うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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表白

 白い発光石が放つ隣、黒い筆置きにハクオロは筆を置いた。軽く肩を叩きつつ部屋の両端にある簡素な衝立から視線をずらし、向かい側にあたる部屋の奥、下弦からやや欠けた月がもたらす光で白くなった広縁の中央を見つめる。

 敷物と杯を並べるコゥーハを眺めながら、目を丸くした。

「驚いたな。ベナウィの部屋から酒が出てくるとはな」

「燃えやすい物が多く狭い部屋ゆえに炉はありませんが、水出しのお茶で一服できるようにと、茶器を揃えているようです。お酒があるのは、お茶同様に。こちらは仕事を終えた後に、副長と一杯やるときもあるのでしょう」

 勝手に飲んで良いのか? という問いに対して、構いませんよ、とコゥーハはぐっと拳を突き上げた。

「お酒は飲まれるために存在するのです」

 全く。とハクオロは笑い、文机の側で眠っている者に視線を移した。壁側へ向けられているベナウィの躰をしげしげと見つめ、そっと近づく。

「ん? 何故ベナウィの顔をあっちへ向けているんだ?」

「涎を垂らした隊長の間抜け面をご覧になりたいのですか? 自分は遠慮致します。笑いを堪える自信がありませんので」

「いや、ベナウィに限って――」

 ずれ落ちた上着を掛け直しつつ、ベナウィの顔を上から覗き込んだハクオロの手が止まった。

 同じ表情のまま数回の瞬きをした後、ハクオロは上着を掛け直す。懐から取り出した手拭いをベナウィのすぐ側に置きつつ、ゆっくりと立ちあがり、大きく背伸びをし、深呼吸をした。

 文机にある発光石の乗った皿を手に持ち。よし。とハクオロはコゥーハに向かって声を上げた。

「ちゃんと仕事も終えたことだ。文句はあるまい」

「お疲れ様でございます」

 衝立を移動させるコゥーハの横を通り、ハクオロは敷物の上に座した。お注ぎします。と、発光石を置く台に皿を乗せた方向、酒器一式がそろっている盆を挟んで右隣りに座ったコゥーハに、白い杯を突き出す。

「そういえば。コゥーハと飲むのは、初めてだったか」

「左様でございますね。しかし、よろしいのですか?」

「わざわざ誘っておいて、部屋の主に無断でここまで設えておきながら。それを訊ねるのは今更というものだろう」

 ふふ、とコゥーハは微笑を返し、徳利を傾けた。

 酒が注がれる音で周囲が満たされる中、左方に張り出した月を眺めつつ、ハクオロは呟いた。

「何故だろうな。こうして夜空を眺めながらお前に酒を注いで貰うことが、初めてではない気がする」

 音が途切れると同時に、コゥーハは息を詰まらせた。

 杯を手繰り寄せつつ、軽く咳き込む相手に目を向けたハクオロの視線が、ふっと落ちた。

「どうした。何故、そう距離を取る?」

「え? あ、ああ……」

「それだけ離れていては注ぎにくかっただろうに。もっと近くに来たらどうだ」

 ハクオロとコゥーハの距離は、人ひとりが両手を伸ばした距離に等しい。酒を酌み交わすには半分以上離れている場所に腰を下ろしていたコゥーハに、ハクオロは定位置を示した。

 杯を傾けるハクオロの隣。おずおずとした足取りで指名された場所へコゥーハは正座した。小刻みに震える右手を膝下に隠した後、目が合ったハクオロに薄く微笑む。

「口説き文句としては些か古く、微妙です」

「いや。別に口説いた訳ではないんだが」

 淡々とした口調で答えた相手に、全く、とコゥーハは左手で自身の杯を持ち、器が自分の手で酒が満たされていく様を見つめる。

「仮にも女性に対して、失礼ですよ。その気がなくとも顔を真っ赤にして、慌てて否定するのがお約束というものでしょうに」

「いや……お約束なのか?」

 お約束です、と徳利を置き、杯の端に口を付けたコゥーハを眺めていたハクオロの視線が、茶色の光を落とす一点に集中する。

「その指輪は?」

 これは。と、コゥーハは白い唇を指で拭い、杯を置いた。

「養父の形見のようなものです。琥珀(コゥーハ)には"アレ"を鎮める作用もありますので……罅が入ったことで加護がなくなったと思っておりましたが、まだ失われていないようですね」

 お返し頂いたこと、感謝致しております。両手をつき、深々と頭を下げたコゥーハにハクオロは目を細める。顔を上げた相手に笑いながら、杯を傾ける仕草を送った。

 促され、コゥーハは再び杯を手に取った。濁りのある飲み物が杯から消失する時間は、たった数拍。濡れた唇の間を流れて喉を通過した物は声と言う名の音に昇華し、晴れ渡った空のような笑顔と共にハクオロの目を丸くさせた。

「意外に大胆だな」

「左様ですか? これは城下で大量に出回っている大陸北西部の安酒ですからね。とはいえ質は良いし甘くはない。こういうお酒は一気に飲んで笑うと一番美味しいものです」

「何処の酒か分かるのか?」

 分かりますよ、とコゥーハは赤い顔を仰ぎながら、白く輝く空の杯を回す。

「お酒に限らず。食べた物、触れた物、嗅いだもの、聴いたもの、見たモノ……得手不得手や好き嫌いはありますが、二度も体験すれば、大体の事は記憶できます。尤も、記憶するだけで知恵に発展させることは苦手でありますが」

 徳利を差し出したコゥーハに、ハクオロは自身の杯を渡す。広縁を吹き抜ける微風に黒髪を靡かせながら、静かに注がれていく音に耳を済ませる。

「コゥーハは大陸中を渡り歩いてきたそうだが」

 首元にある三本の傷跡に手を当て、コゥーハは肯定した。

「いろいろ拝見して来ましたよ。大陸を渡り歩きながら騒音をまき散らす楽団、声を大にして精力剤を売り歩く商人……おほん。もう少しまともな例を挙げますと、誰これ構わず決闘を申し込む雇兵(アンクアム)、畑仕事に精を出すオンカミヤリューの御老人、などなど」

「何というか……広いな」

 杯に口を付けたハクオロを見つめながら、広いですよ、とコゥーハは目を細めた。

「しかし。尻尾が無く翼も無い、どこの種族なのかも一切不明で、かつ珍妙な仮面を好んで付けている(オゥルォ)を拝見したのは初めてです」

「ち――」

 酒を吹きだし、むせ返るハクオロの声が周囲を揺らす。

 悪戯をした子供のように口元を緩ませ、コゥーハはハクオロの背中を擦った。大事ありませんか、と、ニコニコと笑う相手に向かって、差し出された布を口に当てつつハクオロは事実を突きつける。

「い、言っておくが。好きでしている訳ではないんだぞ。この仮面は外すことができないから、仕方なくだ」

「本当でございますか?」

「あぁ。これまでさんざん試して――って。好奇心で目をキラキラさせるな、指をポキポキ鳴らすな、怪しげに動く指をこっちへ伸ばすな、鳩尾に構える拳で顔ごと叩き割ろうとするな!」

 コゥーハが取った一連の行動をハクオロは拒絶しゆっくり後ずさりながら、諦めの悪い相手を見下げる。

「祈っても、土下座をしても、上目遣いでこっちを見ても。駄目なものは駄目だ」

「む。殿方は女性の上目遣いに弱い、と書物に書いておりましたのに」

「……一体、何の本を読んだんだ」

 お聞きになりますか? と顔を上げたコゥーハの言葉を無視し、ハクオロは座り直した。徳利に手を伸ばし、酒を杯へと注ぎつつ水面を覗き込んだ。

 波で揺れる濁った鏡に、白い仮面をした男の顔が映る。

「つまり。自分のような人間を見たことがない、と」

 はい。と肯定したコゥーハに、ハクオロは杯を再度向けた。

 最初は断ったコゥーハだったが、ハクオロの静かなる眼差しと沈黙に小さく息をつき、そっと手を伸ばした。墨色の瞳が映った水面を掻き消す白き波紋へ唇を重ね合わせようと杯を手繰り寄せる。

「ハクオロ様と同じような者は――」

 コゥーハの言葉は、突然吹き荒れた強風によって逆立つ黒髪の隙間をすり抜ける。同時に、澄み切った鋭き高音が滴と共に広縁を撥ね、突き上げた額当てが発光石の乗る皿を打つ。

 激しい音が満ちる暗闇の中。茶色の床に転がるは徳利と白い石と液体、回る皿に額当て。そして数拍前にコゥーハが手にしていた杯が二つ。

 一つは、薄い雲から顔を覗かせる月明かりが当たる場所に。一つは、月明かりが作った濃い影と重なる場所に。真っ二つに割れている、奇跡でも起こらぬ限り一には戻らない、元は一つだったソレへとハクオロは手を伸ばし、走った痛みでその手を引っ込めた。指先にじわりと浮かぶ赤い血を眺め、それを口に含めた直後、呻き声を上げた相手へと歩み寄る。

 ハクオロの作る薄暗い影の中。激しく咳き込み、口を押さえるコゥーハの左手は、鮮血で濡れていた。眦から流れる涙は赤い滴と混じり、若竹色の服を汚す。しかし、今にも倒れそうに揺れる躰を右手一つで必死に支え、呼吸を整えようとするコゥーハの双眸に弱々しさはなく、さながら戦場で強敵に相対する武人のような強い光を有していた。

 相手に手を伸ばしたハクオロに、コゥーハは赤い左手を向けて制した。後方にある柱に背中をつけた後に懐から取り出した黒い液体を流し込み、深呼吸を繰り返しつつ自身の手拭いで濡れた顔を修正していく。

 布の半分が赤くなった頃に顔を上げ、主に見せる普段の微笑みをコゥーハは作った。お見苦しい物をお見せしたことをお詫び致します、と謝罪するコゥーハに、馬鹿を言うな、とハクオロは膝をつき、相手の赤い手を引く。

「今すぐエルルゥを――」

 ハクオロの手を、コゥーハは強く握り返した。

「本当に、御心配なく。明日もエルルゥ様は早いと伺っております故、些細なことでお手を煩わせるわけには参りません」

 一瞬向けられた黒い底なし沼のような瞳が、しかし、と呟くハクオロの声を摘み取る。

「これが。私にとって……自分にとって普通なのです。今宵は、確かに少々辛くはありますが」

 くすんだ色をした目を閉じ、コゥーハは深く頭を下げた。片膝を立てるハクオロの足元で、くっと伸びた首筋に走る痕が、白い背景の中で浮き立つ。

「無論。普段の任に影響させることは決して致しません、言い訳にも使用しないことを、ここでお誓い申し上げます。聖上にとってお荷物になった際は、あるいは不要、障害となりましたら、どうぞお捨てに……腰にある鉄扇で、斬り伏せて下さいませ」

「コゥーハ」

 絞り出すような声をあげた赤い手をコゥーハは持ち上げ、ハクオロの白い手の甲にそっと口づけした。さながら、懇願するように。自身の首に引き寄せ、握らせるように指を添え、押し潰すように、床との境界線すれすれまで手に重みを加えた。

 くちゃり、とした音に耳を上げ、申し訳ありませんとコゥーハは手を離した。付着した頬の血糊をはらうことなく、慌てた様子でコゥーハは相手の手を丁寧に拭き始める。

「お気遣いは痛み入りますが、御心配を召されることはありません。聖上にはその点を御理解して頂かないと、ただでさえ御政務で疲れ切っているお身体が持たないかと、恐れながら意見致します。……どうか御自愛下さいませ。万一にも、聖上がお倒れになってでもしたら、トゥスクル國は確実に滅びますよ」

「そ、そんな大袈裟な」

 ベナウィみたいなことを言わないでくれ、と口を歪めるハクオロの手に頬を当て、コゥーハは声を上げて笑った。単調な声は少量の埃と共に吹き上がる風に乗って漆黒の空に舞い上がり、淡い月明かりと共に飛散する。

 白く染まる広縁の中で、赤く染まるコゥーハの笑顔と黒く汚れた瞳と服が、ハクオロの両眼に映り込んだ。

「自分としたことが。仰る通りです。以後気を付けます」

「あ、ああ……」

 薬箱と新たなお飲み物をお持ちします、とコゥーハは立ち上がりつつ、立ち上がろうとした主を制止させた。敷居を跨ぎ、服の留め具を探りつつ部屋を見渡し、真剣な面持ちで口を開いた。 

「傷の手当てをさせて頂いてから、着替える予定ですが……ちゃんとあるのかどうか、お確かめになりますか?」

「なあ゛っ!?」

「先日のやり取りを思い出す限り、聖上もお疑いのようでしたのですし」

 荒い息を整えた後。ハクオロは、仕切り直すように軽く咳払いをした。

「一応、訊くぞ。……ドコを、だ?」

「もちろんココを――」

 真っ直ぐに首下へと手を伸ばしたコゥーハに、「必要ない!」と、ハクオロは即座に否定した。

 

 

 

 

 

 持ってきた布で周囲を掃除し、白黒に分かれた杯の片割れを丁寧に拾うコゥーハを眺めつつ、ハクオロは包帯が巻かれた自身の人差し指を軽く曲げた。

「手慣れているな」

「女性らしくない。と、仰りたいのですね?」

「ち、違う」

 もうその話はやめてくれ、と呻くハクオロの手と、笑うコゥーハの首と服に、汚れは無い。

「最近は裁縫をしております故。また、養父はかなりの酒好きだったもので」

「成程な」

 白い布が巻かれた右手をちらつかせる相手にハクオロは頷き、手伝おう、と腰を上げるが、その手には新たな白き杯が差し出される。座したまま杯を右手で受け取り、為すがままに徳利の中身を注がれる光景に口を結びつつも、満たされたものを一気に飲み干し、ふっとため息をついた。

「……ん? これは、酒、なのか?」

 少しさらっとしていて、物足りないような。首を傾げつつ、盆に置かれた徳利を見るハクオロに、さすがは聖上、とコゥーハは笑った。

「御察しの通り、お酒ではありません。複数の薬草を入れ、お酒に近い味を付けた、ただの真水です」

 残念ながら、ケチな隊長のお部屋にはお水しかなかったもので、と眉を下げるコゥーハの耳と尻尾が、首元にある額当てと共に垂れた。

「せめて。しばしの間、お気持ちだけでも、と」

「コゥーハが作ったのか?」

 ハクオロの問いに、コゥーハは肯定した。

「とはいえ、粉末を混ぜただけですが。……過度の飲酒は健康を害することを承知の上で相当量のお酒を毎日飲んでいた養父の心配をする養母から、どうしたものかと相談を受けまして。あれこれ模索した結果が、それです」

 幸いなことに本人の味覚も変わっていたもので助かりました、とコゥーハは付け加えた。

「では、急ぎお酒をお持ちします」

「いや。コレで十分だ」

 立ち上がろうと膝を付いた目の前で徳利を振られ、コゥーハはその場に正座し直した。水を呷り微笑んだハクオロに、くっと口端を下げる。

(オゥルォ)でいらっしゃるのですから。それほど下の者にお気を遣う必要はないかと。気を遣い過ぎた挙句に何でも背負い、臣下からあれよこれよと御政務の山を押し付けられ、書簡の中へと埋もれゆく(オゥルォ)の姿など、民は見たくありませんでしょうに」

「む……」

 自身の杯に水を注ぐコゥーハを眺めるハクオロの右側で、澄んだ杯の音が床を走った。

「だが。上に立つ者が気を遣わなければ。民と同じ目線に立ってみないと解らぬ景色もあるだろう。気を遣わなさ過ぎた挙句に、優秀だからといって体調のすぐれない部隊長をさんざんこき使い、書簡の重みと過労で彼女を倒れさせるような(オゥルォ)に、付いてくる民は少ないはずだ」

「う……」

「と。言ってみたものの」

 青い顔で水を啜るコゥーハの隣で杯を弄びつつ、ハクオロは瞬く星々を眺める。かたん、と杯が置かれた音が響くと同時に大きく息を吸った。

「正直。命令することに慣れていないだけなのかもしれん」

「またまた。嘘はいけませんよ」

 お注ぎします、とコゥーハは徳利を差し出し、ハクオロは杯を渡した。

 

 

 

 

 

 霞みのような薄い雲が掛る夜空の下。かわいたハクオロの杯に水が満ち、空になったコゥーハの杯に水が注がれる。必要ではないのか、必要としてはいけないのか。距離を取っているのか、機会を窺っているのか。ただの真水を交互に呷る二人の間に会話は無い。同席するは失礼だと言わんばかりに蟲の声は無いものの、二人の髪と茶色の尻尾を揺らす微風と静かに流れる水音が、空になることを恐れる杯の如く沈黙と共に広縁を満たしていた。

 茶色の杯から中身が落ちる時。艶やかさを拭うように閉じた唇を、コゥーハはゆっくりとした面持ちで開いた。

「一つ。お訊きしてもよろしいでしょうか」

「ベナウィのことか」

 徳利からこぼれた一滴が、目を見開いたコゥーハの姿が映るハクオロの杯へと落下した。ぴっちりと張られた水面の中心が大きくへこみ、同心円状に広がる波が杯の縁を超える。鏡に映った主の微笑と共に、杯に満ちる水がこぼれ落ち、閉じるように目を細めたコゥーハの左手を濡らした。

 やや俯き、ハクオロの方を向くことなく、コゥーハはすっと目を開けた。水面に映し出された双眸は濁ってはいないが、澄んでもいない。注がれることを欲する空の器のように渇いた輝きが、自嘲じみた次の言葉の裏に隠れた。

「……同情、ですか」

「さてな。それほど人が良くないのだが、私は」

 虚を突かれたように顔を上げ、コゥーハは小さな目を更に小さく、丸くする。一気に潤んだ墨色の瞳を溢れそうな水を止めるように瞬かせ、乾いた口を閉じようとしない相手に、くすりとハクオロは笑った。

「失望したか?」

 いえ。と口にしたコゥーハの吐息は微笑を帯びているが、続けた言葉と共に、ひどく小さい。

「少々安心しました」

 差し出された杯を受け取り、ハクオロは胸元へと右手を移動させた。一旦は口元へ杯の縁を近づけるが、何かを噛みしめるように月を眺め続けるコゥーハを一瞥した後、小さく息を吐きつつ同じ場所へと戻した。

 灰色の霞を背景に、ハクオロの顔が揺れる。

「皇都へ侵攻した、あの日。ずっと考えていた」

「皇城を攻め落とす作戦についてですか?」

「わざわざ問うな。國の今後について、だ」

 コゥーハは感嘆の声を上げた。

「さすがは聖上。(オゥルォ)となった後の事についてお考えだっとは」

 い、いや。とハクオロの声が上擦る。

「自分が玉座に就くしかない事だけは、都合良くしっかり忘れていた」

「御冗談がお上手でいらっしゃいますね。どこかの侍大将も、是非とも見習って頂きたいものです」

「いや……実は冗談じゃなかったりするんだが……」

 まあ、いいか。と呟く声は、さらさらと流れる微風に乗って飛ばされた。

 揺れる水面を口につけ、ハクオロは僅かに杯を傾けた。

「焼き打ちや戦で多くの民が死んだ。國を想う優秀な者達を含めて。だが、逆に()()者は多く生き残った」

「前皇時代に私腹を肥やしていた者達が、多く寝返ったそうですからね」

 ああ。とハクオロは頷き、中身が半分になった杯を置いた。

 短期間とはいえ叛軍に加担した彼らを無下にすることはできないが、彼らを同じ場所に戻せばやることは目に見えており、亡國と同じ轍を踏む事は必定である。信頼できる者を適正な場所に据えれば良いが、叛軍のほとんどが農民――およそ文字の読み書きができない、きっちりとした教育を受けていない者達である。彼らに役人の仕事をさせることは土台無茶な話であり、仮に据えたとしても、読み書きから始めて職のいろはを学んでいくため、正規の職務を全て行えるようになるまで時間が掛る。が、その間に仕事が滞ることはあってはならない。

 必然的に、現在も含めて彼らに任せるしかない。と一旦言葉を切り、残りの水の半分を呷った。

 杯が置かれるしばしの間、考え込むようにコゥーハは顎に手を当てた。かたん、という音と共に手を離し、姿勢を正しつつ口を開く。

「隊長を使って監視させている、と」

 僅かに息を詰まらせ、困惑するようにハクオロは笑った。

「それもあるが。結果だな。結果的に全てができて、かつ彼らを上手く裁くことのできる適任者がベナウィしかいないと判断した」

 國を立ち直らせるには、一人でも多くの人材が必要なのだ。と付け加えたハクオロに、コゥーハは眉を顰めた。

「……しかしながら。人がよろし過ぎではありませんか。(オゥルォ)に近しい場所に据えるなど。ましてや――」

 重ねて言うが。と、俯き加減にハクオロは言葉を足した。

「人がいない中で國を回していく以上。再び汚職に走る可能性がある者であったとしても、それを見逃していた元侍大将であるとしても、使えるのであれば一人でも多く、適切な場所に据えて利用する。ベナウィの場合は、それが侍大将だったというだけの話だ」

 更に眉を顰め、口を開くコゥーハを制するように、ハクオロは手を挙げた。

「コゥーハの言いたいことも解る。ベナウィが同じことを繰り返す可能性はあるだろうし、自分が記憶を失っていること良いことに好き勝手――私に仕事を押し付けている気がする……い、いや。ある事ない事を吹き込んだり――して私に仕事を強制している気が……そ、そういう意味じゃない。要は不正を働く、私の寝首を掻くような可能性が否定できない。権力の集中する侍大将であるなら、尚の事。そう言いたいんだろう」

 そうだな……。と、ハクオロは腰にある鉄扇を取り出し、おもむろにそれを広げた。

「その時は」

 床と水平に広げられた、男の顔を丁度隠す大きさの、一見すれば手入れが行き届いている綺麗な鉄扇。しかし、浅い傷や深い痕、刀が付けたものから獣が噛んだもの、浅黒い染みが至る所に存在するためか、月の光に照らされるにも関わらず、鈍い灰色の形を崩さない。重厚で両端が鋭い躰と相まって、己がどういった物なのかを強く主張し、相手に認識させる。

 首元を強くおさえるコゥーハをハクオロは一瞥し、雲の合間に佇む月を見つめた。

「だが」

 金属の擦れる高音と共に鉄扇は閉じられ、相手の正面に膝を動かした主の右肩に収まる。

「ベナウィが同じ轍を踏まないという自信が、自分に刃を向けることはないだろうという確信が」

 ハクオロの目が、細くなる。

「コゥーハの中にも、あるんじゃないのか」

「…………」

 首元から手を放したコゥーハの視線は(オゥルォ)の目から逸れ、胡坐を掻く両膝の間――墨の匂いに混ざって微かに土の香りがする大きな左手の中、鉄扇のある場所に落ちた。その表情は、彼女が周囲に見せるモノとは似ても似つかないものであった。

 感嘆、納得、反感、否定、いずれにも当てはまらない。ベナウィに対して良く見せる呆れ顔でもなく、悪戯をしたアルルゥを追いかけるエルルゥの様子に驚く顔とも違う表情。何も言わず、頷きもせず。呼吸をすることも動くことも、瞬きさえも忘れているかのように。さながら、抜け殻のような、しかし無表情ではない。今の言葉や状況を有りのままに受け入れ分析するように。コゥーハは存在していた。

 唯一異なる、口元を緩ませた状態を除き。 

「コゥーハ?」

 顔を覗き込むハクオロの一言にコゥーハはひどく身体をびくつかせ、距離を取るように後ずさった。「そ、そんなに驚くことはないだろう……」と呆れたような声を上げる相手に謝罪しつつ、左右の眦を触った指を口に含んだ。

 定位置に戻り、恥ずかしそうにハクオロの方へと座り直したコゥーハの顔は、普段の表情――仕事を押し付けくる上官に不満不平を垂れ流す、それである。

「いいえ。自分には解り兼ねます。一晩かけて、じっくりゆっくり、物分かりの悪い自分めが納得するまで、詳しい理由をお聞かせくださいませ」

 そう突き放し、子供のようにそっぽを向いたコゥーハ。その隣で一瞬目を丸くした後、ふっと出た笑いをかみ殺しつつ、ハクオロは鉄扇を腰へ戻しながら、抑揚のない声を上げる。

「勘弁してくれ。私も明日は早いことをコゥーハは知っているだろうに」

 ではまたの機会に、とコゥーハは笑い、機会があればな、と即答した相手の正面で徳利を傾けた。膝のすぐ側、最後の一滴が刻む音と同調するように、重複致しますが、と呟く。

「口幅ったいことを承知で申し上げますが……さすがに、もう少し疑うことをされては如何ですか。不用心です」

「不用心、か。そういえば、前にそんな事を言われたことがあったな」

 やや困惑するような声音で微笑するハクオロを、コゥーハはじっと見つめる。

「御側付は、お付けにならないのですか?」

「必要性を感じないからな。身近なことはエルルゥがやってくれているし……。それに、ずっと側に誰かがいるんだと思うと、こう。安らぐ時間がなくなりそうな気がして」

 ああ、やはり。コゥーハはくすくす笑い、空の徳利を盆の上に置いた。

 右下に置かれた杯を持ち上げ、ハクオロは胸元へと移動させ、静止する。

 小さく息を吐き、不思議そうに様子を窺うコゥーハを横目に、ハクオロは補足するように言葉を落とした。

「もう一つ」

 コゥーハの表情が元に戻る。笑みは消え、眉は寄せられ、瞳は光と水を失い、かわいた。

 ハクオロは最後の水を飲み干し、空の杯を床へ置いた。疑問を口にせず、変化の無い顔で静かに後片付けを始めたコゥーハを一瞥し、夜空を仰ぐ。

「ベナウィは。インカラの一族から地位を追われた、元皇族の親戚なのだろう?」

 かたん、と大きな音が盆の上に落ちた。

 僅かに眉を寄せ、無言で片付けを進めるコゥーハ。彼女が座り直すまで月を眺めながら、流れる風に髪を靡かせながら、ハクオロは静かに待ち続ける。

 いつお知りになったのですか。訊ねた相手の隣で、ハクオロは正面で手を軽く組んだ。

「叛軍当時、商人に軽く調べさせたことがあってな」

 詳しくは、いずれ聞くとして。とハクオロはくっと口端を下げた。

「先の戦で中立を守り続けた藩主が数人いるんだが。中立であった理由の一つがベナウィの働きかけがあったから、と後に語った。彼らはその元皇族の遠縁や一族に代々仕えている者達で、亡き主の命の下、各々の方法で現在の領地を必死に守ってきたそうだ。実際に、これまで行ってきた彼らの統治は悪くなかったし、そこに住む民達が藩主に抱く印象も上々。何人か監視者(ひと)を送った状態で現在も彼らに統治を任せているが、特に問題は無い。そんな彼らや民が、ベナウィの助命を嘆願する書簡を送ってきた経緯があったのだ」

 ベナウィがどれほど優秀だったのか、民に尽くしていたのかを山ほど聞かされた、とハクオロは自身の髪を弄びながら薄い笑みを浮かべた。

 無論、彼らから聞いた話が真実であるのか、整合性があるかどうかを精査した上で、最終的な判断材料の一つとして加えた。それが温情や同情だと、あるいはそれらに繋がったのではないかと問うなら、否定はしない。そう補足したハクオロの横で、コゥーハは自身のこめかみを擦る。

「彼らに配慮をして、かつ協力を得やすいようにするために、隊長を生かしておいた、と」

「どちらかといえば。ベナウィを殺すことで彼らの怒りを買い、再び戦になることを避けたかった、という理由の方が大きいかもしれん。統治がしっかりしていた故、中立を維持できていた故、彼らは相当の戦力も保持しているからな。実際に、殺せば弓を引くと遠回しに文章で言ってきた者もいて、少々驚いたが」

「……それは」

 それは? と返した相手にコゥーハは首を横に振り、自分で調べる旨を伝え、微笑した。笑みの固い相手を追及することはせずに、ハクオロは話題をずらす。

「コゥーハの家系も、確かその元皇族に仕えていた家系だったと――コゥーハ?」

 顎に手を当て、考え事をするかのように視線を落としていたコゥーハの耳が上がる。はっとした顔をしばし相手に見せた後、眉を下げながら姿勢を正した。

「仰る通り、カナァン様の――養母の家系は、ケナシコウルペ樹立前からお仕えしている家系だと伺っております」

 朝廷への影響力は微々たるものだったが、地位は低くなかった、とコゥーハは語る。

 昔からベナウィの家系と交流があり、そのためインカラ(オゥ)の一族や彼らに近い側近達には、表向きこそ良好な関係でいたものの常に監視され、ことある毎に圧力を掛けられていた。アトゥイの存在と立ち回りが些かの圧力を緩和していたが、彼が病死してからは更に締めつけが厳しくなり、何がしかの罪状で親戚(ウタル)が数人処刑されたこともあった。

 時間の問題だったのだとは思います、とコゥーハは俯いた。

「ただ。先程申しました通り、表向きは皇族と仲が悪くないことになっておりましたし、地位はそこそこでしたので、焼き討ちされた事を知ったインカラ(オゥ)に近い豪族達は戦々恐々としたと思いますよ。チェンマが焼かれた時期と、豪族達がこぞって寝返った時期は一致する、なんて調査結果もありますし」

「コゥーハ……」

 淡々と事実を述べたコゥーハに、すまない、とハクオロは目を閉じる。いえ、と呟くコゥーハの肩に手を乗せ、すっと引き寄せた。

 動揺するように揺れた水気の多い墨色の瞳が、下りてきた前髪の影に隠れる。

 静かに佇む影の中。頭を撫でる相手に、コゥーハは口を開き、くすりと小さく笑った。土の匂いが香るハクオロの手をはらうように取り、相手の胸元へ突き返した。

 ご心配には及びません。呟くようにコゥーハは目を閉じ、俯いた。尚も心配するように言葉にならない声を上げるハクオロに、上目遣いで見つめつつ、艶やかな吐息を相手の耳元へ掛けた。

「ハクオロ様」

「おあ゛っ!?」

 何だ、急に悪寒が……。とこぼしつつ距離を取り、鉄扇を構えるハクオロに一瞬丸くした後、コゥーハは口に手を当て、忍ぶように笑う。

「いえ。やはり、何でもありません」

「な、何だ。気になるだろ」

 若干慌てた調子で座り直すハクオロに、コゥーハは頬に指を当てつつ尚も笑い続ける。

 僅かに眉を下げながら。

「肩に虫がいたので、お取りしただけです」

 コゥーハを見るハクオロの視線が、じとっとしたものに変化する。

「……からかったのか?」

「まさか。とんでもない。聖上をからかうなど」

「尻尾が楽しそうに、床を叩いているぞ」

 さて。と裏返った声を上げ、コゥーハは軽く咳払いをした。

「そろそろお開きと致しませんか。明日の御政務にも響きますし。ああ、隊長は放っておいて構わないと思います。どうせ此処で徹夜する予定でしたでしょうから。寝過ぎぬように配分は考え――聖上?」

 盆に手を伸ばし、膝を立てたコゥーハの動きが止まった。

 くっと眉を上げたコゥーハの隣で、ハクオロは鉄扇の親骨から要へ指を走らせる。その背は非常に真っ直ぐであり、大きい。

「自分も……一つ。訊いても良いか」

「お答えできる範囲であれば、何なりと」

 後方に盆を戻しつつ肯定したコゥーハの背を、ハクオロの視線が追いかけた。

「コゥーハの目から見て。ベナウィは無理をしていると思うか」

「――思います」

 コゥーハの返答は早かったが、一分の隙があった。視線を戻し、真っ直ぐ相手を見るように正座をするコゥーハをしばし見つめ、ハクオロは小さく息を吐いた。

「……そうか」

 重く、低く。困惑と哀愁を帯びた、心配と納得を回答するような声に、コゥーハの眉がぴくんと上がる。

「勘違いなさっては困ります」

 ん? と顔を上げたハクオロの隣で胡坐を掻き、コゥーハは姿勢を正した。強い輝きと深い黒色、質の良い墨を思わせるような瞳は、ぶれることなくただ一点――ハクオロ(オゥ)を見据える。

「先程の理由をお持ちの上だったとしても。どんなお言葉をかけ、あるいはどんな御命令をされ、アレを生かしたのかは分かり兼ねますが。それを受け入れ、恥を晒し続け、罪を償おうと必死にもがき苦しみながら生きることを選んだのは、他らなぬアレです。聖上がお気に病む必要は皆無です」

 つまり、と言いかけたハクオロに、相手の吐息が掛る。

「願わくは。隊長の好きにさせて差し上げて頂ければ、と。勿論、聖上のお許しになる範囲で。……無論、自分も」

 その内、と、付け加えるようにコゥーハは微笑む。

「その内……疲れて何も考えられなくなり、無理もできなくなるでしょう」

「それは」

 コゥーハの口にある右手の人差し指が、言葉を紡ごうとしたハクオロの口に当てられる。

 首を傾け、見上げる顔は、穏やかな微笑みである。苦笑でも、嘲笑でも、薄笑いでもない、静かな笑顔。その中心で一際存在感を顕わにする、ハクオロを見据える小さな黒い瞳は、書家が作り上げた作品の如く、力強い。

 コゥーハは指を戻し、それを軽く舐めた。

「ですから」

 沈黙を破ったコゥーハの口が閉じる。その頭上には、大きな掌と、忍ぶような笑い声。困惑でも、軽侮でもない、何かを手に入れて静かに喜ぶ声であった。

 心配、は無用か。口元を緩ませ、相手の頭を撫でながら、ハクオロは声を上げた。

「疲れ切って、肝心な時に動けないとなっては困るんだがな」

 その時は、とコゥーハは(オゥルォ)の手を取り、頭を垂れた。

 四半刻前とは違う澄んだ瞳を閉じ、コゥーハは唇を添える。さながら、誓いのように。自身の首にある傷跡に引き寄せ、撫でるように相手の指先を動かし、刺し抜くように、自身の首元へと押した。

 音も無く、風も無く、光も無い中。指一本さえ動かない二人は佇む。その場だけ時間が静止したような状態が永遠に続くかにみえた、その時。

 生温かい風が吹く。雲から現れた月の明かりの下。にやり、とコゥーハの口が歪み、ハクオロの肩が上下した。

「聖上が。一肌脱げばよろしいかと」

「……それが一番困ると言っている!!」

 (オゥルォ)の悲痛な叫びが、雲が少なくなりつつある夜空を突き抜けた。




補足:最初の話から以上までが、(若干の修正がございますが)にじファン様へ投稿させて頂いていたものです。
   以降、次回と次々回の二話はブログへ掲載していたものを投稿させて頂き、それ以降が最新話、となります。
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