美しい夕暮れ時の空だった。
車窓から望める景色を、頬杖をつきながら男はぼうっと眺める。駅をいくつか乗り過ごし、とある駅で男は降り立つと、男がまずはじめにしたことは花屋の店先に並んだ花の匂いを楽しむことだった。
男は碧色の地に黄色と赤の派手な模様が施されたスーツを身纏い、頭には存在感を放つ山高帽氏を被っていた。
およそ常人とは言い難い服装…漫画やアニメの類といった創作物の中から出てきたような奇妙な出で立ちの男が街中を歩いても、立ち止まりその男を凝視する人間はどこにもいなかったし、男もそれについて特に疑念を抱くことはなかった。
それもそのはず、彼はすでにこの世のものではなく、幽霊となって現世に留まっている存在だった。
ここは人が多いな。
男は自身の目のまえに広がる往来を見て、あからさまにその顔を歪めた。普通の人であればなんということはないその道も、我々からすれば正に致命傷になりうる。最も死んでいる以上、致命傷も何もないわけだが。
男が都会を好まない理由はここにあった。道の横からいつ人が飛び出してくるのかさえ分かったものではないし、電車を使おうにも都市部の在来線では朝や夕方の混雑時に乗り込むなんてもってのほかだ。ありとあらゆる制限が、私たちには纏わりついてくる。そしてそんな不安に駆られながら毎日を過ごすなんて、自身にはまっぴらだった。
………それにあぁはなりたくないしな。
私たちのような幽霊は、生身の人間に触れると触れた箇所が千切れてしまうというなんとも難儀な特性を持っている。そのため都会のような人通りの多い場所では幽霊は生活し辛いというのが実際のところだった。男は不注意によってもたらされた末路……道端に襤褸雑巾のように打ち捨てられ、上半身だけになってしまった自身の同胞に軽蔑の視線を送ると、人通りが少ない道を探して踵を返す……そしてしばらく歩いていると、男の視線はとある一点で止まった。
……住所からも近いし、ここに入っておくか。
そこは町にある何の変哲もない本屋だった。男は本屋に入り、店頭に並ぶ本の題名を吟味すると、彼の視線はとある雑誌でとどまった。どうしてこの雑誌に興味が湧いたのか、それは分からない。だがお目当ての写真も雑誌であれば見つかるかもしれない。
男はその雑誌を手に取り、ぱらぱらとページを捲る。するととあるページに一人の少女…ブロンドヘアーの長髪に、人間とは異なる特徴的な耳を有した写真の彼女は、その美しさを余すことなく主張するかのように大胆なポージングの写真が載せられていた。
……ウマ娘、か。
そういえばウマ娘の同胞も少ないながらも見たことがあるな、なんてことを思いながら男はペラペラとその箇所を飛ばし、しばらくして目当てのページにたどり着くことができた。
それはキャップを目深にかぶった男のモデルの写真だった。男は周囲に音が響かないように細心の注意を払いながらページを破り取ると、足早に本屋から立ち去った。
時刻は既に18時を回っているが、依頼は今夜中に済ませることが絶対条件だ。少々マイペースに仕事をこなしていたようだ…これからはアップテンポで事を済ませる必要がある。
男は目的地である住居…そこは都心部からほど近く、最低でも家賃は10万台からという、いかにも「勝ち組」が好んで住んでいそうなマンションだった。男はターゲットが住んでいるという部屋番号を確認すると、男はいそいそと先程切り取ったページのモデルが映っている縁を丁寧に破り取り始めた。そして紙人形のようになったモデルの写真をドアに付けられているのぞき窓にくっつけると、男は扉の横につけられた呼び鈴を鳴らした。
「はーい」
扉の向こうから女の声が聞こえてくる。さて、ここから如何に居住者に不審に思われないようにふるまうか、それが重要だ。
「……ウーマーイーツです。」
ウーマーイーツ。どうやら最近流行っている料理をデリバリーするサービスのようで、いつぞや立ち寄った電気屋で、ディスプレイ用のタブレットの情報から得られたものだ。自身が生きていたころにも出前なるものは存在していたが、どうやらそれはサイトなるものから様々な店を吟味して注文することができるという、出前よりも遥かに進化した代物のようだ。
「……あら?そういえば貴方どうやってここまで上がってきたの?一階にいる管理人さんは?」
「…どうやら玄関に付けられていた呼び鈴の方は故障中のようで…管理人さんもいらっしゃいませんでした。」
今の質問は想定済み。相手が扉を開ける上での警戒心を解くために、受け答えの一つ一つにも細心の注意を払わなければならない。
「それはおかしいわね…私も主人も、そんなもの頼んだ覚えはないんだけど…」
「住所は確かにここで合っているんですが…依頼者は田山力様でお間違えの無いでしょうか?」
「……それうちの息子です。まったくあの子、夕食は用意してるって言ったのに…すみません。どうやら息子が勝手に頼んでしまったようですわ」
これも想定の内。過去の経験から、ターゲットの家族構成や最低限の行動は調べるようにするのが定石だというのも学んだ。この家族には中学生になる息子がいて、今は友人たちと外に出かけているはずだ。
「頼んでしまったものは…すみません。わかりました……今扉を開けますね」
やがて遠くからバタバタと音が聞こえ、扉の前でその音が止まると、ガチャガチャと鍵を開ける音が再び聞こえ、女性が扉を開く……しかし女性は扉を開けて来客に対応しようとしたが、その顔には驚愕の表情が浮かんでいた。即ち扉の向こうにいるはずの配達員の姿がなかったからだ。
女性が配達員の姿を探してドアの前で右往左往する…しかし男の姿は既に室内にあった。男は自身の目的を果たすために室内に続いている廊下を歩くと、左右に付けられているいくつかの扉に目を向けた。
ここか。
男の足は、ある扉が閉ざされている部屋の前で止まる。どうやらこの部屋には先客…さっきの女が言っていたことから察すると、この家の主人といったところだろう。しかし参った。本来ならば今日は水曜日。主人は仕事で出払っていると思っていたが、どうやら今日という特別な日は大人しく家に籠ることを選んだようだ。
…さて。そうなると少々プランが変わってきてしまう。元々待ち伏せするつもりだったが、こうなってはそうもいくまい。男はしばらく考える素振りをみせたが、やがてキッチンがあるであろう方角へと歩みを進めた。
仕方ない、プランBに変更だ。昔やった手段で行かせてもらおう。幸いここには邪魔な犬や猫もいない。少ししたら帰ってくるであろうこの家の息子もその時間には眠ってしまっているだろう。今はこの家から得物を拝借するだけで十分だ。
毎回心の底から思うことだが、仕事が落ち着いたらいつか自分の、自分のためだけの家が欲しいものだ。部屋は眺めがよく、風に吹かれずおちついて本が読めて花の絵を描いたり…ヘッドフォンステレオ…あぁ、もうこの言い方は古いんだろうな。だが最近は流行りが一周して若者もレコードで音楽を嗜むことがあるそうだ。私もレコードプレイヤーでワーグナーの音楽に陶酔できるような部屋が欲しいものだ。
…最もこんな人に触らないようにびくびくしながら生活を送る自分に、そんなことができるのだろうか。
そんなことを思いながら男はキッチンにたどり着き目当てのものを見つけると、それを引き抜いた。
『○○○○年▽▽月□□日、市内にてひき逃げが発生。被害者の女性(45)とその娘(10)が市内の横断歩道を往来しようとしていた被害者が車に跳ねられた。被害者の二人は事故現場の人通りが少なかったこともあり発見が遅れ、発見され病院に搬送されるも死亡が確認された。目撃者もおらずまた現場は当時雨が降っていたため手がかりも雨に流されてしまい、そのような事項も勘案して加害者は未だ発見されていない』
男は震えながら手を置いていたキーボードからその手を離すと、壁に立てかけてある時計へと目を向ける……その時計が指している時刻は、既に11時45分を回っていた。
あと15分だ。
男の顔には自然と笑みが漏れていく。その笑みは人間の醜悪な願望を映し込んだような、そんな笑みだった。男は扉の前につっかえ棒として掛けておいた椅子に腰かけると、乾いた奥から漏れ出るような笑みを浮かべて天井を仰いだ。
あの日のことは今でも覚えている。大学3年生の時に呑むつもりはなかったが、出先の友人たちに流されて少々酒を呑んでしまった帰り道。既に免許を持ってから1年たっているし、ほろ酔いくらいなら車を運転してもいいだろうという甘い判断で行きにのってきた車を運転していた途中、横断歩道を渡ってきた親子に気が付くのが遅れてしまった。人を轢いてしまったという事実を受け入れらず、蹲っていた親子を置いて逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
あの日から19年と364日。公訴時効…つまりいつ警察が扉の前に立っているのかという不安に駆られて生活を送る必要は、今日で……いやあと15分で終わりだ。20年もの間苦しみ続けたんだ、もう制裁は受けただろう。きっとあの世の親子も納得してくれるはずだ。
あんなことで躓くわけにはいかない。一流の大学を出て、一流の企業に就職した。頭は悪いがモデルをやっていた妻と結婚し、まだ手のかかる息子を大学に入れてやる必要がある。
バタン!
その時だった。部屋の窓が突然音を立てる。男は悲鳴を上げ椅子からひっくり返ったが、やがて立ち上がると恐る恐るその音の原因を確かめるために窓の方へと近づいた。
男は意を決すると、窓に掛けられたカーテンを横に引き開けた…するとそこには一羽の鳩が窓枠に休むために留まっていた。カーテンが引き開けられたことに驚いた鳩がバタバタと飛び立っていくと、男は緊張から解放された反動で大きな笑い声をあげた。
「ププッ……!やっぱり気のせいだ!ずっとそうだった!あと15分……いや10分で俺は自由だ!来れるもんなら警察だろうとなんだろうと来てみろってんだ!」
その時、鍵を閉めていたはずの窓が突然カラカラと開いていく。突然の出来事に言葉を失っていると、続いてトンという音が室内に響く…それこそ誰かが室内に入ったような。
恐怖のあまり男が一目散に部屋から逃げようとしたが、突然首に何か衝撃が走る。驚愕と恐怖の表情で顔を染め上げながら男は自身の首に視線を送ると、その首には手形のようなものがくっきりと浮かんでいた。
「……許可をくれてありがとう。部屋には君の許可がないと入れないものでね……それと君がターゲットの森本直之か。依頼では「君に最大の苦痛を与えてほしい」そうだが…生憎今は道具がこれしかなくてね」
男の首を掴んでいたのは、山高帽の男だった。男は自身の胸ポケットから果物ナイフを取り出すと、首を掴んでいた男の背中にそれを突き刺した。
男の身体は痙攣し、その顔は真っ赤に染め上げられていく。そのナイフを男の背中に刺したまま山高帽の男は彼の首を手放すと、その身体は床にどうと叩きつけられ、やがて男は力なくプルプルと震え始めた。
「……う~む。得物として申し分なかったが、ナイフを抜いてしまうと君が苦しまないで逝ってしまう。それでは依頼者の願いは叶わないからね……残念だが、ナイフはこのまま置いていこう。その方が苦しませてほしいという依頼者の願いにも添えるからな……急所は外したが、一応肺を損傷しているはずだ、呼吸しても満足に肺が広がらないから苦しいだろう?ちなみにこの部屋の電話線も切っておいたから助けは呼べないぞ……って聞こえていないか。あとは残り数時間の人生を、精一杯苦しんで生きたまえ」
男はそう言うと先程部屋に入ったのと同じ要領で窓枠に足を掛けると、そのまま闇夜に姿を消していった。男は暗闇の中をブラブラと歩きながら、先程足を踏み入れた男が住んでいる…いや住んでいたマンションへと目を向けた。
わたしの名前は「吉良吉影」いつ…なぜわたしが死んだのかはどうしても思い出せない。ひとつだけ言えることは 自分は決して天国へは行けないだろうという実感があるだけだ。
そしてこれからどうするのか?それもわからない。永遠に時が続くというならばこの仕事を…この掃除屋という仕事を生きがいにすれば、幸福を…そして心の平穏を得られるかもしれない。