コゥーハが目を開くと、青白い光が視界を包む。あまりの眩しさに目を覆った右手は、薬草の香りがする温かい手に引かれた。
「大丈夫」
落ち着いた、柔らかな女性の声は、長い日数ものあいだ自分を診て頂いている、エルルゥという
白い光が晴れ、小さな部屋が視界に広がった。右手にある窓からは丸い月が覗き、足元がある方角にある部屋の入り口は淡い茶色の戸で閉められている。左手のすぐ下には持ち運び可能な薬箱と方薬に必要な複数の道具、処方箋と思われる古めかしい書簡が広げられていた。
ここ数日コゥーハが世話になっている部屋である。
「まだ、ちょっと熱があるみたいですね」
右手を擦る手とは異なる手をコゥーハの額に当てながら、エルルゥは微笑んだ。コゥーハの手をそっと降ろし、「お薬作りますね」と言い、立ちあがる。
いえ、と備え付けの
「だ、駄目ですよ。まだ横になっていないと」
複数の薬草を入れた籠を足元へ置き、エルルゥはコゥーハの躰を仰向けにする。本人よりも大きい相手の躰を何の苦も無く持ち上げ向きを変えるエルルゥに、さすがですね、とコゥーハは呟いた。
照れているのだろうか。静かに尻尾を振り、エルルゥは複数の薬草が入った籠をコゥーハの手元にある机へと置いた。赤茶の葉、青々とした葉、乾燥した茎、等々。様々な草を手にとっては、じっと見つめるエルルゥに、コゥーハはくすりと笑う。
「ツェツェに、ハルニレ……どれも良いものばかりですね」
目を丸くしたエルルゥの隣で、コゥーハは再び上体を起こした。
「こう見えましても。少しは
「あっ。そう、でした。コゥーハさんは
ちらちらと上目遣いで相手の表情を窺いつつも、手元を休めないエルルゥに、コゥーハの口元が上がる。
「似合いませんか?」
「そっ。そんなことは」
尻尾をぴんと立て、慌てて首を振るエルルゥに、コゥーハは微笑する。
「いえいえ。自分も合っていないと思いますので」
お薬です、と渡された器を胸へ寄せ、コゥーハは濃緑の水面を覗く。手元の机にある白い発光石の光が水面を弾き、鏡のように自身の顔を映しだす。
じっと薬を眺めているコゥーハの隣で、新たな薬草を手に取るエルルゥは微笑した。
「コゥーハさんは、やっぱりお父さん……アトゥイさんから教わったんですか?」
はい、と肯定したコゥーハの背筋が伸びる。
「おじ様……いえ、養父をご存知なのですか?」
「勉強のために
養父の過去――
「同一人物かと。養父は記すことが好きでしたから」
証明はできないでしょうが。という一言を口には出さず、コゥーハは言葉を続ける。
「ただ、
「いえ。とても勉強になりますよ……例えば」
「媚薬、ですか?」
「ちっ、違いますっ!」
顔を真っ赤にして否定するエルルゥに、コゥーハはくすくすと笑った。
「師の誇る最も代表的な薬なのですが。他には、精力剤や……育毛剤は専門外だったようですが――」
「痕が残らないように傷を縫う方法はすごいと思いますっ!」
ああ。と、コゥーハは納得する。
「確かにその類の物を記していましたね。普段からまともではない物を作っていた記憶しかないものでして」
「まともじゃない物って……」
詳しくお知りになりたいですか? とコゥーハが問うと「いえ、いいです……」と、ため息交じりの回答があった。
「こと薬の――薬に限りませんが――研究となると、本当におかしな、儲かりもしない、くだらない物ばかり作っていましたよ。もしかすると、あれらは仕事と兼ねた趣味だったのかもしれません」
あはは、と力の無い声が、籠に手を伸ばしたエルルゥの口から漏れる。
「その、変わった人、なんですね……」
自分も同じくそう思うと頷き、コゥーハは過去の記憶を辿る。
「他に変わった趣味といえば、苔の生えた石や薬草集めでしたね。森に行っては、嬉々とした顔で採取し『これは少し苦いが、お通じが良くなる薬草なのだよ』などと、求めてもいないのに自慢げに語り出す始末で」
くすくすと微笑するコゥーハの隣で、エルルゥの身体がびくんと上下する。
「自分はともかくとしましても、
「うぅ……」
石で薬草を擂り潰す手を止め、心底恥ずかしそうな顔を隠すエルルゥに、とコゥーハは首を傾げる。
「如何なされましたか?」
「いえ。……何でも……ないんです」
相手の尻尾が垂れ下がっていることに首を傾げつつも、コゥーハは追求しない。頂きます、と頭を下げ、受け取った器の端に口をつけた。
(これは――)
コゥーハの目が丸くなる。
数種類の薬草と微かに残る
何故、エルルゥが薬の処方を知っているのか。それはさしてコゥーハの心に留まらなかった。強烈に心を掴んだもの、それは薬草が持つ香り、苦みと甘みであった。
同じ種類の薬草でも、採取した場所によって香りや味、性質が微妙に違う。故に方薬を行う際は材料の性質を必ず確認すること、という師の教えの一つを、コゥーハは思い出す。しかしその都度確認をする事が面倒であったため、主だった産地と味を片っ端から記憶し、他の事で解らない部分を師に教わっていた。その記憶の一つ、最も古く懐かしい、温かい記憶が手元の薬と一致した。
ヤマユラという集落の麓にあり、
(トゥスクル様……)
物思いに耽っていたコゥーハの隣で、擂り潰した薬草をすり鉢へ移し替える作業を行っているエルルゥが微笑した。
「コゥーハさんのお父さんについて、もう少し聞いて
そうですね、とコゥーハは頷いた。
「優しい人でした。とても……そう」
怖いくらいに。そう呟いた言葉は、器同士が触れる音に掻き消された。
「師としては、当然と言いますか、厳しかったですね。優秀過ぎる弟には甘いのに。自分は一度も褒められたことはありませんでしたから」
「あ……」
エルルゥの大きな瞳が揺れ、床を向く。その顔は、明らかに謝罪の表情をしていた。
「ご、ごめんなさい。私――」
いいえ、とコゥーハは微笑した。
「弟弟子のことです。とは申しましても歳はほぼ変わらず、一日遅く弟子入りしたから『弟』なのですが。生きていますよ。少なくとも、先日の大きな地震があった日から数日前にわざわざ自分を呼び出し、故郷の國へ帰ると言っておりましたので。それ以降に連絡はありませんが……」
一瞬、夢で出てきた遠ざかる背中が脳裏に焼き付く。
ふっと寄せた眉を右手で隠し、コゥーハは大きな笑みを浮かべた。
「研究に没頭し過ぎて、一年ものあいだ文を寄越さなかったこともありましたので、問題ないでしょう」
「そう、ですか」
「ええ。落ち着いたら、此方から文も送る予定ですし」
全く問題ありません、とコゥーハが言葉を付け足すと、エルルゥもふっと目を細めた。手元の作業を再開させ、黙々と手を動かし始めた相手を確認し、コゥーハは薬を飲み干した。
「エルルゥ様」
「はっ、はい」
空の器を何処に置くべきかと彷徨わせていたコゥーハの視線が、身体を強張らせるエルルゥに留まった。
申し訳ありません、と謝罪したコゥーハに対し、いえ、とエルルゥはすまなさそうな表情を見せた。
「『様』って言われるのに。その、ちょっと慣れなくて。頭を下げられるのも、ちょっと変な気分で」
「とは仰いますが。皇女様でいらっしゃいますから、当然でございましょう」
「そうなんですが……」
ふむ。とコゥーハは顎に手を当てた。
コゥーハ自身も、『様』という敬称はあまり好きではない。かつ、顔が見えない程に頭を下げられる行為も、困惑を抱かずにはいられない。影で隠れたその顔が、床に反射する言葉が――敬意か侮蔑か、虚心か野心か、あるいは双方、別の類なものなのか、判断することさえもできない不安。先日の会話において、以前は辺境の集落――ヤマユラに住んでいたという話から、常日頃から頭を下げられていたわけではないであろうエルルゥからしてみれば、不安は非常に大きい物だという推測は、コゥーハの頭の中ですぐに浮かんだ。
しかし、相手の立場が立場である以上、コゥーハはエルルゥを呼び捨てにすることはできない。
ひとしきり考えた挙句。では、とコゥーハは一つの案を提示した。
「では。エルルゥ『殿』とお呼びしても?」
「そ、それもちょっと」
尚も困惑した表情を浮かべるエルルゥに対して、コゥーハは真剣な目で首を横に振る。
「これ以上は。本来であれば、皇女であるエルルゥ様にこうして診て頂くことなど言語道断、無礼極まりないこと。
「ベナウィさんはそんなに頭の堅い人じゃないと思いますけど。お仕事は……熱心すぎて困ってますけど」
ハクオロさんが、と慌てるように付け加えたエルルゥに対し、コゥーハは静かに首を横に振る。
「いけません。あの整い過ぎた顔と、甘く――とは、自分は全く思いませんが――低い声と、流れるような仕草に騙されては。アレで幾人もの女性が浮かされ、泣かされてきたことか。本人が無自覚だということが更に悪い」
「え、ええ?」
戸惑いをみせたエルルゥに、あぁ、とコゥーハは微笑し、ポンと手を叩く。
「申し訳ありません。未来の皇后様であるエルルゥ様には関係のないお話でしたね」
「そっ――」
そんな、と尻尾をパタパタ振り、紅い顔で胸を叩いてくるエルルゥの頭をコゥーハは撫でる。
体調が戻り始めたここ数日の間。コゥーハはエルルゥと様々な会話をしている。エルルゥの妹――アルルゥ皇女のこと、皇城内の暮らしのこと、故郷であるヤマユラの集落とそこで一緒に暮らしていた皆との別れ、オンカミヤムカイからやって来た使者が第一皇女であるウルトリィ皇女であり、彼女はとても美人で仕草が上品で優しくて胸が――等々。その中心、笑顔で語る話題の中心は必ず、この國の
曰く。「ハクオロさんはアルルゥを甘やかし過ぎだと思うんです。何回も言ってるんですけど、はぐらかされるし……」
曰く。「ハクオロさん、洗濯物をちゃんと出してくれないんです。お仕事で忙しいのは分かるんですけど……」
曰く。「ソポク姉さん――ヤマユラの家の近くに住んでいる女の人なんですけど――姉さんが、お別れの時に大事な物を私にくれたんです。だからお礼に何か送りたいと思うんですが、何を送ったら良いか解らなくて。その事をハクオロさんに相談しようと思っているんですけど、ハクオロさんいつもお仕事で疲れているみたいだし……」
曰く。「ウルトリィ様と話すハクオロさんの目が、胸にいっている気がするんですよね……この前だって、街に行った時もあんなに親しげに……気のせい、ですよね」
何故かハクオロに対する不平不満が印象に残っている――しかし、相手が自分に心を開いてくれている証拠なのでは、と嬉しく思っているコゥーハだったが。全てを含めて会話を振り返り、首を傾げる。
エルルゥの話を聞く限り。ハクオロという男は、至って普通の、良い父親なのだ。どちらかといえば口数が少なく、娘達を心から愛し、娘達に振りまわされ――否、彼女達の言葉にしっかりと耳を傾ける男。昼間のやり取りを振り返る限り。臣下に良いように使われている、非常に情け……を掛けたい
それが彼の『優しさ』なのか。あるいは『無防備』というべきか。
コゥーハの想像とはやや違う男が、目の前にいた。
(先の戦の戦況から。もっと怜悧な、周囲を振り回すような御方かと思っていましたが……)
少なくとも。彼は――ハクオロは、先の戦において、ケナシコウルペ國の一侍大将――ベナウィを振り回した男である。戦術において、軍内部では右に出る者がいないと、一地方の末端まで鳴り響いていたベナウィを――指揮系統の混乱といった、内部の問題もあったとはいえ――易々と、少なくとも数倍の兵力のある相手を何度も叩きのめした事実は、一知り合いとしてのコゥーハに胸の空く思いを味わわせると同時に、一傍観者としてのコゥーハに驚きを与え、頭の切れる人物だという印象を与えた。
戦略を立てるという部分において、天賦の才を持ち合わせているのか。あるいは――
(――あるいは?)
コゥーハは眉を寄せる。
ふっと湧いた、意味の感じられない疑問を正すように、コゥーハは思考を巡らす。
(しかし。彼は……一体)
何者なのか。
コゥーハが考え込む隣で。「やっぱり」と、エルルゥはくすくすと笑う。
「ベナウィさんと知り合いなんですね」
うくっ、と声を詰まらせ、コゥーハは思考を中断した。
「いえ。アレなどとは決して知り合いでは――」
うふふ。とエルルゥは更に笑う。
「あの真面目で礼儀正しくて、でもちょっと話しかけ辛い、侍大将のベナウィさんをアレって言った人、初めて見ました」
「うっ……」
自身の口を塞ぐコゥーハの隣に、エルルゥは手を伸ばす。
「隠さなくたって良いじゃないですか。それに」
相手の左手をそっと握り、エルルゥは微笑する。
「それに、ハクオロさんだって。多分ですけど、気付いています」
「しかし」
強い、確信を持った丸い瞳が、コゥーハを正面から見つめていた。
気づいていてなお、ああいう『処置』をした、という確信と。『処置』に間違いは無い、という確信。相手に言葉を接がせない強さと温かさが、左手も介してコゥーハの身体へと流れ込む。
(しかし……)
コゥーハという罪人とベナウィとの間に関係がある事が
自分をさっさと殺してしまった方が、または牢に閉じ込めておくならば問題ないのだが、とコゥーハは心中で吐き捨てる。が。何かあった場合はベナウィを更迭させれば良いか、という案が浮かんだ刹那、そもそも、何故ハクオロ
(確かに……アレは文武共に申し分なく、立場上良くも悪くも各地の豪族達を纏める力はありますが)
適材適所、とはいうものの。國の基盤が安定していないであろう現在は、少しでも内戦の種を抱え込むような真似は一つでも避けたいものである。それだけ――少なからず腐敗の一端を担っていた亡國の侍大将を留任させるという火種を抱えても良いと思う位にベナウィの能力を買っているということなのか、余程の優しさ――それだけの火種などもあっさり受け入れてしまう度量の持ち主なのか。後者か、あるいは双方か、別の理由……例えば、ベナウィが叛軍に下っていたのか、という思考を、絶対にあり得ない、と一蹴する。
「コゥーハさん?」
左手に強い感触が走り、コゥーハは反射的に身体をびくんとさせる。
「あ、いえ……申し訳ありません。何でしょうか」
熱は……と、コゥーハの額に手を当て、エルルゥは微笑む。
「もしかして。ベナウィさんの事。考えてました?」
「まさか」
人差し指で自身の頬を突きながら、コゥーハは即答した。
不機嫌な表情を見せる相手の脈を測りつつ、くすくすとエルルゥは更に笑った。
「ベナウィさんってどんな人なんですか?」
「見た目通りかと。寡黙で無愛想で自他に厳しく説教が好きで陰険で根暗で……」
おほん。とコゥーハは言葉を切り、仕切り直す。
「いいえ。その話はまたの機会ということで」
「え~」
先端の茶色い尻尾が、床を叩いた。
面白くないです、と思われる表情が混ざった笑顔を相手に近づけ、エルルゥは下目遣いに次の質問を投げた。
「じゃあ、ベナウィさんとはどうやって知り合ったんですか?」
「…………」
先程見せた強さとは違う力の入った視線を放出する、爛々と輝く大きな瞳。同時に、相手の左手に生じる握力。
逃げられない、という結論に至ったコゥーハは、話題を断つ方法を模索する。
「エルルゥ――殿」
はい。と、エルルゥは笑う。
「厠に行ってもよろしいでしょうか?」
「じゃあ。途中までご一緒しますね」
「いえ。一人で大丈夫でありますので」
「駄目ですよ。さっきふらついてたじゃないですか」
立ち上がるコゥーハの躰を支えるようにエルルゥは肩を入れ。二人はゆっくりと部屋を出た。格子窓から流れてきた蟲の音がこだまする廊下で、等間隔に配置された柱に備え付けられてある発光石に照らされた、エルルゥの笑顔が映える。
「で? どうなんですか?」
「何が、でございますか?」
「もう。とぼけないでください」
にこにこと微笑むエルルゥにコゥーハは音を上げ、彼――ベナウィとの出会いを簡潔に話を始める。
十数年前に初めて会ったこと、以降も両親の都合上で何度か会う事があったこと、いつしか半期に一度の割合で文のやり取りをするようになったこと――
真っ直ぐな瞳で自身と接し、時には質問をするエルルゥにコゥーハは一層の好感を持つが、同時に一つの疑問も抱く。
("アレ"のことは問わないのですね)
用事を済ませ、厠の横――中庭の隅に設置されている、両手を洗うために使った手水鉢を覗き込む。
石壺に張られた水面に映るコゥーハの両眼は、黒い。
経験の積み重ね故か、コゥーハは自身の"能力"をある程度制御することに成功していた。無論、指輪が無い状態で"アレ"を完全に見ないようにすることは不可能であるし、指輪を着けた状態であっても月相によって左右される性質を無視することはできない。部屋の窓から見えた風景から判断するに、現在は満月の一日前であるため、"見える"光量は少ないためか制御もし易く、精神的な負担も少ない。
正直なところ。エルルゥが問わないという気遣いは、コゥーハにとって嬉しくもあり――寂しくもあった。"アレ"を知ることで自分から離れていくことを恐れる感情から、問わないで、関わらないで欲しい、という気持ちがある一方で。"アレ"も自分の一部なのだという認識から、自分をもっと知って欲しいという欲求がある。エルルゥと――仲を深めていく他人と何度も会話をする内に、双方が比例するように心の奥底へと募っていく。
幾度となく行われてきた戦。どちらも自分である以上、どちらも真に受け入れない限り、決着など付くはずが無いというのに、とコゥーハは自嘲する。
エルルゥに深々と頭を下げ、コゥーハは来た道を引き返すべく足を踏み出した。その傍ら、コゥーハの首半分ほど下には、エルルゥの穏やかな顔が寄りそう。
「仲が良いんですね」
「さて……」
帰り道を支えなしで歩くコゥーハの声がくぐもる。
「仲が良いわけではありませんよ」
え~、と声を上げるエルルゥに、ありません、とコゥーハは再度否定する。
「本当ですか?」
「本当です」
部屋に戻るまでの間、二人は数度同じ質問と回答を繰り返した。コゥーハが再び床についた時点で、エルルゥは――音を上げたのか――眉を下げて微笑み、コゥーハの側で方薬の作業に戻った。非常に手慣れた、迷いのない、流れるような手つきを、コゥーハはじっと見つめる。
(……あれは)
エルルゥが手にしているすり鉢。一見すると、
揺らぐ視界の中に浮かび上がった、形、大きさ、焦げ茶色の側面に浮かび上がる紋様。幼い頃にコゥーハを診察し、薬の処方をし、養父が尊敬の念を持って何度も語っていた
薬が効いてきたのか。眠気に襲われる己を律するように、コゥーハはこめかみを擦った。
「エルルゥ殿。つかぬことをお訊きしますが」
はい? と振り向いたエルルゥに、コゥーハは姿勢を正す。
「エルルゥ殿の師は、トゥスクル殿ではありませんか」
エルルゥの手が、ぴたりと止まった。
視線を戻し、しばし沈黙した後。エルルゥは再びコゥーハへと向き直る。発光石の白い光に照らされた、どこか寂しげな黒い瞳で。
「おばあちゃん……祖母をご存知なんですか?」
先程とは趣の異なる、柔らかい小さな声に眉を寄せながらも。ご存知も何も、とコゥーハは胸を張る。
「
「そう、でしたよね」
「かくいう自分も、幼い時にトゥスクル様に命を救われまして。それがきっかけで、養父も
「そうだったんです――あっ」
ことり、と音を立ててすり鉢が転がり、緑色の中身が茶色の床を流れる。先程の慣れた手つきからは想像のできない失敗。
「……」
すり鉢へ伸ばしたエルルゥの手を引き。コゥーハは自身の胸に抱き寄せた。自身の感情を一旦抑え込み。強くそっと、エルルゥを抱きしめる。
数日前。新しい國の名は『トゥスクル』だと、彼女は寂しそうな声でコゥーハに言った。そして、今日拝見した
本人の――エルルゥの口から直接聞いた訳ではないが、胸に収まる彼女の顔を見て、コゥーハは確信を持った。
「コゥーハさん。あの、そのっ」
平坦なコゥーハの胸から、困惑の声が上がる。
すっぽりと顔が埋まっている相手の耳元で、小さく……廊下を踏みしめた足音よりも小さく、コゥーハは問う。
「トゥスクル様は……お亡くなりになったのですか」
エルルゥの声が、はたりと止んだ。
沈黙と深い吐息の後。「はい」という、弱くも強い肯定がコゥーハに返って来た。力が緩んだ両手から放れるエルルゥに、コゥーハはくっと眉を動かす。
「お辛くは」
気丈な笑顔。だが、触ることを憚られる表情だ、コゥーハはそう評した。
「大丈夫ですよ。この前いっぱい――」
そう。と、コゥーハは再びエルルゥを――両頬を涙で濡らすトゥスクルの孫を抱きしめた。
強く、強く。何も言わず。コゥーハは彼女の頭を何度も撫でる。
胸の中で戸惑いの声を上げるエルルゥだったが、やがて動きを止める。コゥーハの胸を叩き、腰に腕を回し、強い力で抱き返した。
隙間の多い谷間から、嗚咽が漏れ出る。
「……いっぱい。この前……いっぱい、泣いたんです。泣いて……泣かせて、貰ったんですよ。でも……でもっ」
満月ではない月を窓から眺め。コゥーハはさらに強く抱きしめた。
胸の中で、エルルゥの悲痛な叫びが反射する。
祖母の名を呼ぶ相手の声と呼応するように強くなる両腕の力に甘え、コゥーハは静かに目を閉じる。
エルルゥの黒髪が、月明かりに照らされて静かに輝いた。