第四章『ある二人』
――白の四角形。
瀬場邸に備え付けられた、それなりに広めの浴槽だ。
今は湯気が、ただでさえ白いタイルを更に白く染めている。
汚れ一つない清潔な白の壁面。
そこに一人の少女がいた。
日本人としては少しばかり色白な肌に、つややかさが何よりの特徴だ。
みずみずしい、というよりも、それは清らかな清流そのもの。
ちょうどきっちり百五十センチの身長と、スラリとした華奢な肢体。
彼女の幼さが、その華奢さにより、一層印象付けられるのだ
そして、それとは正反対に、その胸部には――
「……はぁ」
パラパラと、シャワーから漏れでた湯が彼女を滴っていく。
水に濡れた黒髪は、普段の癖のあるものから、スラリとしたものに変わっている。
元より、強烈な癖っ毛というわけではない、梳かせば、いつだってこのようにストレートの髪質に変わるのだが。
――少女は、この瀬場邸の主、瀬場朝海である。
今は一人、物憂げにシャワーを浴びていた。
漏れでた吐息は、彼女に一つの艷を与えた。
吐息そのものに色気が乗るとでも言うべきか、とかく、彼女の身体に白い湯気がまとわりつく。
それ自体が、彼女をより一層艶美なものに変えていた。
「――なんだかなぁ」
飾らない。意識しない美とでも言うべきか、朝海は自身の容姿にはさほど頓着していない。
それなりに見た目が整っていることは知っている。
しかし、だからどうしたと、そこで終わってしまうのだ。
――それがより一層、彼女の気取らなさを増幅させていることにすら気が付かず。
今、少女は悩んでいた。
悩み事の種は幾つもある。
まず、アサシン陣営が敗北したということ。
次に、ライダー陣営が同盟に乗る気がないということ。
そして、ランサー陣営、及び赤紫羅が動き出したということ。
――こうなってしまえば、戦況は完全に留められなくなってしまうだろう。
後はもう、転がり切るところまで転がり切るしかない。
平穏が崩れたことを、朝海は自覚せざるを得なかった。
(ライダーのことも、ランサーのことも、まぁ想定内ではあるんだよね、可能性としては十分あり得ることだし、別にそこまで驚く必要はない。でも――――)
問題は、最後の一つ。
――アサシンと、雪白辰向に関することだ。
(辰向が――負けた。こればっかりは、正直他とは問題に対する感情が別次元だ)
負けた事自体は、まぁいい。
――けれども、そもそもの原因は、自分だ。
辰向を死地に向かわせてしまったこと。
結果から見れば、間違いなく自分が全ての責任を負うべき立場にある。
(どうしよう。……もしかしたら、辰向は死んでいたかもしれないんだ)
――死。
そう、死。
それは今まで、朝海自身が意識してこなかったこと。
正確には、意識して目をそらしてきたこどである。
(死。……別に、そんなの単なる一つの現象にすぎない。だれが死のうと、それは結局、それまでのことだと、そう考えていた)
パラパラと、シャワーが朝海に降り注ぐ。
それは雨――一瞬、彼女の視界はそこに、赤の色を幻視した。
辰向が死んでしまうかもしれない、ということ。
それが問題なのではない。
問題ではあるが、それ以外にも問題が在る。
――瀬場朝海は、死というものを軽視しすぎていた。
(人を殺して、それを意識するつもりは、今まで無かった。だって、“しょうがなかった”から)
朝海は戦場を知っている。
少なくとも、魔術戦ということにおいては、あのライダー陣営のマスターと、経験においてはさほど変わらないだろう。
(じゃあ、辰向の命も、しょうがないものなの? ――私の命も、しょうがないものなのかな)
――朝海の身体から、いくつもの赤が流れ落ちる。
血。
鮮血。
それは、朝海がこれまで浴びてきた返り血だ。
どれも、赤い。
相手は外道に堕ちた魔術師だ。
しかしその血は、決して異常な血ではない。
ただの人間の、血液なのである。
「――――――――」
朝海の表情は、もはや機械のように、停止していた。
♪
回避のために手を打った。
恐らく、ただの機銃であれば回避は十分に可能であった。
だが、それが不可能な状況に追い込まれた。
三号爆弾。
考慮していなかったのが悪い、というのもあるだろうが、アレは間違いなく、ただでは避けられない。
どのような状況であろうと、ああして上から降り注いだ時点で、ただ回避するだけでは終われない。
かならず“何か”が必要になる。
その一手を、辰向は用意することができなかったのだ。
知略の敗北ではない。
――これは、戦術の敗北である。
「……はぁ」
拠点のベッドで、嘆息をする。
戦術で負けるということは、自分の戦闘能力が、純粋に相手に劣っていたということ。
これが戦略であれば、謀略であれば――そこに知恵の介する余地が生まれる。
知恵で負けたならば、それまでだ。
それに、知恵で負けるということは、アサシンがいる限りないだろう。
けれども今回は、アサシンの知恵が介入する余地もなく、戦術と戦術のぶつかり合いの末、辰向はライダーに完敗したのだ。
戦力で劣っていたということはないだろう。
辰向の身体性能は、ライダーの機体に及ぶとは言わずとも追いつけた。
少なくとも、でなければああして何分も、戦闘を続行することは叶わなかっただろう。
そこにアサシンのバックアップもあった。
戦力において、今回の優劣を語ることは難しい。
圧倒的な戦力差というものは、知略や戦略でひっくり返せる。
情報を得ることで、対策を取ることもできるだろう。
知略において負けていても、戦力があればそれを圧倒することは可能。
これら二つは、どちらかの要素でひっくり返すことができるのだ。
「……けど、こればっかりはなぁ――」
けれども、戦術だけはダメだ。
戦術――技術は知恵でひっくり返せない。
戦力でならばともかく、だ。
「ふむ、マスター。あえて言わせていただきますが、今回の敗北で気に留めるべきは戦術の優劣ではなく、“次回会戦時への反省”でしょう」
「――まぁ、それはそうだろうがな。今はまだ疲れが残ってるんだ。後にしてくれ」
そんな気分ではない、辰向は嘆息混じりにこぼした。
アサシンは今、銃器の類を手入れしている。
前線に出るタイプの人間ではなかったとはいえ、この程度ならばお手のものだ。
「……ふむ。これは所見ですが――マスターでは、どうやったところでサーヴァントには敵わないでしょう。残念ながら“年季”が違います」
アサシンの言葉は異様なほど、重い。
無理もないことだ、彼は戦場を知っている。
それは辰向の比ではない。
数十年、彼は戦場に身を投じ続けたのだ。
「ですが、貴方の戦闘能力はサーヴァントにも比肩しうる。ならば――そこからサーヴァントに勝利するためのピースを埋めるのは、私の仕事です」
ライダー戦においては、そもそもアサシンが戦略を埋められる要素がなかった。
バーサーカー戦においては、そんなこと、せずとも勝利を得られる相手であった。
「マスターは私を信用してくだされば良いのです。貴方は強い、前に出るタイプだ。私はその逆――サーヴァントの性能としてのスキルは最良と言ってもよいでしょう。ですが、人間としての信頼関係は、どうでしょう」
「――信頼、関係」
「私は君に喚ばれ、それに応えることで召喚された。であるなら、後は君の仕事です。私を信用するか、それ以上に踏み込むか。私は私なりの返答をしましょう」
アサシンに、願いと呼べる願いはない。
祈りと呼べる物はあるが、それに聖杯という願望機を通すのは、あまりに無粋というモノだ。
だからこそ、純粋にアサシンは辰向に応えようとする。
――サーヴァントとマスター。
両者は主従という関係ではなく、対等の関係で結ばれている。
サーヴァントは使い魔ではなく、マスターは悪辣ではありえない。
「……俺は、正直いろいろなことを悩んでいる。キャスター陣営との同盟に関しても、ライダー陣営との戦闘に対しても、だ。全てを正しいと思うことはできないし、これからも正しい選択を行えるとは限らない」
それだけではない。
辰向には多くの迷いがある。
これは単純なことで、自分の無力さを、そのたびに痛感させられるからだ。
――何かをした時、別の可能性があれば、それを選べない無力が自分にはある。
辰向は、間違いなくそれを悩む人間だ。
「――それでも、君は目的を間違えないでしょう?」
「――――」
アサシンは、彼の言葉をそっと押し返すように言う。
辰向がその言葉にだまり、アサシンもまた、沈黙した。
カチャカチャと、機械を弄る音だけが、無音の室内に響く。
やがて、諦めたように、辰向は体を持ち上げた。
「……そろそろ、俺も礼装の手入れをしないとな。ずいぶんと無茶をしちまったし、不備が出たら日常生活に支障が出る」
礼装、すなわちいくつも自身に“内蔵”している礼装だ。
肉体を改造している――と言うと、さすがに異常が近い。
「思うに、そこまでの肉体改造は、かなりの悲劇に思うのですが」
「馬鹿言うな、俺は望んで無茶をしてるし、無理がでない“程度”は考えているさ」
身体を軽く動かして、違和感の有無を確かめる。
一歩間違えれば命にすら関わるほどの改造が、彼には一つや二つで済まない程度にはある。
それでも、辰向は悲観しない。
「――見たところ、表面に怪我はないようですが……昨夜見た限りでは、掠める程度とはいえ、いくつか被弾していたはずでは?」
「残らないさ、そんな傷。わざわざ残しておく意味もないしな」
言われて、アサシンはふむ、と辰向を見やる。
傷自体はすでに修復されているようだ。
一体いかなる魔術を用いたのかは、しれないが。
「それにしても、あいつら――ライダー陣営はどうするかな」
「今のところは放置で構わないでしょう。盤上を見れば、彼女たちは現在孤立した一陣営です。――それは、赤紫羅からしてみても、私達からしてみても、御しやすい」
「戦闘になったらどうする」
「――しないように立ちまわるのですよ。ようは、あちらに戦闘の意味が無いように追い込むのがこちらの勝利です。昨日の戦闘は、あちらの暴走という風ではありますが、一定の意図はありましたからね」
ランサー陣営のあぶりだし。
結果としてその意味は結果を成されたわけではあるが、ともかく。
「具体的には、赤紫羅陣営の二翼を落とします。まずランサー、そしてセイバー、もしくはアーチャー。ここまで行けば、戦局は圧倒的にコチラ優位となります。その場合、ライダー陣営が取りうる選択肢は主に二つ」
「こちらに付くか、一対一でセイバーを打倒しそれを手土産にするか」
「――彼女の性格からして、間違いなく後者でしょう。何にせよ、ここまで戦局が進めば、キャスター陣営は同盟に乗ってくるでしょう。戦局は、これより赤紫羅を中心として回ることとなります」
構図としては、キャスター、アサシン同盟対赤紫羅陣営。
そして浮き駒のライダー陣営。
何がどう動くにせよ、実質的な同盟間での戦闘がこれからの主となる。
「正念場だな。――キャスター陣営に連絡を取ろう。完全同盟に至れれば、拠点をあちらに移せるやも――」
言葉と共に、おおよそ礼装の点検が終了した。
辰向は早速キャスター陣営に対して何がしかの連絡を送ろうとして――
――その時、部屋の電話がけたたましく鳴った。
響き渡る鐘の音。
特徴のない無骨な、電話の呼び出し音だ。
部屋に備え付けられてる子機からだ。
それに出る者はいない。
現在辰向が間借りしている店の店主は、聖杯戦争という危機故に、現在街を離れている。
今日の朝、人目を避けるようにこっそりと、出立したばかりであった。
故に、電話に出るのは辰向の役目だ。
アサシンは現在、手が離せない状況にある。
「……もしもし?」
さっとそちらに向かい、電話にでる。
一体こんな時に誰であろう。
見知らぬ人間であれば説明などまったく面倒なのであるが。
しかし、そんな辰向の想像は意味を成さないものになる。
受話器の向こう側から聞こえた声は、辰向がここ最近、よく耳にしていた声だった。
『――辰向、だよね?』
――瀬場朝海。
先ほど、同盟相手として話題にだした、キャスターのマスターである。
『……今から、いいかな。話したいことが、あるんだよね』
受話器の向こうの声は、なんだか少し寂しげで。
怠惰で慇懃無礼なはずの少女の姿が、辰向にはどこか小さく幻視されるのだった。
あまりキャラ立てされることのないアサシンではありますが、それでも、辰向との信頼関係はしっかりと表して行きたい。