「は?」
自分で発しておいて、なんとも気が抜けた声だな、と彼女は思った。
彼女が護衛隊で鍛えられたものは戦闘技術だけではない。
例えばラテラーノのどこかの門扉の前に立っていたとしたら、例えどんな気が散る出来事が起ころうと微動だにしない自信があった。それが任務や市民の安全に関わることでなければ。
彼女は珍しいことに、無意識にベレー帽へ手をやりながら目の前の小柄なフェリーンを見た。
ロドスの汎用制服である翡翠色のラインが入った黒いジャケットをきちんと着込む、きゃしゃな体つきのいかにも文民然とした女性である。
最初、ロドスに居場所を見出だそうとがむしゃらだった頃、ドクターの護衛に付きたいとの希望を出した際に斡旋に当たってくれた人事部のオペレーターが目の前の人物であったから、その顔はよく覚えていた。
「ですから、三ヶ月間の外勤任務に出ていただくことになりました。お伝えするのが急になってしまい申し訳ありませんが、内容としてはほとんどお給金の出る休暇と思っていただいて構いません。すぐ出発というわけでもありませんので……」
「それは、どちらにでしょうか」
あまりの衝撃に彼女の声は掠れていた。握りしめたハルバードを取り落とすことは決して無いが、離したら崩れ落ちるのは自分の方な気がした。
「サルゴンのあるロドスの事務所です。えっと、こちらになりますね」
人事部のオペレーターは指先をタブレット端末の上で滑らせる。すぐドローンか飛行機械から撮影されたであろう航空写真が表示された。
確かに、オアシスから少し外れた赤茶けた砂漠の中、荒涼とした砂丘の頂上に、黒々とした影を伸ばす塔が建っている。
だが彼女にとってはそんなことは重要ではなかった。
蒼白になった顔で、頭上にぴょんと立った癖毛を震わせ、言葉を紡ぐ。
「お聞きし辛いのですが、これは、さ、さ、さ……」
「さ?」
「左遷なのでしょうか……」
人事部のオペレーターは驚いたように目を見開くと、やや耳を傾け、困ったように微笑んだ。
「ふふ、そんなことを心配していたんですね。後でドクターからも直接説明があるかと思いますが、ロドスは決して力不足のオペレーターを左遷することはしませんよ。ただ……」
言葉を切って、おもむろに視線をタブレットから彼女の背後へと移した。
「ドクター!」
「やあ」
彼女が振り返ると、中肉中背で黒ずくめの人物が、視線に答えるように軽く手を挙げた。
「言い方を変えよう。君には未知の環境に適応しつつ疲労を回復し知見を深める任務についてもらいたいんだ。頼まれてくれるかな、プリュム」
一度そのように言われたら、プリュムに断る言葉など無かった。
これまでそのように生きてきたし、護衛隊の職を喪って生き方に迷うようようになってからも、揺らぐことはない信念がそうさせるのだ。
誰かを護るために必要ならば、例え地獄であろうとハルバードと共に駆け抜けよう。そういうつもりだった。
つもりだったのに。
「あ、あとアーミヤとケルシーと私にサルゴンのお土産ちょうだいね。経費で落ちるから」
「これは後方支援オペレーターとしての意見ですが、普通に落ちませんよ。ドクターのポケットマネーでお願いします」
「え……」
三週間後
A.M. 11:30 サルゴン東部
「熱い…」
実際、"暑い"ではなく、"熱い"のだ。彼女が足元の砂を踏みつけるのと同時に、刺すような直射日光が彼女の全身を踏みにじっている。
砂漠に点々と足跡が伸びていた。プリュムは振り返って、思わず唸るように声を出した。蜃気楼の向こうにオアシスがゆらぎ、後は一面の青空と砂漠が広がっている。どうしてこんなことになったんだろう?
ロドスアイランドがサルゴンに最接近する時期を見計らって、飛行機械まで出してもらっての快適な送迎だったはずのに、最終的に徒歩になってしまったのには理由がある。
プリュムはオアシスで下ろしてもらった後、郊外の事務所へ向かうために現地で車を調達した。別に徒歩でも行ける距離ではあるが、休暇を楽しんだり買い出しをするには不便であろうとパイロットに助言されたので、素直に従う事にしたのだ。プリュムは自制の人だが、同時にこういった素直さを自分の美点だと思っている節がある。
ロドスに来てからオーバーワークになるほど外勤を繰り返してきたとはいえ、それ以前はラテラーノから出たことの無かった彼女に、このようなトランスポーターじみた現地調達の経験はない。炎国風に書かれた臨機応変の四文字を頭に浮かべながら、現地の怪しいフルフェイスの商人から中古のクルビア製四駆を手に入れたところまではよかった。
まさかエンジンルームにバクダンムシが巣を作っているとは思わずに車を出発させたプリュムは、砂漠をしばらく走ったのち、座席ごと垂直に吹っ飛ぶ羽目になった。プリュムとて優秀な先駆兵であるから受け身をとって無事であったが、源石通信機が故障してしまったのが気がかりである。
歩けない距離ではないため、とりあえず焦熱の荒野に散らばった荷物をかき集めて背負い歩き出した。だがとにかく熱い。黒い帽子に黒い外套、極めつけに頭にはリーベリの羽毛なのでなおさら熱いのだが、プリュムはあくまで服装を崩さないことにした。
外勤任務の経験に思うところもあり、もう護衛隊の規律に縛られる自分ではない。しかし赴任先のロドス職員は初対面であるから、乱れた印象を与えたくはない。
だが流石に熱すぎる……。そう思った矢先、プリュムは荷物の中の傘を思い出した。サルゴンに行くことを聞き付けてきたトゥイエとかいう医療部のオペレーターがにやつきながら持たせてくれた物である。感謝しつつもなぜ傘?と不審がっていたが、砂漠の気候を見越してのことだったのか、と妙に感心しながらプリュムは傘を開いた。
その傘は青い空の色をしていた。透明な素材が張り渡されたいわゆるビニール傘と呼ばれる極東発祥の傘は、素晴らしい効率で日光を透過した。
プリュムは流石に憤慨を覚えた。砂漠に雨は降らないと人事記録にも書かれている。
傘を諦め、気持ちを切り替えて、足を進める。汗が流れ落ちて、乾いた地面へ染み込んでいく。
やがて塔の先端が丘の上に顔を覗かせた。
モーニングルーティンなどと洒落た言葉で表すにはいささか内容が無いが、男には朝の習慣があった。
まず、朝ベッドで目覚める。朝日に照らされた、研究機材と資料でめちゃくちゃの自室は見ないふりをするのがコツである。
枕元のコップを適当に洗って、ロドスのロゴ入りのあの電気ポットでお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを飲む。
本艦からの連絡を適当にチェックしたあと、郵便受けを漁って新聞を取ってくる。
ついでに一階で飼っている羽獣の卵を二つ取って来て、ベーコンと一緒に焼く。黄身がとろけるくらいが好きな人が多いが、男は固くなるまで焼く。先ほどから男と言っているが、その体躯は少年にしか見えない。キッチンで調理をするには適当なラックを台座がわりにしないと届かないのだが、全てを眠そうな目で危なげなくこなす。
塩と胡椒をふり、全てを白い皿に盛る。テーブルについてパンと一緒に食べる。
そして食べながら購読している各国の新聞を読む。特にスポーツ欄の騎士競技の項目とオリジムシレースの項目をしっかり読む。
合計で龍門幣にして10万負けたことを知る。
あまりのショックに黄身が喉につっかえて噎せたところで、ジリジリと音を立ててインターホンが鳴った。
「はぁっ はぁっ はじめっ…ましてっ…プリュムと申しますっ…以前はっ…」
ホールに立っていたのは、巨大なハルバードを持つ、息もたえだえな一人のリーベリだった。
男は名乗るよりも前にとりあえず尋ねることにした。
「アイスコーヒーとかレモネードとか…飲みます?」
これがプリュムの
砂漠にあって塔は日時計のように見える。影はちょうど正午を指す位置にあった。
プリュムさんを酷使しすぎており休んでほしかったので書き始めました