朝……刺すような光…………
下の集落で駱駝の声がする。
そうだ、今日は菜の行商人が来る日。
蜜柑があるといいな、モエギは蜜柑を見ると笑うんだ。
…………モエギ? モエギは何処へ行ったんだろう?
…………ああ、モエギはもういないんだった…………
光が柔らかくなる。
そうだ、ここは砂漠じゃなくて、フウヤと来た、三峰の山。
ベッドに身を起こすカーリの身は鉛のようだった。
フウヤはもう身支度をしている。
「カーリが寝坊なんて珍しいな」
「ご、ごめん」
砂漠の夢なんて、ここへ来てから見なかったのに。
「いいよ、カーリのお弁当も作っといたから。糸紡ぎ、頑張ってね」
「う、うん……」
養蚕小屋でシータに会うのが心重かった。
「おはよう!」
心重いとか思う暇なしに、黒髪の娘が戸口に現れた。
「わああ! ちょっとは新婚を気遣え!」
フウヤの抗議はお構いなしに、シータはずかずかとカーリの前に進んで、山菜カゴを突き出した。
「カーリ、今日も私と山に行きましょう! 昨日は中途半端だったから、今日は残りの山菜を教えるわ!」
「はぅあ?」
カーリはタジタジになりながら、助けを求めるようにフウヤを見た。
のんびり屋のフウヤも、目を見開いて壁に張り付いている。
「いいわよね、フウヤ」
「う、うん……」
元々自分が頼んだ事だから、フウヤには阻止する理由が無い。
「行くわよ!」
寝起きの働かない頭のまま、カーリはシータに引っ立てられて山に向かった。
***
「カーリ!」
「は、はいぃ」
「これは昨日教えたわよね」
二人は前日と同じ山陵にいた。
「えーと、えーと」
「これは食べられる、こっちの根元の色が違うのは食べられないって」
「……うん」
「覚えた? エライわね、イイコイイコ」
「??」
カーリは引きつって硬直した。
シータは『イイコイイコ』なんて言って頭を撫でて来る人物では無かった筈。
しかも口調が棒読みで怖い。
「よし、次は、あっちの峰へ行くわよ!」
「ええっ?」
「大丈夫、頑張ればこんなのすぐに覚えられるわよ」
「……」
カーリは記憶力が悪い訳ではない。
ただ早さとプレッシャーに弱いのだ。
更に、妙にハイテンションなシータの圧が、彼女のパニックに拍車をかけていた。
怖い、帰りたい……
「シ、シータ」
「なあに?」
「昨日の事怒ってる? だとしたら本当にごめ……」
「違うったら! そういうのやめてって言ったでしょ!」
いきなり語気を荒げられて、カーリはぺしゃんと黙るしかなかった。
お昼を食べる余裕もなく夕刻になり、シータが先に立って、今まで行った事のない谷に降りた。
「フウヤがまだ谷には行っちゃダメだって……」
「いつまでもそういう訳には行かないでしょう」
「うん、だけど……」
「貴女、三峰の女になりたいのでしょう? それともいずれ砂漠に帰るから、おざなりでいいと思っているの?」
「えっ?」
カーリは顔を上げた。
シータはハッとした表情で口を結んでいる。
「?? シータ、分からない、何を言っているの?」
黒髪の娘は向かい合ったまま、何度も唾を呑み込んでいる。
「シータ、わらわは自分で決めてフウヤに着いて来たんだ。砂漠に帰りたいなんて思う筈ないよ」
「ううん、そうじゃなくて」
「??」
「フウヤがもし、砂漠に住むって言ったら……貴女、その方が嬉しい?」
「!?」
カーリは目を見開いて口をポカンと開けた。
シータが何でそんな事を言うのか分からないが、二人の間に何だかとてつもない『ズレ』があるのは分かった。
「シータ、それは考えられない。フウヤは三峰を愛しているもの」
「だから貴方は『仕方なく』三峰に来たの?」
「……」
それは……そうだけれど……
自分は一生懸命ここに馴染もうとしている。
それではいけないのか?
――ヒュ―――イィ
狩りの指笛だ。二人は顔を上げた。
「……ヤンだわ」
「うん、狩りが早く終わったって知らせだな」
カーリは救われた気持ちになった。
少なくともこの場からは逃れられる。
「行かなくてはね」
シータも話の続きは諦めて、谷の道を登りかけた。
・・!? が、数歩歩いた所で足をもつれさせてうずくまってしまった。
「どうしたの?」
駆け寄ったカーリは、はっと息を呑んだ。
黒髪のこめかみに脂汗がにじんで頬が土気色なのだ。
「シータ!?」
覗き込んだ顔はいつもの完璧さからは程遠く、瞼を固く閉じて荒い息をしている。
いつの間にこんなに具合を悪くしたんだろう。
(そういえば今日は怖くて、シータの顔をまともに見ていなかった……)
カーリは一瞬、三峰に来た日の事を思い出した。
「地霊になんか憑かれていないわよ」
先回りして、シータが弱く呟いた。
「ちょっと目眩がするだけ。少し休めば治まるわ」
「シータ、もしかして、昨日もこうなったのか?」
「……」
「病気だよ! 医者に診せなきゃ」
言いながら言葉が止まった。三峰の優秀な医師は目の前にいる。
その戸惑った顔を見て、黒髪の下の表情がちょっと緩んだ。
「心配しなくていいの、ただの貧血だから。寝不足の時はよく起こすのよ。少し休めば直ぐに楽になるわ。皆には言わないでね」
「寝不足……」
そうだ、シータは、養蚕の仕事から帰っても、家でずっと機織りをしている。
他所の部族との交流に彼女の見事な模様織が必要なんだ、ってフウヤに聞いた。
(そんな大切な仕事があるのに、自分の為に時間を裂いたから、徹夜で織物をする羽目になってたんだ)
「シータ、ごめ……」
言い掛けて、カーリは口を結んだ。
謝ったって、シータに何の助けにもならない。
シータは謝って欲しいんじゃない……
「さあ、もう大丈夫よ。狩りの男達を待たせちゃいけない」
立ち上がったシータだが、少し歩いてまた屈み込んだ。
瞼が青黒くなり、全然大丈夫じゃなさそうだ。
「横に、取り敢えず横になって」
カーリは自分の上着を地面に敷いて、シータを支えて横たえた。
ハンカチを水筒の水で湿らせて額に当てるが、玉汗が後から後から浮き出てくる。
それなのに手足は冷たくて、ガタガタと震えている。
こんなに具合が悪いのに、どうしても集落へ帰って仕事をせねばならないのだろうか?
昨日からキュウキュウ張り詰め過ぎたカーリの頭のゼンマイが、この時とうとう弾け飛んだ。
「儀式ならわらわがやる!」
言ってしまってから頬が熱くなったけれど、言葉は呑み込まなかった。
「祝詞(のりと)は暗唱している。砂漠の神様も山の神様も、親戚みたいなものでしょ!」
カーリの心の中に、嫌われるかもしれないとか、気分を害するかもしれないとかいうのは、吹っ飛んでいた。
ただシータをここで休ませてあげたかった。
「そう……」
意外や、シータは怒りも驚きしなかった。
「じゃあ、お願いするわ」
拍子抜けする程あっさり託され、カーリはシータの気が変わらぬ内にと、急いで立ち上がった。
三歩ほど走りかけたが、すぐ振り向いて、やにわに着ている物を上も下も脱いで黒髪の娘に全てかぶせ、自分は下着姿で谷を駆け上がった。