今回はデビュー前から現役時のものです。
本編に比べれば断然短いです。
数日前に入厩した一頭の牝馬が話題になっていた。
綺麗な栗毛やクリっとした顔立ちもさることながら、その小さな馬体と温厚な性格のおかげで、正しくアイドルのような扱いを厩務員から受けていたからだ。
話を聞くと気になるのが人というもので、その噂話は、厩務員から調教師へ。また調教助手へと行き、さらには騎手にも広がることとなった。
「お疲れ様です。お茶が入っていますよ。」
「ありがとうございます。そういえば、調教終わって近かったから寄ったんですけど、いや、マジでかわいいっすね、あの仔。もう仔馬じゃないんですけど、仔って言いたくなりますし、構いたくなっちゃいます。」
「あっ、先輩も見に行ったんですね。僕も行きました。すごくかわいいですよね。」
「ていうか、皆さんあの仔に会いに来すぎですよ。わたしが担当なのに、少し目を離すと皆さんが世話しようとするんですもん。同じ厩務員ならわかりますけど、あんたら調教助手だろって言いたくなります。」
「そこらへんはちょっと申し訳ない。でも、あれは無理だって。止められないですよ。気難しいサラブレッドが多い中で、穏やかだし、愛想はいいし、寝てない限り、こっちの相手してくれるんですよ?しかもそれがストレスになっている様子もないとくれば、会いたくもなるってもんです……。先生も許可を出しているんですよね?」
「まぁ、そこはわかります。わかりますけど、うーん、先生の許可がなければこんなことを思わずに済んだのかなぁ……恨むべきは先生か……。」
「僕がなんだって?」
「あっ、先生。いや、だってわたしのフロウレスちゃんに唾つける人が多すぎるんですもん。」
「いや、君のではないけどね……。まぁ、手はかからないし、一人でいるとどこか暇を持て余している雰囲気があるからね。いろんな人に会わせて気を紛らわせてあげようと思ったんだけど、まさかこんなことになるとは……。」
「やっぱり先生のせいじゃないですか。まぁ、わたし以上に懐いてくれている人はいないと思うので、良しとしますけどね。なんたって、わたし以外にハグできている人はいないみたいですから。」
「あー、そういえば、ハグしている人は確かに見たことないですね。でも単純に、ハグしようとする人がいないだけじゃないですか?」
「そんなことないです。フロウレスちゃんが浮気することはありません。」
「浮気ってあんた……。まぁ、今度ハグできるか試してみようと思います。そしたら厩務員さんと同じ土俵に立てますね。」
「ふふん。受けて立ちましょう。わたしとフロウレスちゃんの間に入ろうとするなんて無理ですから。」
「いや、まだここにきて数日程度の絆だよ?いくらでも割って入れると思うけどね……。」
「あー!先生までそういうことを言うんですか。いいですよ。水浴びにブラッシング、語り合ったわたしたちの絆を見せてあげます。」
こうして何人ものトレセン関係者たちがフロウレスにハグを敢行したが、残念ながら、担当厩務員以外には達成することはできなかったそうな……。
もっとも、色んな人がハグしようとするから気を付けてねと、担当厩務員がフロウレスに語り掛けたせいではないかと噂になるぐらい、彼女は何度も語り掛けていたらしい。実に恐ろしき執念である。
ただし、鞍上を務めあげた彼には、香港ヴァーズの後、引退式でハグをすることが許されたらしく、それを見た彼女は、浮気されたと泣くことになるのだが、これはまた別の話……。
厩務員から来る微笑ましい話題と、調教師から来る話題とでは、やはり異なっていた。
それは、本格的に調教が始まった初日の出来事だった。
調教助手が二人続いて落馬したのである。
原因は、フロウレスの加速で、準備運動からさあ、いくぞと加速を指示した調教助手が、あまりの加速にバランスを崩して落馬したのである。
幸い二人とも怪我は打撲程度で軽傷だったのだが、二人も続いたということで、調教師は、今日を含め、これからの調教をどうしようかと頭を悩ませた。
そこへ別の馬への最終追い切りの調教を終えて通りかかり、落馬の様子も目撃していたある騎手が調教を手伝いますよと声をかけてきた。
「申し出はありがたいですが、これは、最終追い切りどころか、ここにきて初めての調教です。そして、二人目は加速がすごいと聞いた上での落馬です。もしものことがあって、週末のレースに支障が出ては各所に申し訳ないです。」
「まぁ、そこは信じてくださいとしか言いようがないですね。それに、調教中に落馬する可能性は常にゼロではありません。そこが怖くなってしまったら、騎手は引退ですよ。」
「そうかもしれませんが、やはり多くの騎乗依頼を抱えている方に手伝って頂くのは、やはりどうしても気が引けます。」
「それにですね。打算的なところが無いわけではないんです。落馬した時の様子を見ていたのですが、落馬直後にあのフロウレスは、調教助手の彼のところに駆け戻ってきたんですよ。まるでキーストンのようでした。まだ初日で、関係も出来上がっていないだろう調教助手ですら、ああして心配して戻ってきてくれるんですよ。調教も鞍上もずっと務められたら、どうなるのか気になるじゃないですか。そういった意味で僕はあの馬に惚れて、自分を売り込んでいるんですよ。」
「……わかりました。そこまでおっしゃるなら、よろしくお願いします。」
さすがに現役の騎手は上手だった。
難なくフロウレスの加速を乗りこなし、調教師のオーダー通りにいろいろ試すこととなった。
「いやぁ、おもしろい馬ですね。スタートからトップスピードまで、スプリンター張りの加速を持っています。ただ、一定の速度になると必ず緩めますね。その後の息は長いから、長距離の方が得意だとは思いました。」
「なるほど……。確か牧場にいたときから、繫殖牝馬になったとはいえ、あのイクノディクタスを相手に走り回っていたそうです。しかも、イクノディクタスよりずっと長い時間を走り回っていたとも聞いています。スタミナは、母もありましたが、やはり父の影響が色濃く出ているのでしょう。息の長さに関しては、これからどうなるのかが気になるところですが、今現在にしても完成度が高すぎる。タイムを見ても、このまま長距離レースに出られそうなぐらいです。」
「初日から、割と豊富なメニューをこなしましたしね。」
「思った以上にこちらの要求に応えてくれましたからね。やりすぎには本当に気を付けないと……。」
「しかし、あの加速は何も聞かずに乗るのは危険でした。一人目の調教助手の方には申し訳ないけど、必要な犠牲と言っても良いぐらいでしたよ。」
「それほどですか。走っている映像を確認しましたが、小柄故の加速力とは少し違うように思いました。走法としてもピッチではなく、スライドです。そのスライド走法を、全身を使うことで、ピッチ走法のような加速を生み出しています。体格のハンデから、加速に関しては、まさしく全身全力で走っていると思います。厩務員にも異変がないかどうか、毎回チェックさせましょう。」
「そうですね。壊れてしまってはせっかくの素質がもったいないです。」
「あと、おそらくですが、スピードが緩んだと言っていましたが、緩んだと言うよりは、ペースに入ったというのが正解だと思います。これはラップタイムの記録です。見てください。」
「……!そういうことですか。通りで差しや追い込みを意識したようなオーダーが来ないとは思っていました。これを母のイクノディクタスと走ることで自ら見つけ出したということですよね?だとしたら怪物ですよ。」
「どれくらいの距離を走ることが出来るのかを測る必要がありますが、走り続けられるなら、おそらく長距離なら敵はいなくなるでしょう。」
「調教終わりの様子から見ると、まだまだ走れそうでしたね。」
「はい。僕も調教後の様子は確認しましたが、明日は1ハロン増やした内容にしてみます。明日も来られますか?」
「来ます。是非とも乗せてください。」
「わかりました。私もオーナーに騎手自ら手伝いたいと申し出ていることを連絡してきます。」
こうして、調教師と騎手によるデビュー前とは思えない調教をさらりとこなしていくフロウレスであった。
当の馬としては、たくさん走れて楽しい程度の感覚であったが、調教師からすると、小躍りしたくなるほどの素質馬との出会いであった。
あまりにも調教師が褒めちぎるので、その様は拡散していき、トレセンにいる調教助手含め、騎手までも、時間が合えばフロウレスの調教の様子を見に来るようになった。
そして、自分も調教の手伝いをさせて欲しいと申し出る者たちが何人もいたが、頑としてかの騎手は鞍上を譲らなかった。かの厩舎に属する調教助手ですら、フロウレスに調教で乗れたのは、かの騎手の10分の1にも満たないと語っている。
ここまでくると、嫉妬深い亭主のような感じだろうか……。実際、かの騎手の奥さんは、当時のことをこのように語っている。
「あの5年ぐらいは、寝ても覚めても、フロウレス一色だったように思います。あれは完全に浮気ですね。馬を相手に言うことでもないかもしれませんが……。そこまで言うのならと、一度特別に会わせてもらいに行ったんです。そしたら、これがまたかわいいんですよ。こんなかわいい馬なら仕方ないって思ってしまいました。それからはわたしの方がファンですね。今でも北海道でスケートをする時には毎回牧場に会いに行ってます。ありがたいことに牧場から特別に許可をくださいまして、会わせてもらえるんですよ。主戦騎手の旦那をもって良かったと、そこは本当に感謝してます。というのも、ちゃんとわたしのこと覚えていてくれているんですよ。放牧中でも絶対にわたしに気が付いて近くまで来てくれるんです。まぁ、彼女の旦那さんがピッタリ張り付いているので二人きりではないんですけど……。いずれにせよ、今は夫よりわたしの方が確実にフロウレスに会っていますね。」
デビュー戦から負けなしで臨んだ第4戦、4月21日サンスポ賞フローラS(G2)。
オークスのたたき台に設定したこのレースで、フロウレスは初めて稍重の馬場を経験することになった。
すでに1000m60秒の精密機械っぷりは広まっていたのだが、4か月の休養をはさんでいることや、重い方に分類される稍重の馬場は、フロウレスにとっては初めての経験であることから、評論家たちは、きっと精密機械が狂うだろうとのコメント残していた。競馬新聞に掲載されたため、一番人気には推されていたものの、オッズとしては少し高くなった。
「みんな分かっていないなぁ。僕は今まで馬場についてもしっかりコメントを残してきたと思っていたんだけど……。」
「まぁ、仕方がないんじゃないですか。やっぱり世間じゃペースをキープする力の方に目が行ってしまうと思います。というか、わたしはどっちかというと、この雨と馬場の状態で、フロウレスちゃんの綺麗な毛並みが汚れてしまうことの方が気になります。」
「いや、まぁ、多少は汚れるだろうけど、先頭を駆けてくるのだから、そんなに汚れないんじゃないかな……。」
「それは分かっていますけど、わたしは、日に照らされて綺麗に輝くフロウレスちゃんの毛並みが見たいんです。ターフに輝く栗毛……最高に映えるじゃないですか。」
「君のそういう素直なところは美徳だとは思うけど、方向性がなぁ……。」
「何言っているんですか。わたしのフロウレスちゃんが負けるわけがないじゃないですか。勝って、映えて、目の保養にもなる。今日はその一つが欠けているんです。言いたくなっても仕方がないです。」
「なるほど……。君をフロウレスの担当にして正解だったと思うよ。」
「ありがとうございます……って、それって今まで正解だとは思っていなかったってことですか?ちょっとショックです。」
「そこは素直に受け取っておけば正解だったかな。」
「今日は何なんですか、先生。いいですよ。わたしは勝った後にフロウレスちゃんを綺麗にすることだけ考えることにします。」
「いや、口取り式とかいろいろあるでしょ……。」
雨だろうが、稍重だろうが、精密機械が狂うことはなく、24馬身差の圧勝でフロウレスは勝った。
「さあ、フロウレスちゃん、もうしばらく我慢してね。口取り式が終われば綺麗にしてあげるから。さぁ、オーナーお手をどうぞ。」
「相変わらず大人しいな、フロウレスは。こんな気を遣わずに口取りが出来る馬ってなかなかいないんだけど……。」
「それはフロウレスちゃんが特別なだけですね。綺麗、かわいい、強い、大人しい、まさに完璧です。」
「君が声高にそう言ってくれるようになって馬主としても嬉しいよ。最初はお花のことですか、かわいいとか言っていたくらいだからね。」
「わわわ、さすがにそれは恥ずかしいから言わないでください。わたしそんなに英語が強くないんですから。」
「しかし、オーナー。このまま距離を伸ばしていけば、おそらく戦績としてもフロウレスになるかと思いますよ。息が長いこと、馬場に左右されない脚。怪我にさえ注意していれば良いと思います。君もそう思うよね?」
「そうですね。今日乗っていて確信しましたが、スタミナと同じぐらいパワーがありますね。馬体からはちょっと想像しにくいですが……。確かにフロウレスは、息が長いし、ペースを保つことに目が行ってしまうと思います。しかし、パワーあってのスタート時の加速ですし、パワーあっての馬場適正だとも思いました。重い欧州馬場でも全然やっていけるはずです。」
「なるほど……。そこまで言うなら4歳シーズンは海外を視野に入れましょうか。世界の長距離をかっさらってみるのも面白いかもしれませんね。」
「さぁ、口取り式も終わったし、フロウレスちゃんは綺麗になりましょうね。先生たちは難しい話をしていたけど、フロウレスちゃんは気持ちよく走ってくれればいいんだから。」
「また、君は軽いんだから……。」
ウキウキしながらフロウレスと共に去っていく厩務員を尻目に、残った三人は今後について今しばらく話すのだった。まさかデビュー4戦で、しかも口取り式で、ほぼ全てのローテーションが決まったとは誰も思うまい……。
もう少し広げられるなとは思いますが、わたし自身があまり長々と一つの出来事を引き伸ばすことが好きではありません。
物足りなさは残ったかもしれませんが、ご了承ください。
繫殖牝馬時代の番外編についてはもう少しかかります。