玄関に置き去りにされた弁当箱は、やけにきちんと蓋が閉まっていた。卵焼きは少し甘め、そばめしは昨夜の残りをうまく馴染ませて、冷めても味が落ちないようにしてある。作った本人がそれを褒めるのはどうかと思うが、少なくとも「昼に食う自分」を想定してちゃんと詰めたものだ。問題は、その「自分」が今、教室の席で空腹をやり過ごしているという現実だった。
「小林、今日もそばめし?」
「いや……そのはずなんだけど」
昼休みのチャイムが鳴って、周りが机を寄せ合う音が一斉に立ったのに、俺の手元だけが妙に静かだった。鞄の中を探っても、弁当箱の硬い感触がない。水筒はある。箸箱もある。なのに肝心の箱がない。昨日の夜から今朝までの流れを必死に巻き戻すと、玄関で靴紐を結び直した記憶と、ルリが「髪、今日ちょっとまとまらない」と言い出した記憶がやけに鮮明に浮かぶ。それに比べて、弁当を鞄に入れた瞬間がまるで思い出せない。
「……忘れたな、これ」
「えっ、嘘。小林くんが?」
ユカが箸を止めて目を丸くする。隣でルリも、何かを言いかけて口を閉じたまま、俺の鞄を覗き込むみたいに視線を落とした。彼女の角は、最近ようやく「見慣れてきた」と言い訳できる程度には教室の空気に馴染みつつあるのに、こういうどうでもいいところで急に日常が崩れる。
「いや、嘘じゃない。玄関に置き忘れた。多分」
「それ、事件じゃん。今日の小林くん、珍しくちゃんと食べそうだったのに」
「うるさい」
言い返しながら、腹が鳴りそうなのを必死に抑える。別に昼抜きくらいで死ぬわけじゃない。購買もある。パンも買える。ただ、あの弁当は俺が俺のために作ったもので、作ったのに食べないのは、妙に腹立たしいのだ。
「……ねえ」
ルリが小さく言った。普段なら「だから言ったじゃん」とか「焼きそばに白米とか言う前に自分の弁当管理しなよ」とか、もう少し刺してきてもおかしくないのに、声音が落ち着いている。彼女は自分の弁当箱の蓋を指で撫でながら、まっすぐ俺を見た。
「無理しなくていいけど……少し、分けよっか?」
「いいって。ルリのはルリのだろ」
「でも、小林が食べないと、なんか気持ち悪い」
そう言われると、確かに妙だ。弁当を交換したり、勝手におかずをつまんだりするほど馴れ合ってきたわけじゃないのに、俺の昼飯が空白になることに、ルリの方が落ち着かない顔をしている。言葉にするほど大袈裟じゃないが、彼女の中で「小林が普通に弁当を食う昼」が、いつの間にか基準になっていたのかもしれない。
「気持ち悪いってなんだよ」
「だって……いつもあるものがないと、やだ」
ルリがそれ以上言わずに俯く。角が机の影に沈む。ユカが横で、わざとらしく咳払いをした。
「はいはい、夫婦の空気は放課後にしてもらって、購買行ってくれば? 小林くん」
「夫婦じゃない」
「知ってる。でも言う」
俺が立ち上がりかけたところで、教室の前の扉が、やけに控えめな音で開いた。
「……小林」
聞き慣れない、けれど忘れようがない声だった。静かなのに、空気を掴むみたいに耳の奥に残る。俺は椅子の背に手をかけたまま固まり、次いで、扉の方を見た。
そこに立っていたのは、制服の上着を羽織った赤い髪の女だった。サイズが合っていないのか袖が少し余り、肩のラインが変に落ちている。胸元も妙に窮屈そうで、ボタンは途中までしか留まっていない。何より、頭の両側から伸びる角が、隠す努力すらされていなかった。
「……イルル」
声に出した瞬間、教室のざわめきが一段増す。昨日、角が生えただけで騒がれたルリとは別の種類の“異物”が、堂々と校内に立っている。しかも制服の上着だけが、妙に事情をややこしくしていた。
「これ、持ってきた」
イルルは短く言って、紙袋をこちらに掲げた。透けて見える弁当箱の四角い輪郭。俺の弁当箱。俺は頭の中が追いつかないまま、足だけが勝手に動いて前へ出た。
「お前……どうやって入った」
「上着着た。小林の匂いするし、これで大丈夫だと思った」
「角出てるだろ」
「出てる。でも、人間は見て見ぬふりするって聞いた」
聞いたって誰にだ。問い詰めたいのに、今はそれどころじゃない。教室中の視線が針みたいに刺さって、ルリの角の時とは比べ物にならない密度で俺に集まっている。担任がいない昼休みなのが不幸中の幸いか、あるいは不幸の始まりか、判断がつかない。
「小林くん……誰?」
ユカの声が、いつもの軽さを失っていた。ルリは立ち上がっていない。立ち上がれないのか、立ち上がる意味を探しているのか、机に手を置いたままイルルを見ている。彼女の目は丸くなっていて、驚きが先に来ているのに、その奥にすぐ別の色が滲むのが分かる。昨日の夜、扉の向こうから聞こえた声と、同じ種類の温度だ。
「……その制服、誰の」
ルリが言った。質問の形をしているのに、答えが決まっている声音だった。
「小林の。借りた」
イルルが淡々と言う。悪びれもせず、むしろ「当然だろ」という顔をしている。ルリの頬が、ゆっくり赤くなった。
「借りたって……普通、勝手に着ないでしょ」
「普通が分からない。小林が困ってたから持ってきた」
イルルは紙袋を俺に押し付けるように渡してきた。手に触れた瞬間、指先が熱い。昨日の夜、抱きつかれたときの体温がよみがえる。俺は反射的に袋を受け取ってしまい、ますます逃げ場がなくなる。
「ありがとう。でも、来るなら連絡しろよ」
「通信ダメって言った。追跡される」
「今日も追われてるのか?」
「……分からない。でも、怖いのは嫌」
イルルの眉が僅かに寄る。強がりが削げて、素が覗く一瞬だった。俺が何か言いかけた時、ルリが椅子を引く音がした。
「小林」
「ん?」
「……その人、誰?」
改めて聞かれると、言葉が途切れる。昨日の夜から今日の朝まで、詰め込んだ出来事が多すぎる。説明しようとすると、どこから話しても角が立つ。ルリの前でイルルのことをどう紹介するかは、俺の中でもまだ整理できていない。
「……姉さんの知り合い、みたいな」
「みたいな、って何」
「ドラゴン」
最短の単語で片付けたら、ルリの顔が一瞬凍った。次いで、信じられないものを見る目になる。
「また……ドラゴン?」
「またって言うな」
「だって、昨日も今日も、私の周り……」
ルリが言葉を飲み込む。角の付け根に触れそうで触れない指先が震えている。彼女は怒っているというより、置いていかれる恐怖と、追いつけない現実に腹を立てている顔だった。
「……小林、弁当忘れたの、私のせい?」
突然、問いが飛んだ。俺が答える前に、ルリは自分で首を振る。
「違うよね。違うって言って」
「違う。俺が忘れただけだ」
言い切ると、ルリの肩が少し落ちた。安堵と、別の何かが混ざった息が漏れる。イルルが、そのやり取りを不思議そうに見ていた。
「小林は弁当、作った。食べないの、嫌」
「お前も同じこと言うのか」
「当たり前だろ。作ったなら食え」
イルルの言い方が妙に強くて、教室の空気が少し緩む。誰かが「なにそれ」と小さく笑ったのが聞こえた。ユカが顔を引きつらせたまま、でも目は輝かせている。
「え、なに。小林くん、弁当作って、ドラゴンの女の子が届けてきて、ルリが怒ってるの。情報量多すぎない?」
「黙れ」
俺は紙袋を抱え直し、イルルの腕を軽く引いた。ここに長居させるほど、面倒が増えるだけだ。
「イルル、外出よう。ここ、あんまり目立つ」
「目立つのはルリの角もだろ」
「そこ突っ込むな」
イルルは素直に従うが、去り際にルリの方をじっと見た。敵意はない。けれど、譲らない目だ。ルリも同じ目で返している。二人の角が、日常の教室で互いを測り合っているのが、なんだか滑稽で、笑えない。
「小林」
ルリがまた呼ぶ。声は落ち着いている。さっきより一段だけ、冷えていた。
「放課後、話して」
「……分かった」
それだけで十分だった。今ここで片付く話じゃないし、ここで片付けたら、逆に壊れる。俺はイルルを連れて廊下へ出た。扉が閉まる直前、教室のざわめきが一気に戻って、背中に押し寄せるようだった。
廊下に出ると、さっきまでの熱が嘘みたいに静かだった。イルルは紙袋を渡したことで役目を終えたと思っているのか、妙に満足げな顔をしている。制服の上着の袖を引っ張って、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「どうだ。小林、助かっただろ」
「助かった。けど、お前、学校に来るのはやめろ。色々問題が増える」
「問題って何」
「人間社会の問題だよ」
「小林が困るなら、やめる」
即答されると、胸の奥が少しだけ詰まる。昨日の夜、あれだけ拗れていた相手が、今は俺の都合で動こうとしている。そのことがありがたいのに、危うい。
「……今度は、困ってても来なくていい。俺が何とかする」
「何とかできなかったから弁当忘れたんだろ」
「それは……」
言い返せない。イルルは少しだけ笑って、俺の袖口を掴んだ。
「じゃあ、小林が何とかできるまで、私が何とかする」
そう言われてしまうと、俺は何も言えなくなる。言葉の正しさじゃなく、彼女がそれを言えるようになった背景が、重い。助けられたから返したい。守られたから支えたい。ただそれだけなのに、そこに人間とドラゴンの歴史が全部引っかかってくる。
「……弁当、早く食え。冷める」
「うるさい。分かってる」
俺は紙袋を抱え直しながら、教室の扉を一度だけ振り返った。中の空気は見えない。けれど、ルリの目だけは見えた気がした。置いていくな、と言っている目だ。今すぐ答えられないのに、答えなきゃいけない目だった。昼休みは残り少ない。弁当はそこにある。日常は、食べれば戻るような顔をしている。けれど、本当はもう戻れないところまで来ているのかもしれない。そんな考えが、箸の先に引っかかったまま消えなかった。
イルルは2人目のヒロイン?
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あり
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なし