「そこ、危ないわよ」
フウヤの自宅の裏手、谷を見下ろす崖の端で、カーリは小さく飛び上がった。
黒髪のシータが風呂敷包みを抱えて、数歩後ろの柵の向こう側にいる。
カーリは崖ギリギリに立ち、遥か眼下の川の流れを覗き込んでいた。
「なかなかの景色でしょ。でも柵を越えちゃ駄目。そこ、地面の下がえぐれているのよ」
ソバージュ娘は足元を見て身震いし、慌てて柵の所まで戻って来た。
「フウヤはベッドを運ぶ荷車を取りに行っているわ。行き違っちゃったわね。あら、それ?」
指差されて、カーリは自分の手の中の紫のしじら布の包みを、今初めて気付いたように凝視した。
「フウヤの『お姉ちゃん人形』ね。魔法が掛かっているのよ、びっくりしたでしょう?」
「……ぇ……?」
「最後に目を合わせたヒトを宿して、鏡に映してそのヒトの心を喋るんですって。遠くに暮らしているお姉ちゃんの姿をいつでも見られる、フウヤの宝物。ま、多少のシスコンは大目にみてあげなさいな」
「・・・・」
なるべく軽い感じで話しかけているのに、この飴色の肌の娘はダンマリのままだ。
シータはそういうのは苦手だった。
「ね、貴女、その人形に変な勘繰りをして、そこから投げようとしていたんじゃないの? 駄目よ、そういうの。フウヤに聞いてみれば済む事じゃない。ほら、よこしなさい」
手を伸ばして布包みを引ったくろうとするシータに、カーリは予想外に抵抗をした。
それで、シータもついムキになった。
***
「昼間、桑畑の方へ歩いて行くのを見た時、表情が固くて変な感じだったよ。その後シータが、日用品を届けてあげるって貴方の家へ向かったから、最後に会ったのはシータじゃない?」
もう暗くなるというのに、集落の何処にもいない飴色の娘を探すフウヤに、竈場(かまば)のおかみさん達が告げた。
「ね、君、カーリと何かあったの? 来たばかりなのにいなくなっちゃうなんて、おかしいだろ」
焦った様子のフウヤが、族長宅玄関でシータを問いただす。
「彼女、まだ帰らないの?」
黒髪の娘は困った顔で口ごもる。
「会うことは会ったけれど、ちょっと立ち話しただけだわ」
「何を話したの。シータ、君の『ちょっと』は、たまに『ちょっと』じゃないんだよ」
「何よ、私の言い方がキツイって言いたいの!?」
シータが声を上げた所に、ヤンが駆け込んで来た。
「今、皆で山を捜す算段をしている。僕達も行こう、フウヤ」
「待って!」
シータが決心したように二人を呼び止め、家の奥から紫の布包みを持って来た。
「何でそれがここに?」
突き出されたそれに触れて、フウヤは「ええっ」と悲鳴を上げた。
布の上から、中の人形がバラバラに砕けているのが分かるのだ。
「昼間ね、カーリが外に持ち出していたの」
シータは眉を寄せて、フウヤを見た。
「多分彼女、自分じゃない女性の人形を貴方が大切にしているのを見て、ムカッとしたんだと思う。で、私に見つかって取り合いになって」
「……」
「落ちた所が石の上だったのも、その上によろめいた私のカカトが降りたのも、不幸な偶然だったのよ。ワザとじゃないわ」
「……」
「でも、そもそもは、彼女が持ち出したのが原因でしょ。彼女、私に、人形が貴方の大切なお姉ちゃんだったって聞いて、真っ青になっていたわ。それで貴方に合わせる顔を失くして途方に暮れているんだと思う」
「……」
「ね、そのくらい許してあげなさいね。説明しておかなかった貴方も悪いのよ」
「……」
硬直して無言のフウヤの横で、ヤンはヒヤヒヤした。
シータや他の村人は、フウヤの故郷の戒律が厳しくて、彼が二度とお姉ちゃんに会えない事を知らない。
「……行こう、ヤン」
恨み言は何も言わずに、フウヤは背を向けた。
ヤンも一度二度彼女を振り返り、彼を追った。
黒髪の娘は、二人が見えなくなってから大きく息を吐いて、ケープを羽織って桑畑の方へ駆けた。
***
――ヒュ―――イィィ
飴色の肌の娘は、遠くの指笛に顔を上げた。
居なくなった自分を呼んでいるのかもしれない。
しかし、彼女の足はどんどん谷への道を降りる。
左右に湿った地面の迫る、小さな流れの谷底に行き着いた。
窪んだ日陰に残った雪が、シンシンと冷気を立ち上げている。
月明かりに浮かぶ晩春の残雪は、埃やゴミが詰まってちっともきれいじゃない。
「これは、神サマの創った色とは違うんだろうな」
遠くから見ると山陵に美しく映える純白も、近寄って見れば案外灰色なんだ。
カーリは憑き物を落としたいように、両腕で肩を抱いて身震いした。
慣れない足が残雪の空洞を踏み抜く。
倒れ込んだ雪の上の冷気が、身体の芯まで突き通った。
「つ・め・た・い」
砂漠で育ったのに、何でこの言葉を覚えたんだっけ……?
擦りむいた手の中のザラメ雪をぼうっと眺める娘の背後から、ドロリと赤黒い影が忍び寄る。
――!?
不意に目前に、女性の白い手が差し出された。
顔を上げるとそこにいたのは、月を背にした黒髪のシータ。
逆光で表情が見えない。
驚くカーリに、促すように手首を上下させる。
おずおず差し出した手を、白い指が乱暴に掴んだ。
えっ!? 凄い力。
そのままぐいと、白い顔の前まで引き寄せられた。
形のいい唇が斜めに歪んで開く。
「み・に・く・い」
背筋が凍る。
「私がフウヤとちょっと仲良くした位でイライラしちゃうなんて。おまけにお人形にまでヤキモチ焼いて。醜い、本当に醜いわ。そんな貴方が、どうして真っ白なフウヤの隣に居られると思ったの?」
カーリは身体中の血が足元に落ちるのを感じて、吐きそうになった。
「来るべきじゃなかったのよ。砂漠に、修道院に引っ込んでいるべきだった。貴女みたいな醜い子、皆に迷惑しか掛けないもの。醜い、醜い、ほぉら、こんなに!」
自分の右手を掴み上げる白い手が、飴のようにドロドロと溶け出した。
「ひぃっ!」
ドロドロが腕を伝わって、蟲が這うように登って来る。
そして喉元まで来て、口から入り込もうとする。
「い、いやぁ」
強い指がカーリの肩を掴み、激しく揺さぶった。
――バシバシ!
いきなり往復の平手打ち。目の前でピシリと指を揃えるのは、憤りの表情の黒髪のシータ。
「!??」
意識を戻したカーリは仰天した。
シータが二人居る!?
今、自分の肩を掴んで平手打ちをしたシータ、その後ろで尻餅を着く、口を歪めたシータ。
前のシータが振り向いて、後ろのシータを蹴り飛ばした。
「このトンチキ地霊(グール)! うちの村の新入りにちょっかい出すんじゃないわよ!」
雷のように罵られて、後ろのシータは頭のてっぺんからみるみる溶けて、赤黒いのっぺらぼうになってしまった。
「消えなさい! 臨(りん)! 兵(びょう)!」
黒髪の娘が二本指で空を切ると、のっぺらぼうはぺしゃんと崩れて、地べたに吸い込まれて行った。
「あ、あぅぅ」
半泣きで怯えるカーリを、シータは斜面の倒木に誘(いざな)って腰掛けさせた。
「谷の地霊よ。ヒトの心の弱っている所につけ込むタチの悪い奴。夜の山はあんなのが一杯湧いて出るから、ほっつき歩くモンじゃないわよ。それにしたって随分とディティールの狂った私だったコト!」
カーリは赤くなって俯いた。
自分の心の弱っている部分がシータの姿をしていたなんて、罰悪い事この上ない。
「ま、いいわよ。似た者同士って事だもの、貴方とフウヤ」
「えっ?」
「フウヤも昔、谷の地霊に襲われた事があって。その時も地霊が化けたのは私! 私、そんなに怖のいかしら?」
「いゃ、そんなコト……」
娘が固い表情をようやく緩めてくれたので、シータも息を吐(つ)いて隣に腰掛けた。
「貴方の捜し物はこれでしょう?」
ポケットから出されたモノを見て、カーリは喉から悲鳴を上げた。
昼間、シータに会う一寸前、自分が崖から投げ捨てた、木彫りの人形!
あの時、シータがカーリから引ったくったのは、丸められた布だけだった。シータが中身を問いただす前に、カーリは桑畑の道を逃げて去ってしまったのだ。
「あのね、あの崖、下がえぐれているって言ったでしょ。落としたつもりでも、大概の物はそこに引っ掛かっているのよ」
言いながらシータは、反対側のポケットから小さな鏡を取り出した。
「ダ、ダメェ!」
カーリは弾かれたように飛び付く。
させるがままに人形を渡して、シータは済まなさそうに言った。
「ごめんなさいね、もう見てしまったの」
「!!」
飴色の肌の娘は、元の色が分からなくなる程、蒼白になった。