズの口調は変わらない。だが音に親しいウタにはその微妙な変化がわかった。
少しだけその声のテンションが上がっている。おそらくここからが彼にとっての本題なのだろう。
『他の勢力として“革命軍”だの非加盟国だのもあるが、前者は理由がはっきりしてるし後者は纏めて語ることなんざ不可能だ。比較的安定してる加盟国でさえ一括りにできねェ以上、非加盟国なんざ論じるだけ無駄だ。ありきたりな言葉だが、場合によりけりって奴だな』
つまらなさそうに言い切るモルガンズ。彼は話を戻そう、と言葉を紡いだ。
『ご婦人の出自については長らく詳細が不明だった。ウチもそうだが世界中の新聞社が探ったってのに何も出てこねェ。何かあるのかもしれねェし、逆に何もないから出てこねェのか。そうして時間ばかりが過ぎてったってのが実情だ。出費に対して成果が出ねェってのは中々堪えたがなァ』
「……そんなことをしてたのか」
『そりゃおれたちはジャーナリストだからな。“正義の味方”である旦那方とは違う』
クワハハハ、と笑うモルガンズ。そんな彼の言葉を聞くと、こういうところだ、とウタは思う。この男がどうにも信頼できないその理由。根本的な部分でその考え方が違うのだ。
だがそれを形容する言葉を見つけるには、ウタもルフィも若過ぎた。
『まあ、世界政府としてもこれは絶対に隠したいことだったんだろうさ。ようやく公表できる下地が整ったところでこの事件ってのはまあ、間が悪いが』
その公表をした男が何を言うか──一連の情報が世界に撒かれた経緯を知る者ならそう叫んだだろうが、残念ながら二人はそれを知らない。
『さて少々脱線したが、この情報が世界に届いたその瞬間に真っ先に動いたのが“赤髪”だ。これは流れた情報が真実であることを“赤髪”が証明した形になる。情報が嘘だってんなら動く理由がねェからな。それこそ“何を馬鹿なことを”の一言で終わりだ。
──だが、そうはならなかった。世界は“赤髪”の娘であることを確信したんだ』
彼の“赤髪”の動きこそが現在の各勢力の動きを決定付けた要因だ。もし彼が動かなかった場合、ウタの素性については誤情報と世間では判断された可能性が高い。海賊嫌いを自称し、実際に海賊相手に高い成果を挙げている人物の父親が“四皇”の一角であるなど信じる方が無茶だ。
そうなっていた場合、主にルフィが各勢力から狙われるようになるのだろうが彼と繋がっているのは“革命軍”だ。海賊たちとは本来関係のない勢力であるため、海賊たちは特に反応を示さない可能性が高い。かつて二人にやられた者たちがこれを好機として復讐に動く可能性はあったが、それでも“四皇”の勢力が動くなどということにはならなかっただろう。
『結局のところ“天竜人”を海兵がぶん殴ったのは大事件だが内輪揉めだ。その混乱した隙をつくことはあるだろうが、わざわざ旦那方を狙う意味もねェ。“革命軍”相手に喧嘩売ったところで海賊に利益なんざねェからな』
海賊とは無法者であるが災害ではない。彼らには彼らなりの損得勘定がある。それを考えた時、確かにわざわざ“革命軍”に喧嘩を売る理由はないのだ。
『だが事を起こしたのが“赤髪の娘”であり、そして“赤髪”がその身柄を押さえようと動き出したという事実が生まれれば話は変わる。単刀直入に言おう。──“赤髪の娘”を手に入れれば、“四皇”と交渉のテーブルに立てるのさ!』
ウタの体が震えた。どうして、とその口から言葉が溢れる。
自分を捨てた人。置いて行った人。憎悪さえ抱いた人なのに。
見えない手が、背後から己を掴んでいる。
それは小さな手。まだあの裏切りを知らぬ頃の自分自身の手だ。
“またね、私”
嗚呼、そうか。
あれは──こういう意味だったのか。
『敵対する他の“四皇”にしてみりゃ大チャンスだ! 人間一人捕まえれば有利に立てる! 海賊ってのは無法者だ! 今更それを卑怯だなんだと言う奴はいねェだろう!』
モルガンズはその立場上、多くの海賊と言葉を交わす機会がある。何なら“ビッグ・マム”のお茶会にゲストとして呼ばれるくらいだ。
そんな風に実際の姿を知るからこそ、彼の言葉には実感がこもっている。
『勿論、無法者といっても何でもしていいわけじゃァねェ。法とは奴ら自身であり、ルールとは奴らそのものだ。“四皇”ってのはそういう存在だが、だからこそ自ら定めたルールだけは絶対に守るのさ。だが敵相手なら別。わかりやすい話だ』
伊達や酔狂で“皇”などと呼ばれるわけではない。その中身の是非はともかく、“四皇”の領域内では彼らが定めたルールがあり法があるのだから。それを守り、守らせる力があるからこその“皇”である。
しかしその領域外となる敵なら話は別。建前上のルールはあれど、根本的にはルール無用だ。
『狙われる理由はわかったはずだ。おれ個人としては他はともかく“白ひげ”が動いてるってのがイマイチ腹落ちしてねェんだが、何か思惑があるんだろう。どこかで“白ひげ”と“赤髪”の利害がぶつかりでもしたか?』
「……“白ひげ”」
ポツリとルフィが呟く。その名を聞いてウタもまたとある人物のことを思い出した。
──ポートガス・D・エース。
二人にとっての義兄であり、家族であり。間違いなく信頼できる人。
彼が動いていると思うのは、身勝手だろうか。
『ま、それはいい。問題は“赤髪”だ。世間の見方としてはシンプルに娘の保護を目的にしてるってのが大方の見方だな』
「……今更、何を」
思わず呟いた言葉。モルガンズの笑い声が響く。
『クワハハハ! ごもっともだなご婦人! だがおれはここにもう一つの可能性を見た!』
「もう一つ?」
『あァそうだ! もしかしたら程度だったが、ご婦人の反応からすればありえるかもしれねェ!』
ドクン、と。心臓が一度、大きく跳ねた。
まるでそれは、警告のようで。
『そう、今更! 正しく今更だ! 何故動いたのか! 何故今まで放置していたのか! 自分の娘が海兵になってるなんざ“赤髪”にしてみりゃ傘下への裏切りだってのに!』
制止の言葉は紡げなかった。ただ、モルガンズの言葉を待っている自分がいた。
『元海兵の“天竜人”に逆らった娘なんざ己にとってどうしようもなく不利になる存在だ! だが“赤髪”は仁義を通す男! だからこそ娘を守るためと誰もが考えたが──果たして誰が! それを“赤髪”から聞いたってんだ!? ああ、そうだ!』
そしてモルガンズは口にする。
その、あまりにも残酷な可能性を。
『──自分にとって不利になる存在、娘という枷を外す。それが“赤髪”の目的だとしたら?』
僅かさえも、脳裏を過ぎることのなかった事を。
嗚呼、でも、そうか。
どうして、考えなかったのだろう。
──私は、あの人に捨てられたのに。
◇◇◇
空気が酷く重い。カタカタと、小さく震えているのはウタだ。
──“赤髪のシャンクス”の目的は、ウタの抹殺。
己にとって枷となるその存在を排除することだとモルガンズは語った。それはウタにとってはあまりにも重く、残酷な言葉だ。
彼女の苦しみを誰よりも知っているのはきっと、その隣にいる青年で。
だからこそ、彼は──
『リスクになるんなら切り捨てるってのは当たり前だ。“四皇”ってのは世界政府の秩序の外にいるが、逆に自分たちで秩序を保ち、作る存在でもある。非情な判断も──』
「──するわけねェだろ!!」
モルガンズの言葉を遮り、叫んだのはルフィだった。彼はウタの手を握る自分自身の手に力を込め、まるで怒鳴るように言葉を紡ぐ。
「シャンクスがそんなことするわけねェ!!」
数秒、沈黙が流れた。モルガンズも電話の向こうで沈黙している。
「ルフィ……?」
思わずといった調子で問いかけてきたのはウタだ。ルフィは一度大きく震わせ、いや、と首を振る。
「…………」
そして何かを言おうとして、ルフィは何も言えなかった。だが確信があるし信頼がある。シャンクスがそんな事をするはずがないと。
だがそれを上手く言葉にする術を持っていなかった。故に無言でウタの手を握り返す。
『ふーむ……何かを知ってるのか、旦那?』
「知らねェ」
『──今はそういうことにしておこうか。十分だ』
その言葉の裏にあるものについてはルフィにも察しがついた。これはつまりこういうことだ。
──“わかった、勝手に調べる”。
それをわざわざ口にしないのは配慮か、それとも言質を取らせないためか。この土俵で戦うにはあまりにもルフィは分が悪かった。
『ま、おれも旦那方を怒らせてェわけじゃねェ。さっきのもそういう可能性があるってもんに過ぎねェのさ』
どこまで本気で言っているのかは不明だが、とりあえず今は受け入れるしかないだろう。そこを突いても意味がないのはルフィもわかる。
『だがな、旦那。想定ってのは大事だ。起きた事象から可能性を考え、或いは起きる前に想定するのもおれたちの本分だが、それは本来誰だってそうなのさ。特に旦那方は立場が立場だ。考え得る全てを想定しておいた方がいい』
「……まあ、わかった」
頷く。モルガンズの言うことにも一理があるように思えたのだ。そう思わされているというだけなのかもしれないが。
『今わかってるのは“赤髪”が動き、その結果として諸勢力が動き出したって事実だけだ。その裏側の思惑は推測に過ぎねェ。それは他の連中についてもだ。“革命軍”なんかはわざわざ口にする必要もねェくらいわかりやすい理由で動いてるとおれは踏んでるが、もしかしたら裏があるかもしれねェからな』
人の心というのは最も見ることができない場所である。故に推測するしかないし、そして同時に信じるしかない。
だがここで言うところの信じるとは信頼とは限らないのが厄介だ。
『おれからのアドバイスは一つ。──近付いてくる奴を信用しねェ方がいい。そこには必ず思惑があるが、それが旦那方のためになるかどうかは別の話だ。その思惑において優先されるのは自己の利益だからな』
「お前はどうなんだ?」
『逆に聞こうか旦那。おれに思惑がねェとでも?』
今更のことであった。この男に思惑がないということはあり得ない。今この場の長い対話も決して好意だけで行っているわけではないだろう。
『とはいえ、おれの思惑なんざ可愛いもんさ。おれはただ見たいだけだ。旦那方の歩く未来を、この世界を。おれはあくまでジャーナリストだからな』
どこまで本気であるかわからない言葉を吐くモルガンズ。そのまま彼はなァ、とが二人へと問いかけた。
『──これから先、どうするつもりだ?』
きっとモルガンズはそれを問うためにこの場を設けたのだろう。故にその裏にどんな思惑があろうと答えを返すことが誠意であることはわかっていた。
しかし、ルフィもウタも答えを持ち合わせていない。
これから先。この後の未来。それを想像できないのだ。
「ウタを守る」
故にこそ、ルフィはそう答えた。それが彼の誓いであったから。
「…………」
対し、ウタは答えられなかった。今の彼女に、答えはなかったから。
『そいつは素晴らしい。実に結構だ』
モルガンズのその言葉に込められていたのは、満足という感情であった。ジャーナリストを名乗るこの男は、今の答えの一体何に満足したのだろうか。
『美しい話だ。そこには人を惹きつける魅力がある。だが致命的なことに気付いてねェな』
「致命的なこと?」
眉を顰めるルフィ。ああ、と応じるモルガンズの声は少しだけ低い。
『なァ、旦那方。あんたたちは今世界中から耳目を集める存在だ。だからおれもこうしているし、あらゆる勢力が各々の考えで動きを見せている。その命には大いなる価値があると判断したんだ。だがな、旦那方。あんたたちに最も影響を受けたのは民衆さ。その価値を誰よりも知っているのはそいつらだ』
人の命には平等に価値があるという考えがある。しかし現実としてそれが適用される場面は少ない。価値はある、だがその値段が違うなんてことは日常茶飯事だ。
そしてルフィとウタという存在は今や世界中から注目を浴びている。それは多くの者が価値を見出したからこそだ。
価値があるからこそ世界が荒れたのか、世界が荒れたからこそ価値があるとされたのか。今やその根拠についてはどうでもいい。必要なのはその事実のみである。
『さっきも少し触れたがな。民衆ってのは力がねェからこそ誰かに願いを託し、祈り、そして耐える。そうして生きてきた連中は旦那方にも願いを、祈りを託していただろう。それが全部ひっくり返ったんだ。その絶望は計り知れねェ』
期待と憧憬。ルフィもウタも最早数え切れないほどのそれを受け続けてきた存在だ。故に論理ではなく実感としてその存在を知っている。
だが、そうだ。確かに彼らはそれを裏切った。裏切って……しまったのだ。
そこに後悔はない。だが思うところがないわけでもないのもまた事実だ。
『その理由は美しい。だがまァ、それだけといえばそれだけだ。そこに一雫の感情を抱くことはあれど、それが実を結ぶことはねェ。“神”に抗うってことはそれだけの意味がある』
それは個人の感情によるものであり、見方によっては非常にささやかなものだ。大切な人を守りたいという、共にありたいというただそれだけの。
『だがその苦境にありながら、それでも誰かのために戦った奴らがいる。自分たちの方が助けを求めていて然るべきなのに、それでも小さな声に手を差し伸べた奴らがいたんだ』
消えゆくはずであった灯火。世界という絶対的な存在を前にすぐにでも潰えるはずであったその存在はしかし、消えるどころかその火で助けを求める者を照らしたのだ。
『その姿はあまりにも眩しいもんだろう。それは御伽話だけで許される物語だ。いや、御伽話でさえも許されねェような出来事だ。それを見せちまったんだよ。だから勘違いしちまった。自分たちにもできるんじゃねェかとな』
薄々気づいていたことではあった。訪れた国で見せつけらた事実なのだ。
──“麦わらのルフィ”と“歌姫”。
この世界の“神”に抗ったその存在は人々に一つの道を指し示した。示して……しまったのだ。
か弱き人々が武器を取ろうと思うその理由になってしまうほどに。
彼らの存在は、一つの“救い”になってしまったのだから。
『だから誰もが武器を取り、戦う道を選ぶだろう。旦那方を理由にして。それを願いとして。そうやって進もうとするだろう。それを身勝手と思うか? 他人を道標にすることを? だが人間なんてのはそんなもんだ!』
響き渡るのは“新聞王”の笑い声。まるで押し潰そうとするかのようにこちらへと降り注いでくる。
『“あの人たちのように”』
呟くようなその言葉はしかし、重く、鋭い。
『おれも、わたしも、自分も、己も!! 誰もがそうやって立ち上がるのさ!! その背中に続こうと走り出すんだ!! こんな時代だ!! 誰もが燻るものを持っている!! そこに火をつけたのは旦那方だ!! “海賊王”はその死と共に時代を変えた!! そして今、その時代がまた変わろうとしている!! その幕を上げたのは旦那方なのさ!!』
そのような意図など二人にはなかった。だが人々は受け取ってしまったのだ。“英雄”と呼ばれた男が見せた、その眩しいばかりの熱を。強さを。
──“神”に逆らってでも守りたかった、その想いを。
そのあまりにも強烈な火は、自分にもできるかもしれないと人々に思わせてしまった。
『最早後戻りなんざできやしねェ!! だから見せてくれよ旦那方!! かつておれに言っただろう!?』
民衆はその熱を抱えて走り出す。その果てにあるのが滅びであろうと、その熱を捨て去ってしまうよりは良いのだと、その熱と共に戦うのだと──そんな風に叫びながら。
嗚呼、何と残酷な現実なのだろう。
『──“新時代”を、ってなァ!!』
それは決して、望んだ未来などではなかったというのに。
最早時代は止まらない。その始まりを告げたのは、とある男の拳であったのだ。
大切な人を守るためのその拳は、あまりにも多くの人々の背を押してしまった。
「────!」
激しい破砕音が響く。男の拳が電伝虫を載せたテーブルを叩き割った音だ。
「ふざけんな!!」
その叫びには怒りが込められている。だが同時に、どこかその姿は。
「そんなもんは“新時代”じゃねェ!!」
電伝虫の通話は既に途切れており、その言葉は“新聞王”へは届かない。
それはまるで、彼らの想いが世界へと届かぬ現状そのもののようで。
かつての誓いが──消えていくようで。
「……ルフィ」
立ち上がっている彼の背に、ウタが縋るようにしてその手を回す。その体は震えていた。
「……くそ……」
その呟きもまた、弱々しい。
確かめるようにして重ねられた右手だけが、唯一の寄る辺であった。
突きつけられたのは、どうしようもない現実。
嵐の中で揺られる小舟のような二人には変えられない、この世界の正しい“今”だ。
望んでなどいない。かつて守ると決めた者たちが武器を手に戦うことなど、望んだはずがなかった。
しかし“新聞王”は言ったのだ。それが現実であるのだと。
その引き金を引いたのは──お前たちだと。
だが、彼らは気付くだろうか?
世界は彼らを見て動きを決めた。ならばまた、彼らを見て動きを決める余地がある。
一度引いた引き金が原因ならば、次の引き金で変えればいいのだと。
蠢くように、唸るように動き始める時代。その中心にいる二人がかつて掲げた誓いがあった。
もう一度、彼らはそれを掲げることができるのだろうか。
そう、あの日の願いを。
──“新時代”を。
まあなんというか、穏便に終わるわけがないのも当たり前というか。
逃亡編というのは結局、今回のお話の最後の部分に帰結するんじゃないかと勝手に思っています。もう一度あの日の誓いを取り戻せるのかどうかという物語。
ここでようやく、彼らは自分がやったことの重みというものを真の意味で知ったのでしょう。きっと。