第十六話 水の都の一番長い日③
アイスバーグという人物はこのウォーターセブンの市長であり、“ガレーラ・カンパニー”の社長であり、優れた造船技師であり、政治家であり──そして都市中の人間から慕われる人物だ。
そしてだからこそ、その人物を暗殺しようとした者に対して市民は怒りを抱く。
そう、それが悪名轟かせる大海賊──“火拳のエース”と呼ばれる怪物であるとしても。
恐怖を飲み込み、怒っている。
だが、怒りよりも強い感情がある。
それは──祈り。
彼らの誇りたる男が目を覚ますことを、誰もが祈っていた。
……その祈りが、通じたのだろうか。
「──皆さん。静かに、部屋に入ってください」
“ガレーラ・カンパニー”本社。一番ドックの職長たちが集まるその場所へ、カリファが歩いてくる。
「おい、それは」
「アイスバーグさんが」
その表情に色が戻る。カリファは目に涙を浮かべ、頷いた。
「たった今……意識を取り戻しました」
「本当か!?」
「良かった!」
つい先程まで張り詰めた、今にも爆発しそうな緊張感から一転し、笑みと共に言う男たち。そんな彼らはカリファに言われた通り、静かに部屋へと入っていく。
「アイスバーグさん!」
「……ンマー……心配かけた……」
声に少し力がない。だが思ったよりも大丈夫そうな声に、部屋に入った全員が安堵する。
「とにかく命があって良かった。ゆっくりお休みになって」
「造船所のことはおれたちに任せてくれ」
「アイスバーグさんが元気になるまでなんとかするぞ!」
パウリー、ルル、そしてタイルストンの言葉である。その後ろではカクとルッチも頷いていた。
そんな彼らの姿を見、アイスバーグが小さく微笑む。
「……頼もしいな」
その呟きを受け、他の者たちも笑みを浮かべる。これなら大丈夫そうだ、と周囲の者たちが思ったところでアイスバーグが口を開いた。
「……昨夜、会議室に侵入してきた犯人だが……」
「それなら捜査中で……一応、“火拳”じゃねェかという話になってますが」
『犯人を見ておられるので?』
パウリーに続き、ルッチが問う。いや、とアイスバーグが首を横に振った。
「入って来たのは二人だ。二人とも仮面を被っていたが……片方はおそらく男だ。随分でかい男だった」
「もう一人は?」
「わからねェ……男と比べれば背が低いようだったが、そちらは何も言わなかったからな」
カクの問いに、思い出すように目を閉じながらアイスバーグは言う。
『男の方は何かを言っていたと?』
「ああ。一言だけだったが。──“運がなかったな”、と」
その言葉に、室内の者たちが顔を見合わせる。その言葉の意味がわからなかったのだ。
目的は不明だが、明確な意思を持って暗殺者二名は会議室に侵入したはずだ。だというのに『運がなかった』とは。その言葉の意味することがわからない。
「……大尉殿は?」
そして、アイスバーグは言いにくそうに言葉を紡いだ。一瞬、室内に重い空気が漂う。
「今は別室で。……かなりの重体で、どうなるかは」
「……そうか」
目を閉じ、呟くアイスバーグ。
「悪ィことをした」
その言葉に対し、言葉を返せるものはいなかった。その話題を切り替えるように、ルルが言葉を紡ぐ。
「現在、海軍とおれたちで連携して都市内の捜索と市民の避難を進めています。ただ、今のところ足取りは……」
「今夜は“アクア・ラグナ”じゃ。日没までにはどうにか終わらせたいところじゃが」
「難しいだろうな」
このウォーターセブンに定期的に襲い来る高潮、“アクア・ラグナ”。それが来てしまえば他のことに対応する余裕などないことをこの場の全員がよく知っている。故にそれまでに決着をつけたいところだが、相手が相手だ。そう上手くいかないだろう。
「とにかく今は体を治すことを最優先に」
「……ああ、悪いな」
張り詰めていた空気が少し緩んでいく。だが、この場の者のうち何人が気付いただろうか。
──アイスバーグの眉間、そこにずっと小さな皺が刻まれていることに。
その瞳に、僅かに焦りのようなものが宿っていることに。
◇◇◇
「──このような形での挨拶で大変申し訳ない」
『それはこちらの台詞だ。申し訳ない』
互いの最初の挨拶は謝罪からであった。形式的なものではあるのだが、だからこそ重要である。立場のある者同士の話の入りとして形式を踏襲するのは互いの持つ社会性の確認に他ならないからだ。
礼儀を持ち、形式を重んじるだけの理性と常識を持っている。それをお互いがお互いに示すための手順なのである。
「私は海軍本部中将、ヴェルゴです。今回は非常事態との連絡を受けて急行しました。……貴方の身に降りかかった件については心より謝罪させて欲しい。もう少し我々が早く着いていてば、もしかしたらこうはならなかったかもしれない」
部下を連れての“火拳”の捜索の途中、足を止めてヴェルゴは机の上に置いた電伝虫を通してアイスバーグと会話をしていた。現状、ウォーターセブンに急行した海兵たちを束ねる立場である彼はその立場だからこそやらなければならないことがあるのだ。
『謝罪をしたいのはこちらの方だ。……大尉殿には申し訳ないことをした』
「いえ、彼女は海兵です。成すべきことを成したのみ。市民を守るのは我々の責務です」
『しかし……』
「──ならば、彼女には感謝を伝えていただきたい。それが何よりの誉れでしょう」
近くの海兵が吐息を溢した。ヴェルゴの言葉に感じ入る部分があったのだろうか。
『……わかった。そうさせてもらおう』
そしてそれはアイスバーグも同じであったらしい。少しだけ彼の言葉も柔らかくなった。
それに一つ頷きを入れて間を取ると、ヴェルゴは実務的な話を切り出す。
「既に聞き及んでおられると思いますが、現在我々は市民の避難と犯人の捜索に当たっています」
『話は聞いている。すまないが頼む』
「それが我々の役目です。しかし、“エニエス・ロビー”から増援が来る予定ですがそれまではどうしても人数上万全とはいきません。そのため一番ドックについてはそちらにお任せしている形になっているのですが……」
正しくは“ガレーラ・カンパニー”の社員──というより幹部が言い出したことであるのだが、そこを配慮してこちらにも不備があるという論調で告げるヴェルゴ。そんな彼に対し、アイスバーグが言葉を返してきた。
『いや、こちらが言い出したことと聞いている。気を遣ってもらってすまない』
「本来、民間人に頼るのはあまり歓迎したくはないことですが」
『今後も協力していく関係だ。その第一歩としよう』
そこまで言い切ったところで、小さな呻き声が受話器越しに聞こえた。失礼、とヴェルゴがそれを察知して言葉を紡ぐ。
「あまり無理をなさらないでください。こちらはお任せを」
『ああ、すまない。……市民を頼む』
「勿論です」
そのやり取りを最後に、二人の通話は終わった。ヴェルゴは立ち上がると、近くにいた副官へ声をかける。
「聞いた通り、期待には応えなければならない。状況は?」
「概ね予測通りです。ただ避難については少々難航している部分もあると報告が」
「ある程度は仕方がない。市長の暗殺未遂とほぼ同時に海軍が都市内に入ってきた、となればどうしても不安になるものだ。根気強く当たるしかない」
暗殺未遂が発覚し、大枠での動きが決まった後にヴェルゴはここへ派遣された海兵をいくつかの部隊に分けた。ヴェルゴ率いる追撃部隊の者たちは犯人捜索のために都市全体へとその人員を割き、“エニエス・ロビー”に所属していた海兵については市民の避難と各ドックの警備に当たらせている。
理由は色々あるが、ヴェルゴ率いる追撃部隊は戦闘を想定した装備と人員によって構成されている。“火拳”ともなれば大物だ。即席の部隊で対応できる相手ではなく、故に彼らが当たることは既定路線だったのだ。
対し、“エニエス・ロビー”に所属する海兵たちはその地理条件からウォーターセブンという都市に対して理解がある。中には住民と顔見知りの海兵もいるだろう。ならば彼らに避難と警備は任せたほうが良いという判断があった。
実を言うと本音では色々と理由があるのだが……それはまた、別の話である。
「……風が強いな」
ふと、ヴェルゴはそう呟いた。それに対し、副官の海兵が頷きを返す。
「予報では深夜がピークということでしたが、この分だと幾分早くなる可能性があるかもしれません」
「ならばその前に決着を着けたいところだ。ただでさえ災害級の高潮が来る夜に、どこにいるのかもわかならい海賊の存在など市民にとってどれだけの不安であるか」
どこまでも海兵として理想的な言葉だ。周囲で聞いている副官以外の海兵たちでさえも感じ入った目でヴェルゴを見ている。
と、そこで電伝虫に着信が入った。副官が受話器を取る。聞こえてきた声は。
『──おれだ、ヴェルゴ中将』
存在しない機関、CP9。“闇の正義”を掲げる者たちを束ねる男のものであった。
◇◇◇
海列車の先頭車両。そこにいるのはCP9の構成員とその長官だ。機密性が高い存在であるが故、他の車両とは違い彼らは数人で一つの車両を使用している。
実を言うと、“エニエス・ロビー”にCP9がいることはそこに所属する者たちならば知らない者はいないような公然の秘密だ。故に関係者しか乗っていない海列車で今更という見方もあるのだが……まあ、そういう『形式』も大切なのである。
「長ェ話をする必要もねェから簡潔に言うが、おれたちが着くまでそう時間はかからねェ」
通話相手に対し、芝居のかかった口調で言うのはCP9長官スパンダムだ。そんな彼の様子を、この車両にいる他の三人は黙して見つめている。
「すぐに動ける人員をフル動員した。到着次第そっちの指揮下に入れてくれ」
『良いのかね? 私は外から来た人間だが』
「おれはあくまで諜報畑の人間だからな。今回はそっちに用兵を任せたい。適材適所って奴だ」
わざとらしいスパンダムに対し、どこまでも簡潔に対応するヴェルゴ。その光景を見てジャブラは内心で息を吐く。
(茶番だな)
自分達を含めた増援についても、その増援のほとんどがヴェルゴの指揮下に入ることも既に打ち合わせ済みだ。昨夜、秘密裏に行われた電伝虫による協議の結果としてそうなった。
故にこれは本人たちのための会話ではなく、ヴェルゴの周囲にいるであろう海兵たちへ伝えるためのものだ。
『人手が足りないと感じていたところだ。感謝する』
「ああ、そう言ってもらえるとありがたいな。状況はどうだ?」
『避難については少々手間取っている部分はあるが基本的に順調だ。だが犯人の足取りについては掴めていない』
「──それについてだが、うちの諜報員が掴んだ情報がある」
待ってましたと言わんばかりのスパンダムの言葉。少々ヴェルゴの言葉に対する回答が早い気がするが……まあ、良いだろう。勘のいい奴が微かな違和感を感じる可能性はあるが、それで何かが変わるわけではない。
『犯人の手がかりかね?』
「かもしれねェな。どうも大層な大罪人がそこにいるらしい」
『……“火拳”ではなく?』
「そうだ。──これ以上は当人に聞いてくれ。どこで情報が他に漏れるかわからねェからな」
『承知した』
そして二、三の言葉を交わし、二人の通話が終了する。受話器を置いたスパンダムは上機嫌だ。
「順調だな。これで海軍に貸しも作れた」
「チャパパー。どういう貸しなんだ、長官?」
そんなスパンダムに対し、そう問いを発したのはフクロウだ。そんな彼に対し、言ってなかったか、と笑みと共にスパンダムが言葉を紡ぐ。
「主に二つ。一つは“エニエス・ロビー”の戦力についてだ。これはおれたちの側から海軍に譲歩した結果でもある。“エニエス・ロビー”の防衛戦力を削って海軍に協力してるわけだからな。貸しとするには十分だ」
勿論、本来の職務を考えるならば当然の対応ではある。だがそういった『当然の論理』だけでは組織は動かないのもまた現実だ。人間が運用する以上、どんな形であれ感情は絡んでくる。そこをどうにかするのもまた責任者の役割であるのだが。
今回に関しては送ることは確定事項だ。故にどういう形で今回の増援を送ったことにするのかが重要であるという話であり、スパンダムはそれを『増援を海兵が要求したが海軍本部はすぐに対応できないため、“エニエス・ロビー”の防衛戦力の一部をスパンダムの判断で送ることにした』という形にしたのだ。
CPと海軍は同じ世界政府の旗下にある組織だが、その性質上互いの領域に干渉し合うことも多くどうしてもぶつかってしまうことが多い。そのため結果として縄張り争いのようなものが頻発している。
それらを飲み込み、CP9長官として事態を収めるために譲歩した──その事実を受けた海軍は一定の借りを受けたと感じるだろう。CP9、というよりスパンダムとしては貸しを作った、という形になる。
「しかし長官、そいつを相手に無視されちまったらどうするんでい?」
「それならそれで構いやしねェさ。恩知らずって事実が残るだけだ」
クマドリの疑問に対してもスパンダムは余裕の笑みを浮かべたままだ。
「それに本命はもう一つの方ってのもある。──例の“大逆人”共の居場所をおれたちが掴んで提供した。それは海軍にとっちゃ大きな借りだ」
偶然からとある諜報員が見つけた情報である。使いようなどいくらでもあるのだが、そこを敢えて誠実に海軍へ伝える形を取るのだ。任務を果たしただけだと言えばそれまでだが、その内容の重要度を考えれば海軍も礼を言って終わりとはできないだろう。相応のものを返さなければ今後に関わる。
「ま、貸しなんて言うと感情論に聞こえるかもな。実際的に言うならこっちから要求ができるようになる、ってとこだ。『おれたちはあの時お前らに力を貸した。だから今度はお前たちが』ってな」
その言葉を聞きながら、しかしジャブラは渋い表情をしていた。今の言い回しはヴェルゴのものとほとんど同じだということに気付いたからである。
あの時、あの部屋でヴェルゴが語ったこと。それがスパンダムを上機嫌にさせている今回のストーリーの草案だ。
“まず第一に、我々はウォーターセブンに対して戦力を送る大義名分を得ているということが重要だ。長官殿の計画については聞いているが、計画とは不測の事態がつきものだ。CP9の諜報員以外に『こちら側』の戦力を疑われることなく送り込めるのは間違いなくメリットだろう?”
理路整然と語られた内容。それを受け、スパンダムは徐々に笑みを浮かべ。
“ならばそのメリットを活用すればいい。その上で戦力の運用については海軍へ譲歩する。具体的には指揮権を海軍の誰かに預けることだな。本来牽制し合う間柄であるCPと海軍だが、この非常事態を前に協力をそちらが持ちかけたという形にすれば海軍も相応の態度を示すだろう”
ジャブラはその腹の中にあるものが見えず、眉を顰めたのだ。
“そして『彼ら』の存在についてもだ。私たちは彼らを探している。そして彼らがそこにいることをそちらから教えてもらったわけだが、それを公式の形にすればいい。具体的には私の部下がいる前でそちらの諜報員から情報が来るという形が一番だろうな。そうすれば私たちが動くタイミングのコントロールもできるし、そちらから情報をもらったという事実を証人付きで確定できる”
企みを知る者にとっては茶番も茶番である。だが内情を知らぬ者にとってはCP9とその長官が海軍のためにかなりの譲歩と協力をしたと見えるだろう。
“そしてそちらの任務についてだが、いっそのこと強硬手段に出てはどうかね? 内部にはCP9の諜報員がいると聞いている。ならば大義名分を得て送り込まれる私とそちらの諜報員で状況はある程度コントロールできるはずだ”
それらの提案をした上で、どうかね、とヴェルゴはスパンダムへと告げたのだ。そしてそれを受けたスパンダムは強硬手段に出ることを決定し、起こったのが昨夜の出来事である。
その後、秘密裏に行われた電伝虫による今後の動きについての話し合いでもヴェルゴの提案をスパンダムが良い案だとして受け入れていた。その内容についてもジャブラは眉を顰めるしかなかったわけだが──
「良いのか、長官」
思わず、声に出ていた。何がだ、とスパンダムが問いかけてくる。
「五年をかけた任務だ。それをあんな海兵の意見を聞いて動いちまって」
「そりゃ確かに完全に信用はできねェが、言ってることは間違っちゃいねェからな」
肩を竦めるスパンダム。確かにそうだ、とジャブラは思う。彼は最大限こちらに花を持たせる提案をしてきた。少々過剰な気もするが、そこにおかしな部分はなかったのだ。
故に無理矢理反対するようなことではないのも事実である。ただ、一つ。
(責任を上手くこっちに押し付けられているような気がするが……)
どうしても疑ってしまう。これは諜報員としての職業病なのかもしれないが。
「まァ、大丈夫だ。心配する必要はねェ」
そして反対に楽観論で語るスパンダム。そんな彼に対し、ジャブラはそれ以上は何も言わなかった。
だが、彼の中にはもう一つ疑問がある。これは最初に顔を合わせた時からずっと抱えているものだ。
(あいつは本当に海兵か?)
この後に起こる──いや、起こす事件。それについてあの男がスパンダムへと提案したこと。その内容はとても理想的な海兵の口から出るような内容ではなかったのだ。
それは海賊などの無法者とも違う。もっと狡猾で、残酷な思考によって導かれるもの。
(……用心しておいた方がいいな)
あくまで勘だ。現状おかしな部分は見つかっていないし、提案についても裏があるようには思えなかった。それにあくまで提案だ。採用するかどうかを相手に委ねるからこそ提案という。そこに強制力がない以上、考え過ぎの可能性が高いのもまた事実。
だがどうしても引っかかる。そんな、根拠のない本能からくる感覚。
そして、彼はその経験によって知っているのだ。
──この手の嫌な感覚は、大抵碌でもないことになることを。
思惑が複雑に絡み合い、水の都を覆っていく。
その都市に暮らす者たちは未だ知らない。
まだ、本当の事件は始まってすらいないことを。
相手に大きなメリットがあることを提示するのは商売と交渉の基本ですが、それと同時に自分のメリットの中身を開示することで誠実さをアピールするというよくある手法でありつつ効果的な方法。ポイントは全部開示してるのか、という部分であったりします。