三峰の峰が見えて三日目の朝。
空気がシンと冷え、登っていた道がなだらかに変わって、周囲が明るくなった。
「もうすぐ尾根だよ。キツイのはここまでだ。よく頑張っ……・・!?」
フウヤはハッと顔を上げた。
空気が震えた。
続いて谷にこだまする鋭い指笛。
「な、なに??」
「狩りだ!」
フウヤが目を輝かせて尾根を見上げた。
上方から何かの気配が迫って来たと思ったら、周囲を複数の人影が駆け降りて行った。
あっという間だった。
足音もしなかった。
一拍後、谷で動物の悲鳴が短く響いて静かになった。
「仕留めたな。多分一番弓はヤンだ」
「ヤン?」
覚えている。
フウヤが砂漠へ来始めた頃一緒だった、ビックリする程澄んだ目の、彼の親友。
部族内で役目が付いたとかで、ここ何年かは同行して来なくなった。
「いただろ、今駆け降りた、先頭に」
「いたの? 早過ぎて見えなかった」
馬を止めて話している二人の前に、下から登ってきた集団が姿を現した。
「ひっく・・」
カーリは思わず喉を鳴らしてしまった。
男達は木の棒にくくりつけた大鹿を担いでいた。
鹿は一刻前まで生きていたのが嘘のように、血濡れた胴体から棒みたいな脚を突き出している。
狩人達は皆、口を結んで怖い顔。
「フウヤ」
知った声に振り向くと、狩猟化粧をしていたが、覚えのあるヤンがいた。
カーリはホッとした。
「ヤン、ただいま」
「ああ」
ささやき声での会話はそれだけで、ヤンと集団は二人を置き去りに、ザクザクと登って行ってしまった。
「??」
カーリは戸惑った。
ヤンはフウヤの親友ではなかったの?
彼女の知っているヤンは、気さくで優しいヒトだ。
(まさかケンカ中なのか? それとも自分を連れている事が何か問題があるのだろうか?)
にわかに不安になった。
集団が通り過ぎた所で、フウヤが顔を上げた。
「僕達も行こうか」
「う、うん……」
フウヤは飄々と馬を進めたが、カーリは沈んだ気持ちに押し潰されそうだった。
もしかして、このヒトは自分の為に、何か掟を破ってしまったのでは?
尾根の小路を少し下った所に、三峰の集落があった。
狩猟と養蚕で生計を立てる、桑畑に囲まれた山岳部族。
広場ではさっきの集団が、大鹿を中央に輪になっていた。
白い羽根飾りの女性が、二本の長い榊を振って、横たわる鹿に鎮魂の祈りを捧げている。
(よく通る、綺麗な祝詞(のりと)……)
ボケッと聞いていると、入り口でフウヤが下馬するように促した。
女性の祈りが終了すると、狩人達は一斉に踵を返して走り出した。
フウヤの後ろに隠れるように馬を引いて歩いていたカーリは、迫り来るさっきの集団にギョッとした。
男達はたちまち二人を取り囲む。
「フウヤァ! 何だよこの可愛い子ちゃんは! 生意気だぞフウヤの癖に!」
「うおぉぉお! チキショウ! てめえには百万年早いってんだ!」
「お嬢ちゃん、早まっちゃいかん、こいつの性格の悪さを知らんだろ」
「え、え、え?」
「スト――ップ!」
ヤンが叫んだ。
「まず長旅のお嬢さんを休ませてあげよう。何にしても族長に挨拶だ」
それだけ言うと後は駆け寄って、細っこいフウヤが吹っ飛ぶ勢いで抱き付いた。
「お帰りフウヤ! こいつぅ、連絡くらい寄越せよ。仰天して掟を破っちゃう所だったじゃないか」
山から命を貰っている狩猟の民は、獲物を持ち帰って魂を弔うまで、大声を上げたり他の話をしたりしない。
だがこの日ばかりは皆、純白の馬に跨がった飴色の肌の娘が気になって気になって、儀式どころじゃなかったらしい。
皆に囲まれながら、カーリはフウヤに連れられて、族長に挨拶に行った。
鷲羽の首飾りを付けた逞しい族長は、フウヤの肩をバンバン叩き、遠来の娘の手を取って歓迎してくれた。
カーリは、さっきまでの不安が嘘みたいに洗い流されて、安堵の気持ちで一杯になった。
よかった、いいヒト達。自分はきっとここで上手くやって行ける。
フウヤが族長と長話があるというので、カーリは先に外へ出た。
狩猟仲間の間で、ヤンが手招きしている。
導かれるまま輪の一角に座った沙漠の娘の前に、木の椀が回されて来た。
「なに?」
覗き込んだ瞬間、グッとなって口鼻を押さえる。
本日の獲物の臓物を煮込んだ汁物だ。
「命を奪う業を皆で分けて背負うって意味があるんだ」
ヤンが隣で説明して、真っ青なカーリを気遣った。
「無理しなくていいよ」
「い、いや……わらわは、此処の、一員に、なるの、だから・・い・た・だ・・・・・」
目を白黒させながら、椀に顔を近付ける。
経験した事のないギトギト油、獣の臭い、身体中、ざわざわ、ぞわぞわ……ゎゎ………………
***
「座った形のまま失神するなんて、随分器用なのね、フウヤのカノジョ」
女性のよく通る声がする。
清潔なシーツ、ベッドの上。
そう、臓物の脂を見て気が遠くなったんだ……
「でも大丈夫なの? 臓物の臭いだけで気絶しちゃうなんて、どれだけお姫様なのよ?」
声は隣の部屋からで、カーリはベッドで身を固くした。
「いいんだよ、カーリはお姫様で」
フウヤの声。少しホッとする。
「臓物どころか、赤ん坊の頃から修道院育ちで、制約された物しか口に入れられなかった。今でも血肉の類は苦手だよ」
「あ、あら、そうなの? ごめんなさい」
「謝る所じゃないよ。修道院育ちは素敵な事なんだよ。何たってカーリは天使なんだ」
「あらあら」
最後の意味が分からなかった。天使……?
「僕、至急自宅に戻らなきゃならないんだ。族長が使っていないベッドを譲ってくれるって。置き場所を作らなきゃ」
「お父さんが? あ、じゃあ、私が子供の頃に使っていた白いベッドかしら。そうね、あの子の背丈ならあれで丁度かも」
「その間、悪い、カーリを頼む」
「だから普段から掃除をして置きなさいって言っていたでしょ。ついでに天使に見られたら困る物も、キチンと処分しておくのよぉ」
女性の言葉の語尾は尻上がりで、気の置けない親しい者がじゃれついている感じだった。
扉が開いて、黒檀みたいな真っ黒な髪の女性が入って来た。
「あら、起きたのね、大丈夫?」
さっき獲物に祈りを捧げていた、白い羽根飾りの女性。
「大丈夫……」
カーリは起き上がってベッドから降りようとした。
「まだ休んでいなさいな。疲れてもいたのよ、きっと。フウヤってマイペースだから、着いて来るの大変だったでしょう」
「そんな事ない、フウヤは優しい」
飴色の肌の娘の頑なな言いように、女性はちょっと止まったが、すぐ平常な顔をして、持参した水差しからコップに水を注いだ。
「あのね、私シータ。フウヤとは子供の頃からの友達なの。普通にト・モ・ダ・チ」
水を渡しながら微笑み掛けられて、カーリは頬が熱くなった。
小さな村の中なんだから、軽口を叩き合う女性の友達くらい居たって当たり前なのに。
シータは、彫像のようなシルエットに絹の薄衣が栄(は)える、美の見本市のような女性だった。
象牙の肌に黒曜石みたいな瞳。きりりと結い上げられた黒髪は、墨で線を引いたみたいに真っ直ぐだ。
カーリはそれまで気にも止めなかった頑固に広がる自分の癖っ毛が、急に恥ずかしくなった。
扉がノックされて、先程会った鷲羽の族長が入って来た。ここは族長の自宅で、シータは族長娘だった。
立ち上がろうとするカーリを族長は優しく留め、部族の慣習に馴染もうと努力した彼女を誉めてくれた。
しかし誉められる程に居心地が悪くなり、送ってくれるというのも断って、逃れるように暇(いとま)した。
外の眩しさに、まだクラクラする。
道々、皆が振り返る。
当たり前だと分かっていても、何だか苛ついた。
族長に教わったフウヤの住居兼アトリエは、桑畑を通り過ぎた土地の端……垂直に落ち込んだ崖の側にあった。
昔の養蚕小屋を改装したもので、売れっ子芸術家の自宅とは思えない質素さだ。
中を覗くとフウヤはいなかった。
掃除がやりかけな感じで、掃除道具がそこここに置きっぱなし。
足を踏み入れて、立て掛けられていた箒(ほうき)を手に取った。
ガランとした部屋の壁には、様々な土地の地図が上から下までびっしりと貼り付けられている。
この土地全部に行ったのだろうか? 自分の知らない色んな土地を見て、自分の知らない沢山の友達がいるんだろうな……
隅に小さな厨房、奥に背の高い書棚とベッド。
家具と言える物はそれだけで、あとは幾つかの木箱に沢山の巻紙が刺さっている。
「今日からここで暮らすんだ」
奥の大きめの窓からは、残雪のある谷の斜面が見える。
フウヤの好きそうな景色だ。自分も好きになれるだろうか。
やっと心が落ち着いて、明日からの生活への実感が湧いて来た。
・・??・・
気配を感じた。
カーリの足は、引き寄せられるように部屋の奥へ動く。
開けられた窓から埃っぽい空間に陽光が伸び、壁際の書棚をぼんやりと照らしている。
気配はその棚の中段からする。
他には物がびっしり詰まっているのに、その段だけ妙にスッキリしていた。
真ん中にひとつだけ何かが置いてあるが、布が掛けられている。
埃が無いのは、帰宅して一番にそこだけ掃除をしたからだろう。
(勝手に家捜しなんて、ダメだ、そんな卑しい……でも……)
好奇心の手が伸びて、その紫のしじらの布を、はいだ。
「えっ!?」
布の下は、拳大の木彫りの人形だった。
背を向けて置かれていたが、粗い彫りは、フウヤの手の物とは違う。
それよりカーリの目を釘付けにしたのは、人形と向い合わせで奥に立て掛けられた鏡だった。
最初、鏡だと思わなかった。
だってそこには、向かい合っている人形とは別のモノが写っているのだ。
その後ろに、覗き込む自分の顔がぼんやり映っていて、やっとそれが鏡だと気付いた。
「きれい……」
カーリは思わず声に出した。
荒い木彫りの人形の代わりに鏡に写っているのは、人形と同じサイズの小さな女性だった。
魔法の人形? それにしても何て綺麗。
さっきのシータって女性(ヒト)も綺麗だったけれど、全然異次元な美しさ。
透けるように白い肌、薄紫のふぅわりとした髪、スッと切れ込んだアメジストの瞳。
フウヤは普段から、こんなヒト離れした麗しい女性ばかり見ているのだろうか。
その女性が動いて口を開いたので、カーリはびっくりして布を落としそうになった。
《フウヤ?》
声も鈴を振るうようだ。
《戻ったの、フウヤ? 元気だった? 怪我はない? 貴方がいないと本当に寂しいわ》
「・・・・!」
カーリは手にした布を、思わず人形にひっ被せた。