深夜を滑るあの艦娘は妖精のように見えた。
(続きを書く予定は)ないです。
やけに肌寒い夜だった。
日中は鎮守府を丸ごと焼く暑さ。夜間は余裕のある半袖のシャツを素早く通る寒気。
今年の夏は砂漠と言っても差し支えないだろう。
仰々しいジャケットを羽織る。重いあげく、肌に上着が直接触れる感覚にどうも違和感を感じていた。
陸にいた頃の彼はきっと過剰だと思うだろうが、海沿いはそれだけ過酷なのだ。
まだ仕事は残っている。目の奥に居座る大きな疲労を取り払うべく、彼は外へと繰り出す。
極寒の夜を歩いていると、一人の少女が佇んでいた。
彼は思案する。声をかけるべきか、今からでも執務室へ戻るべきか。
新人提督の彼にとって、艦娘との交流は貴重な機会だ。
外はびゅうびゅうと音を鳴って通る風も、鎮守府内では息をひそめる。
任務に支障をきたしていては笑えない。
彼はわざとらしく軍靴の底を鳴らしながら、彼女のもとへと歩み寄る。
しかし彼女は、彼が隣に来ようとも水平線の向こうから目を離さない。
肩まで伸びた茶髪は、雄大な黒の中でも溶けきらず。
セーラー服に似合わない大人びた雰囲気は、静けさを破ることに緊張感をもたらした。
「君は──カワウチ、であっていたかな」
「ん。
「……失礼」
「新人さんだもん。私達は提督一人だけ覚えればいいけど、提督は何人も覚えなきゃだからね。仕方ないさ」
彼はばつが悪く軍帽を深く被りなおす。
当の彼女はそれほど気にしていない様子だったが。
「夜はいいよ。静かで、波の音と飛沫がとっても心地いいんだよ。世界が自分だけのものになったみたいな気分になるんだ」
彼は吹き付ける寒風に意識をとられ、身を縮める。
対する川内は物ともせず、語り部を続けた。
「昼とはがらっと姿が変わるんだ。それって、どんな大自然よりも活発だと思わない?」
返事に困っていた彼を横目に、彼女はよっと勢いをつけて海面へと繰り出した。
「
彼女の時報を聞いて、思わず左腕の袖をまくる。
彼は驚くのも無理はない。一分もズレがなかったのだから。
いやそうではない。今日は夜戦の予定はない。月の光は差すものの、視界は良好とは言えない。
すぐにでも陸に上がるよう勧告する前に、彼女は滑り出した。
「ひゃっほ──ーう!」
彼があれだけ乱すことに躊躇した静寂を、彼女は年相応の清涼な叫びで貫いた。
気づけば目深に被った帽子を戻していた。
はしゃぎながら鏡面を走る彼女が美しかった。
月光のスポットライトが彼女を追い、存在感を上品に引き立てる。
十代の少女らしい
まるで夜を縫う妖精のようであった。
五分だろうか、あるいは三十分だろうか。
人はなにかに見惚れていると、時間の感覚を忘れるものだ。
彼女はそれだけの時間、黒い氷上を優雅に滑走していた。
そして陸に上がって再び、時を知らせる。
「
「おかげさまで、いい眠気覚ましになったさ」
防波堤に腰掛けた彼女がキラキラと煌めいていた。
彼には、それが服の水飛沫に反射する光だけによるものとは思えなかった。
夜が海の姿を変えたように、彼女もまた川内という艦娘の姿を変えたのだ。
いや、変えさせたというべきか。
彼女の変容は衝動的ではあるものの、非常に魅力的であったのだから。
「どう? 夜は」
「説明が足りない。ので、所感でいいか」
「堅苦しいなー。どうぞ」
彼は再び軍帽を下げる。
「……悪くなかった。川内型一番艦、川内」
「うわ、私そんな呼ばれ方したの初めてだよ。いや、訓練のときに点呼で呼ばれてるから、別にそんなことないや。あはは」
「覚えた。ので、今後は名前を間違えるという失態は犯さない」
「気にしなくていいのに」
足をぶらぶらと動かす彼女は少女のそれだ。
しかし、どうにも夜に映る彼女が幼いようには見えない。
暗がりとは不思議なものだ。
「ねえ。最初の秘書艦、誰にするか決めたの?」
彼はまだ秘書艦を決定していない。
現状、仕事はある程度できていた。
任命というと窮屈だが、秘書艦は自由に変更できる。最初であれ最後であれ、価値は不変だと彼は考えていた。
「いや、まだだ。今でこそ鎮守府は機能しているが、それは君達艦娘の助けがあってのものだ。多くの艦娘が出払う大規模作戦展開下ではお話にならない。早急に仕事を覚える必要がある。秘書艦の指名よりも優先すべき事項だ。全艦娘から適切な人材が誰であるかを吟味している時間はない」
「仕事を円滑に進めるために秘書艦が必要なんじゃないの? なら先に決めるべきじゃないかな?」
「…………。確かに、君の言う通りだな」
「うわー。うちの提督、意外とバカかもー」
「む……」
言葉に詰まる。仕事を管理する艦娘が専属することは、新人にとって大きな助けとなることは明白だ。
故に、秘書艦を決める暇があれば仕事を覚えるという選択よりも、先に秘書艦を登用する方が合理的である。
体を揺らす彼女は未だに水平線の向こうを見つめている。
夜戦に出たくてウズウズしているに違いない。
面と向かって間もない彼にでも感じ取れるほどなのだから。
「ま、いいや。私はなるべく夜戦によこしてくれると嬉しいかな」
「たった今決めた」
「え?」
「
手遅れの勧告だけを残し、彼は鎮守府の執務室へと引き返す。
室内へ帰る前に先程よりもさらに大きな叫びが数度に渡って、波が揺れる音と共に聞こえた気がしたが、気のせいだと思い込むことにした。
そうして、彼は翌日、さっそく自分の判断を後悔することとなる。
昼夜逆転した艦娘に秘書艦を任せてしまったために、昼は居眠りを繰り返す彼女を監視しなければならず、逆に仕事が滞ることに。