……ドトウは、『別れ』というモノが苦手だ。
生きとし生ける者いずれ別れが来ると理解すれど、いざその時が来れば目を逸らしてしまう。
さりさりとした舌がドトウの手のひらを舐める。
目の前にいるのは若い牛。名は『カウル』。この仔が生まれてから一年と半年ちょっとになる。
ちょうどその時期の辺りに、牧場で本格的に働き始めて、この子のお産にドトウもタイキも付き添った。
母牛の体から血がいっぱい出ていた事は、出産に携わった事のないドトウにとっては恐怖だったけれど、それと同時に、感動もあった。
生まれたばかりの小さな命という存在が、そしてとても痛い思いをしただろうにそれでも我が子の愛おしく見つめる母という存在が、何より尊いモノに思えた。
「……ドトウ? 辛かったらカウルの"お見送り"は、代わりにワタシが……」
それを思い返していると、こうして声をかけられてもなかなか振り返る事が出来ずにいる。
「――お願いします」
この仕事を続けていくのなら……いやそうでなくとも、誠実に向き合うべきだとは思えども。ドトウは、これだけはどうしても耐えきれなかった。
ゆっくり、ゆっくりと、その仔の手綱をタイキシャトルに預けた。
「それじゃあ、今日お世話になる牧場の職員の方々に挨拶しましょう」
「よろしくおねがいしまーす!」
ドトウ達が働いている牧場には、地元の学校の生徒達が牧場にやってくる事もある。
今日は職業見学の授業があり、小学生の児童達が牧場に訪れていた。
トレセン学園時代のファンには小さな子供も居る事が多かったタイキは対応に慣れたものだったが、ドトウは対照的に「間違えてウソ教えちゃったらどうしよう」と緊張してガチガチに固まっていた。
「え、え、え、えぇっと、きょ、きょ、きょうは~~……」
小学生の子供達は、そんなドトウの様子が面白かったようで、指をさして笑ったり、応援の言葉をかけたりと盛り上がっていた。
「おねーちゃん! がんばれ!」
ライブの時はもっと大勢を目の前にしていたのに、子供達数十人相手に固まってしまうとはなんとも面映ゆい。
「ドトウ、落ち着いて。ワタシや旦那さん達が一緒にいます!」
タイキシャトルはそう言ってドトウの肩に手を置く。……ドトウは深呼吸をし、牧場主の旦那さん達の方を見て、タイキの方も見て、なんとか落ち着きを取り戻そうとする。
「で、では。今日はよろしくお願いしまっしゅっ!!」
噛んだ。ドトウは、それでも勢いに任せて頭を下げる。子どもたちが大笑いが響いた。掴みはバッチリだったかもしれない。
「牛さんは一日にどれくらいごはん食べるんですかー?」
牧場案内を始めて移動中、子どもが疑問に思った事をドトウ達に敬語調で聞いてきた。
「うんっとですね、青草なら60キロくらい。皆さんの体重よりも、うんと重いですねー。お水は100キログラム……つまり100リットル飲んだりもします」
その量たるや、人間と比べて桁外れな量である。子どもたちも「体が大きいから人間よりは多いだろう」とは予想していたものの、とんでもない量に驚いたり関心していたりする。
「すご~い!」
「おっきいもんねぇ……」
「与えるのが青草じゃなくて干草なら草の水分が抜けてる分、食べる量やお水の量もだいぶ変わります~」
子どもたちが感嘆の声をあげる。ドトウは上手く答えられた事に、少し自慢げに胸を張る。
「じゃあ一日に採れる牛乳の量はー!?」
「そんだけ食べるの多いならうんちの量とかどうなってるのー」
……関心を引いたせいか、更に矢継ぎ早に質問が飛んできた。この日の為に質問が来そうなものはある程度予習していたが、流石にドトウ一人だけでは限界がある。タイキシャトルはドトウのサポートとして、質問に答える役割になった。
「牛乳の量は調子の良い時は30リットルくらい出マス!」
「一日で牛乳パック30本分?!」
「もちろん、日に日によって量が違いますし、体調が悪ければ出ない時だってアリマスし、『乳房炎』という胸の部分の炎症が起きてれば、膿が混じってしまうので全部廃棄デス」
「……タイキさん私より詳しく説明出来てないですか……?」
スラスラと答えられるタイキシャトルに、ドトウは驚きの表情を向けた。こういう時にはフレンドリーな振る舞いのタイキは頼りになる。
牧場暮らしが長かった二人は、酪農についての知識もそれなりに持っていた。牧場主の旦那さん達も答えられないものは答えようと思っていたらしいが、その必要はなさそうだったので、子どもたちと年齢が近い二人に任せる事にしていた。
「排泄物の量はー……えぇっと、1頭1日60キロくらい?」
「餌を運ぶ事もそうだけど、掃除とかも量が多くてすごく大変そうなんだねー……」
「そうですね。でも、植物を育てる堆肥になったりもします」
そういう話題が好きそうな一部の男の子達は「きたねー」などと茶化しながらも興味津々で話を聞いている。改めて考えると凄い量だが、その点に関してはドトウも慣れてしまったせいか特に気にならない。
体力勝負な側面もある家畜の世話は、ウマ娘の二人にとって適正があった。
一例として家畜に与える牧草を推し固めた『牧草ロール』なんてものは、一つ数百キロもある。本来重機でなければ運ぶ事は到底無理なのだが、ドトウ達の場合は一応重機を使わずとも運べたりする。現役時代はそれ以上あるタイヤを引いてトレーニングした事もあるから、その時に比べればその作業は格段に楽だ。……旦那さんは「危ないからあまりさせたくない」と、よほどの事がない限りやらせてくれないが。
それ以外の作業だと、そろそろ二年近く続けているのもあり二人は大分手際が良くなった。それこそ、こうやって子どもたちにレクチャーをするくらいには。
小学生の子どもたちにとっても、幼稚園時代くらいにファンだったウマ娘が牧場で働いているというのは、身近な存在に思えて嬉しいのかもしれない。
「牛さんがびっくりしないように、大声はあげないように~」
「はーい、ドトウのおねえちゃーん」
人差し指を唇の前に当てて、子どもたちに静かにするよう促すドトウ。そうしている内に、内気そうな女の子の一人がドトウの袖をこっそり引く。
「あのね、あのね。タイキお姉ちゃんやドトウのお姉ちゃんがレースで走ってた時からずっとファンで……会えてすっごく嬉しくて……」
そう言って恥ずかしそうに黙り込む。ただ、エールを送りたかったらしい。面と向かってそういわれて、ドトウは照れくさくなりながらも、微笑みを浮かべてその子の手を握った。
「ありがとうございます~。ワタシも、アナタとお会いできて嬉しいですよ~。ワタシも、レースを見てくれていた子がいるって思うだけで、頑張ろうって気持ちになれました」
そんなドトウの言葉を聞いて、現役時代の彼女達を知っている児童それぞれがタイキやドトウに対して「ファンです!」とエールを送ったり握手を求めたり……そんな事が繰り広げられたからか、引率の先生が思わず「牧場見学の授業の時間ですよ!!」と大声を張った。牛も、子どもたちも、ドトウ達職員もびっくりした顔で先生の方を注視する。やがて、先生はやたら申し訳なさそうに縮こまった。
そういうやり取りを経てから子どもたちとの牛との触れ合いの時間。彼らは牛と対面して「かわいー」「いつも牛乳ありがとー」を愛着を示したり、牛舎の臭いを嗅いで「くさいー」やら鼻をつまんだり。子どもたちにとって反応は様々だ。
子どもたちの反応で一貫している事は、『牛自体』への振る舞いは好意的だった事だろうか。牛舎独特の臭いに不平不満はいえども、牛へ罵倒を向けるものは一人も居なかった。
この年頃になると、動物に対する道徳や愛情が備わってくる頃だからだろうか。ドトウとタイキはその様子が微笑ましかった。
「ここの牛さんって牝しかいないんですか?」
子どもたちが牛に餌を与えたりして触れ合っているさなか、よくよく牛を観察していた女の子がそんな事を尋ねてきた。
「いいえ、牡の子もいますよー」
ドトウがそう言うと、子どもたちの何人かは不思議そうにする。
「牡からは牛乳取れないじゃん」
「ここにはいないよー?」
「お父さん担当の牛?」
などと、子どもたち同士で考察が続く。ドトウは、なるべくわかりやすく丁寧に説明していく。
「うんとですね、まず……牛さんがお乳を作る為には、"お母さんになる必要"があります。そこは人間と同じですね」
それを聞いて児童の何人かがまた不思議そうな顔をした。
「……大人の牛になったら勝手に牛乳作ってくれるもんだと思ってた」
そう呟いたのは男の子だったが、他の児童の何人かも同じことを思っていたらしく、ドトウの発言に対して驚いている。
「その時に牡か牝か……男の子か女の子が生まれてきます。その子に与えるミルクで余った分を、人間側が貰い受けているわけですね」
そこまで話したところで、一人の男の子が手を挙げた。質問があるらしい。
「じゃあなんでここに牡の牛さんがいないのー?」
「………………」
……ドトウは、今日初めて言葉に詰まった。「そういう事は子どもたちには教えない方がいい」というのは建前で、頭の中でその事に対する考えが浮かんでは霧散していく。
ドトウが硬直しているのを見て、タイキシャトルが代わりに口を開いた。
「牡牛……仔牛さんは、基本的に別の場所で飼育されマス。この前産まれたばかりだから、小さくて可愛いデスヨ! 今から見に行ってみますか?」
タイキがそう提案すると、子どもたちは全員賛成した。ドトウも、彼らの背中を追ってその場所についていく。
辿り着いた先は、牛舎から少し離れた場所にある少し小高い丘だった。
そこには、柵に囲まれた小さな土地があり、そこに一頭一頭別けられた区域で育てられている仔牛がいる。大きさは大型犬よりも一回り大きいくらいだ。
人間が来ると、甘えるように鳴き続けるその姿に児童たちは思わず息を呑む。
「かわいいー」
「牡も牝も、仔牛は万が一にも大人達と喧嘩して大怪我しないように、こうやって隔離シマス。今回の年の仔は、特に甘えん坊デス」
仔牛の時期から母牛と離別させるかどうかは、牧場によって判断が別れる。早めに離別させれば成牛との喧嘩を防げたり、人慣れしやすかったりする。離さないのもメリット・デメリットがあるので、どちらが正しいかについてはドトウは分からない。たぶん、牧場主さん達もそうだろう。これは長年多くの畜産関係者が考えても決着のつかない話だ。
この辺りについては、特に言い淀む事もない。なにせ機会があれば母仔で対面させる事もある。産まれたばかりの仔を母親から引き離すのは心苦しいが、怪我のリスクを避けたり人間に慣れさせる事も大事だ。
ドトウは、子どもたちと仔牛が戯れるサマを静かに眺めていた。
「なした、ドトウさん。やっぱりこの前の仔の事、気にしとる……?」
牧場主の奥さんが、そのような事を耳打ちしてきた。
「…………」
ドトウは黙って頷く。彼女の表情は暗く、先程まで色々教えていた子どもたちに気づかれないよう俯いていた。
「……お仕事続けていくなら平気にならないといけないのに、私ったらだめだめです……」
ドトウはそう言ってため息をついた。彼女にとって、あの時の事は未だに尾を引いている。
しかし、奥さんからは意外な言葉が返ってきた。
「……私やウチの旦那だって、未だ平気にゃなっとらんよ。ただ、あんまり落ち込んどると他の牛が不安がるけんね」
そう言われ、ドトウは顔を上げた。目の前にいる奥さんは悲しそうに微笑んでいる。
その奥さんの様子を見ていたドトウの頭の中に、後悔の念だけがひたすらに埋め尽くした。
――あぁ、皆さんはちゃんと向き合ってあげられているというのに、何故私だけは目を背けているのでしょう……。
そう考えても、もう遅かった。あの仔に関しては、取り返しがつく事はない。
「大きなアルパカさんだー!」
「いや牛の一種でしょ」
牛舎の隅っこに寝泊まりしているシャトじいじは、その物珍しさから寝床の前へ子どもたちがすし詰めになって見学している。
「…………」
大勢の来訪客が騒いでいる事に耳をピクリと動かして気だるそうな顔をしているが、『幼子』という事は分かっているのかのっそりと部屋を隔てる柵に近づいて、子供達と見つめ合ったり鼻息を当ててちょっかいを出してきたり、噛んだりはせずに形ばかり愛想の良いパフォーマンスを取ってくれる。
「こーら、騒いだら牛さんのお昼寝の邪魔でしょう……え、これ牛?」
子どもたちの後ろからやって来た引率の先生が、子どもたちに注意をする。今まで見た事もない動物であるシャトじいじの姿に困惑を示しているが、シャトじいじはそんな事などお構いなし。驚いている先生の顔をからかうように一舐めしてから、子どもたちへ構うのも程々にまた寝床へ戻った。
その様子に、子どもたちはキャッキャと騒ぎ出す。引率の先生は、気を取り直すように一つ咳払い。
そして生徒全員を牛舎の中央に呼び戻した。
「こういった牛さんですが、ある程度大きくなった牡の牛や、役目を終えた乳牛は食用肉として出荷されます」
見学も大詰めになった頃合い。引率の先生と牧場主の旦那さんが、ついにその事を子どもたちに告げる。
「
「……えー、かわいそう」
「頑張って牛乳たくさん作ってくれたのに、殺しちゃうの?」
生徒たちは口々にそう言った。牛に愛着を示していた子や、仔牛を可愛がっていた子は露骨に嫌そうな反応を示している。
彼ら彼女らはまだ幼い。命の価値について深く考えた事の少ない年頃だろうし、こういう風に考えるのも仕方ない。むしろ、このくらいの考えでいてくれた方が、大人としては安心できる。
「この前の授業だと『ペットは責任取って最期まで飼う』って習ったばかりだよ」
「そうですね。でも、職員のお姉さんが話してくれた先程の話をよく思い返して下さい。彼らは、一日にたくさんの餌やお水を飲んで生きています。だから一日……えぇっと……」
「1000円ほど」
引率の先生が指折りで計算していると、牧場主の旦那さんが即座に答えた。
「そう、1000円はかかります。一ヶ月だと3万円くらいはかかるでしょう。長く生きて寿命は……」
「最大20年です」
「……20年。つまりは、単純計算で700万円ですね。もちろん、餌代以上に世話自体の手間だってかかります」
そう言うと、生徒達は押し黙ってしまった。納得したというよりは、考えさせられたといった感じだろうか。
子どもだからといって、無知な訳ではない。役目を終えた家畜を何頭も養うというのは無理難題である事は先生達の話から理解出来た。
「じゃあ、私お肉食べたくない」
一人の生徒がそう呟くと、他の生徒の何人かがそれに同調し始める。もちろん、そうでない子もいる。
「えー、お肉美味しいのに」
「お肉無駄にしたら、それこそかわいそう……」
それぞれの意見をもって、子供同士で議論が白熱し始める。食育の観点から、そういう事を考えるのも大事なのかもしれない。
そんな議論を、ドトウは一人ぼんやりとその様子を見つめていた。
「ドトウ?」
そんな彼女に気づいたタイキシャトルが、心配するように声を掛ける。ドトウはハッと我に返ると、慌てるように返事をした。
「ど、ど、どうしたんですかタイキさん?」
ドトウは、明らかに動揺している。その様子にタイキシャトルは訝しげに腕を組んだ。
「ドトウは近頃、元気なさそうにシテイマス」
風邪はもうとっくに治っているはず。なのに彼女の様子がおかしいのは、やはり――産まれた時から付きっきりで育ててきた仔牛が屠畜に出された事が、尾を引いているのであろう。
「……ワタシだって、アレはヤッパリ寂しいデス」
その点についてはタイキシャトルも同じだ、という風に肩をすくめる。彼女もまた、あの仔牛を可愛がっていた一人だ。
「ダイジョブですよドトウ。そういう気持ちモ大切な事デス」
タイキシャトルはそう言って、気丈に微笑んだ。
そんな彼女を見ていると、ドトウは余計に胸が締め付けられるような気分になる。
「……カウルとのお別れ、ちゃんとしてあげられませんでした」
ドトウは、彼女はポツリとそう零した。そして、そのまま俯いてしまう。
その様子から、彼女が何をそんなに悔いているのかタイキシャトルには察しがついた。
だからタイキシャトルは、何も言わずドトウの頭をそっと撫でた。まるで妹をあやす姉のように。
動物や知人の死に際して、目を背けたくなる人というのは決して少なくないという。
タイキシャトルは、宿舎の部屋に置いてあった本からそういう事柄があるのを学んでいた。
原因は色々あるが、その一つは『優しすぎるゆえに死を直面する事に心が耐えられない』という事が挙げられる。
それだけに、それが原因の人の大半は「何故看取ってあげられなかったのだろう」と後になってひどい後悔をする。
――
たぶん、この仕事をしていれば何度もその場面に出くわしてしまうだろう。それはドトウにとっても辛い事だろうが、しかし乗り越えていけると信じたい。
タイキシャトルも、出来る限り彼女の支えになろうとも心に決めていた。タイキにとって、何故だか彼女は放っておけないのだ。
「それじゃあ、職員さん達にお礼を言いましょう」
「ありがとうございましたぁー!!」
引率の先生が指示すると、生徒達は皆笑顔でドトウやタイキ、牧場主さん達へ言葉を向ける。結局のところ、児童の間だけでは屠畜の是非に関しての結論は出なかった。そういうのは学校の次の授業に持ち越しだろう。
生徒達は先生の誘導に従って牧場を後にする。帰り際に、先生は牧場主さんの元へ行き、改めてお礼の言葉を伝えていた。
「さて、と……」
ドトウは、おもむろに立ち上がる。まだ日は高い。牛達や、シャトじいじの世話がまだ残っているのだ。
生徒達への対応は牧場主さん達に任せて、ドトウは足早に厩舎へと向かっていった。
「……」
ドトウがやってくるなり、シャトじいじがドトウの事を見つめてくる。いや、しかしその視線はいつものような挨拶ではなく、何かを訴えかけるような視線だった。
「じいじ、どうしたんですか~?」
シャトじいじが居る場所を覗き込んでみれば……真っ先に目に入ったのは大きな毛玉――もとい猫。それがシャトじいじの寝床を我が物顔で使っている。
その事に気づいたドトウは、不満げなシャトじいじの顔とぐっすり寝ている猫を交互に見てから……中に踏み入ってその猫を抱きかかえた。
「だめですよー。ここはじいじの寝床ですから……」
ドトウがそういってなだめると、猫は不満げな鳴き声をあげる。……なんだか以前に見た事のある猫だ。確か、シャトじいじと出会った日に牛舎へ入り込んできた猫だったか。それ以来時々シャトじいじにちょっかいかけに来ている。
「使っても大丈夫なところに案内しますから」
そういって、今は使われてない寝床が無いかドトウは頭を巡らせる。
……一つだけ、あった。
そこは、今は何も使われていない小屋だ。元々、仔牛の個別厩舎として使われていた場所だ。
少し埃っぽいかもしれないが、雨風を凌ぐことはできる。牛に踏みつけられる事もない。
ドトウが早速その寝床まで猫を連れていくと、満足そうに鳴いて尻尾を振った。
「ここでいいでしょうか? カウルって仔が、前まで使ってたんですよー」
ドトウがそう言うと、猫は機嫌よさそうに喉を鳴らす。どうやらここが気に入ったらしい。
そんな様子を見届けたドトウは、猫の喉をコリコリと指で撫でる。気持ちが良いのか、猫はゴロゴロと気持ち良さそうにしていた。最近になって、なんだかこの猫とも打ち解けられた気がする。
「……猫さんは、誰かとお別れする時はどんな気持ちになりますか~……?」
ふと、ドトウはそんな事を訊ねた。もちろん、猫が真理を教えてくれるとは到底思ってない。単なる自問自答だ。
猫はちろりと舌を出してから、そのままドトウの手をさりさりと舐める。
答えてくれているのか、それともただの気まぐれなのか。
「……私は、とても寂しいです」
ドトウは、ぽつりと呟く。
仔牛の面倒を見るのは楽しかった。楽しいだけでなく、成長が嬉しくて仕方がなかった。
だけど、もうあの子はいない。周囲を見渡せど、ここで過ごしていたという思い出だけしか残らない。
その時、ドトウの視界が滲んだ。「ああ、ダメだ」と彼女は思う。涙を拭うが、それでも次から次に溢れ出てくる。
「……私は、別れたくないっ……」
それは、ドトウの本音であった。彼女の育ててきた仔牛は、もうこの世にいない。それに老犬のウィルさんも数年後にはお別れが来るだろうし、他の牛もお役目が終れば何頭も何頭も見送らなければならない。
シャトじいじも、年老いた牧場主さん達だっていずれはお別れの時が来る。恩師であるトレーナーだって、お友達であるタイキシャトルだって……。
カウルという牛が居なくなった事でその事実を実感して、ドトウはどうしようもない寂しさを感じずにはいられなかった。なんだか、いつか自分が一人がこの世に取り残されるような錯覚さえ覚えて、ドトウはずっと俯いたまま涙を流し続ける。
やがて猫が心配そうな様子でドトウに近寄り、ぺろりと涙が伝う頬を舐める。
そして、まるで「ついてこい」と言わんばかりに一つ鳴き声をあげて、歩き出した。
「猫さん……?」
ドトウは、猫の後をついていく。
猫の足取りは、ドトウが牧場外の山林の方へ向かっているようだ。気づけば雪がちらほらと降っている。
雪が降っている時は「絶対に山林に入るな」と牧場主さんから言われていた。もし吹雪けば、遭難してしまう事が容易く想像がつく。
「…………」
だが、ドトウの足は自然とそちらに向かっていった。猫の歩みは止まらず、ドトウも足を止められなかった。
猫は、数百メートル進んだ場所の前で止まった。
――その光景を見て、ドトウは息を飲む。
「……カウル、さん?」
ドトウは、うっすらとした雪のカーテンの向こうに現れた存在が信じられなかった。
猫に連れられてやってきた先には、若い牛の……カウルの姿があったのだ。
……そんなわけがない。カウルと同じ特徴的な模様をしているが、きっと他の若い牛が逃げ出したのだろう。
ドトウがそう思っていてなおも、その若い牛は確かにドトウの事を見つめてくる。ドトウは、思わずその牛の元へ駆け寄った。
ドトウが牛の首を抱くように手を回すと、若い牛はまるでいつものようにさりさりとドトウの肌を舐める。
ドトウは、その若い牛の身体をぎゅっと強く抱き締める。何故だか、そうしなければならないような気がしたからだ。
「あの時、ちゃんとお別れ出来ずにごめんなさい……」
ドトウは、小さく呟いた。
あの時、ちゃんとカウルにお別れの言葉を言えなかった事を、ドトウはとても後悔していた。
若い牛はドトウの言葉を聞いてから、ゆっくりと瞼を閉じて……やがて、のっそりと後ろの方へ振り返って歩み始める。
そして、別れの挨拶のように尻尾を振った。
「待ってくださいっ!」
それは「ついてくるな」という意味にも受け取れた。それでも、慌ててドトウはその背中を追いかけようとする。
途端、傍で見守るようにしていた猫が制止するようにぎゃあぎゃあと慌てふためくように鳴いた。しかし、ドトウは立ち止まる事は出来なかった。
ここでもう二度と、会えなくなるという確信めいたものがあったから。
「ドトウッッ!!!!!!!」
後ろから、聞き慣れた声が聞こえた。
ドトウが振り向けば、そこにはドトウを追ってきたのであろうタイキシャトルがいた。
彼女にしては珍しく、ひどく怒ったような、そして動揺したような顔つきでドトウの事を睨んでいる。
「タイキさん、カウルさんが向こうに……!!」
そう言って、ドトウは指をさす。それをよく聞きもせず、タイキシャトルは何を言うよりも先にドトウの手を掴んだ。
「そこにいたら危ナイです!」
ドトウを叱り、諭すようにタイキシャトルは言う。
それがどういう事なのか分からずに、ドトウは改めてカウルらしき牛が居る方へ視線を移した。
あの牛はいつの間にか姿を消していた。既に雪のカーテンは晴れている。
……そこにあったのは、まるで何もない、切り立った高い崖だった。
「……え?」
ドトウは、呆気に取られる。先程まで居たはずのカウルは、跡形もなく消え去ってしまっていた。それどころか、彼が歩いていた道は歩けるはずもない崖がある。
まるで夢でも見ていたかのような気分にさせられるが、ドトウの腕には確かにカウルを抱きしめた感触が残っている。
「…………」
ドトウは、その手で自分の頬を強くつねった。痛い。間違いなく現実だ。
「どうしたんデスかドトウ。まさか、思い詰めすぎて……」
タイキシャトルは、ドトウの顔を見て心配そうな表情を浮かべる。
ドトウは、そんな彼女の言葉に首を横に振る。
「……むしろ、少し割り切れたかもしれません」
ドトウの目尻からは、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。タイキを心配させないように、急いで拭う。だけど、涙が溢れ出すのを止めることは出来なかった。タイキシャトルは自分が怒ったせいでドトウが泣いているのかと思い込み、あたふたとする。
「と、トモカク! 一旦、お家に帰りましょう! 牛さん達の世話も、残ってマス!」
タイキシャトルは慰めるような笑顔を浮かべながら、ドトウの手を引いて宿舎へと連れ帰ろうとする。
ドトウは、まだ涙が止まらない。だけどタイキシャトルに引かれるがままに、ドトウは歩き出す。
「……さようなら……」
最後にドトウは、崖の先に歩いていった若い牛へ向けるように、小さく呟いた。
牧場へ戻る道すがら、ドトウは一連の出来事をタイキシャトルに話した。
タイキは半信半疑と言った様子であったが、それでも最後まで聞いてくれた。
「……そういえば、タイキさんはどうして山林の中へ?」
ドトウは、ふと気になった疑問を口にする。自分は猫に導かれるようにやってきたが、タイキシャトルは何を理由にやってきたのだろう。
すると、タイキシャトルは釈然としない様子の表情をしていた。
「……シャトじいじが、トテモ不安そうにしてマシタ。『急いでドトウを探せ』と言わんばかりに」
タイキシャトルは、そう答えた。
「……それで、なんだか無性にワタシも不安になって……ドトウの姿が無い事に気がついて、外を見回してたらドトウの足跡が山林に向かっているのを見つけて……」
……こちらもこちらでなんとも信じがたい話ではあるが、嘘をついているようには見えない。
実際、タイキシャトルが来なければドトウはあのまま崖へ真っ逆さまに落ちていたかもしれない。ドトウは、思わず笑みをこぼしてしまう。
「それじゃあ、シャトじいじにもお礼を言わなきゃいけませんね」
そう言うと、タイキシャトルの方から微妙な視線を感じる。
ドトウは苦笑いしながらタイキシャトルの手をぎゅっと握った。
「……心配してくれて、ありがとうございます。タイキさん」
タイキシャトルは、ちょっと照れたような顔をして、ドトウに引っ張られるようにして歩く。
――たとえいつかお別れが来るとしても、目を逸すより、ちゃんと向き合った方がずっとずっと……。
……二人は手をしっかりと繋いで、帰路についた。