『釣りに行きたい気持ち』と『ウマ娘可愛いという気持ち』を融合召喚した結果生まれた謎の釣りバカ作品。
–父ちゃんはな、海と空が繋がってる遠い遠い場所に行ったの。もう、船は出せないのよ–
–酷い炎症を起こしています。治りはするでしょうが、再発の可能性も高いです。また元のように走れるようには–
……ああ、まただ。また同じ夢だ。砕け散った
もうこんな思いはしたくない。二度と膝をつきたくない。そう何度も言い聞かせたはずなのに、僕はまた新たな
体が宙に放り出されるような感覚を覚えて慌てて目を覚ますと、眼前には穏やかなせせらぎが広がっていた。
白雲の揺蕩う水面に、まあるい浮きが一つ。麗かな日差しを浴びて点滅する一筋の
竿を優しく持ち上げ糸を手繰る。案の定、餌はもう盗られていた。時計を見るに一時間近く放置していたのだ。当然のことだろう。時間すらゆっくりと流れる小川は魚に溢れていた。
東京の大都会の中でも、探せば釣り場はいくらか見つかる。
上京して早五年。都会の喧騒に揉まれながらも釣り人であることを貫いた過程で学んだことだ。故郷の釣り場の豊富さと比べればいささか物足りないが、贅沢を言うわけにもいかない。それに釣れても釣れなくても、ただ糸を垂らしているだけで楽しいものは楽しいのだ。
「おっ、釣れてるねぇ」
声に反応して横を向くと、バケツを覗き込む少女がいた。ほんの数歩のところまで近づかれて、そして声までかけられるまで気づかないとは。ぼんやりと釣りを楽しんでいる時、周りのことがとんと見えなくなるのは幼い頃からの悪い癖だ。
「
「ほら、今は春休みのシーズンだよ? ちゃぁんと休みだから。そういう
僕の小言を彼女、
水辺に来るからか足元はサンダル。すらりと伸びた真っ白な足と腕。優しいというよりは柔らかい顔立ち。光の反射で青くも見える白い髪。そして、その隙間からぴょこんと生えている両耳。そう、彼女は"ウマ娘"だ。
「うん、バイトは先週で辞めたんだよ。転職……というか、夢の第一段階が叶ったから」
「おぉ! ってことは、この前言ってた試験受かったんだね〜。そりゃめでたいめでたい! ……そんなめでたいことがあったんだし、お寿司とか食べに行かないんですか?」
そう言って彼女はチラチラと目配せしてくる。邪な気持ちはないが、なかなかに可愛い。
「……はぁ、しょうがないなぁ。夕ご飯は奢ってあげるよ」
「おっ、流石は東さん! 太っ腹〜。そういうところかっこいーなぁ。大人だねぇ」
マグロもいいけどサーモンも美味しいよね〜とわざとらしく体を揺らしながらつぶやく
そんなことを考えているうちに、彼女も少し距離を取ったところで竿を伸ばし始めた。彼女と初めて会った時から、この距離は変わらない。会話するのに声を張らなくてもよくて、それでいてお祭り*1することもない、絶妙な距離。この感じがなんだかとても心地よくて僕は好きだった。
「あ、そうだ。今日はサシ*2使ってるの? 私アカムシ*3持って来たんだけど」
釣り針を結びながら
「うん、サシしか使ってない。昨日も天気良かったし、水温も上がって来てるから浅いところまで出て来てるよ」
「なるほどなるほど。そりゃいいね。さて、今日は何匹釣れるかなっと」
慣れた手つきで彼女は仕掛けを送り出した。一見すると適当なように見えるが、音が立たないようにする竿捌きは見事なものだ。
横目で流し見るのもそこそこに、自分の浮きに目を移した。
ほのかな流れにツツツと浮きの跡がひかれていく。魚の気配はあるが、かかる雰囲気はまだなさそうだ。こういう時、精神が澄んで普段は気にもとめない色んなことが目から耳から、すんなりと入ってくる。
……遠くから聞こえる鳥の声。そこに合わさる水の音。時折道ゆく人から洩れる日常。隣バの鼻歌も軽やかに踊っている。
「好きだなぁ、やっぱり……」
このひととき、この一瞬に身を預けるのに、僕は堪らなく幸せを感じるのだ。
「……そういえばなんだけどさ、実はせいちゃ……
「うん? どうしたの?」
幸せに体をもたれさせたまま、半ば夢うつつな心地で続きを促した。
彼女がこういう切り出しで話すことは稀にある。ほんのちょっとした悩みとか、困りごととか、そういうものを話す時だ。かなり余裕ぶった調子でませた顔をしているが、彼女もまだまだ子供。特に多感な時期だろう。大人として聞いてあげるのが最良の選択肢だ。
それに信頼して相談してくれるのは純粋に嬉しい。
「実はちょうど〈本格化〉の時期を迎えまして……この春から選抜レースに出ようかなぁと」
「えっ、本当? そうか、これから頑張らないとな」
〈本格化〉。ウマ娘としての速さが最も輝く時期の始まり。つまり、彼女にも挑戦の時が訪れたというのだ。全てのウマ娘の憧れの舞台。トゥインクル・シリーズに。
「……不安かい?」
挑戦のスタートラインに立つことができたというのに覇気のない彼女に、僕はそう投げかけた。
「うん、いやぁそんなことはないんだけど。別に、勝利を掴むぞ! 覇道を行くぞ! 憧れのあの人に追いつくぞ! とか、そういう熱い感情は特に持ち合わせてないしねぇ。のんびりゆるっといこうって思ってる。ただ、レースに出ようと思うと多少なり練習とかが必要になったりするわけで……」
どこからかバイクのマフラー音がこだまする。
「もちろん適度に
彼女の言うことは痛いほど分かった。釣り人、その中でも特に釣りバカの類にとって、釣りとは呼吸と同じ。社会という水中に潜る日々の箸休め。いやむしろ釣りがメインでそのために社会に潜っているまである。もちろん完全にできなくなるわけではないだろうが、レースに支障が出ないように調整する必要はあるだろう。
「そうだね。実は僕もしばらく忙しくなりそうだから、ここにはあんまり来れないかもなぁ」
「えっ……あ、いや。そ、そうだよね。環境がガラッと変わっちゃうもんね。いやぁ、互いに大変ですなぁ、はっはっは」
虚を突かれたような声を一瞬出して、すぐに彼女は茶化した。寂しさをわざとらしい笑いで埋めようとしているのだと、なんとなく分かった。
「……
「二つ? 欲張りさんだね。二兎追うものはなんとやらって言わない?」
「同時には追ってないよ。今叶えたい夢と、いつか叶えたい夢」
「それは……中身聞いちゃっても?」
「ああ。今叶えたい夢は、これから出会う誰かの夢を叶えること。そのために勉強して来たからね」
「ふむふむ、やっさしいなぁ東さんは。流石〜」
「それでいつか叶えたい夢は……マグロを釣りたい。とびきりでかいやつ」
そう言い放ち、僕は空を見上げた。なんとなく魚のような形の雲が浮いている。
諦めた夢の欠片を、なんとか紡いで生まれた夢がこれだった。釣り人としての夢でもあり、僕自身の夢でもある。
「おぉ〜、大きく出たねぇ。そりゃ是非とも叶えて欲しいところ」
「まあ、そうなったら船とか借りないといけないわけで。一艘丸々借りてやるなら、一人じゃちょっと物足りないでしょ?」
「……なんとなく、東さんが言いたいこと分かっちゃったかも。大物釣りは忙しいからねぇ。ウマの手も借りたいってところかな?」
「そういうこと。ぜひ一緒に行こう、マグロ釣りに」
「ええ、喜んでお受けいたします。東さんの夢のためならこの身を尽くしましょう……なんちゃって」
立ち上がって執事のように深々と礼をしたかと思えば、したをぺろりとだして首を傾けてみせた。少しぎこちなかったが、いつもの彼女に戻りつつあるようだ。
「いやぁ、私も東さんみたいに頑張らないとなぁ。レースに勝てれば釣りの資金も多少は手に入るし」
「そうだね。ちゃんと揃えようと思うとどうしても高くなるからなぁ」
「最近は安く手に入る初心者セットも多いから始めやすいけど、先に行こうと思うとねぇ……」
お金がかかるのは大体の趣味に言えることだろう。仕方がないことだが、その分満足できることは確かだ。
「そういえば聞いてなかったんだけど東さんの受かった試験って何の……」
–ギュンッ!
「おおおい、ちょちょちょ」
反射的に竿を持ち上げようとすると手には確かな重量が伝わって来た。明らかにハヤ*4ではない。
水面を通して、泥が舞い上がるのが見える。その中に鈍く光る魚影があった。
「ありゃりゃ、鯉だね。しかもそこそこでかいやつ。頑張れ東さん、マグロの第一歩だよ!」
他人事だと思ってか
今回使っているのは小魚用の渓流のべ竿*5で、仕掛けも0.6号*6。とてもじゃないが鯉に対応できる仕掛けじゃない。
なんとか竿を持ち上げて魚体を浮かせようと試みるが糸が今にも切れそうだ。しかしかかってしまったものは仕方がない。釣り上げたくなるのが釣り人の
力を加えすぎず、向こうにペースをなんとか握られない程度に抑えて時間稼ぎに走る。相手も生き物だ。暴れればその分疲れる。
しばらく左右に魚影は走り続けた。泥を巻き上げ、小魚を蹴散らし、その巨体を見せつけるように。竿がミシミシと音を立てる。適正がないものをむりやりしならせているのだ。よく耐えてくれている。
そして魚影が今度は深みに向かって泳ぎ始めようとしたその一瞬、ふっと竿が軽くなる瞬間が訪れた。
–今だ。
ほんの少し、ほんの少しだけ強い力で竿先で半円を描くように手首を回す。すると魚影が一気に浮き上がり、その間の抜けた顔をこちらに向けた。先ほどまでの抵抗が嘘のように、そのまま足元へとすーっと泳いでくる。降参とでも言いたげに、
「……東さん、やっぱり天性の
「写真だけ撮ってリリース*7しようか。流石に食べれないし」
「あっ、じゃあ私が撮ったげますね。ほらほら寄って寄って」
そう言って彼女は鯉を挟んで僕の横に並びスマホを掲げた。
「え、自撮り? 自撮りなの?!」
「細かいこと気にすると魚も逃げちゃいますよ。笑って笑って」
「この
シャッター音が静かに鳴り、辺りはまた日常という静寂に包まれる。
想定外の大物を釣り上げたこともあり疲れていたので、少し早めに切り上げて
別れ際に少し名残惜しそうな顔をしていたのは、まだ食べ足りなかったからだろうか……。
「帽子よし、眼鏡もあるな。ノートも持った。……よし、行くか」
肩掛けの鞄を持って僕は寮を出た。足取りはなんだか軽いような重いような、期待と希望が絡まっている感じがした。
正門の前に立って始めて、今日から始まる新しい日常を実感する。何度か訪れてはいたが、正式に勤めることになったのだ。前とは全ては変わって見える。
「おはようございます。東さん」
「たづなさん、おはようございます」
門の横に立っていた緑がよく似合う女性、たづなさんと軽い会釈を交わす。彼女この学園の理事長秘書で、一応今日から上司になるのだが、フランクに接してくれるのでとてもありがたい。
「いよいよ今日からですね……」
「はい。精一杯、やらせてもらいます」
「ふふふ、その意気や良し、ですね! まずは良い出会いがありますように、応援しています」
朗らかな笑顔に見送られて、僕は歩みを進めた。
ようやく新しい夢の第一歩だ。
今日から僕も一人の"トレーナー"だ。