本日全ての日程を終え、兵士達は各々の健闘を称え合う。穏やかな雰囲気が流れる演習場、その片隅にある木陰で、腰を下ろしていたクロウの呻き声が上がる。
「あ、姐さん……も、もうちょっと。もうちょっとだけ優しく」
首の傷を手当てしてくれるのはありがたいのだが。と、半ば強引に包帯を巻くエルルゥにクロウは懇願する。しかし、エルルゥは相手の声に相槌を打ちつつも、手を緩めることはない。むしろクロウの思いとは裏腹に、きゅっと包帯を締めた。
「それじゃあ、ほどけちゃいます――ああっ、だから動いちゃ駄目ですって!」
「くびが……絞まってるっ」
終わりましたよ、と苦く微笑むエルルゥの声に、クロウはほっと溜め息を吐く。散乱した道具を整理し始める彼女を眺めながら、右手で首元にある包帯の結び目をいじる。
「姐さん。苦しいんで、ちょっとだけ緩めて――……いや、何でもありやせん」
有無を許さぬエルルゥの睨みに、冗談ですって、とクロウは顔を引き攣らせた。そんなクロウに疑問の目を向けながらも、他に怪我したところありませんか、とエルルゥは診察を続ける。
「もう。二人して怪我して……コゥーハさんも隠してたし」
「姐さんに迷惑掛けたくなかったからじゃないかと思いますがね。散々、手当てして貰って恥ずかしい、とかなんとか」
言いかけたクロウの言葉は、驚きの声を上げたエルルゥによって掻き消される。
「クロウさん、その手。赤いじゃないですか!」
見せてください、と慌てて右手を取るエルルゥに、大丈夫ですって、とクロウは笑う。
「こんなんは唾を付けとけば――」
「それで治ったら
尤もなお言葉で。と項垂れ、クロウは自身の赤い右手を見据える。
僅かに痙攣する右手も、包帯で隠れている首の傷も。先程の組手でコゥーハによって付けられたものである。しかし「一体いつ怪我したんですか?」というエルルゥの問いに、クロウは曖昧な回答でとぼけた。
認めたくないのかと思うと同時に、コゥーハから読み取った違和感をクロウは振り返る。
(あの時――)
コゥーハの持つ槍を破壊してから、相手の首元に刀を突きつける直前、石火よりも速い刻の間。砂が舞う中、完全に相手の懐を捉えていたあの時の光景が、クロウの記憶に焼き付いて離れない。
コゥーハの瞳が金色に光り、穂先を持つ彼女の右手が素早く――人知をも超えるというべき速さで動いた。それを理解したのは、クロウがコゥーハの喉元に切っ先を突きつけた直後……首に走る痛みと、赤黒い色をした穂先の存在の理解、冷や汗流れる鳥肌を同時に感じた時であり。審判がクロウの勝利を宣言した瞬間でもあった。
震える右手を突出しクロウは食って掛かろうとしたが、コゥーハがそれを制した。
『正直なところ、覚えておりませんので。それ以前に』
これは組手であり、故に審判の声が絶対である。彼女の意見に同意する部分もあれど、クロウは全て納得できた訳ではない。己の見て感じた物を統合すると、自分は勝っていないのだという確信があった。
言い表せぬ不満で押し黙ったクロウにコゥーハは一礼し、どこか気の抜けた微笑で手を差し出してきた。一試合終えた直後だというのに、疲れを感じさせぬ右手を。
『自分の完敗です。今回の経験を振り返り、活かせるように精進して参りたいと思います。……恐れながら。時々お相手して頂けると嬉しいです。勿論、もし副長がよろしければですが』
普段の愛想笑いとは違う表情に、柔らかな言葉に嫌味はない。正面に立つ姿勢や見つめてくる双眸――素直に思える積極的な言葉を嬉しく思いながらも、クロウの胸中は穏やかとは言い難かった。気に食わなさを押し出しつつ左手でコゥーハの手を払い、その内な、と言いつついつもよりも深く相手を探るような視線を向ける。理由は付けられた傷の事もあるが、一番の理由である自分の右手をクロウは隠した。
単純に言えば。先程の組手において、終始クロウはコゥーハに押し負けていた。流れこそ完全に掴んでいたが、力のみを比べればコゥーハの方が圧倒的だったとクロウは歯噛みする。
尋常ではなかった。信じがたいことだが、あの華奢な躰から繰り出される槍の重みはベナウィのものよりも重く、受け止め方を間違えれば大怪我になり兼ねない圧が全ての攻撃に備わっていた。追い詰めれば追い詰める程、焦っていく表情や粗く遅くなる槍捌きとは反比例して、力は増していった。特に両手で薙いだ攻撃は最も重く、体勢を崩させるのみならず、右手に現在もなお残る痛みを残した。何より寒気を感じたのは、攻撃を基本的に片手で行っていたことと、組手を終えたというのに彼女からは全く……汗は掻いているが、全く疲労を感じられないこと。クロウの躰は所々悲鳴を上げているというのに、だ。
正直なところ。以前から抱いていたコゥーハに対しての疑問が、今回の組手を通してより薄気味悪さへと変化した。そんなクロウの心境を察したように、コゥーハは去り際に小さな声で呟いた。
『……色々とお聞きになりたい事がおありでしょうが。あまり自分を……私の事を詮索なさいませぬよう、お願い致します』
無理な相談だ、と返したクロウに尚も笑い、少なくとも今回はクロウに完敗であるということは信じて欲しい、とコゥーハは言い残してその場を去った。
(軽い、と思ったんだが)
手当を続けているエルルゥから目を離し、クロウはコゥーハのいる方へと視線を向ける。演習場の端、大木が作る木陰の下で、先程の表情を微塵も感じさない普段通りの薄い笑みをコゥーハは見せていた。その彼女の話相手であるハクオロとベナウィに目を止める。
「お? 総大将が珍しく大将から逃げずに――……あいや、真剣に話し込んでいる気が」
ハクオロの口から、資料、案件、といった言葉が時折聞こえるからして、新たな政策を打ち出すつもりなのだろう。そうクロウが推測した通りである事が、エルルゥの口から語られる。
「ハチミツ作りをするみたいですよ。それで、ハチミツに詳しいコゥーハさんに資料を揃えて貰うようにお願いしているんだと思います」
お願い、ねえ……。とクロウは苦く笑いながら、ハクオロとコゥーハのやり取りをしげしげと眺める。
(ありゃあ、どう見ても。凄い剣幕で命令しているようにしか見えんのだが……というか「資料を今日の日暮れまで」とか、無茶にも程ってもんがあるでしょうに。総大将らしくもねえ)
絶対に無理ですと泣きつくコゥーハに対して、泣き言も聞かぬとハクオロは突っぱねる。その表情は、いつもの表情とは明らかに異なる。口調こそ普段の落ち着きがあるものの、仮面の下から覗く瞳はぞっとする程に冷たい。焦っているのか、事を急くように言葉を並べる節々からは僅かに刺々しさがあり、組手を終えた直後である相手の気遣いなど存在しない。
右手の手当を終えたエルルゥに礼を述べ。もしかして、とクロウは眉を顰める。
「コゥーハの姐さん。総大将を怒らせることでもしたんですかね?」
さあ。と、エルルゥは両耳を下げる。
「実は、私もちょっと気になって。さっきベナウィさんに相談したら『心当たりが星の数ほどあって検討がつきません。自業自得でしょうから、この際ハクオロさんにキッチリと灸を据えて貰うことが、コゥーハさんのためになる』って」
「……とりあえず。大将は相変わらずみたいなんで、滅多な事が起きても問題ないかと」
抗議をするコゥーハを普段通りの瞳で――ハクオロと全く同じ温度の視線で射るベナウィを一瞥し、クロウは軽く溜め息を吐いた。軽い捻挫だと説明するエルルゥの声に頷きながら右手の調子を確認し、三人の会話から目を逸らすように周囲の喧騒へと耳を傾ける。
小さく息を吐いたエルルゥが向ける視線の先で、兵士達は酒盛りを始めていた。茜色に染まり始めた空の下、彼らの笑顔は柔らかい。酌み交わす面々が違うこともあるが、普段の激しい訓練を終えた後の酒盛りとは異なる騒ぎ方に、こんな酒も悪くない、とクロウは笑う。
「しっかし。酒に、ハチミツとは。これまた」
酒と共に振る舞われている大量のハチの巣をしげしげと見つめるクロウに、ああ、とエルルゥは正面で酒器を並べ始める。
「お城の中で、幾つもハチの巣が見つかって。さっきまでベナウィさんが取ってくれてたんです。でも、捨てるのはもったいないってことで、なら皆さんで食べればいいってハクオロさんが」
あ、とエルルゥは声を落とし、クロウさんにも、とハチの巣が入った小さな器を杯と共に差し出した。
「一応、皆さんに配られているハチの巣は、ハクオロさんが頑張った皆さんに、ってことになってるらしいですよ」
ふーん、とクロウは杯を持つが、すぐに盆の上へと置いた。呑みたい気分ではないという本音を心の内に隠し、エルルゥが注ごうとしたところを、「俺なんかよりも、総大将に」と婉曲に断る。
ハチミツねえ。そう呟き、器へも手を伸ばさないクロウに、エルルゥは首を傾げる。
「クロウさん、ハチミツ嫌いなんですか?」
「好きか嫌いかっていう前に、ハチミツ自体に馴染みがないもんで。高価なもんだから、滅多に食べられるもんでなし」
十数年前に行われた皇都周辺の開発で森林が減少し、都に住む者達は山の恩恵がほとんど受け入れらていない。また、皇城近辺にある森はあるものの国有地な上に調査も行われておらず、実態が掴めないことから危険と判断され、最近まで誰も足を踏み入れることはなかった。現在はハクオロ
「そんなこんなで。当時から、薬とかも高くてたかくて。そんでもって、前の
あいつら、ホントに喜んでいると思いますよ、とクロウは目を細める。実際に、ハチミツを手に取る誰もが嬉しそうにほおばり――多少の、酒とその場の勢いもあるのだろうが――
まるで。心中で浮かんだ言葉を継ぐように、いつの間にかやって来ていたコゥーハが二人の側で断言した。
「当然です。ハチミツを嫌いな方など、大陸に存在しているはずがありません」
ハチミツを食べれば、皆が幸せになる。その一言を皮切りに、誰も求めていないというのにコゥーハは熱弁を振るい始める。ハチミツが身体に良い事や、最近知ったというハチミツを使用した料理の素晴らしさ――話自体は理路整然しているために分かりやすいものの、整然としてるが故の退屈さは否めない。しかし相手の顔色を常に窺い行動する普段とは異なり、コゥーハはひたすら己の意見を述べていく。圧倒的な語彙と速さは止まることなく、聞き手が置いてきぼりにされる事態になるまでの時間は、決して遅くはなかった。
すっきりしたのか、一通りの話を終えて深呼吸するコゥーハに向かって、話を聞く中で一つだけ分かった事をクロウは問う。
「コゥーハの姐さんって。よっぽど、ハチミツ好きなんすね」
「……す、好きか嫌いかと問われているのであれば。嫌いでは、ありません。当然では、ありませんか」
恥ずかしいからってことで、あれでも隠そうと頑張っているみたいですよ、というエルルゥの囁きに苦笑しつつ、紅い顔を手で覆いながら尻尾を垂れるコゥーハにクロウは肩を竦める。
(ま。進歩はあったのかねぇ)
したり顔のクロウを睨み、つまりですね、とコゥーハは眉を上げる。
「大陸の平和のために。この政策は絶対に成功させますとも、ということです、ハイ」
随分と大きく出たものだ、と感想を述べつつ、クロウは話に水を差す。
「しっかし。確かハチの生態は意外にも謎だって話だった気が」
お詳しいですね。と目を丸くするコゥーハに、駆除の訓練の時に大将がな、とクロウは腕を組む。
「そうそう上手くいくかね」
「正直に申し上げて。問題は山積しておりますので、すんなり上手くいくとは思えませんが……聖上が、ハチに関する詳しい知識をお持ちのようでして」
「総大将が?」
驚くクロウの側で、流れる言葉を紡ぐコゥーハの口はきつく閉じられる。同意するように頷く墨色の瞳には鋭さが帯び、奥底で力強い輝きが燻る。
「全くもって。聖上は不思議な御方ですよ。誰も知らない、痩せた土地を豊かにする知識をお持ちかと思えば、今度はハチですからね」
しかし、自身の記憶に関してはサッパリと進展がないようで――コゥーハは言いかけるが、エルルゥの存在に気づき即謝罪した。いえ、と首を振るエルルゥに対して尚も頭を深く下げ、彼女が頭を上げるようにと言うまで謝り続けた。
まあ。と、気を取り直すようにコゥーハは小さく息を吐いた。
「ハチに関しては、それ程に謎ではありませんよ。聖上がお持ちの知識と、養父が……いえ、とある学者もどきが趣味で一時期研究していたことを思い出しましたので、彼の論文を引っ張り出してくれば、些かの進展は望めるかと思います」
とにかく。深く追求しようとするクロウの視線を断つように、コゥーハはすっと俯いた。同時に、墨色の瞳から一切の光が失われる。
「一番の心配は……聖上が非常にお冷たい事でしょうか。やる気の大小とはどうも異なる冷たさを感じます。自分がこの二日間を生きられるか否か……もしものことがあれば、骨は海にお願いします」
諦めと悲壮感が漂う弱々しい声に、クロウは言葉が出ない。ハチミツに関して語っていた時とは打って変わった、死人のような白い顔に圧倒される。
これから資料を揃えに行きますので。と、エルルゥとクロウに一礼し、今にも途絶えそうな声を残しコゥーハは去って行った。兵舎へ戻るその小さな背中に、クロウは一瞬……ほんの一瞬、本日一番の同情を覚えた。
クロウとコゥーハが手合せした日から二日後。ベナウィの書斎の奥、暑い日差しが降り注ぐ広縁に倒れているコゥーハに向かって、クロウは叫んだ。
「大将が、これで良いって」
返事がない。ただの屍のように動かぬコゥーハから視線を逸らし、目の前でひたすら筆を書簡に走らせるベナウィの前に座り込んだ。
「……大丈夫、なんですかね? 二日も寝てないらしいですけど」
「問題ありません。お酒とハチミツを与えさえすれば、いつでも復活しますから」
そんな馬鹿な事が。小指一本たりとも動かないコゥーハに頭を押さえるクロウの目の前に、特効薬という小瓶をベナウィは差し出す。
「こちらはクロウの、ハチミツです」
ハチミツの部分をわざとらしく強調したベナウィの正面で、瓶の中でまばゆく輝くハチミツを眺めながらクロウは困惑する。
「その……何故、俺の分まで」
今回の養蜂場建設に関して、クロウは一切……一切携わっていない。少なくとも、骨子が完成するまでは関わっていけないと、最大限の努力を行ってきた。
触らぬ神に祟りなし――ここ二日間。ハクオロの仕事ぶりは熱心を通り越して、凄まじいものがある。数日前から滞っていた政務を解消したのみならず、新たな法や政策を複数打ち出す熱の入れようである。特に、明日の朝議に議題として挙がるであろう養蜂場の件は、「二日で形にする」と一昨日にハクオロが宣言しただけあって、恐ろしいほど迅速に進めていった。ただ、それらの裏では、コゥーハの犠牲と文官達の活躍があった、とクロウは振り返る。
普段から臣下に気を遣う程に優しい
『死ぬって、コレは』
休憩はおろか食事や仮眠をとる暇さえない、詰めるだけ詰め込んだと思われるコゥーハの過密日程。ベナウィから簡略に聞かされた際、思わず呟いてしまったクロウに、やや呆れ顔でベナウィは溜め息を吐いた。
『これ位で死ぬようでは、武官として失格です』
ベナウィなりの、一種の冗談と思うようにしている。しかしながら、あの時の一言と背筋を走った強烈な恐怖が、クロウは今もなお忘れられずにいる。
小さく呻くクロウを見据え、やや大きな声でベナウィは説明する。
「調査のために採取したハチミツが、少々余ってしまいまして。建設に関わる人員を募集する目的も兼ねまして、兵士達に配っているものです。アルルゥ様が御納得される程に、品質はとても良い物ですよ」
「ちっこい姐さんが許したハチミツ、ねえ」
「クロウはこの件を避けているようですが。もし興味を持ったのであれば、いつでも言って下さい。聖上のお気持ちとは対照的に、人員はあまり集まっていない現状ですから」
別に避けてるってわけじゃ、と眉を下げるクロウから目を逸らし、ベナウィはもう一つの瓶を手に取る。直後、持っていた瓶が無くなった事に驚く風でもなく、普段通りの淡々とした様子で再び目の前の作業を始めた。
「ところで。私に聞きたい事とは」
そんな馬鹿な……。広縁に座り、小瓶を片手に尻尾を振り乱しているコゥーハの背中から視線を戻し、クロウは居住まいを正す。場の空気を仕切り直すように深呼吸をした後、極力声を落してベナウィに問う。
「コゥーハの姐さんって、何者なんすか?」
筆を持つ手が、音もなく静止する。
「またその話ですか」
ベナウィは筆を置き、改めるように胡坐を掻く。くっと眉を上げ、すっと顎を引き、威厳を示すように胸を張る――相手を圧倒し、自然と場を自分の支配下へ取り込もうとするベナウィにクロウは舌を巻く。しかし同時に、主導権を握られないようにと警戒する。
「大将」
「昨日の組手といい、貴方らしくもない。集中して、やるべき任務をこなして下さい」
「……説教なら後にしてくれませんか」
こっちは真剣なんですがね、とクロウは強引に話を戻す。
長年の付き合いから察するに。相手がたとえ
『コゥーハの姐さんに纏わる変な噂。大将は御存じですかい?』
コゥーハとの組手から膨らみ続けた疑問が、昨日ついに噴き出した。
些細な不幸を予測する、異常とも思える記憶力、時に己の得物さえも破壊する腕力、等々。コゥーハを取り巻く噂はどれも薄気味悪さを含む。しかし、各々の出所を辿るものの――最後については、クロウは是であると信じているが、どれも噂の域を超えることはない。
(簡単、じゃないってか)
組手の件以降もコゥーハに何度か問い正したが、どこか固い態度で……昨日見せた柔和さなどない、むしろ普段から一歩引いた距離を取った上で、軽く煙に巻かれてしまう。ならば、コゥーハの事を知っているであろうベナウィに訊ねたものの、相手の答えは普段の彼らしからぬものであった。
「アレはアレ以外の何者でもありませんよ」
変わらぬ回答に、クロウの眉が上がる。
酔っているわけでもない、怒っているわけでもない。真剣な目線で、しかしまるで回答になっていない返答に、クロウは強く握った拳を後方に隠した。幼い頃に何度か会っていたという簡略な話や、それ以上の事は分からないという言葉、消えゆくであろう噂に振り回されぬようにと苦言を呈する言葉など耳に入らない。呆然と立ち尽くす心の奥には一つの疑問と感情――弾けたのは、困惑を浮かべた顔でベナウィが最後に付け加えた一言。
以前話した以上の事を知らない。そう付け加えて一呼吸置き、ベナウィは静かに口を開く。
「……これ以上は」
「関わるな、ですかい。そりゃ土台無茶な話ってもんでしょうよ」
出てきた感情を押しこめ、無意識に浮いた片膝を付け、努めて冷静に主張しつつクロウは続ける。
「人の趣味にまで口を挟みたい訳じゃないですがね。隠し事がある相手と話をすると、こう――この辺がムズムズすると言いますか」
「私が。信用なりませんか」
率直な指摘に、クロウは息を詰まらせる。
青みがかった黒い瞳に、怒りや非難の色は感じられない。失望も無く、あるのは客観的に物事を見定めようとする一点のみ。相手の目線と同じ高さで向き合い、しっかりと意を汲み取りたいと伝わってくる姿勢――普段であれば、光栄だと笑いながら胸の内を正直にぶつけるが、今回はそれを良しとしない……言葉にしてはならないという感情がクロウの口を固く閉ざす。
すぐに否定できないクロウとベナウィの間に、重い沈黙が下りる。これまでにクロウが経験したことのない、暗澹とした空気はとぐろを巻き、二人の言動を硬直させる。息を呑むことさえ苦しい、ゆっくりと手の平を伝った汗が途方もない時間を費やしたように感じる、いつまで続くのか……否、いつまで続けるのか分からない緊張。
「それは」
どの位の時を要したか分からない沈黙の後。意を決してクロウは切り出した。が、ベナウィとの間に割って入った片手と「違いますよ」という間延びしたコゥーハの一言に遮られた。
「副長は、隊長の近くに信用ならないモノを置きたくない、と仰っているのです」
左様で御座いますよね? 半ば強引に訊ねるコゥーハに戸惑いながらも、クロウは肯定した。
コゥーハを見据えた、紫がかった黒い瞳に鋭さが増す。
「ああ、そうだ。俺は――」
「クロウ様は面白い御方ですね」
瞳が見えない位に目を細めたコゥーハの一言に、クロウは面食らった。
言葉を切った相手へ尚も微笑を見せつつ、コゥーハはその場に正座する。見上げることもなく、見下げることもなく、真っ直ぐに伸びた背筋からクロウを見つめる。
「本当に……」
クロウを見据えるコゥーハの目が、すっと開かれる。
相手からの介入を拒否する表面、白くかたい顔の奥底。揺れる濁った沼を連想させるような虹彩は、以前から抱いていた気味悪さを助長し、更に近づき難い空気を放つ。正しく底が見えない墨色の瞳に、クロウは魅入られそうになる。渦巻くそこあるのは無表情か、無感情か、はたまた違うものなのか――しかし好奇心から探りを入れれば、足を捕らわれ抜け出せなくなるであろうという警鐘が、関わるな、というベナウィの言葉と重なる。
拒絶と警告が手を引く中、それでもクロウは目を逸らすことはない。好奇心を諦めることによる後悔、とは少し異となる――引けば最後、自分はベナウィの側に立っていられなくなる……たとえベナウィが許しても、己がそれを良しとしない。その一点だけは耐えられそうにない。意地にも似た心情が、クロウを踏み止まらせる。
睨み返すクロウをしばし見つめた後。コゥーハは目を瞑り、ふっと吹き出した。
「少し変わった御方ですね」
いつもの調子で失礼な発言をするコゥーハだが、その笑みは異とし――昨日の微笑みに近いものだと、クロウは自然と口端が上がった事を自覚した。
微笑するクロウに首を傾げながらも、コゥーハは再び座り直した上で一つの提案をする。
「ところで副長。本日の夜は空いていますか?」
くっと首を動かしたベナウィを片手で制し、コゥーハは杯を傾ける仕草をクロウへ向ける。
「たまには二人きりで、というのは如何でしょう」
「たまには、ねぇ」
クロウは呟き、二人で呑もうという
「明日は早いらしいですけど?」
「それは、お優しい副長次第かと」
含みのある、やや嫌味の混じる言葉にクロウは軽く息を吐く。そんな相手を知ってか知らずか、にこにことした表情でコゥーハは大袈裟に肩を上下させる。
「ああ、お酒と肴だけで十分ですよ。寝具は必要ありませんから」
「誰がっ! つか、俺が準備するのか?!」
クロウの問いを無視し。という訳で、とコゥーハはベナウィに身体を向けた。
「隊長。今日は二人共、予定より早く終わらせて頂きたいのですが」
「良いでしょう」
クロウの予想とは異なり、普段と同じ顔でベナウィはあっさりと了承した。
「しかし。この法の改正案が出来上がるまで、ですが」
「そう固い事を仰らずに。もう少し、まかりませんか?」
両手を握りながら懇願するコゥーハの正面で、ベナウィの口元が上がる。同時に、クロウの背筋に寒気が走る。
「ほう。更に上乗せしてしても良いと。では、後ろにある書簡の――」
心底嬉しそうに指示を出すベナウィの正面で。筆の先端を向ける書簡の山を一瞥した、クロウとコゥーハの顔が青くなった。
冗談ですから真に受けないで下さい、とベナウィが咳払いをする数十拍の間。髪の毛一本から汗の一滴まで、二人の身体は微動だにしなかった。