例えば、学校遠足前日の夜になかなか寝付けない。俺、
東京都高度育成高等学校の初登校日。
行きのバスの中で俺はウトウトと居眠りをしていた。
こういう節目的な日は、前の夜によく眠れない。
眠れない夜は正典を読むに限る。『バスカヴィル家の犬』を全部読みかえしてしまった。
シリーズ屈指の構成力は、ミステリーとして、冒険譚として、珠玉の逸品といえるだろう。
おかげで、バスの座席に座るとすぐに睡魔が襲ってくるのだが…
しかし常に正典を読みかえすのは、かの名探偵シャーロック=ホームズを崇敬する者にとって、義務のようなものである。
あ、そうだ、王立医師協会の研修医制度に関する文献は、入手可能だろうか。図書館は大きいとは聞いているが。昨日読み返して疑問に思ったのだが、モーティマー医師のキャリア、中でもチャリング・クロス病院の若手…研修医制度…に…そった…出世…コース……むにゃむにゃ…
………
……
?
何かのはずみにふと覚醒した。
考え事をしながら寝ていたらしい。
いつのまにかバスは混雑していて、客の大半は俺と同じ制服を着ている。
先程からぼんやり聞こえていた、言い争う声が耳に入ってくる。
ちらりと見ると、優先席でふんぞり返っている金髪高校生。
OLが老人に席を譲るように文句を言ってる、ということのようだ。
あー、見るからにこのお婆さんには席を譲ったほうが良いかも…
推理するまでもなく、腰も曲がってる。
長時間立っているのはきつかろう。
シャーロック=ホームズを見習って、老婆の服や指先を見ながら観察してみる。
いつものことながら、まったくわからない。
はーっとため息をつく。
さて、どのタイミングで言い出すべきか。
OLさんは明らかに引っ込みがつかなくなってる。
「あの……私も、お姉さんの言う通りだと思うな」
おや?同じ制服を着た美少女が参戦してきた。
美少女。美少女です。大事なことなので2回言いました。
やや小柄、明るいブラウンのボブ。そして胸が大きい。
パッチリした瞳。老人を思いやる心細げな表情。そして胸が大きい。
「今度はプリティーガールか。どうやら今日の私は思いのほか女性運があるらしい」
金髪が呑気なことを言った。
イラッとするのを通り越して、怖くなった。
イタいとかじゃない。何かがズレている、コイツ。
関わらないようにしよう。
「皆さん。少しだけ私の話を聞いて下さい。どなたかお婆さんに席を譲ってあげて貰えないでしょうか?誰でもいいんです、お願いします」
よし、ここだ。
「あのーここ、どうぞ」
声を出した以上、一気に言い切る。
腰を上げて、座席の横に立つ。社内の注目が一気に自分に集まるのを感じる。
俺の行動に気がついた美少女の顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとう!」
いやー、美少女に御礼言われるのは嬉しいなあ!
情けは人の為ならず、とはよく言ったものだ。巡って己の為になる…だったっけ?
俺の高校生活、幸先いいかも知れない。
「いえいえ、どうぞどうぞ」
見知らぬおばあさん相手だけど、ついつい親切に声掛けして、座るのを手伝ってあげます。
入学式の日、しかも朝一番にイベントがあるなんて、まるでライトノベルだ!
このまま、彼女と親しくなって楽しい学校生活を遅れるんだろうか?
そこでふと気がついた。
正面の窓ガラスにニヤニヤした俺の顔が写ってる。
一気に萎えた。
どう見てもキモい。
顔面偏差値並程度の俺でも、このニヤケ顔はマズい。
あの子に見られてないよね…?
…よし。夢を見るのはやめておこう。
俺が立てるスペースを探して移動したら、かの美少女とはちょっと距離ができた。もう考えないようにしよう。
ぼんやりと窓の外を眺める。
次にこの光景を見るときは卒業の日になるのか。
完全全寮制で外出禁止。外界と隔離されたエリート育成校、それが東京都高度育成高等学校。
俺が通う実力至上主義の学校だ。
九州田舎都市出身の俺がこの学校に入学したのは、ひとえに親の海外転勤のせいだ。
転勤の話しを最初に聞かされた俺の脳内は、お察しいただけるだろう。
花の高校生活、自宅で一人暮らし、親の手配で突然現れた幼馴染の女子が毎朝おこしに来て…
いやいや、ある日浴室の鏡が異世界につながって、ネコミミ美少女が現代社会にやってくるかもしれない。なお、机の引き出しから出てくる猫型ロボットはお呼びでない。
しかしああ無情、親の選択は全寮制の高校に息子を放り込むことであった。
学費経費その他いっさい無料のこのエリート校が、俺の進学先になったのである。
ラノベ主人公的高校生活を阻んだ俺の両親は、インドに赴任していった。
イギリスならいざ知らず、インドは行きたくない。
英領インドは確かに軍医ワトソンの勤務地である。しかし行きたくはない。
なぜなら、インドでは街の通りで誰かが歌いだすと、みんなでそろって踊るのだ。
ホントかって?動画サイトでやってたから間違いない。ちなみに俺は踊れない。
バスを降りた制服の一団が学校の敷地内に入っていく。俺もその中に混じって歩いていく。
学校の敷地は一つの町サイズほどあるらしい。シャープなデザインの校舎に、かなり緑地が多くて落ち着いた雰囲気だ。
「あの、すみませんっ!」
背後でタッタッタと早足で近寄ってくる音、そして声をかけられる。
振り返ると、さきほどの美少女が立っていた。
「あ、どうも…」
つい陰キャラ対応してしまう。
「さっきはありがとう」
美少女のお礼付き笑顔は、朗らかという言葉がぴったりだ。
今まで会話したことのある女子の中でも一番可愛いかも。
「いえ、どうということも」
「そんなことないよ。あんな空気になって、自分から言いだすって、勇気いるから」
「…し……俺は席を譲ったほうが良いと思ったから…」
「紳士として当然」などと、イタいことを言ってしまうところだった。
それになんとなく周囲の眼が気になって。
歩き始めた俺に、美少女は並んで歩き始めた。
「うん、そうだよねっ!」
まぶしい。美少女の笑顔がまぶしい。
「良かった、バスの中じゃお礼もちゃんと言えなかったし」
「き、気にしなくても大丈夫だよ」
「ううん、私が言いたかったの。入学式の日に…えっと」
美少女はそこで口ごもって。
「私、櫛田桔梗です。同じ1年生だよね?」
「うん。惣中、惣中高史」
「そうじゅうくん?どんな字を書くの?」
「そうは惣菜の惣、じゅうは上中下の中」
自分の手のひらに指で書く。この説明も馴れたものだ。
「そうなんだ、珍しい名前だね」
「うん、よく言われる。櫛田さんは花の名前だよね」
「そうなの、ちょっと古いかなあって思うんだけど」
「そうかな?良いと思うよ」
「ありがとっ」
字面こそ順調そうだが、俺のなかでは1秒毎にコミュ障ライフゲージがガリガリ削られている。
それでもポンポンと話しが続くのは櫛田さんのおかげだ。美人で明るくていい子だ。
「入学式の日に、惣中くんのような親切な人に出会えて、ほんとによかったと思ってるんだよ」
「う、うん」
これってフラグなんだろうか?などと考えちゃう俺チョロいよねえ…
多分顔が赤い。
歩きながら進むに連れて、周囲は生徒の数が増えてきた。知り合い同志なのか、あちこちにグループが出来て、話し声で賑やかになってきた。
「惣中くん、私、この学校のみんなとお友だちになるのが目標なの」
「そうなんだ、櫛田さんすごいねえ」
「惣中くんもお友だちになってくれる?」
「えっ…」
俺も対象なの?櫛田さん本気なんだ。
「…迷惑、かな?」
「そそそそんなことないよ、もちろん良いよ」
上目遣いで見られた。急いで会話の選択肢を選びなおす。
「また声かけるから、連絡先交換してねっ」
「うん、もちろんだよ」
「ありがとう。じゃ、また」
櫛田さんの後ろ姿を見送る。
登校初日からこんなに女子とおしゃべりできるなんて。
俺の高校生活はじまったな!
いやいや待てよ。
ホームズを崇敬する人間としては、女性との恋愛などという感情的な要素は必要ない、はずだ。
女性は礼儀正しく遠ざけるもの。
『惣中君もお友だちになってくれる?』
櫛田さんの笑顔がちらちらする。
材料が少ないのに考えても意味はない。
よし。
保留にしよう。
作者注)本作での携帯電話類は、このあと出てくる学生証端末とセットになったものにしています。よってこの時点では持っていません
6話を毎日18時に投稿します。