大きな屋敷の地下に作られた訓練所で無心で振るっていた拳を止め、タオルを手に取って大量の汗をぬぐう。
己がワンピースの世界に転生したと自覚して早三年、スパンダムとなった俺は現在自己鍛錬に精を出していた。自分の体を見てみれば、三年前とは桁違いに引き締まった肉体が見える。
さすがは空気にプロテインが含まれると言われるワンピース世界だ。前世の知識では普通十歳でこんなに筋肉が付くわけがないのだが、別の世界なのであまり気にしないことにしよう。
意外というか、嬉しい誤算だったのは己の才能……原作のスパンダムの有様から、才能なんて皆無だろうと勝手に思い込んでいたが、この体は鍛えれば鍛えるだけ強くなるし、技術もスポンジが水を吸うかの如く覚えることができた。
もしかしたら転生したことによる一種の特典のようなものなのかもしれないが、強くなる上では非常にありがたい。
ちなみに六式に関して親父に相談してみたが、結果としては駄目だった。六式は機密のひとつであり、基本的に許可を得た場所以外でみだりに指導することは禁じられているらしい。
なので指導者を呼ぶことはできない。というのが親父の言い分ではあったが、原作では海軍とかも使ってたし……単に親父にそっち方面のコネが無かっただけのような気がする。
まぁ、代わりに地下に広い訓練施設と世界中からあらゆる武術や気功術などの資料を揃えた資料部屋を作ってくれたので、独学で訓練をしている。
それ以外はほぼ関与してこない放任主義であり、かなりありがたい。
しかし、なんというか、この肉体……本当に凄まじいというか、ハッキリ言ってしまうが……この三年の鍛錬で『独学で六式を使えるようになった』。
紙絵に関しては、実戦をする機会が無かったのでちゃんとできているか分からなかったが、剃に月歩に鉄塊に嵐脚に指銃とそれらしいことはできるようになった。
まだまだ極めたとは言い切れないので、要鍛錬ではあるが……。
この辺りは原作知識のアドバンテージもある。そういう技術があり、ルフィやサンジがそうであったように身体能力で再現可能と知っていたので、独学でもなんとかなったというのが正しい。
しかし、覇気に関しては……いちおう練習はしてみたが、使うことができない。まぁ、この辺りは六式を極めてから考えることにしよう。
そして同時に考えていたことがあった。それはこの『肉体そのものの改造』である。この体は才能に溢れてはいる。だが将来的にこの肉体を鍛えた末に、あらゆる相手と戦えるかと言われれば……首を捻ってしまう。
ワンピースには悪魔の実という特殊な力がある以上、多少の戦力差など覆されてしまう。ならばもっと、圧倒的な力が欲しいと……そう思った。
そのためには肉体そのものを更なるステージにあげる必要がある。
己の肉体の筋肉……いや『細胞そのものを強靭なものに変化させる』。戦闘系の作品にはたびたび登場する異常な筋肉密度を持つ特異体質、それを再現……いや、さらに超えることができるのではないかと考えた。
理論上は可能だと思う。この世界にはクマドリやルッチが行った生命帰還……バイオフィードバックという肉体操作技術、ドレスローザ編でラオGが使用した地翁拳の戦闘保拳など、本来ならあり得ないレベルでの筋肉の圧縮や肉体の変化を行える技術は存在する。
幸いにも世界政府の諜報機関の高官である親父が用意してくれた書物には、いまは使い手がおらず廃れたものや禁忌とされているような技術が記されているものもあった。
それらを駆使すれば、肉体を変化……いや、進化させられるはずだ。
正直、俺自身でもなんでこんなに強くなりたいと思っているのか、湧き上がる焦燥感が理解できない。喉の奥が乾ききって水を求めるような力への渇望があるが、その根底が分からない。
そんなに根性のある人間ではなかったはずだが、この三年死に物狂いで鍛えられたのはそのナニカがあったからだと思う。
ともかく、これからは鍛錬に並行して特殊な気功術なども学んで、肉体を改造できる準備を進めていくつもりだ。
そう考えながら、俺は地下から出て専用の書斎へと向かった。
さらに三年の月日が流れ十三歳となったある日……俺は地下訓練場の中心で佇んでいた。自覚してから六年、鍛え上げてきた肉体、六式は我流ながらかなりの練度になったという自負があり、覇気に関しても使えるようになった。
覇気を使えるようになるコツは疑わないことと言われていたし、そういうものが存在すると知っているのはかなりのアドバンテージだった。
……いまでも十分に強いとは思うし、安定した生活ができる将来も約束されている。
だがやはり、力を渇望する思いが薄れることはなく、俺はこの日……己の肉体を作り変える決意を固めていた。
一度深呼吸をしてから生命帰還を発動し、同時に様々な気功術を併用、開始前に飲んだ秘薬なども合わせ……肉体に、細胞に、進化を促す。
「――がぁっ!?」
直後に体を凄まじい痛みが襲う。まるで体内から爆発しているかのような言いようのない痛みに、口から大量の血が零れて床に落ちるのが見える。
創造と破壊はセットというべきか、いま俺の肉体はとてつもない勢いで破壊と再生を繰り返しており、それにより抗いがたい痛みが体中を襲う。
「あぐっぅぅ、ぐああ……ああぁぁぁぁぁ!?」
痛みに叫び、体中から血を吹き出しながら地面をのたうち回る。こんなに痛くて苦しくて……だというのに、なぜ俺はこの無謀な肉体改造を止めない? いまもなお、苦しみながら肉体の操作を続けている?
分からない、だけど……渇くんだ。喉が……心が……。
あまりの痛みに意識が遠のき、視界が白く染まっていく中で……俺の頭に思い浮かんだのは前世の記憶だった。
決して素晴らしい人生を歩んできたわけではない。良くも悪くも平凡で、それなりに幸福で、それなりに満ち足りた人生だった。
お金持ちとは言わないものの、なに不自由なく育つことができる程度には裕福な家庭に生まれ、それなりに愛情を持って育ててもらった。
家から近いという理由で地元の高校に入り、そこそこの大学に進学して、ブラックでもないホワイトでもないごくごく普通の会社に就職した。
生活に困らない程度の給料をもらい、多くはないが高校時代からの仲のいい友人も数人いた。盆と正月は実家に帰ってほどほどに親孝行して、漫画を読んだりゲームをしたり……平凡だがそれなりに充実していて、それなりに満ち足りていた。
……そう、それなりではあるが――幸せだったんだ。
だけどそんな日は突然終わりを迎える。ある日の通勤途中に発生した通り魔事件で、犯人に刺されたことによって……俺の人生は終わりを迎えた。
どうしようもなく馬鹿馬鹿しくて、呆れる結末だ。テレビで死者〇名とだけ報道され、関係のない人間の記憶には欠片も残らない、そんな死に方。
親はきっと悲しんだだろう、友人もきっと同じだ。会社の同僚たちは葬式にぐらいは出てくれただろうか? それなりに仲の良かった上司が「惜しい人を亡くした」なんて語ったかもしれない。
――るな。
楽しみにしていた漫画やゲームもあった。やりたいこと、やってみたいことだってまだまだあった。行ってみたいところだってたくさんあったし……親孝行も、もっとしたかった。
漠然と、幸せな未来を思い描いていたんだ……だけど、それは突如『奪われた』。
――けるな。
犯人と面識があったわけではない。たまたま犯行のタイミングで一番近くにいたのが俺だったと、それだけの理由だろう。
刺されてから少しの間は、意識もあった。体から熱が抜けていくと共に……死にたくないと……そう思った。
――ふざけるな。
俺がいったいなにをした? 誰にも負けない努力をしたわけではないが、それなりに頑張って生きて……充実していたんだ! 人並ではあっても……幸せだと……そう思っていたんだ!!
「ふざけるなぁぁぁっぁ!!!」
血を吐きながら口から叫び声が出た。あぁ、理解した。俺はいま、完全に己の渇望の原点を理解した。
己の身に降りかかる理不尽が許せない。俺が積み上げてきたものを一瞬で奪い去った不条理が許せない。身に降りかかる災厄になんの抵抗もできなかった己が許せない。
『俺に降りかかるあらゆる理不尽が憎い』……。
いま、ハッキリと自覚した。俺は間違いなくスパンダムだ……結局俺は己の保身のことしか考えていない屑だ。屑で――いい。
あぁ、だから――力がいるんだ! あらゆる理不尽を、あらゆる不条理を跳ね除ける力が!! 何者にも『俺の未来を奪われない強さ』が!
それが得られるのなら、なんにだって祈ってやる……神だろうと、悪魔だろうと、運命だろうと、奇跡だろうと……なんでも構わないから俺に――力をよこせ!!
海の皇帝がすべて敵に回ったとしても退けられる力を、世界を敵に回しても跳ね除けられる――すべてを隔絶した力を――。
「……」
血だまりの中からゆっくりと立ち上がる。果たして本当にひとりの人間から出たのかと疑いたくなるような大量の血の中心で佇みながら、俺の口元には笑みが浮かんでいた。
清々しい気分だ。記憶を取り戻してからずっとあった頭のモヤが晴れて思考がクリアになっていく……そうだ俺は――『自分さえよければあとはどうでもいい』。
原作のキャラたちがどうなろうと知ったことではない。原作通りに進もうが、原作とは違う道に進もうが、どうでもいい。
俺さえ幸せで満ち足りていれば……それで十分だ。
俺の邪魔をしないなら別にどうでもいい。幸せでも不幸でも勝手にやってくれればいい……だけど、俺の邪魔をするなら、俺の積み上げたものを崩そうとするなら……そのすべてが俺の敵だ。
俺は俺のために、あらゆる敵を始末する。
ゆっくりとした歩みで壁際に置いていた箱を手に取り、中から一丁の銃を取り出し……銃口を己の手に当てて、引き金を引く。
銃声と共に手には鈍い痛みを感じたが、それだけだ。銃で撃った手は少し赤く腫れてはいるが、『弾丸は皮膚を貫いていない』。
覇気も鉄塊も使っていない、それでも弾丸は俺の体を貫けなかった。
「……く、くくく、はははは! あっははは!!」
腹の底から笑いが込み上げてきて、狂ったように笑い声をあげる。そうだ、出来ると思ったんだ。なにせ、上空1万mの空島から飛び降りても死なないキャラが居る世界だ。これぐらいできても不思議ではない。
確信がある。いま俺の肉体は確実にひとつ上のステージに到達した。あらゆる理不尽を跳ね除ける究極の肉体という理想にはまだ届かないが、それでも明らかに少し前の俺とは次元が違う。
なんだろう? 記憶を取り戻してから六年……ようやくいま、俺は『新たに生まれ変わった』という実感を得た。