澄み渡る青空の下、朝を告げる鳥のさえずりに耳を動かしつつ、コゥーハは白い布を広げた。微風に乗ってふわりと舞う布から洗いたての香りが弾け、物干し竿の間を縫いつつ暑い陽射しに逆行するように立ち上っていく。
「我ながら……とても良い出来」
傷みの少ない布を眺めながら呟いたコゥーハに、隣で洗濯物を干すエルルゥの笑顔が咲いた。
「はい。良く出来ました。これでもう、私が教えられることはありません。洗濯に関してだけですけど」
「ありがとうございます」
頭を下げたコゥーハに、エルルゥは照れるように紅い顔を隠し、尻尾を振った。
「コゥーハさんって、本当に家事をやったことなかったんですよね?」
肯定しつつ、たどたどしい手つきで布を干すコゥーハに、エルルゥは笑う。
「だとしたら、筋は良いと思いますよ。こんな短い間にここまで出来る人って、中々いないですし」
まさか。とコゥーハは小さく呟く。
「エルルゥ殿のご指導の賜物です。先生が良くなければ、この短期間でこうも上達しないと思います」
「そ、そんな……」
更に尻尾を振りつつ籠を手に取るエルルゥに微笑し、コゥーハは空の盥と洗濯板を持ち上げる。つんとした洗剤特有の匂いと仄かに混じる木の香りに鼻を動かしつつ、ここ数日間の修行を思い出す。
エルルゥの指導は優しくなく、一つのことがきっちり出来るまでやるという厳しいものであったが、決して厳しさだけの指導ではなかったと、コゥーハは振り返る。的確な指示――最も汚れを落とす洗剤の作成方法や、色落ちを押さえる洗濯方法、手早く皺を伸ばす方法、等々を、具体的かつ技術が最も必要とされる機会に指導する師に、年齢や立場を超えて、頭が下がった。何より、自分の体調を気遣い、無理をしないように促された際には感動を覚えたと涙ぐむ。
(この優しさが、少しでも隊長の御心にあれば……)
ふっと表出したささやかな願いにコゥーハは酔いしれるが、埋没していた過去の記憶が瞬時に掘り起こされ、願いが叶うことはあり得ないという意見を突きつけられる。心を慰めるように様々な反駁を行うも、最終的には、それを望んではいけないという結論に到達する。
いっそのこと、エルルゥが侍大将になってくれれば。ぽろっと出たコゥーハの独り言に、「えっ?!」エルルゥは大きく目を開く。
「む、無理ですよ! あんな重たい物、持てませんし」
「いえいえ。武器を持たなくとも、良く通るそのお声で、怠けている者達を叱って頂けるだけで結構ですので……自分を除き」
「そ、そんな大声、出せませんし――」
慌てるように首を横に振っていたエルルゥだったが、とある光景に目を向けたと同時に動きが止まる。刹那、肌艶の美しい手から籠が滑り落ちる。
故意ではなく、偶然だったのだろう、とコゥーハは思う。
物干し竿の端、コゥーハが干した洗濯物のすぐ側。広場を走り回っていたアルルゥと白い獣――ムックルが、洗濯物の側を通過した際、蹴り上がった土や砂が洗濯物を汚した。昨日の天候は晴れであったために泥のような汚れが付くことはなかったものの、乾燥した土埃は真っ白い布の上にくっきりと跡を残しており、誰が見ても洗い直さなければならない状態である。
前髪で隠れて見えないエルルゥの目の下、地面から這い上がるような低い声がその場の空気を支配する。
「アールールーゥ。ムーックルー……」
ぴん、と上がった二人の耳と尻尾は、向けられたエルルゥの視線で瞬時に垂れ下がる。
「……ん、なさい」
『……ヴォフ』
「もうっ。前にあれほど――」
やって来たエルルゥに叱られ、再び二人の耳が上がる。しかしすぐに互いに目を合わせ、エルルゥの様子を窺いながら何やら相談するように頷き合った。やがてエルルゥの説教に熱を帯び始め、エルルゥの視線がアルルゥ達から離れた、正に一瞬。
「逃げる」
その判断は正しい、とコゥーハが内心で納得しかけた間にアルルゥはムックルの背に乗り、広場を指差した。エルルゥが面食らっていることを素早く確認し、「行く」とムックルに指示を出す。
広場の中心に、エルルゥの大声が通る。
「あっ! コラっ、二人とも待ちなさいっ! 未だ話は終わってないでしょーっ!」
「エ、エルルゥ殿。落ち着いてください――……あぁ」
行ってしまわれた、と、コゥーハは遠くにあるエルルゥの背中に伸ばした左手を引いた。鈍い光を放つ指輪を弄りつつ、二人の姿に目を細める。
広場を逃げ回るアルルゥとムックル、それを全速力で追いかけるエルルゥ。離れそうで離れない距離、縮まりそうで縮まらない間隔に、コゥーハは一種の寂しさを覚える。
短距離走において、ヒトがムティカパに勝てることは皆無である。それは詰まる所、ムックルが全速力で走っていないこと、アルルゥがそう指示しているのかもしれない。少しばかり、エルルゥに追いかけられるアルルゥのが楽しそうに笑っているように見えることが、コゥーハの中で強い確信を生む。
体験したことの無い二人の光景。心の奥底から上がってきた一言が、コゥーハの口を開かせる。
「羨ましい……」
自身の声ではない、品のある声に、コゥーハの茶色の耳が上がった。振り向いた先、白い翼と金色のようなハチミツ色の髪を揺らす女性に目を見開く。
「こ、これはウルトリィ皇女」
頭を下げようとしたコゥーハの左手をすっと持ち上げ、ウルトリィは静かに首を振った。
エルルゥ達の様子へ目を向ける深い緑色が、やや俯く彼女の言葉を強調するかのように奥底で揺れる。
「カミュ――妹とは、あのようなやり取りをしたことがありませんので」
「…………」
独り言のように呟いたウルトリィの言葉に、コゥーハは唾を呑んだ。
『調停者』たるオンカミヤムカイの皇女としての立場から、あるいは妹が『始祖様』の血を色濃く受け継ぐ存在であるためか、姉妹の性格の問題か。頭をよぎる様々な推測が、静かに吐かれた溜め息と共にコゥーハの胸を締め付ける。女性らしい美しい背中と畳まれた純白の両翼に皇女としての凛々しさは無く、胸辺りで腕を組む様は、小さくとても繊細であるように、墨色の目に映った。
いえ。と。ウルトリィは哀愁漂う沈黙を断ち、艶やかな唇に手を当てた。
「喧嘩でしたら。やったことがございましたね」
「えっ?」
間の抜けた声を上げた相手に、ウルトリィは微笑する。
「はい。幼い頃に、友人と」
「友人……」
ええ。と頷くウルトリィの表情は、コゥーハの知らぬ笑み。楽しそうに思い出話に花を咲かせる笑顔は、皇女としての顔とは明らかに異なる、一人の女性としての素顔なのだろう、とコゥーハは口元を緩めた。
「それはもう。激しいものでした」
「は、激しい、でありますか」
ウルトリィ皇女が怒りを露わにする場面が想像できないと思いつつも、火と水、風と土、ありとあらゆる術法が周囲を跡形も無く消し去る光景を思い浮かべてしまい、コゥーハは吹き出る首筋の汗を拭う。その隣でウルトリィは肯定し、そっと目を細める。
「……今頃、どうしているのでしょうか」
エルルゥ達の真上、心地よい風に雲が流されていく様を眺めるウルトリィを一瞥し、コゥーハも鮮やかな青色の空を仰ぎつつ、久方振りに会った知り合いに思いを馳せる。
ふいに。"黒い光"がコゥーハの視界を舞う。風塵の如く空へと上昇し、挑発するように漂う"ソレ"を、相も変わらず、とコゥーハは睨みつける。直後、意思が働いたかのように"ソレ"は急速に下降し、南西へと流れる風に乗って去っていった。
(そう……あの時も)
一瞬。夢に出てきた光景――知り合いの白い背中が、風の流れる方角に揺蕩う。
風を、相手の両翼を、"ソレ"を掴もうと伸ばしたコゥーハの左手が、掛った重みで落下する。同時に、ウルトリィの戸惑う声と、遠くで叫ぶエルルゥの声がコゥーハの顔を白くさせた。
「こ、これは失礼致しました」
いいえ、と静かに首を振るウルトリィに、申し訳ありません、とコゥーハは再度謝罪する。
「今すぐエルルゥ様を――と……あー……」
視線を戻した先では、未だにエルルゥ達のやり取りが続いていた。広場に響く声の大きさと二人の距離の離れ具合から、疲れを心配するコゥーハだったが。アルルゥの一言……「エルンガー、すごい」という一言でエルルゥの怒りが再び噴き上がり――厠に住む
後からやって来たエルルゥがコゥーハ達の前で立ち止り、息も絶え絶えに二人の名を叫び、その場へ膝を付いた。
「はあ……はぁ……はふぅ~」
エルルゥの深呼吸に、コゥーハとウルトリィは互いに目を合わせ、微笑した。
二人の声に反応するように茶と白の交る両耳を上げ、エルルゥは二人の方へ顔を向ける。
「ウ、ウ、ウルトリィ様?!」
慌てふためくエルルゥに対しても、ウルトリィの微笑みは変わらない。
「エルルゥ様、お久しぶりでございます」
「は、はい! お久しぶりです……って、昨日お会いしました、よね?」
赤い顔を袖で隠すエルルゥに、変わらぬ微笑で「はい」とウルトリィは返した。相手の返答で更に困惑しつつ、エルルゥは裏返った声を上げる。
「き、今日は。どうされたんですか?」
「はい。本日は、エルルゥ様とコゥーハ様に用がございまして」
「えっ、と……コゥーハさんに、ですか?」
肯定するウルトリィに、エルルゥとコゥーハは目を丸くし、互いに視線を交じえつつ首を傾げる。
「自分に、でございますか?」
問いに頷くウルトリィに、二人は各々視線を彷徨わせた。
オンカミヤムカイの皇女が、他國の一兵士に一体何の用があるのか、とコゥーハは眉を寄せる。無意識に失礼なことをしたのか、あるいは――
(私的な事。しかし國交が無かったこともあり、チェンマへ滞在するようになってからは、オンカミヤリュー族との関係は――)
コゥーハの眉が上がる。同時に、コゥーハとウルトリィの視線が、とある一点――コゥーハの左手の中指に集中する。
「……え、え?」
戸惑いの声をあげつつ交互に二人へ視線を送るエルルゥの正面へ立ち、ウルトリィは本題に入った。
コゥーハ一人と話をする機会を頂けないか。要約すると、ウルトリィの依頼はそういう内容であった。理由は、コゥーハの推測通り、指輪のことで話を聞きたいため。既にハクオロ
「その指輪って、コゥーハさんのお父さん……アトゥイさんの物だったんですよね?」
話の途中、小さな声で訊ねるエルルゥに、おそらくは、とコゥーハは返す。
コゥーハの持つ
「私は構わないですけど」
エルルゥに目を向けられ、「も、勿論です」とコゥーハは頷く。二人の返答にウルトリィは両手を合わせ、嬉しそうな表情で礼を尽くした。
「ハクオロさんにはお話がいってるから――あ、でもベナウィさん」
ウルトリィに両手を握られる中、思い出したように口走ったエルルゥに、コゥーハは苦笑した。
「聖上にお話が通っているのであれば、隊長にも話が通っていると思いますので、御心配召されることはありませんよ」
仮に話が通ってない場合でも、咎められるのは自分だけですし、という言葉を、コゥーハは呑み込む。
笑みが多少引き攣るコゥーハにエルルゥは心配そうな目を向けたが、問題無いと重ねて口にする相手の様子に、微笑を戻した。
三人の日程を把握し、都合の良い日時を決めた後。ウルトリィは感謝の意を述べ、その場を後にした。遠くなる彼女の背中を追うように、トゥスクルの衛兵と使節団の一人と思われる者が去って行くことに、コゥーハは安堵の息を吐いた。
コゥーハと同時に息を吐いたエルルゥの眉が、少し上がった。
「……もう。コゥーハさんったら。ウルトリィ様がおられたんなら、そう言ってくれても良いのに」
「え、ええ? い、いえ、自分もつい先程、いらっしゃることに気が――申し訳ありません」
不機嫌そうな顔を向けるエルルゥに、コゥーハは即座に謝罪した。ここで謝らなければ、身の危険があるのでは。そんな虫の知らせがコゥーハの行動を変化させた。その判断が正しかったのか、コゥーハの謝罪にエルルゥはいつもの――明るい笑顔の絶えない、元気な姿へ戻った。
「もう良いですよ。それより、お洗濯やり直さないと」
左様ですね、とコゥーハは自身の干した洗濯物に手を掛け、眉を寄せた。ざらりとした砂塵の感触と生乾き特有の臭いに混じって、手に残る違和感。その理由が、真下の地面にくっきり刻まれていた。
「……エルルゥ様」
「はい?」
洗濯物の真下にある水たまりを踏みしめ、コゥーハは眉を下げた。広い場所で手にある布を捩じり、溢れ出た水に苦い笑みをこぼす。
「自分はまだまだのようです。先生には、更なる教えを乞わなければ」
そう言って、コゥーハは白い布を空中へ広げる。
細かな砂と共に大粒の水滴が空中へと舞い上がり、コゥーハの服を濡らした。
翌日。薄い雲の奥で、真上にあった陽が傾き始めた時間帯。
ウルトリィに指定された場所で、コゥーハは生唾を飲む。
「此処が……オンカミヤムカイの使節団の方々がいらっしゃるお部屋」
皇城内で比較すれば別段巨大でも、過度な装飾があるわけでもない、部屋の入り口にある木製の戸。しかしコゥーハの目には非常に恐れ多く映り、幼少の頃に仕入れた知識や経験が手足を硬直させる。とはいえ、部屋周辺の警備の任を与えられたとある衛士は、ウルトリィに微笑みかけられただけで卒倒したという事件と比較すれば――彼の場合、倒れた原因が緊張だけではないような気もするため、比較対象としては些か不適切ではあるが――自分の緊張など他の兵士に比べたら軽いものではなかろうか、と思う。尚、件の事件後ベナウィが各所へ奔走し、警備体制の見直しと称してコゥーハに雑用を押し付け徹夜をさせたのは、つい昨日の事である。
(っと……少々、眠気が)
常備薬と共に眠気を覚ます薬を一気に口へと押し込みつつ、誰もいない周囲をコゥーハは見渡した。同時に、カミュ皇女が来てから使節団の滞在する部屋が変更されたことを思い出し、此処が変更後の部屋だということを再確認した。
緊張が増し、更に硬くなった指でコゥーハは左手にある指輪を擦る。
指輪の元の持ち主が養父――アトゥイであることから、内容は十中八九アトゥイに関すること。また、彼が破戒僧であったことから、この指輪は出奔あるいは破門された際に持ち出された、いわゆる盗品なのかもしれない、とコゥーハは推測している。
(仮にそうだとすれば。返却することは……少々、寂しい思いではありますが、当然のこと。しかし)
指から外した、くすんだ色に光るそれを真上へと翳し、コゥーハは見据える。
しかし。コゥーハがどれほどせがんでも、アトゥイ自らがコゥーハに語らず、頑なに拒んだモノがあった。
アトゥイ自身の過去と、コゥーハの産みの親――特に母親について。その二つが、アトゥイがコゥーハの実の父親ではないことを除き、彼の口から語られることは一生なかった。コゥーハがその事を訊ねる度、理由を付けては誤魔化し、曖昧なコゥーハの言葉を突いては流暢な口で巧みに論点をすり替えるやり取りが繰り返された。
そんな十数年前のある日。一人の客人との出会いがきっかけで、状況が変化した。大陸西部にあった今は亡き國の
故に。アトゥイのことを訊ねられても、何処まで答えられるかどうかという心配が、自分の知らない事が聞けるかもしれないという好奇心と共に膨らんでいた。
指輪を定位置へ戻し。コゥーハは再度――本日何度目か分からない深呼吸をする。懐に忍ばせていた鏡で身だしなみを整え、軽く頬を叩き、恐る恐る手を伸ばし、高まる緊張から再び手を引っ込めた。
その手が、柔らかな感触に包まれる。
「ひゃわっ」
素っ頓狂な声をあげて後退ったコゥーハに、あらあら、と頬に手を当てる女性が驚きを現した。白い翼を持つ女性の隣では、同色の翼を持つ老人が眉を寄せる。
「こ、これはウルトリィ皇女に、ムント様」
「おや。先日の。もしやハクオロ
「い、いえ」
コゥーハの左手に目を向けつつ首を傾げるムントの隣で、ウルトリィは微笑む。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
どうぞお入りください、と戸に手を掛けようとしたウルトリィを、身体を張ってムントは制した。
「あ、あの、姫様? これは一体、どういうことですかな?」
ええと、と考えるように、ウルトリィは細い指で美しい頬を撫でる。
「ムントには話していませんでしたか?」
「聞いており――あいや……客人が来られる、とは聞いておりましたが。てっきりエルルゥ様のことかと」
エルルゥ様とお話された内容を、いつも楽しそうに語っておられますからなぁ、と頷くムントに、僅かに紅い顔を手で隠しつつもウルトリィは同意する。立ち話というわけにも参りませんので、と戸を開いた相手に促されるまま、コゥーハは使節団の滞在する部屋へと足を踏み入れた。
高い天井に、横に長い部屋。二人で過ごすには十二分な広さの空間を、コゥーハはそれとなく周囲を見渡す。
部屋の構造上から、窓は入口から見て正面の高い位置にある格子窓しか無い。しかし計算し尽くしされた位置にあるそれは陽射しを最大限に取り入れているため部屋全体が暗いということはなく、大きな窓がある他の部屋と同じように暖かさで満ちている。窓の下にある二段で構成された木製の寝台は備え付けられている発光石を置く台も含めて簡素なものだが、材質も含めて非常にしっかりとした作りとなっており、やや暗めの茶色であることもあって重厚な印象を抱かせる。寝台の左方、中央近くにある太い支柱よりも奥には、コゥーハの身長よりやや低い大きさの白い石が置かれ、それを中心とした石庭が小さくも部屋の装飾として佇み、梁に掛る水色の飾り布と共に、部屋に溶け込んでいた。
装飾が少なく質素だが、しかし上品で趣のある部屋だと、コゥーハは感心する。
(聖上の御趣味でしょうか)
そう考えつつ、尚も部屋の隅々へと視線を向けるコゥーハの耳を、静かな寝息がくすぐった。
声のした方向――木の床で覆われた入口手前、ヒト二人が寝転がった程の大きさの敷物の中心に置かれた小さな円卓へと、コゥーハは視線を落とす。
(あれは……先日、ムント様に連れていかれた)
薄茶色の机に頬をつけているのは、黒い翼を持った銀色の髪の少女。無造作に置かれた筆や硯、空白の木簡の横ですやすやと眠っている彼女の顔は歳相応のあどけなさを持ち、同年代と思われるアルルゥに似た、しかし趣の違う可愛さがある、とコゥーハは微笑する。
その微笑みを湛える少女の唇へと視線を落とした際、僅かに固くなる。
「…………」
(よ、よだ……が)
美味しい物を食べている夢なのか、満面の笑みで口をもごもごさせる様子はとても可愛らしいとコゥーハは率直な感想を抱いたが。いかんせん、相手がしまりのない半開きの口で笑いかけてくるため、不意に別の感想が芽生えた。
(い、いけません。わ、笑っては――)
鼻を掻くように袖を口に押し当てるコゥーハの隣で、あらあら、とウルトリィは微笑した。戸を閉めた後、やや心配そうな目で少女に近づき、相手の肩を揺する。
「カミュ」
反応のない相手に、ウルトリィは更に相手の――カミュの身体を揺する。
「カミュ」
「ん~……」
困ったように溜め息を吐き、ウルトリィは再度相手の耳元で彼女の――妹の名を呼ぶ。
「カミュ」
「……もうちょっとだけ~」
机の端を掴み、しがみつくように身体を丸めるカミュに、二人の口と翼が開いた。小さく息を吐きつつ翼を閉じ、一方は柔らかく美しい手を頬に当て、一方は皺の目立つ手で口髭を捻る。
その二人がカミュを見る視線には、やや厳しさがある、とコゥーハは背筋を伸ばす。
「ムント」
「承知致しました」
耳をお塞ぎください、とウルトリィに両手を誘導され、コゥーハは為されるがままに長い耳を折り畳んだ。手を離し、ウルトリィが自身の両耳に手を当てると同時に、カミュのすぐ側でムントが大きく息を吸った。
「ひーめーさーまあぁ!!」
「……――はうにゃわむにゃうぐっ?!」
読んで字の如く、カミュは机から跳ね起きた。よほど驚いたのか、机の上を動く筆記具よりも身体と黒い翼をばたつかせ、悲鳴にも聞こえる声を上げながら、三人のいる場所とは反対の方向へ後ずさる。直後、後方にあった敷物に足をとらわれ転倒し、盛大な音が部屋を揺らした。
舌噛んじゃったよぉ……と、目に浮かんだ涙を拭うカミュに手が差し伸べられ、カミュはその手を取って立ち上がる。ありがとう、と礼を述べつつ申し訳なさそうに笑う彼女の顔が硬直する。
「ム、ムント。お姉様も、いつの間に。……は、早かったんだ、ね」
「姫様。写経は終えられたのですかな?」
「えっ!?」
ええと、と言いつつ、カミュは更に足を後退させた。が、眉を顰めたムントの握る手が半歩以上の歩みを許さず、敷物が擦れる音と共に小さく呻いた。
息の詰まる、緊張の増す沈黙が降りる。暖かい風に乗って微かに流れ込んできた鳥のさえずりに、コゥーハは未だに痛みが残る耳を擦った。その脇を伝う一筋の汗を拭ったとほぼ同時、誤魔化すように眉を下げるカミュの口が開かれる。
「つい。いいお天気につられて……まだ」
「つい。ではありませぬ。姫様がお戻りになるまでに写し終えておくようにとあれほど――」
「だってだって、つまんないもん! 毎日まいにち、一日中部屋の中でお勉強だなんて。これじゃあ、いつもやってることと変わらないよ!」
しかも昨日と全く同じ内容だし、と眉を上げるカミュの様子に、コゥーハは己の胸を掴む。
(確かに……つまらないものです。楽しくないことであれば、特に)
同じ部屋に同じ人、同じ質問に同じ回答。新鮮味の無い話題、味の無いやり取りは胸焼けを起こし、自分へと向けられる全く同じ評価は満足に消化もできない。そんな日が数日続けば時が戻ったのではないのかと錯覚し、届けられた書簡一つで違うと判れば安心する。そして書簡の内容を読むことで、己の足が止まっていることを再認識する。
過去の思い出に入り浸り続けている自分が馬鹿らしい、とコゥーハは自身の足元に視線を落としつつ、右手で顔を覆い、嘲笑した。
そんなコゥーハの左手を、温かい手が撫でる。
「お騒がしいところをお見せしてしまい、申し訳ありません」
「い、いえ」
コゥーハは首を振り、静かに見つめるウルトリィの瞳に目を止める。
優しい、しかし何処となく悲しげな目をしている、とコゥーハは目を半分閉じる。相手の青い泉から湧き上がり、静かに胸を打つものは、同情でも慈悲とも違う、強いて言うなら、謝罪。謝られる理由が自分に無いことや、遠くを見るような視線から、他の誰かの面影を見たのかもしれない。前にも似た表情を見たことがある、と目を閉じた瞼の裏。焼き付くウルトリィの微笑に、育ての親である二人の姿が重なる。
あぁ、とコゥーハは苦く、胸に抱く温もりをしっかりと抱いた。
ふいに。頬を流れたモノを指で拭い取りつつコゥーハは俯く。軽く首を傾げるウルトリィに、何でもないことを伝え、カミュ達の方へと目を向ける。
ウルトリィが視線を移したとほぼ同時。ムントの説教を聞き流していたと思われるカミュが二人の方へと目を向け、驚きの混じる声を上げた。
「お客様? お姉様」
姫様! と窘めるムントを振り切り、カミュはウルトリィに駆け寄った。棒のように直立するコゥーハをしげしげと見つめる妹に微笑し、今にも手がでそうなムントを制す。
「
しかし、と更に眉を寄せるムントに頷き、ウルトリィは客人に向き直り、毅然とした口調でカミュを促す。
「良い機会です。さあ、カミュ。お客様にご挨拶を」
「えっ」
目を丸くし、カミュは三人の顔を見渡すが、二人はそれに応える様子はない。相手の答えを待つように沈黙を貫く二人に、カミュの表情に焦りが見え始める。
「ええっと……」
目を瞑り、こめかみを押さえ、腕を組み、考えるようにさんざん首を捻った末。引き攣った笑いを浮かべながら、カミュは小さな声で答えた。
「……カ、カミュです」
やれやれといわんばかりの盛大な溜め息が、俯いた二人の口から吐かれた。どうしたものか、と小言で相談し合う二人に、「だってだって」とむくれるカミュ。
トゥスクルの皇城で見られることの多い、何処かほのぼのとしたやり取り。目の前で繰り広げられている光景を眺めつつ、どの國も同じなのかもしれない、とコゥーハは笑う。
コゥーハの笑い声に、三人は一斉に振り向き、各々苦い笑みを浮かべた。
再び謝罪しようと眉を下げた相手に、コゥーハはくっと姿勢を正した。軽い自己紹介と謝辞を述べ、指定された位置に正座する。
客人の返答にムントは感心する声を上げつつ、コゥーハから見て右側へ着席し、今日までの視察を踏まえた上でのトゥスクルの印象を述べ始めた。自分は一体何しに来たのだろうか、と浮かんだ疑問を隅へ追いやり、コゥーハはムントの話に耳を傾け……たのは、最初のみであった。
以前訪れた時よりも國の印象はとても良く、ここまで國を立て直したハクオロ
「いやはや。ベナウィ殿も未だお若いというのに――」
話題がベナウィへと移った途端、茶色の長い耳は話の内容の九割を遮断した。似た苦労があるのだろうか、ベナウィを労う言葉にコゥーハは相槌を打ち、若いのに礼儀正しく、ハクオロ
「はい。聖上、は、素晴らしい御方です」
主語を強調したコゥーハの目の前、いつの間にか片付けられた丸い机の上に湯呑みが差し出された。
「どうぞ」
お茶から立ち上る湯気の真上で、ウルトリィは目を細めた。同時に、湯呑みから覗く水面にコゥーハとムントの固まった顔が映る。
「ひ、姫様!? このようなことはこのムントか別の者に――」
おたおたとウルトリィに頭を下げるムントの横で、おいしい、とほっとした様子でお茶を啜るカミュ。
トゥスクル皇城の片隅で見られることもある、種類は違えど、女性に振り回される男性という構図。やはりどの國も同じなのかもしれない、とコゥーハは口をパクパクさせた。