第二十一話 水の都の一番長い日⑧
少女にとって、海軍とは“ヒーロー”そのものであった。
彼女の故郷たるメルヴィユは、長きに渡って“金獅子”の支配下に置かれていたという過去がある。幼き彼女が生まれた時にはもう、“自由”など存在しなかった。
誰もが俯いていた。
誰もが嘆いていた。
誰もが──諦めていた。
そこに現れたのが、あの人たちだった。
その背に背負った“正義”の文字。
言葉の意味は知っていたけれど、自分には縁のないものだったそれ。
支配は終わった。
貰ったのは、“自由”だった。
麦わら帽子を被った、快活に笑う人が大好きだ。
赤と白の髪を靡かせて、綺麗な歌声を響かせる人が大好きだ。
まるで魔法のように様々な音色を奏でる人たちが、大好きだ。
──“正義”を背負ったその背中は、憧れだ。
“私も海兵さんみたいになりたい!”
意味も知らず、わからぬままに。
それでも、憧れのままに口にした。
“おっ、本当か? いいじゃねェか!”
麦わら帽子のあの人は、笑って頭を撫でてくれた。
“そう言ってくれるのは私も嬉しいけど……”
綺麗な歌声のあの人は、少し困った顔をしていた。
“でも、大変だよ? シャオはまだ小さいし、色んなものを見てから決めた方がいいんじゃない?”
“なんだよ、ウタ。おれたちだってゼファーのおっちゃんに似たようなこと言ったじゃねェか”
“あれはルフィだけでしょ。……私はまだ、あの時は何も決めてなかったし”
言い合っているように見えて、けれどそれが彼らなりのじゃれ合いであることを少女は知っていた。
いつも綺麗な音色を色んな楽器で奏でてくれるお姉ちゃんは、「犬も喰わない」って笑っていたのを覚えている。
──だめ?
問いかける。すると、お姉ちゃんはしゃがみ込み、こちらに視線を合わせて微笑んだ。
“ううん。嬉しいよ。でもね、シャオ。世界は広いの。色んなものを見て、色んな人に出会って。そうしてから決めてもいいんじゃないかな、って思うの”
──お姉ちゃんもそうだったの?
“私は……うーん、少し違うかな?”
お姉ちゃんがチラリとお兄ちゃんの方を見た。お兄ちゃんは首を傾げている。
“でも、シャオが本当に海軍に入るって決めて頑張るなら応援するよ。──ずっと待ってる”
“おれたちもよ、同じことを言われたことがあるんだ”
待ってる。
昔、お兄ちゃんとお姉ちゃんもそう言われたことがあるのだと、そう言って笑った。
“……あっ”
不意にお兄ちゃんが何かを思い出したように声を上げた。どうしたの、というお姉ちゃんの問いかけに頷いて、お兄ちゃんが笑顔で言う。
“シャオ、ちょっと待ってろ!”
そして、お兄ちゃんが突然走り出してしまった。お姉ちゃんと顔を見合わせて、二人で首を傾げる。
お兄ちゃんを待つ間、色々な話を聞いた。
二人の故郷のお話。海で出会った色々な人のお話。
お姉ちゃんが語る物語はまるで、夢物語で聞いた冒険のようで。
憧れて、夢に見て、それでも諦めていたもの。
けれど。
──諦めなくてもいいのだと、そう教えて貰ったことでもあって。
“悪ィ、待たせた!”
どれぐらいの時間が経ったのだろう。色々なお話を聞いている間に、お兄ちゃんが帰ってきた。
“これ、やるよ”
そう言ってお兄ちゃんがくれたのは、海兵さんたちがしている帽子だった。島に来る人たちがしている帽子。
嬉しかった。貰った帽子をすぐに被る。
──どう?
自分でも興奮しているのがわかった。お兄ちゃんとお姉ちゃんは、満面の笑顔で。
“似合ってる!”
そう言って、笑ってくれた。
まるで夢物語の“ヒーロー”。
困っている人たちを助けてくれる、“正義の味方”。
そんな二人がいなくなったのは、それから少ししてからのことだった。
難しい話はわからない。でも、お母さんが言っていたのだ。
“あの人たちは、もうここには来ないよ”
悲しそうな顔だった。冗談ではないとすぐにわかった。
なんで。どうして。
何度も、何度も繰り返した。けれど答えは返って来なくて。
その日から、少女にとっての“ヒーロー”たちが少しずつ来なくなっていった。
優しくて賑やかな、楽器の演奏が上手いお兄ちゃんたちは「しばらく来れなくなった」と言って姿を見せなくなった。
怖い顔をした、でも優しい煙のおじさんと眼鏡のお姉ちゃんも来なくなった。
厳しいけれど、それでも優しいおじさんはお母さんたちに頭を下げていた。「あなたは悪くありません」って、お母さんたちが言っていた。
来る度にお兄ちゃんとお姉ちゃんを追い回していた、いつも煎餅をくれるお爺ちゃんは優しく頭を撫でてくれたけど、それから来なくなった。
最後に残ったのは、優しい金色の髪のお姉ちゃんだけ。
“ちょっと遠くへ行かなければならなくなりました”
お姉ちゃんがお母さんにそう言っているのを聞いた時、心の奥がざわついた。
駄目だって思った。みんないなくなってしまうって。置いていかれるって。
──ビリー。
だから、“友達”に声をかけた。
──一緒に行こう。
躊躇いはなかった。
だって、怖かったのだ。
何もしないまま。
何も知らないまま。
失ってしまうことが、何よりも──怖かった。
貰った帽子を被って。
大切な“友達”と一緒に。
少女はそうして、外の世界へ飛び出したのだ。
◇◇◇
シャオには理解ができなかった。
ルフィとウタは彼女にとって“ヒーロー”であり、海軍もまた彼女にとって“ヒーロー”だ。
あの苦しい支配から救い出してくれたその存在が、彼女は大好きだ。
だから──理解できない。
「なんで」
──どうして、海兵さんたちが?
──どうして、戦っているの?
わからない。わかるはずがない。
彼女にとって、世界の仕組みはあまりにも理不尽であり。
到底、理解できるものではなかったのだ。
「お姉ちゃん!」
それはほとんど反射的な呼びかけだった。赤い髪のお姉ちゃん──船旅で色々なことを教えてくれた『真面目で格好いい海兵さん』に対し、シャオは縋るような声をあげる。
「…………ッ」
対し、呼び掛けられた海兵──イスカは強く唇を引き結び、苦い表情をしていた。何かを言おうとして、しかし何も言えないでいる。
その表情にシャオは見覚えがあった。耐えるような、堪えるような。
それは、かつて母と祖母がしていた顔。
あの“金獅子”の支配の中、大人たちが浮かべていた表情と同じもの。
それは一種の諦めであり。
そして、シャオが受け入れたくなかったもの。
受け入れてはいけないと──あの人たちに、教えて貰ったもの。
「ビリー!!」
深い考えがあったわけではない。だが彼女の体は動き出していた。
「クオッ!!」
そして彼女の“友達”もまた、同じことを思っていた。
地面を蹴り、飛びつくように少女は彼の下へ。
「何を──」
こちらに気付いた海兵の一人が声を上げた。だが遅い。その手はもう、彼の体を掴んでいる。
「シャオ!?」
海兵さんの声が聞こえた。だがシャオは振り返らない。ビリーも振り返らない。
空を舞うのは一人と一羽。
あまりにも小さな一人の少女と一羽の鳥が、大切な人のために空を駆ける。
「行こう! ビリー!!」
「クオッ!!」
──強い、風が吹いた。
その風に煽られ、シャオの帽子が空を舞う。
あの日貰った大切な帽子。少女の宝物。
彼女にとって、一つの象徴。
「…………ッ!」
一瞬の迷い。だが少女は戻らない。その瞳は前を捉えている。
「オリンお姉ちゃんのところに行こう、ビリー!」
一番最後までいてくれた、あの人のところへ。
あの人なら、きっと。
──お兄ちゃんとお姉ちゃんを、助けてくれるはずだから。
◇◇◇
見覚えのある少女と鳥が空へと舞い上がる姿を、視界の端に捉えた。
シャオとビリー。強い風が吹き荒れる中を、あの二人が進んでいく。
「余所見をする余裕があるのかね?」
声とその拳が迫り来るのに間はほとんどない。ルフィはそれを体を前に倒すことで避け、そのまま前蹴りを叩き込む。
その足裏をヴェルゴが左腕で防いだ。
──一瞬の視線の交錯。
言葉はない。その拳がその代わりだ。
「“ストロング右”!」
そして、そんなルフィとヴェルゴがから距離を取ったフランキーが“パシフィスタ”へとその一撃を放つ。鎖によって伸びる拳の一撃は、並の海賊程度なら一撃でノックアウトすることもできる程に重い一撃だ。
だが、相手は海軍が──いや、世界政府が開発した『人間兵器』。
ルフィたちは知らないが、そのカタログスペックは“新世界”にすらも通用するほどの強力だ。
「硬ェ……!? うおっ!」
自身の一撃にびくともしない“パシフィスタ”にフランキーが驚愕するのも一瞬。口から放たれたレーザーをフランキーが横へと大きく飛び退くことで避けた。
轟音が響く。地面が抉れるその光景が、今の一撃の凶悪さを物語っていた。
「チッ──」
舌打ちを溢すフランキー。だが彼もまた動きを止める余裕などない。
「なんだこいつ!?」
「大砲が効かねェ!?」
「撃て撃て!! 撃ちまくれ!!」
──“パシフィスタ”は、二体いる。
一体がルフィとフランキーの近くにいるならば。そして海軍の目的を考えるならば、もう一体の目標は自明である。
何故ならば。
「ウタ!!」
思わず叫んだルフィの視線の先。フランキー一家の者たちの後ろに“歌姫”はいる。
彼女もまた、海軍にとっての攻撃対象だ。
「お前ら! この……!」
フランキーが駆け出した。彼の子分たちがいるというのもあるだろう。だがそれ以外に、彼にも“切り札”がある。
しかし、未だ彼らは無自覚であるのだが。
──現状において、この戦場は既に詰んでいる。
最大戦力たる“麦わらのルフィ”はヴェルゴを相手に釘付けにされ、数においても圧倒的に敗北している。
援軍などどこにもおらず、一発逆転の一手など望むべくもない。
そうなるように、海軍は──ヴェルゴたちは動いたのだ。故にこれは必然の結末。
「どけ!!」
ルフィは現状におけるその細部について理解をしているわけではない。だがその本能とでもいうべきものが現状のマズさを訴えていた。
──このままでは。
何もかもが、失われる。
「聞く義理がないな」
そしてヴェルゴがそんなルフィを迎撃する。そこへ横手から銃撃が放たれ、どうしてもルフィはそれらを回避する行動を取らなければならない。それは大きなロスだ。
海楼石の弾丸──それは、踏み込むにはあまりにもリスクが大き過ぎる。
「九割方の確信はあったが」
弾丸を避けたルフィに追撃の動きを見せながら、ヴェルゴが呟くように言う。
「──“歌姫”の歌声は、失われたか」
その時、ルフィが表情を歪めてしまったことが何よりの証明になる。だがこれは彼が悪いわけではない。その反応はあくまで最後の一割を埋めただけのことだ。
ルフィとウタ。彼らの逃避行は決して長くはない。だがその長くはない時間で彼らはいくつかの戦いを経験した。それ自体はいい。彼らの影響力と性格を考えた時、何もない方がおかしいと言う者もいるくらいだ。
故に問題はそこではない。その解決方法にある。
──とある島を襲った海賊は、“麦わらのルフィ”にやられたと言った。
──海軍本部少将、“白猟のスモーカー”は“麦わらのルフィ”と一騎打ちを演じた。
逃亡者は二人。対し、矢面に立つのは常に一人だったのだ。
追撃のための部隊が編成された時、より厄介なのは“歌姫”の方だとされていた。その歌声は敵対者であろうと獣であろうと魅了する。そして魅了されてしまえば最早彼女に逆らうことはできなくなるのだ。
故にその対策が最優先とされた。だが現実として、その対策が力を発したことはない。
それは、何故か?
何らかの理由で、“歌姫”は歌えなくなっている。
今、この瞬間。この状況においてもその歌声が聴こえないことがその証拠だ。
「あの戦場で聞いた彼女の歌は良いものだった。──残念だ」
ヴェルゴが何かを取り出した。何の変哲もない竹竿だ。だが“武装色の覇気”を纏うそれは、下手な武器よりも高い殺傷能力を持つ。
ヴェルゴがその竹竿を取り出したのが合図であったのだろうか。ヴェルゴと“パシフィスタ”以外の距離をとっていた海兵たちが動き出した。
「突撃!!」
まるで雷のような号令の声が響いた。
わかる。わかってしまう。
──彼らはウタを警戒していた。その能力を危険視していたのだ。
その脅威がないと判断された以上、最早その足を縛る手段はない。
雪崩れ込むようにして歩を進める海兵たち。──鬨の声は、彼らが自分自身を奮い立たせるためのものだろうか。
立ち塞がるのは海軍本部中将、ヴェルゴ。──その存在は無視できるものではなく、そしてあまりにも時間が足りない。
進撃するのは人間兵器“パシフィスタ”。──その存在に対し、この場で対処できるのはルフィだけだ。
絶望的な状況。あまりにも背負う者が多過ぎる青年はしかし、この状況を打破するには何もかもが足りなかった。
きっと多くが膝を折るだろう。諦めるだろう。そしてそれを他者が責めることはない。仕方がなかったのだと、そう思う者が大半だ。
──だが、彼はモンキー・D・ルフィであった。
彼が諦めることなど──折れることなど、絶対にありえない。
「ギア、4」
それが破綻へと繋がる選択であることを、彼はきっと知っていた。
しかし、そうするしかなかったのだ。
それは、“金獅子”をも打ち破った“英雄”の姿。
両腕と両足を肥大化し、“武装色の覇気”で固めることで固定化したあまりにも歪な姿。
未完成にして不完全。故に何もかもが足りぬ力。
それでも、彼はそれを選んだ。
そうすることしか、できなかった。
「……詰みだな」
海兵のその呟きは。
誰にも……届かない。
◇◇◇
とある人物は、モンキー・D・ルフィの“強さ”を『思い切りの良さ』と評した。
彼は躊躇わない。やらなければならないと考えたならば迷わず踏み込むし、そこに迷いをみせることはないのだと。
迷えば弱くなる──そう言ったのは、“海軍の英雄”と呼ばれた老兵だ。
その迷わぬが故の強さは確かにあるのだろう。事実、そうして彼は数多の人間を救ってきた。
だが、迷わぬということは時に弱点にもなる。
例えば、そう。
──そういう選択を取るのだと、相手に確信させる場合だ。
「ギア、4」
それは彼が祖父から“二つのことを同時にやれ”という助言を得て辿り着いた領域。今の彼ができる最高の戦闘術。
ゴムの体を生かし、血流の速度を常人ならば心臓や血管が破裂するほどの速度まで上げることで身体能力を極限まで向上させる戦闘技術──“ギア2”。
同じくゴムの体を生かし、体に息を吹き込むことで一時的に体の一部を巨大化させることで高い破壊力を実現する戦闘技術──“ギア3”。
ある意味では相反するその二つを同時に。そうして彼が考え、実現したのが今の姿だ。
──異形。
彼の“金獅子”をも打ち破ったその姿はしかし、敵対者からはあまりにも歪に映る。
「“ゴムゴムの”──」
この状態になるだけで息が上がっていた。体が悲鳴を上げている。
無茶な方法であることは彼自身が理解していた。だがこうでもしなければ、かつての“四皇”には届かなかったのだ。
今はどうか。単体としての戦力であるならば“金獅子”には及ばない。だが状況が最悪だ。
──モンキー・D・ルフィがやらなければ。
何もかもが──失われる。
「──“JET巨人の回転弾”!!」
巨大な拳に回転の威力を乗せた一撃。その速度だけでも対応できる者はそうはいないであろう。文字通りの巨大な塊が敵対者を穿つために宙を駆ける。
「“鬼・竹”!!」
渾身の一撃に対し、ヴェルゴの選択は迎撃であった。竹竿を回転させ、“武装色の覇気”を纏った竹竿に遠心力を乗せる。そのまま彼は全力で竹竿を振り抜いた。
大気が揺れるほどの衝撃。海兵たちが思わず足を止めてしまうほどの轟音。
拮抗は一瞬。果たして圧倒したのは──ルフィだ。
「────ッ!」
吹き飛ばされるヴェルゴ。だがルフィは追撃はしない。ヴェルゴからは視線を切り、その視線を別の方向へ向ける。
「フランキー!!」
その名を呼んだ瞬間には、既にそこへ到達している。飛び上がるようにして空へと舞い上がり、フランキーを追い詰める“パシフィスタ”へルフィはその一撃を叩き込む。
「“ゴムゴムの”──」
誰かが、呟いた。
今にも降り出しそうな分厚い雲の下。異形の青年が天高く巨大な足を持ち上げている。
まるで、これは。
「──“JET巨人の斧”!!」
数多の物語に謳われるもの。
誰もが寝物語に聞いたことのあるお伽話。
まるで神の裁きのようだ、と。
呟いたのは、誰だったのか。
「────!」
人間兵器、“パシフィスタ”。その耐久力は凄まじいものであり、並の海賊や兵器ではまともに傷さえつけられない。
だが、その一撃を放ったのは“英雄”だ。
堕ちたと言われようとも。その名を貶められようとも。
新たな時代を創ると信じられたその力に、偽りはない。
「“麦わら”──」
フランキーの呼びかけ。それに応じる時間さえも惜しい。
──ルフィ。
視線の先。フランキー一家の奥にいる彼女の姿。その唇が動いた気がした。
大丈夫だ、ウタ。
絶対に──守るから。
宙を蹴る音さえ、まるで雷鳴の如く。それを鬨の声として“異形の英雄”が進撃する。
彼の理念はいつも真っ直ぐだ。迷いもなく、惑うこともなく。一直線に突き進む。
故にこそ、その結末は必然だった。
──ダメ!!
声が聞こえたわけではなかった。だが、視線の先の彼女はそう叫んでいた。その瞳から溢れたは、一粒の雫。
泣くなよ、ウタ。
お前を泣かせないために、おれは──
「…………あ」
その脇腹に、鈍い痛みが走ったのと。
まるで何かに奪われたかのように力が抜けたのは、ほとんど同時だった。
◇◇◇
その“未来”が見えた理由はわからない。見ようと思ったわけではないし、今の自分にそれが自発的にできないことを彼女は知っていた。
故にそれは、おそらく彼女の本能が見せたもの。
空を駆けたのは、たった一発の弾丸。
だがそれは、あまりにも致命的な一撃。
彼女は知らない。それを撃ったのがヴェルゴの副官という、おそらくこの場にいる海兵の中で最も覚悟を決めた男であることを。
彼は知らない。その弾丸を放った男は、その一発を放てるようになるためにとてつもない時間の研鑽を積んできたということを。
「──崩れたな」
まるで死刑宣告のような、あまりにも無慈悲な海兵の言葉。
動きを止めたルフィ。そこへ踏み込むヴェルゴは口元から血を流しながら、それでも渾身の一撃を叩き込む。
「“鬼・竹”!!」
鈍く、重い音。
決して軽くはない、ある種致命的にすら聞こえる音。
「ルフィ!!」
気付いた時にはもう、走り出していた。
何かができるわけではない。未だに体は震え、拳を握ることもできない。かつてできていたはずのことが何もできなくなっている。
「ちょっ、どこへ!?」
「ダメだ前に出ちゃ!」
「止まるわいな!」
背後から聞こえてくる声。自分たちによくしてくれたフランキー一家の声。
だが、その声に応じるだけの余裕はない。
「──“歌姫”ウタ」
そしてそんな声に混じり、無機質な声が聞こえてきた。人間兵器“パシフィスタ”──その最大目標はルフィとウタだ。故にその対象が移動したならば“パシフィスタ”もまたその後を追う。
ヴェルゴの一撃を受け、吹き飛ばされたルフィは地面に倒れ込んでいる。そこへ“パシフィスタ”を引き連れて走り込むなど正気の沙汰ではない。
冷静な頭は止めろと叫んでいる。無意味だと。
だが心が叫んでいる。
──ルフィの側に。
結局のところ、ウタにとってはそれが全てで。
その果てにこの歩みが止まることになるのなら、それでも良くて。
「ルフィ!!」
その叫びと、“パシフィスタ”の放った光線が放たれたのはほぼ同時であった。
倒れ伏しながらもどうにか上半身を上げていたルフィ。その彼の下へ飛び込むようにウタは地面を蹴った。
ウタ、と彼が自分の名を呼び。
応じるように、その体を抱き締めた。
閃光と衝撃。ウタが飛びついた勢いのまま着弾地点より離れたが故、その一撃は不発に終わる。
だがそれは一時凌ぎだ。“パシフィスタ”だけではない。ヴェルゴも、海兵も。数多の彼らにとっての敵がこちらへと迫ってきている。
「ウタ! お前なんで──」
「もう嫌なの!」
溢れるようなその言葉は。
だからこそ、その心の底にあるものを曝け出す。
「離れたくない!」
失われてしまうのが怖かった。その背中がいなくなってしまうのが怖かった。
私はずっと、臆病な弱虫で。
それでも、失いたくはなかったから。
置いて行かないでと、彼女は言った。
当たり前だろ、と彼は言った。
「──おれは、ここにいるから」
迫るは絶望の気配。状況は最悪。逆転の手段はない。
だがそれでも、彼と彼女は共にいた。
その手を離さず、そこにいる。
ずっと、一緒に。
それが“約束”であり。
二人の“誓い”であるが故に。
「────」
まるで久遠のように長く、しかし一瞬の時間。“堕ちた英雄”たちに、人間兵器がその暴威を向ける。
海軍本部大将、“黄猿”のレーザーを再現したそれをまともに食らえば無事では済まない。
故に二人は抗おうとした。その手を繋ぎ、その場から離れようと周囲を見て。
「…………ッ」
そして理解する。ヴェルゴを中心とした海兵たちの包囲網が形成されていた。最前線に“パシフィスタ”を配置し、確実に二人を追い詰めるための布陣を既に海軍は完成させている。
文字通りの袋の鼠。逃げることさえできはしない。
そして打開のために思考する時間さえも二人にはなかった。
──“パシフィスタ”の口が開き、その砲門が姿を覗かせたのと。
一人の男が姿を現したのは、同時であった。
黒いコートを纏い、ゴーグルの付いた黒いシルクハットを被った男だ。その全力の蹴りが横手からパシフィスタ”へと叩き込まれる。
鈍い音を立て、“パシフィスタ”の巨大な体躯が宙を舞った。少しの間を置き、その体が地面へと墜落するようにして倒れ込む。
「……サボ……?」
呟いたのはルフィだ。彼としては珍しい呆然としたその口調は、それだけ目の前の出来事に驚愕している事実を示している。
文字通りの最前線。そこへ割り込んできた男は右手に持った鉄パイプを軽く振るい、横へと差し出した。まるで背後にいる二人を守るかのように。
「…………」
時が止まったかのような感覚。誰もが突然の乱入者たる男へ視線を向けている。
「……キミは?」
問いを発したのはヴェルゴであった。ゆっくりと歩を進め、一定の距離で彼は足を止める。その声色にも佇まいにも油断はない。
無数の銃口が男へと向けられていた。ルフィとウタにもだ。
ありとあらゆる、文字通りの敵意を向けられている状況。しかし、中心にいる男の声に揺らぎはない。
「おれはサボ」
よく通る声であり、そして庇われる位置の二人にとっては懐かしく感じる声。
「ルフィとウタの兄貴だ」
一筋の涙が、目から溢れた。
たった一言。だがその一言が、この場における救いとなる。
そして男は言葉を紡ぐ。
それは己の肩書きでもなく、思想でもなく、信念でもなく。
理由など先の一言だけで十分なのだと言外に滲ませながら。
口調は軽く。しかし、そこに込められた想いはあまりにも重い。
「──よろしく」
その言葉こそが。
ここに立つ、“兄”たる男の宣戦布告。
たとえ、世界が敵になろうとも。
──かつて結んだ絆だけは、決して消えはしないのだ。
多分義兄弟たち四人の一枚絵がいくつも流れる特殊エンディング。
やっぱり兄は強いんです。
ちなみに今回の裏MVPはイル。彼女は海兵の姿を見つけると同時に全力で離脱し、サボたちに連絡をとっていました。地味に数話前から一切言及がないのはそういう理由です。
海軍はエースの存在は知っていましたし、対応もするつもりでした。しかしサボたちのことは知りません。そこが光明となるのかも。