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全14話 約4万4千文字で完結
リピッツァの朝・Ⅰ
砂の国、霧深い早朝。
不思議な光景があった。
馬の高さの空中を、ヒトがフワフワ浮かんでいるのだ。
かなり近付けば、霧に溶け込む真っ白な馬に、ヒトが乗っているのだと分かる。
鞍上は、広がったソバージュ髪にレモン色の瞳の女性。
濃い飴色の肌が、乗馬の白さを際立たせている。
この辺りにも葦毛馬はいるが、そんな半端な白さじゃない。
東国の陶器を思わせる一点の曇りもない純白に、ルビーみたいに真っ赤な瞳。
遠い西国の一部地域で繁殖される、リピッツァという稀少馬だと聞いた。
大陸を渡る馬商人が、年に一度の砂漠の大市に、目を惹く看板として連れていた、神話の世界から抜け出たような白馬。
彼女は一目見て、火が付いたように憧れた。
焦がれて焦がれて毎日通い詰めて飽きもせずに眺めていたら、市の最終日、義兄(あに)が大量の駱駝を引き連れて現れた。
「まったく親父殿はカーリに甘いんだから。で、欲しいのはどの馬なんだ?」
あれ絶対ボッてるぜ! と、ブツブツ言う手ぶらの義兄の横で、彼女は夢のような気分で、憧れの白馬に寄り添った。
しかし乗馬してみて、この馬のあまりの白さに、自分がみすぼらしく添ぐわないのに気が付いた。
修道院で立派な花嫁となるべく育ったものの、肝心の許嫁(いいなずけ)殿に、イラナイと言われた。仕方なくその家の養女に納めて貰ったが、この世に必要とされなかった惨めな身である事に変わりはない。
そんな自分がこんな馬を手に入れてしまって良かったのだろうか? 何処かの綺麗なお姫様が乗る馬ではなかったの?
勿論そんなこと義兄に言える訳はなく、手に入れてしまってからの戸惑いは、懺悔へと変わって行った。
我が物にしたはいいが、この馬はトラブル続きだった。
砂漠の深い砂で肩を痛め、暑さで物を食べなくなった。
義兄は、後先考えずにただ綺麗なモノを欲しがった義妹を責め、彼女は自分の思慮の足りなさに、ほとほと嫌気が差して落ち込んでいた。
「ホンット、カーリは白が好きだなぁ!」
そう言って笑いながら、逆光を背に厩に入って来たのは、馬に負けず劣らずの真っ白なヒトだった。
「うん、カーリに似合う! ピッタリだ!」
「うそ……?」
「ホントだよ、カーリの馬になる為に生まれて来たんだ」
少し足を引きずる渡りの彫刻家フウヤに初めて出逢ったのは、彼女がまだ何も知らない小娘の頃だった。
当のフウヤだって子供の域を抜けたばかりの年下だったが、ずっと大人びて、色んな事を知っていた。
毎年冬に砂漠を訪れる彼に特別な想いを抱き出したのは、リピッツァを手に入れたその年だった。
「この馬が一目でカーリの心に飛び込んだんだろ? それはカーリの馬になるって運命だったんだよ」
フウヤがそう言うと、本当にそんな気がして来る。
彼は馬の身体を診て、彼女がこの馬と共に過ごすにはどうすればよいかを、一緒に考えてくれた。
カーリはフウヤに教えられた通り、毎朝馬の下に潜り込んで、腹や脚を熱心にさすった。
それ以前は、こんな藁にまみれる仕事は、屋敷の厩(うまや)番任せだった。
馬の身体に触れていると、薄い皮膚の下の息づく流れや、ちょっとした変化も見つける事が出来た。
腹の下に居る方が、背に乗る時より、馬の信頼が要る事も分かった。
そう感じ出した頃から、リピッツァは病気をしなくなった。
フウヤの黒砂糖色の栃栗毛みたいに、主が来ると耳をくりくりさせながら寄って来てくれるようにもなった。
不思議な感情が湧いた。
修道院の主様や、義兄(あに)サマや義父(とう)サマにも感じた事のない感情。
そうしてやっと、リピッツァが自分の馬になった気がした。
そんな風に、フウヤは彼女の狭かった世界をどんどん広げてくれた。
無知な娘だからと、甘やかして閉じ込めたりはしなかった。
フウヤと一緒にいて心に流れ込んで来る物……それは『知る事』だ。
知りたいという気持ち。
例えば『命を貰う』という事。
何気なく着ている絹だって、多くのカイコを煮殺して出来上がる。
世の中にはそういう事、知りたくないと思う者もいるだろう。
でも、彼女は知りたいと思った。
修道院の中しか知らずに育った身にとって、知る事が生きる事だと思った。
早く冬になってフウヤが来ればいい……気が付けば、いつもいつもそう思っていた。
今、こうして朝霧の中リピッツァのたてがみを撫でながら、彼女は、大市に通い詰めていた時に親しくなった馬商人から聞いた話を思い出していた。
「白ってのは、自然界で一番弱くて強い色なんだぞ」
「?? 弱くて強い?」
「そう、雪の季節は別として、それ以外は自然界では目立ち過ぎるだろ? 白い仲間ばっかりになったら、敵に襲われやすくて全滅しちまう。だから白ってのは群れから弾かれるんだ。そして遺伝しにくい。種が白を拒絶しているともいえるな」
「ふうん、白って可哀想」
「ところが、そうでもない。白の遺伝子は、とんでもなく逞(たくま)しいんだ。遺伝しにくい代わり、ひとたび白の遺伝子が働きだしたら、他の色を食い潰しちまう。例えば葦毛は、本当は黒や灰になる筈だったのが、白の遺伝子が他の色を塗り潰して、白に変えちまうんだ」
「へえ、何でだろ? 白は種の為に良くない色なんだろ?」
「そう、そこなんだ。これはオジサンが思うだけなんだが、白ってのは、元々自然界には無かったんじゃないか? 後からわざわざ、バラ撒かれたんだ」
「誰が? 何の為に?」
「それを言っちゃあ、『神サマ』って言うしかないが。まぁほら、神サマって奴は、物事に良いも悪いも織り混ぜるだろ? 馬に関しては、白いのが混ざっていて敵に襲われる危機が増えたから、早く走れるように進化した、って訳だ」
「じゃあ白って、神サマが色んな物事を良くする為に、特別に創って散りばめたのか?」
「ははは、なるほど、そうかもな。まぁリピッツァは、西国のとある島で、白い遺伝子を持った馬達を集めて人工的に繁殖したんだ。王室の式典用とかの為に。ヒトが神サマの領域をやっちまうんだから、罰当たりだわなぁ」
ミルクの滝みたいなたてがみを見つめながら、馬商人の理屈を、彼女は遠くに聞いていた。
――神サマが特別に授けた色なんだ
朝霧の向こうに色が見えた。
黒砂糖色の栃栗毛の馬だけが歩いて来る。
近付けば、霧に溶け込む程の純白なヒトが乗っているんだと分かる。
「やあ、カーリ」
彼女の大好きな、真白い前髪の下の朗らな瞳が微笑んだ。
「行こうか」
***
春の初めの三日月の夜、モエギがこの世の使命を終えて逝ってしまった時、カーリは生きる拠り所を失って、茫然となっていた。
義兄・・ハトゥンの世継ぎを産む事を使命と教えられて育った彼女は、ハトゥンにそのつもりが無い事を悟ると、彼の妻モエギとその子供を支える役割に回った。
自分を放り出さないで養女にしてくれた総領殿に対する恩返しな気持ちもあったけれど、命掛けて世継ぎをこの世に送り出したモエギを見て、何かを感じた。
彼女の側に居てみたいと思った。
看病として共に暮らす内、モエギは彼女の知らぬ温もりを教えてくれた。
多分『お母さん』ってこんな感じなんだ……と思う事が、何度もあった。
西風の湖の対岸の葬列を茫然と見送る彼女の傍らに、白い髪を西陽に染めた青年が、ずっと立っていた。
夕暮れて二人の影が藍色に沈む頃、彼はポツンと言った。
「おいで、僕と」
「うん……」
彼に出逢って『知りたい』気持ちを持たなかったら、モエギの看護をしたい、モエギを知りたいとは思わなかっただろう。
知りたい気持ちが、自分の世界をどんどんと広げてくれた。
だから、もっと彼の側にいたいと思った。
せっかく生まれて来たこの世をもっと知る為に。