やっと山が見えて来ました
残り雪・Ⅰ
「見えたよ、三ツ又の槍」
前を行く黒砂糖色の栃栗毛に跨がる青年が、正面に霞む三つ尖った峰を指差した。
「あれが三峰」
青年は真白い髪に負けない白い歯を見せる。
カーリが、彼の中で三番目に好きな箇所だ。
「じゃあ、今日中に着けるか?」
カーリは峰の窪みに残る残雪に胸を踊らせながら聞いた。
早くあれに触れてみたい。
「チッチッ、山ってのは見えてからが遠い。あと三日はかかるかな」
「そうか……」
「もう暫くはカーリと旅が出来る。はっは」
白い青年は軽やかに笑う。
この、マイナスに思える事も楽しい風に変えてしまう所が、二番目に好きな箇所だ。
「旦那、運がお悪い。今日はお泊めする事が出来ません」
通り道の小さな村の宿屋の主人は、申し訳なさそうに言った。
「ありゃ、どうしたの、トラブルかい?」
「いえ、祝い事です。明日、婚礼の儀式があるのです。花嫁が外の村から来る者なので、親族で部屋が埋まってしまっているのです」
「あ、そう……」
「フウヤ、わらわは野宿でもよいぞ」
「う――ん」
「あの」
宿屋の奥から、若い男女が出て来た。林檎みたいな頬をした、まだ少女っぽい女性の方が言う。
「私どものせいで旅の方にご迷惑をかけるのも。ご婦人もいらっしゃるのに」
「ねぇ、君の兄さん夫妻、僕達の家の寝室に泊まって貰ったらどうだろう? そうしたら一部屋空きますよね」
「いい考えだわ」
どうやら明日の主役らしいこの二人は、新居のベッドを明け渡して、台所の土間あたりで寝る事を屈託なく相談している。
通りすがりの赤の他人の為に。
旅をしていると、こんな『無償の親切』を受ける事がままある。
旅が長いとそれに慣れ、感覚が麻痺しがちだが、フウヤがそうではないのをカーリはよく知っていた。
明け渡して貰った部屋にカーリ一人残し、フウヤは一晩帰らなかった。
カーリは大人しく黙って待っていた。
彼と一緒にいると、こんな事はしょっちゅうなのだ。
翌日の婚礼の儀式は凄いコトになった。
近隣の大きな街からやって来た楽隊と詩人が歓びの唄を奏で、芸人達は所狭しと飛び回って宙返り。
子供達には菓子が配られ、屋台は無償で料理を振る舞う。
花吹雪の中、若い夫妻がビックリ仰天で何かの間違いではと問うと、既に代金は貰っていると答えた料理人の一人は、こう答えた。
「天使のくじ引きに当たったらしいですよ」
村が大騒ぎに溢れている頃、旅人の二人は、既に遠く離れていた。
「金貨、だいぶん余っていたの、これで使い切れた」
「そうか、よかったな、フウヤ」
「寝てないからヘロヘロ」
「少し休むか?」
「うん、カーリ、ひざまくら」
「甘えんぼだな」
木陰で馬を止めて、ソバージュ娘の膝枕で足を重そうに投げ出して、フウヤは本当に熟睡してしまった。
「面白いオトコだな」
義兄(あに)サマが言っていた。
『悔しいが、あいつの創る天使像に何かがあるのは否めねぇ。本当に悔しいがな』
カーリが幼児だった頃、世界を黒い疫病が襲ったらしい。
修道院の奥深くに病魔は届かず、まったく知らずに育ったが、外の世界の爪痕は大きかったという。
その恐怖も覚めやらぬ十何年か前、今度は空が渦巻いて人心を喰らう災厄が起こった。
立て続けに恐ろしい思いをして、人々の顔に暗い影が落ちた。
そうした世界に、フウヤの天使像は少なからずの光を当てているのだという。
この口を半開きで寝入っている男の、どこにそんな力があるのだろうな。
出逢ってすぐに、このヒトが金貨に執着しない事に気付いた。
逆に、なるべく早く身から離そうとする。
大評判のフウヤの天使像は注文が後を絶たない。
そんなに金貨が要らないんなら無償で受ければいいのだろうが、その辺は他の職人との兼ね合いから、そうも行かないらしい。
心付けでいいですよと言っても、出来上がった天使像を見た依頼主はケチる気持ちを失くするみたいで、金貨が無造作に放り込まれた袋は一冬で結構な重さになる。
それらを、毎年三峰に帰るまでに使い切ってしまう。
その使い方も彼なりの法則があって、施しの形を取らない、誰がやったか分からない、貰った側に負担に思わせない、形が残らない、……等だ。
「面倒だな」
前にそう言った時、フウヤは大真面目に答えてくれた。
「そう、お金を使うって面倒だ。前にまるごと慈善施設に寄付した。そしたら施設の経営者が僕を追い回すのに躍起になって、施設の運営がおざなりになった。行く先々で振る舞ったら、よからぬ連中に付け狙われた。ホント、厄介だよ」
アブクみたいに遣っちまうのが一番さとうそぶいていた彼の寝顔を眺めながら、カーリは膝を揺らさぬよう、じっと座っていた。
新婚の二人にとっては、家財道具とか形ある物の方が、気の利いた贈り物と言えるだろう。
フウヤの金貨の使い方に眉を潜める者もいるかもしれない。
しかし全くのアブクでもないと、カーリは思う。
雇われた物達は思わぬ収入にホクホクだし、村人や子供達は楽しい一時を過ごせ、あの新婚夫婦には後々語り継げる忘れられぬ思い出となったろう。
それらは後々、何処かで誰かの幸せに繋がるかもしれない。
意識しているのかしていないのか分からないけれど、彼の金貨の使い方って、そうなのだ。
「いざという時の為に貯めておこうとは思わないのか?。とっておけばよかったと、後悔するのは怖くないか?」
意地悪くそう訊ねた事もある。
「そうだね。でもさ、いざという時って、実は人生にそうそうない。そして本当のいざという時って、金貨とかあんま役に立たない。以前の黒い病の大流行、病は貧富を選んだか?」
「……」
「その時後悔するのは、きっと別の事だよ」
「……」
「だけれど金貨がもたらすモノはある。欲と争い」
過ぎた金貨の怖さを知っている彼は、本当に大切にしたいヒトとの間には金貨を挟まない事にしている、と言った。
それを聞いてカーリは、フウヤが自分が何を欲しがっても買ってくれなかったのを思い出して、ちょっと嬉しくなった。
「だから僕は、余計な金貨を三峰には絶対持ち込まない」
では、この面白いオトコが毎年冬、愛する三峰を離れて天使像を造って回っているのは何故か? それはカーリはよく知っていた。
出来上がった天使像を眺める皆々の、穏やかな顔、顔、顔……
離れた所からそれを見つめて、このヒトは何ともいえない表情をする。
やり遂げた達成感とか、皆の反応に対する満悦の表情ではない。
ただただ真摯な瞳……畏敬のような、信仰のような。
そう、まるで、人々の中に天使を見ているような。
そんな時のこのヒトの横顔が、カーリの一番に好きな箇所だ。