正月の朝は、妙に音が少ない。
テレビをつけても、どの局も似たような顔ぶれが餅を食べて笑っているだけで、普段より世界が一段ゆっくり動いているように見える。
俺はキッチンに立ち、まな板の上に並べた材料を眺めながら、小さく息を吐いた。
「……とりあえず、おせちだな」
別に毎年作っているわけじゃない。
むしろ、正月は出来合いのものを買って済ませる年の方が多かった。
それでも今年は、そういう気分じゃなかった。
年末から立て続けに起きた出来事のせいで、頭も心も落ち着かないまま新年を迎えてしまったからだと思う。
せめて、形だけでも「いつも通りの生活」をやっておかないと、年を越した実感が持てなかった。
包丁を持ち、にんじんを花形に抜こうとして失敗する。
歪んだ輪郭を見て、苦笑した。
「……まあ、味は変わらん」
そう独り言を言ったところで、背後から足音がした。
「小林、何してる」
振り返ると、イルルが不思議そうな顔で立っている。
人間の姿とはいえ、まだ寝起きらしく、髪が少し跳ねていた。
「見て分からないか。正月だから、おせち」
「おせち……戦の前の供物か?」
「どういう解釈だよ」
イルルは腕を組み、鍋や重箱をじっと観察している。
興味はあるが、距離の取り方が分からない、そんな雰囲気だった。
「私も、何かやるべきか」
「やる気があるなら助かるけど……」
そう答えた瞬間、イルルの目がわずかに輝いた。
「役に立てるのか」
「普通の範囲でな」
その念押しが遅かったのかもしれない。
イルルは勢いよく袖をまくり、鍋の前に立った。
「では、火を入れる」
「待て、勝手に――」
言い終わる前に、鍋の下から一気に熱が上がる。
ガスを使っていないのに、鍋底が赤く染まり、空気が歪んだ。
「おいおいおい!」
慌てて火力を止めると、鍋の中の煮物が、あと一歩で炭になるところだった。
イルルはきょとんとしている。
「弱すぎたか?」
「強すぎるわ!」
声を上げたところで、今度は別の足音がした。
「……なに、今の音」
ルリがキッチンの入り口に立っていた。
正月用に少しだけ着飾っているが、角は相変わらず隠しきれていない。
「おせち作ってるんだ」
「というか、作ろうとして事故りかけてる」
そう言うと、ルリは鍋を覗き込み、苦笑した。
「ドラゴン基準で料理しちゃダメでしょ」
「基準を合わせるのが難しいんだ」
イルルが不満げに言い返す。
その様子を見て、ルリは一瞬だけ視線を逸らした。
「……でも、手伝おうとしてるのは、いいことだと思う」
意外な言葉だったのか、イルルがルリを見る。
ルリは少し照れたように続けた。
「正月って、家族で何か作るものだから」
その言葉に、キッチンの空気が一瞬止まった。
俺は何も言わず、工程を書いたメモを二人の前に置いた。
「じゃあ、分担しよう。イルルは、切らなくていいものを混ぜるだけ。ルリは温度見ながら調整」
「私が?」
「電気、加減できるだろ。弱めにな」
ルリは一瞬戸惑ったが、こくりと頷いた。
「……うん、やってみる」
こうして始まった共同作業は、想像以上にぎこちなかった。
伊達巻は形が歪み、黒豆は少し硬く、数の子に至っては味付けが迷子になった。
それでも、致命的な失敗はなかった。
途中、味見をする場面で、問題が起きた。
「小林、これ」
イルルが箸を差し出してきた。
反射的に口を開けて食べる。
「……悪くない」
次の瞬間、ルリが固まった。
「……それ、間接」
「え?」
「キス……」
「そこまで言うな!」
慌てて否定すると、イルルが首を傾げる。
「同じものを食べるのは、信頼の証だろう?」
「そういう意味じゃない!」
ルリの顔が一気に赤くなる。
イルルは理解できていないが、距離は妙に近い。
「……もう、自分で食べる」
ルリがそう言って箸を取るが、視線が俺とイルルの間を行き来している。
その様子に、イルルが何かを察したのか、少しだけ距離を取った。
やがて、重箱が埋まった。
見た目は不格好だが、確かに「おせち」だった。
「……できたな」
「できたね」
「戦は、これで終わりか」
「終わりだ」
三人でテーブルにつき、静かに箸を伸ばす。
味は、正直に言えば、まあまあだった。
けれど、不思議と悪くない。
「……私、こういうの、初めて」
ルリがぽつりと言った。
「正月に、誰かと一緒に作るの」
イルルも小さく頷く。
「私もだ。破壊以外で役に立ったのは」
「言い方な」
そう突っ込みながら、俺は二人を見た。
完璧じゃない。
むしろ問題だらけだ。
それでも、今この場で同じものを食べている。
「……来年も、作るか」
何気なく言ったその一言に、二人が同時にこちらを見た。
「来年?」
「……来年?」
俺は少しだけ視線を逸らす。
「気が向いたらな」
ルリは微笑み、イルルは満足そうに頷いた。
重箱の中身が減っていくのを眺めながら、俺は思った。
今年は、多分、簡単には終わらない。
けれど、こういう時間があるなら、それでもいい。
イルルは2人目のヒロイン?
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あり
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なし