「すぅぅ……はぁ~……」
アオは、なんかドトウの見てはいけない光景を見ている気がした。
ドトウが何をしているかといえば、いつも遊びにきている野良猫を抱きかかえたかと思えばその背中に顔をうずくめて、深呼吸を繰り返しているのである。間違いなく、匂いを嗅いでいる。堪能している。
ちなみに野良猫なので、家猫より体臭がキツいはずだ。そりゃ、日向ぼっこをした直後は『野性味あふれる太陽の臭い』というか……くちゃいんだけど、なんだか不快ではない独特な匂いがするっていうのはアオにだって分かる。彼女もたまにウェルの背中や肉球を嗅いだりする。ウェルの背中は何度も嗅ぎたくなる絶妙な獣臭さがあって、肉球はポップコーンの香りだ。
……いや、だからって、あんなに深呼吸する程でもない気がする。
「……ドットさん。何してるの?」
一応、アオは聞いてみた。
「……猫さんの匂いを嗅いでるんです」
やっぱりそういう事らしい。
スゥゥゥー……ハァァァァ……。
ドトウの深呼吸の音だけが聞こえてくる。さすがの猫も困惑している。最近慣れてきたおかげかドトウにもタイキにも抱っこくらいはさせてくれるのだが、ここまで密着されるのは初めての経験だろう。さすがの彼(彼女?)も居心地悪そうに、
「…………ドットさん? アロマとか買う?」
アオの言葉に、ぴくりとドトウの耳が動いた。しかし「コレとアロマの匂いは違うものです」と言いたげに耳を絞った。
2分か3分か。ネオユニバースを探求しているように困惑していた猫が、いい加減正気に戻ったのかはたまた堪忍袋の緒が切れたのか。烈火の如くけたたましい鳴き声をあげて暴れ始める。ドトウの手から逃れようと四肢を振り乱し、なんとか逃れる事に成功した猫は一目散にどこかへ逃げ去っていった。ドトウは追いかけもせず、むしろ呆然として立ち尽くしている。
「う、うぅ、嫌われてしまったでしょうか……」
どうやら本当にあの猫を愛でていただけのようだ。
なんとなく察したアオも、どう声をかけていいのか分からずに頭を掻いた。
ドトウは耳と尻尾をへにゃりと垂れさせてから、申し訳なさそうに俯いていた。
なんだかんだ一年間過ごしてて分かったが、ドトウは動物が好きだ。いや、そうでなくてはやっていけない職業だし、アオもタイキも、もちろん牧場主さん達も動物がとても好きなのだが……ドトウは、何か別ベクトルからの愛情も混じっている気がする。主に愛玩動物を愛でるというか、なんというか。
「まぁ、それも動物に好かれる秘訣なんだと思うけどね……」
ドトウは、何故か動物達から妙に好かれるタチである。犬や牛や山羊はもちろん、最近では野良猫やら野良狸やら……そんな子に懐かれるようで、彼女へたまにすり寄ってくるのだ。それをドトウはとても嬉しそうに笑顔で迎えている事も多い。
動物は、目の前にいる人物が「自身へ好意的」か「自身へ敵愾心を向けているか」くらいの判別はつくと聞き及んでいる。
だからきっと、本心から動物が好きだから動物も警戒心を解いて懐いてくるのだろうな、とアオは思ったりする。
……正直な話、アオはドトウの事が好きだ。——もちろん、変な意味でなく。過去に助けられたからで――だから、多少の願い事なら叶えてあげたいと思うくらいの気持ちを抱いている。
「ウチでさ。牛舎にあの時々来る猫。正式に飼い猫にするってのはどうかな」
アオは皆が食卓に集まっている時にそのような事を両親にお願いした。
「……そう簡単な事じゃなかとよ? 獣医さんとも相談せんといけんし、届け出とかも……」
以前からアオやドトウ達には重々話されていた事なのだが、牧畜には『家畜の伝染病の予防』という重要な事がある。"勝手に牧場にやってきている野良猫"という体ならともかく、正式に飼い猫になるなら制約がつく。予防接種や獣医による健康診断はもちろん、場合によっては去勢手術なども施す必要がある。野良生活は過酷ながら自由気ままだが、飼い猫となる以上は人間の都合でその後の一生を縛り付ける事にもなる。
当然、今以上に猫が病気を持ってないか気を配る必要があるし……それ以外にも『飼い主としての責務』が伴ってくる。
アオが11歳という事もあって、牧場主の奥さんは「新たな家族を向かい入れ、その責任をまっとうする覚悟があるかどうか」という話がしたいのだろう。しかしアオとしては、それは既に承知の上だった。
「……そもそもさ。これから真冬だよ。こんな冬が寒い地域でさ、野良猫や野良犬って生き残れるの?」
真冬になると、野良猫や野良犬はかなりの確率で死ぬ。家猫と犬というのは、人と共生する事を前提で進化してきた動物。人の手を借りず生きている鹿や猪と違う。
……もちろん、生き残る個体もいるにはいる。現に、あの猫はドトウもタイキも前の冬の頭からあの猫を見かけていた。
だが今年は生きていられるかどうか分からない。
アオは、そういう観点からもあの猫を助けたかったのである。ドトウも、内心ではそうだったからその話にはこくこくと頷いてしきりに賛同していた。
次に猫が牧場にやってきた日。アオは猫を抱きかかえて、こんな事を言った。
「お前、ウチの子になるかい?」
猫はその言葉が分かっているのか分かっていないのか、とりあえず腕の中で大人しくしていた。
「牧場の子になっちゃえば、美味しい物たくさん食べられますよ~」
すかさずドトウも便乗して猫を口説き始めた。意気揚々と明るい声で話すソレは、まるでキャッチセールスか何かである。
猫は相変わらず仏頂面というか、よく分からないような顔をしていた。まぁ、他の動物と同じく意思疎通は万全とまではいくまい。代わりに「にゃあ」と鳴いた。
「学園でいつも遊びにきてくれてた猫さんを思い出しますー……」
なんかトレセン学園で猫と会っていた素振りだが、確かあそこペット禁止じゃなかったろうか。
アオはそう思いつつも「……まぁ、ここは学園じゃないし。いいか」と何も聞かなかった事にした。
「そういえばさ。この子、私が帰ってくる以前からいるらしいけど。どんな子なの?」
この猫とはドトウの方が付き合いが長い。ドトウはこの猫との事を少し思い出すように目を閉じて、やがて口を開いた。
「私が初めて出産を手伝った仔牛さんとのお別れをして思い悩んでいた時に、山林の"魔法"について、この子に教えてもらいました」
…………。
「ちょっと待って。それあたし初めて聞いたよ?」
思わず口を挟むアオだったが、当のドトウは首を傾げた。
「へ? 何かおかしいですか……?」
単にドトウ的には夢のような出来事の一つだったらしいが、アオにとっては聴き逃がせない事だった。
「……いや、どういう経緯があったかは後で詳しく聞くとしてさ……もしかして、この子がドットさんにそれ教えてあげてなかったらあたし帰ってこれなかったわけ!?」
…………いわれてみれば、この猫にあの不思議な現象を教えてもらって、それを基点に一連の出来事がひとまとめに考えられた気がする。
もしこの猫がいなければ、きっと今頃アオは行方不明者として扱われていたかもしれない。それにタイキシャトルがシャトじいじを帰す手段を思いつかなかったかもしれない。
「……じゃあ、アオさんの命の恩人で、私にとっても大恩人ですねぇ~」
カウルと引き合わせてくれた以上に、この猫は一連の出来事で影響を与えてくれていた事に気づいた。
猫はまるでその言葉を聞き入れるように、ドトウの顔を見つめながら「にゃあ」と鳴いた。
ドトウはあの不思議な空間で聞こえてきた女性の声の事を、少し思い返した。
『ドットさーん、おやつ持ってきたよー』
たぶん……ドトウが牧場主の奥さんや旦那さんを慕っているように、鹿毛の優しい目をした動物にとってその声の主も一緒に居たいと思える人物だったのだと思う。
……お互い、その人物達のおかげであの状態になっても元の世界に戻れた。
そこまでは、理解している。
その時の事でただ一つだけ、今現在に至っても分からない事があった。
「……あの女の人と一緒に、猫の声が微かに聞こえてきた気がしたんです。猫さん、私の事呼んでくれてました?」
その言葉に、猫は少し首を傾げるだけだった。
女性の声がした"あちら側"に鹿毛の動物と仲の良い猫がいたのかもしれない。はたまた、"こちら側"のこの猫がドトウを呼んでくれていたのかもしれない。
今となってもその判断はつかない。
「あなたは、不思議な猫さんですね~。まるで山林の魔法を知っている素振りだったり……」
ドトウがそういって喉を指でコリコリと撫でると、猫は気持ちがよさそうにご満悦な顔をしながら「にゃあ」と鳴いた。
「案外、精霊とかだったりして。こう、コロボックルとか……」
アオが冗談ぶってそう言うが、実際この猫がそうであっても不思議ではないとも思った。なにせ、"魔法"が実在している事だし。
「……もしかして、絵本の御伽噺に出てきた動物さんの一匹なのかもしれませんね」
ドトウとしては、なんとなくそういう事を想像する。
あのお話の中では、おじいさんも残された動物たちも、ヤギを追い求めて雪の中へ入っていった。
その者達がどうなったのかは判然としない。もしかしたら、まだあの空間に囚われているのかもしれない。ひょんな事で抜け出す事が出来たのかもしれない。
……だがもし抜け出せたのだとしたら、アオが抜け出した時と同じように途方もない年月が経って、下手をすれば独りで生きていかねばならないような状態になっている可能性もあるだろう。
それはある意味、悲しい事だとドトウもアオも思った。
ドトウは猫を撫でながら、少し物憂げな表情をしていた。そんな様子を知ってか知らずか、猫は再びゴロゴロと喉を鳴らし始めるのだった。
やがて意を決したように口を開く。
「……猫さん。牧場の子になってください」
ドトウの真剣さが伝わったかのように、猫も真剣な顔つきになった。そして、じっと彼女の目を見つめる。
「猫さんは、シャトじいじを元の世界に帰せて、アオさんも連れ戻せるきっかけを作ってくれた大恩人……大恩猫です。あなたがいなかったら、きっと今の私はカウルさんとのお別れから目を逸らしていた事を引きずってて、シャトじいじを巻き込んでしまった事を後悔して、どうしようもなくなってたと思います……」
言葉を選ぶように、少しずつゆっくりと、それでも確かな口調で言葉を続ける。
「私は、あなたにお礼をしたいんです……いえ、お礼というよりも、ただ、『一緒に居たい』……そう思うんです」
猫はドトウの目をじっと見つめ返していた。その表情には、何かを察しているかのような落ち着きがあった。
「……でも、もし迷惑だったら、無理強いはしません。私があなたの家族になりたいというのは、私の勝手な願いですから」
そう言ってドトウが猫の頭をそっと撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めて、撫でられるままに任せた。
その様子を傍らで見ていたアオは、ちょっと羨ましそうな顔を浮かべていたが、すぐにそれを引っ込めて二人の様子を見守っていた。
「大真面目に聞いてもわかんないだろうし。でも、一緒にいる事を嫌がってないなら……飼っても大丈夫だとあたしは思うよ」
その意見にドトウは静かに頷く。猫も、否定はしなかった。
その日、猫はこの牧場の正式な一員になった。
首輪が装着された違和感に二日くらいは慣れない様子だったり、予防接種の時には鳴き叫んだりしていたが。
それを恨んで牧場から逃げ出す、なんて事はせず。飼料を狙う鼠を退治したり、ドトウやタイキ、牧場主の奥さんにたまに甘えたり。また、あの不思議な空間の事をやはり認識しているのか、アオが赴く時は見送りをしてくれたりと、日々を穏やかに過ごしている。
「……へ、もうすでに去勢されてるんですか?」
お医者さんから予防接種を受けて次の検診で去勢するかどうかも相談している内に、ドトウはお医者さんからそんな情報を聞いた。
「あぁ、もう子宮がないな」
ついでに牝だという事を聞かされた。まぁその辺りは股をよくよく観察すれば分かる事だが。
「だったら、過去は飼い猫って事だったのでしょうか」
ドトウはふと疑問を口にした。獣医は不可思議そうにする。
「しかし去勢までしておいて捨てる飼い主がそうそういるとは思えんが」
当たり前の話だが、去勢手術はそれなりに金がかかる。産まれた子まで飼う余裕がない場合、その手術をするのも飼い主の責務の一つだ。だから、そこまで考えが及ぶ飼い主が安易に猫を捨てるとは考えにくい。
「何かしら理由があって手放す事になったか、はたまた自由気ままに逃げだして、ついでに首輪も何かの拍子に外れてしまったかだな」
獣医はそういった感想を述べてから、一通りやるべき事を終えて牛の診察へ移っていった。
「……」
ドトウは獣医からの話を思い返しながら、猫の顔を見つめる。
「にゃあ」
猫は注射が痛かったのか。不満げな彼女の鳴き声に、ドトウはふっと笑う。
「我慢したご褒美に、ちゅーるあげますねぇ」
チュール、と聞いて目をギラギラと輝かせて興奮する猫。そこらへんの意思疎通は出来るのだから、本当に動物というのは面白い。
この子は本当に、あの御伽噺に出てきた動物の一匹なのかもしれない。
それが明確になる事はない。そもそもあれは実話ではなく、単なる作り話なのかもしれない。
だが、それでも。
「……もう、寂しい想いをする事がないように。あなたも一緒にいましょうね」
ドトウは猫を抱きしめて、顔面をうずめた。今度ばかりはちょっと遠慮気味に匂いを嗅ぐ。猫も、仕方なしとばかりにドトウが満足するまで好きにさせる事にした。