千束の背後で、ターゲットの男が叫び声を上げて倒れるのと同時に、たきなは出口に向かって走り出した。
確実に殺した手応えがあったし、任務を遂行したならもうここには用はない。
護衛に失敗した千束が、悲痛な声で男の名前を叫んだ。千束が男に駆け寄って介抱する隙に逃げる算段だったが、千束はたきなの背中に発砲して追いかけてきた。
声も出さずに逃げる。
ドアを蹴り開けたところで追いつかれ、階段側の退路を断たれた。通路の反対側の奥には窓があるが、その向こう側には何もない。窓を割って飛び降りても助かる見込みがないので、逃げるには千束を突破するしかない。
「お前、私のことを知ってたな?」
千束が唇を噛みしめながら吐き捨てた。表情にはもはや余裕はなく、護衛に失敗した無念と、対象を撃った相手への怒りで醜く歪んでいる。
たきなはそれには答えなかった。答えるまでもなかったし、声を出すことは出来ない。
千束が銃を構えて一歩ずつ近付いてくる。後ろに逃げても追い詰められるだけなので、突撃して突破するしかない。しかし、真っ向から勝負して勝てる相手ではない。
壁や天井に向けてランダムに弾丸を放つと同時に、たきなは駆け出した。跳ね返りによる不規則な軌道。たきなですら予測不能なので、どうか千束に当たらないでくれと祈りながら撃ったが、相手の心配をしている場合ではなかった。
距離を詰めたところで放たれた千束のゴム弾が、たきなの腹部に命中した。泣くほど痛いが、そのまま横を走り抜ける。
「やっぱり、撃たれても大丈夫だってわかってる動きだ!」
千束が苛立った声でそう言って、さらにたきなの背中に向けて発砲した。
まだ必中の距離だ。衝撃を受けて前に倒れ込んだが、その分距離を稼げた。すぐに起き上がって銃を拾い、階段に駆ける。普通なら振り返って足止めに1発お見舞いするところだが、千束相手にそんなことをしても意味がない。時間を無駄にするだけだ。
「ナメんなよ!」
階段を降り始めたたきなに、千束が続け様に3発撃ち込んだ。しかし、精度の甘い距離で、1発肩をかすめただけだった。威力も弱い。
踊り場を曲がると、頭上からさらに発砲された。これは足を止めて避ける。
千束が階段の上から4階に向かって飛び降りる。果たして空中でも弾丸を避けられるのか興味が湧いたが、万が一にも当たってしまったら、それはそれでたきなの負けだ。どれだけ千束に撃たれようと、たきなの方から千束を傷付ける気はないのだ。
もっとも、相手はDAが誇る最強のリコリスである。たきながそんな心配をするまでもなく、あらゆる手段を使って本気で戦ったところで、恐らく一発も当たらないだろう。
4階から3階に駆け降りる。千束の銃が連続で破裂音を響かせた。
これを避ければ、いや、これが当たらなければ逃げ切れる。
そう確信したが、足と肩に衝撃を受けて、たきなはくぐもった声を上げて踊り場に倒れ込んだ。立ち上がろうとしたところを蹴り飛ばされて、壁に叩き付けられる。崩れ落ちたところに銃口を向けられ、さらに一撃。相変わらず、殺さないというだけで容赦ない。
もはやこれまでだった。たきなは階段にダイブすると、そのまま3階の床に転がり落ちた。そして、最後の力を振り絞って銃を撃ちまくる。
明らかに不穏な炸裂音と、無数のガラスの割れる音。銃を懐に仕舞ってぐったりと身を投げ出すと、下からがやがやと人の声がした。
全身血のような赤に染まったたきなと、銃を持った千束。黒ずくめの格好は不穏だが、どちらが被害者に見えるかは明白だ。それに、リコリスの千束は、銃を持った姿を晒すわけにはいかない。
「ふざけやがって!」
千束が苦々しく舌打ちをして、身を翻して階段を駆け上がって行った。下から階段を上がってくる足音が聞こえてくる。
たきなも面倒なことになる前に逃げたかったが、もはや指先一つ動かなかった。
その後、たきなは市民に救急車を呼ばれ、DAに回収された。
全身打撲の上、骨には何ヶ所かヒビが入っており、DAの治療技術をもってして2週間の入院を強いられた。
あの場に千束がいたのは、やはりDAの上層部も想定外だったようで、よくぞあの錦木千束を相手に、姿を隠し通したままやり遂げたと褒められた。
そんな称賛はどうでも良かったが、その錦木千束と本気でやり合えたのは満足だったし、いい経験になった。もちろん、練習では何度か撃ち合っているが、視線だけで人が殺せそうな形相の千束に全力で立ち向かえたこと、それに自分も実弾で千束を撃ったことに、罪悪感とともに言い知れぬ高揚感があった。
リコリコにはしばらく行けそうになかったので、たきなの怪我はDAの任務中に相手にやられたことになった。それはまったく嘘ではないのだが、それを聞いた千束が、何故たきなを一人で行かせたのかと、上層部に殴りかかる勢いで文句をつけたらしい。
今日も見舞いに来た千束が、無念そうに首を振りながら言った。
「たきなも、命令なのはわかるけど、一言私に相談して。相棒でしょ?」
「楽勝の予定だったんですよ」
「結果的にボロボロじゃない。私のいないところでたきなが殺されでもしたら、私はポリシーを貫く自信がない」
何やら自虐めいた呟きを零して、千束がため息をついた。護衛対象を殺された上、相手に自分が殺されることはないという舐めた戦い方をされて、千束は随分苛立っていた。もしあの場で殺されていたのがたきなだったら、それでも千束は相手を許しただろうか。
「それは、私は特別ということですか?」
真顔でそう聞くと、千束は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「当たり前でしょ。相棒なんだから」
今日の千束は随分と可愛らしい。いや、たきなと比べたら、千束はいつだって女の子らしくて可愛い。
そんな千束にあんなにも激しい憎悪を叩き付けられたのは、誇らしくも思える。願わくばもう一度戦ってみたいものだが、もうあんな機会はないだろうし、次は確実にバレるだろう。任務が遂行できたのは、千束に油断があったからだ。今回の戦闘で千束もまた得たものがあるはずだ。
予定通り2週間病院で過ごして、リコリコに戻った。体はまだ痛むが、手術が必要な傷を負ったわけでもないし、フロアでコーヒーを運ぶくらいは出来る。
休憩中、クルミと二人になった時、何でもないように聞かれた。
「千束はどうだった?」
「どう、とは?」
「やっぱり強かったか?」
タブレットから視線を逸らすことなく、当たり前のようにそう言われて、たきなは苦笑した。
考えてみれば、リコリコで受けた依頼を、千束が一人で対処する道理はない。ドアで待ち伏せされていたのも、侵入を把握されていたのだ。
「護衛対象がいなかったら無敵ですが、何かを護りながら戦うのは苦手そうですね」
「的確な感想だな」
クルミが可笑しそうに表情を緩めた。
「結局、どっちが正しかったのですか?」
何故麻薬のブローカーを千束が護衛していたのか。何故リコリコはその仕事を受けたのか。
核心に触れたが、クルミは「さあな」と首を振った。
「詳しくはわからん。待ち伏せしているのがお前だとわかったから、一応その場でも調べてみたが戦闘には間に合わなかった。今でも不明だし、興味もない」
「止めようとか、千束に教えようとかは?」
「千束とたきななら、どっちも死ぬことはないだろう。正義がわからん時は静観に限る」
そう言って、クルミは歪な微笑みを浮かべた。単に二人を戦わせてみたかっただけだろう。まったく悪趣味な女だが、千束の眉間に銃をぶっ放した瞬間を思い出してはゾクゾクしている自分も大概だろう。
フロアからたきなを呼ぶ相棒の声がした。
歪んだ悦楽はリコリスの闘争本能ということにしておこう。たきなは明るく返事をしてから、千束の元へ駆け出した。