入学して一週間経とうかという頃。
朝登校した俺が席に座ると、平田君が声をかけてきた。
「おはよう、惣中くん」
「おはよう、平田くん」
「惣中くんは放課後、どこかにいってるのかな?」
「図書館だけど、どうしたの?」
この1週間ずっと、放課後になるとすぐに図書館に通っていた。
閉館までホームズの本を読みふけり、文字に疲れると動画を見ていた。至福の日々。
「放課後すぐに帰ってるようだったからね。勉強?」
「いや、調べ物だよ」
「そうなんだ」
平田君はすこし間をおいて口を開いた。
「今日の放課後、みんなで遊びに行くんだけど、惣中くんも一緒に来ないかな?」
思いもよらぬオファーに、ぐっと詰まってしまった。
しかし実は今日から、図書館ボランティアの活動が始まるのだ。
「…なにか用事でもあるのかな?」
こちらが明らかに止まってしまったので、平田君が気遣ってくれた。
「みんな」というのは、今隣でテレビの話題に興じるふりをしながら、聞き耳を立てている三人組が中心であるのは明白だ。
「…その、今日から図書館でボランティアをする約束になっていて…その…ごめんけど…」
「ああ、もちろん良いよ。次の機会にはぜひ参加してよ」
「も、もちろんだよ、ありがとう」
ふーっ。
「ねえ、惣中くん」
今度は松下さんだ。
「ちょっと聞こえてきたんだけど、図書館のボランティアって、なに?どんなの?」
「図書館のお手伝い、俺も今日が初めてだから詳しくわからないけど、本の片付けとか?」
「ふーん」
反応が薄いなあ。膨らませないといけないのだろか。
と思っていると、教室の反対側で急に男子たちが集まり始めた。
女子の胸の大きさランキングで賭けをしているようだ。今日の水泳授業で鑑定を行うらしい。
「俺もやるぜ」「俺も俺もっ」「俺のおっぱいスカウターを舐めるなよ」
みんなはしゃいでいるが、そういうのはもっとコソッとやるもんじゃないのかな…
ちなみにスカウターの初出は1988年である。
「キモっ」
聞こえてきた軽井沢さんの声で、背筋に寒気がはしった。殺意がこもっていた。
池君たちのことだよね?スカウターの初出を知ってることじゃないよね?
「俺も賭けるぜ。ちなみに佐倉だ」
俺も顔をしかめざるを得ない。オープンで個人名を出すと丸聞こえだぞ、山内君。
さすがの平田君も苦笑を禁じ得ない様子だ。
「サイテー」
「死ねばいいのに」
と松下さんと篠原さん。篠原さん、視線で殺せそうだ。
「ああいうの、ないよね」
「うん」
何故か松下さんが俺に同意を求めてきたが、内容だけに即答である。
しかしここで読者諸兄には、正直に告白しよう。
俺とて男子である。おっぱいにはもちろん興味がある。
「ねえ、平田くん、やめさせてよ」
「あの感じだと、言っても聞かないだろうね」
されど大きさを競うというのは、いかがなものであろうか。
諸兄には誤解ないものと思うが念のために。俺は貧乳派では断じてない。
「まじムカツク」
「あー、なんか水泳ユウウツになってきた…」
その子の胸の大きさは、その子に合った大きさに定められている。
これを変えると、身体のみならず人格全体が変質してしまうのである。
このことについて、俺は驚くべき証明を思いついているのだが、それを記すにはこの余白は…
「惣中くんはスポーツは水泳って言ってたよね?」
「あ、うん。昔習ってて」
平田君が話しを振ってきた。
「へー、泳ぐの速いの?」
「遅くなったかなあ、受験勉強で半年ぐらい泳いでないし」
珍しく軽井沢さんが話しを拾ってきた。
事実受験太りで、腹回りなどかなりぽっちゃりしてしまっている。
「平田くんも速そう」
なるほど、そっちに持って行ったか。
「そうでもないよ」
「おまえたち、席にもどれ」
平田君が答えたところで、担任が入ってきて、話しはそこで終わった。
☆~~☆
「うひゃあ、やっぱこの学校はすげえなぁ!」
池君の歓声がプールの静かな水面に響き渡る。すぐに男子たちがぞろぞろ出てきて、みんな興奮を隠せない様子だ。
たしかにきれいなプールだ。悲しいかな、近視の俺はメガネを外しているので、かなりの距離まで近づかないとぼんやりとしかみえないのだが。見えないと観察も推理もできやしない。
「うわ~。凄い広さ、中学の時のプールなんかより全然大きい~」
女子陣がプールに登場したらしい。
「き、来たぞっ!?」
女子たちの声がする方に目を向ける。確かに水着女子たちだ。
しかし顔がぼやっとしか見えないので、個体識別はまだ無理である。
具体的にいうと、どの子が櫛田さんかわからない。
「長谷部がいない! どういうことだ!? 博士っ!」
眼鏡を外した俺には、いるのかいないのか、さっぱりわからねえ。
男子たちの嘆きを聞くに、巨乳ランキング予想の上位陣がこぞって見学を選択したらしい。
池君と山内君のはしゃぎっぷりを見たら、当然といえば当然だろうな。
「二人とも、何をやっているの?楽しそうだねっ」
「く、くく、櫛田ちゃん!?」
櫛田さんが登場したらしい。池君と山内君が狼狽している。
近くに来ると櫛田さんらしいとわかる。目の悪い俺にもわかる確かな大きさだ。何の大きさかは聞かないでほしい。
もう櫛田さんの優勝でいいんじゃないかな。
「よーし、お前ら集合しろー」
脳内で水着ミスコン授賞式の櫛田さんを想像していたら、体育教師から集合がかかった。
俺がムッツリだって?勝手に言ってろ。
「早速だが、準備体操をしたら実力が見たい。泳いでもらうぞ」
「あの先生、俺あんまり泳げないんですけど…」
「俺が担当するからには、必ず夏までに泳げるようにしてやる。安心しろ」
何がどう安心なんだろう。
「別に無理して泳げるようにならなくていいですよ。どうせ海なんかいかないし」
「そうはいかん。今はどれだけ苦手でも構わんが、克服はさせる。泳げるようになっておけば、必ず後で役に立つ。必ず、な」
必ず役に立つ?
夏に試験があるんだろうか。それとも遠泳大会とか?俺は困らないというか、むしろ楽しみだけど。
生徒にやる気を出させるのは、試験か大会があると言うのが一番だ。しかしそんな様子もない。気にはなるが質問はやめておこう。俺の質問で教師が余計なことを考えたら大顰蹙をかう。
もしかして、服を着たまま水に放り込まれるイベントでもあるのかな。新入生歓迎会とか言って。怖すぎる。泳げるようになっても、服を着たまま水に入ると普通に溺れるぞ。
考えているうちに準備体操が始まり、そのあとは50メートル軽く泳ぐ。
そして泳ぎ終わった順から一旦水から上がり、全員整列する。
「とりあえずほとんど者が泳げるようだな」
「余裕っすよ先生。俺、中学の時は機敏なトビウオって呼ばれていましたから」
先生のコメントに、池君が自慢げに答える。でもそんなに早くなかったはずだ。
「そうか。では早速だがこれから競争をする。男女別、50M自由形だ」
「き、競争!? マジっすか」
「1位になった生徒には、俺から特別ボーナス、5000ポイントを支給しよう。一番遅かった奴には、逆に補習を受けさせるから覚悟しろよ」
先生の宣言に歓声と悲鳴が交錯する。
いきなり競争とボーナスとペナルティとは。結構ハードな学校に来ちゃったのかもしれない。
自由形か… しかし水泳ということであれば1位を狙っていこう。
こうみえても、中学のとき俺より速かったのは、水泳部のトップぐらいだったし。
「女子は人数が少ないから、5人を2組に分けて、一番タイムの早かった生徒の優勝にする。男子はタイムの早かった上位5人で決勝をやる」
まずは女子からスタートということで、男子はプールサイドに待機である。
「櫛田ちゃん櫛田ちゃん櫛田ちゃん…」
池(もうこいつを君で呼びたくない)がものすごくはぁはぁしている。
山内(こいつもいらないよね)になだめられているが、効いていないようだ。
櫛田さんが泳ぐのだろうか。見えないなりに見ておこうと思ったが、やっぱりよく見えない。
1組目がスタート。最初にリードを取ったコースがそのままゴールした。
「お~~~! やるなあ掘北」
1位は堀北さんらしい。
続いて第2組。
池が櫛田ちゃーんと声援を送っている。4コースの子かな?
あ、こっちに手を振った。
「うひょおおおおおお!」
一気に周囲がざわめいた。
アイドルの競技会みたいなノリになってる。櫛田さん頑張れ。
注目の第2組だったが、水泳部の小野寺さんがぶっちぎりで勝った。
非常に美しいフォームの泳ぎだった。目が離せなかったくらいだ。櫛田さんごめん。
一方男子たちは、櫛田さんの敗北に思いっきり盛り下がっていた。ロコツ過ぎじゃね?
男子は4人4グループの16人だ。俺は4組に入った。
第1組は赤髪の須藤(こいつも敬称は不要だろう)がやる気満々。
いかにも体育会系という体の大きさだ。隣コースの推定綾小路が細く見えるぐらい。
泳いでみると須藤がぶっちぎり。割ときれいに泳いでいた綾小路が、のろく見えるぐらいだ。
須藤の記録も24秒台。今のタイムで全国大会に行けるぞ。
俺は26秒切るのが精一杯だったのに、それをいとも簡単に…
「須藤、水泳部に入らないか?練習すれば大会も十分狙えるぞ」
「俺はバスケ一筋なんで。水泳なんて遊びっすよ」
教師の勧誘も当然だ。力任せの泳ぎであれだけの記録を出せるのだから。
しかしバスケが好きなのは良いが、他の競技をお遊びと言うか。イラッとするな。
2組目。平田君がスタート台に上がると、女子たちが歓声を上げる。
平田君は女子の歓声を背に、悠々と1位で泳ぎきった。記録は26秒13。
驚いた。トレーニングを受けてるように見えないのに、こんな速いヤツらがいるなんて。
「平田くん、すごく格好良かった!」
女子が平田君に群がっている。それを傍目に面白くなさそうな男子という構図。
「ちょっと、何平田くんに色目使ってんのよ!」
「はあ? 色目使ってるのはそっちじゃないの!?」
とうとう言い争いが始まった。
「やめたまえ。私を巡って争いをするのは」
3組目の高円寺(断わりは要るまい)が、相変わらずズレたことを言っている。
そんな高円寺の体つきは、俺の近視で見ても相当鍛えていることがわかる。
アスリートよりボディビルダーに似てるような気もするが…
俺はすぐに認識を改めた。スタートの姿勢、そしてきれいな飛び込み。
「うおっ!はええ!」
赤髪のうめき声が聞こえる。
波しぶきは高いが、フォームは完璧だ。かなりの記録が出るに違いない。
「23秒22……だと」
教師がストップウォッチを二度見するのも無理はない。大人の全国大会レベルだ。
ざわざわしている中、俺たち4組がスタート位置に着く。
4組はもはや消化試合といった雰囲気だ。誰もこちらを見ていない。
スタートで飛び込む。いつもよりすんなり入れた。全力で水を掻く久しぶりの感覚。
50M泳ぎ切ると、顔を上げてコースロープにもたれかかる。
「27秒30だな」
27秒切れなかったか。同じ組の三宅君が27秒66とほとんど同着だった。決勝5人のうち残り2人は俺たちになった。
「惣中、水泳やってただろう。水泳部、今からでもどうだ?」
「ありがとうございます。でも自分はこれ以上伸びないですよ。本番にも弱いし」
「そうか」
ありがたいことに、教師はそれ以上誘ってこなかった。
プールサイドには微妙な雰囲気が漂っていた。さっきより盛り下がっている。
ぽっちゃり体型の俺があんな好記録を出すなんて、誰も思ってなかったのだろう。
「決勝、いい勝負をしよう」
平田君が声をかけてくる。
この余裕、持って生まれたスペックの差なのだろうか…
「惣中くん、速いじゃん」
これは松下さん。この距離なら顔もわかる。
「なんか、いが~い」
これは軽井沢さん。すみませんね、意外で。
「うん、ありがとう。平田君には負けちゃったけどね」
ブランクだのなんだと言いながら、自分ではもう少しやれると思っていたらしい。ショックで返事が適当になってしまった。
このあと決勝があると言い訳して、少し距離をおいて、スタート近くで身体を動かしながら備えることにする。
平田君は女子に囲まれて、応援されている。
その背後では、赤髪が打倒高円寺に燃えていて、池や山内が煽っていた。
三宅君と俺と高円寺がなんとなくポツンと言う感じになっている。
5人のなかで俺だけポッチャリ体型?恥ずかしい…
「惣中ボーイ」
胸の筋肉を動かしていた高円寺が、何を思ったか突然話しかけてきた。
「自由形でなければ、少しは勝負になったかもしれないねえ」
背筋が寒くなった。
確かに俺の競泳時代の種目は、平泳ぎとバタフライだった。
1回泳ぎを見ただけでわかるのか、こいつ。シャーロック・ホームズかよ。
いやいやホームズは変人だが、高円寺は狂人だ。断じてホームズとは違う。認めない。
「しかし勝負は50M自由形だ。定められたルールで勝つのも重要なことだよ」
「どのルールになっても勝てると?」
「どうかな。そこにはやはり、美しさというものが必要だからね。それにしてもボーイ、君の身体は美しさに欠けるよ」
「余計なお世話だ!」
つきあってられんわ。俺は高円寺に背中を向けた。
「惣中くん、三宅くん、高円寺くん、決勝頑張ってねっ」
櫛田さんが声をかけてくれた。
この距離だとわかる。櫛田さんは超エロい。なるほど騒ぐわけだ。
「ありがとう。櫛田さんに応援してもらえてすごく嬉しいよ」
これは本心。
「プリティガールの応援ならば、頑張らないわけにはいかないだろうねえ」
お前は黙ってろ、高円寺。
バスでの一件を思い返して、心中罵倒する。
三宅君は黙ってうなずいただけだった。なんかサマになってて渋い。
「うん、応援してるよ」
櫛田さんがガッツポーズしてくれる。池のぐぬぬっと言う歯ぎしりが聞こえた。