うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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収斂

 厚い雲が空を覆いつつある早朝、洗濯物をどうするか悩む女官達の表情はいつもより暗い。彼女だけではない、忙しなく走り回る文官や武官の表情も思わしくなく、普段のキレが感じられない様子にコゥーハは頭を掻く。そんな中で、やけに慌ただしく彼女を呼ぶ声がかけられる。

「コゥーハの姐さん、ちょいと来てください!」

「……クロウ」

 騒々しいですね、と眠たい目を擦るコゥーハの手をクロウは強引に引っ張り、足早に廊下を歩く。少々の痛みを覚えつつも、コゥーハは焦るクロウの横顔をじっと観察する。

「一体。如何なされたのですか? 自分はエルルゥ様の所へ……」

「とにかく。とにかく、早く来てください! じゃねえと、総大将が――」

「聖上が?」

 握られた手に緊張感が混じる。切羽の詰まった、焦りを含む彼らしからぬ言動に、コゥーハは並々ならぬものを感じ取った。

「御病気ならば尚更、エルルゥ様を捜して参ります」

「あ、いや。そうじゃなくて」

 眉間に皺を寄せたまま、コゥーハは無言で立ち止まる。共に足を止めた相手の顔をしげしげと確認し、大体の事情が把握できたという顔を手で覆う。

 大体の想像はつきました、と溜め息を吐くコゥーハに、クロウは一瞬身体をびくつかせた。

「とにかく。総大将のところへ」

「嫌です」

 にべもなくコゥーハは返答する。

 何ゆえ自分が隊長の尻拭いを――ぶつぶつ呟くコゥーハの正面で、クロウはきっと相手を睨む。

「命令なんで。まあ俺が殺してでも連れて行きますけど」

 殺気立った空気が廊下に満ち、通りがかった数人の顔が真っ青になる。激しい音が際立つ中、落とした書類を慌てて拾う彼らを眺めつつ、至極落ち着いた様子を取り繕いながらコゥーハは髪をいじる。

「自分が申すのもどうかとは思いますが。殺したらむしろ状況は悪化します」

「確かに言い過ぎやしたか。とはいえ、最悪、首と腕のどっちかが繋がっていれば問題ないでしょ。コゥーハの姐さん、文字は両利きみたいですし」

「…………」

「あー……と、大将なら言いそうだなーってな」

 冗談ですって。と苦笑を浮かべたクロウの隣で、コゥーハはくっと腕を組む。

 別段、クロウの()()に驚きこそすれ腹を立てることはない。先日の組手以前よりも自分の懐へと踏み入っているようだと感じるものの、彼の接し方と人当たりの良さが絶妙であるためか、ほとんど不快になることはない。ただ、今日の彼の口調からして、本当に困っているのだろう、とコゥーハは瞼を擦る。

 目の下にある隈は濃く、顔は僅かに痩せ、故に微笑もどこか頼りない。無理をしているのだろう、はっきりと疲労が感じ取れる――が、真摯なクロウの視線は相手の心を強く打つ。頭を下げ、奥に隠れた瞳は決して色褪せていない……仮に、コゥーハが頑なに拒否をした場合の対応を用意しているかの如く冷静な様に、コゥーハは目を丸くし、降参の意を両手で表現した。

「分かりました。クロウのため、何より聖上の御命令とあらば致し方ありません」

 ほっと胸をなで下ろす相手に踵を返し、コゥーハはハクオロの書斎へと歩き始める。

「念のために申し上げておきますが。自分は、隊長に何度も注意させて頂きましたから」

「ん? まさか大将の看病を」

 冗談が過ぎますよ。一睨みで相手の口を噤ませ、コゥーハは小さく息を吐く。

「せっかくの休日を丸一日潰してしまった負い目も御座いましてね。風邪を召された事が分かったと同時に、応急処置を致しました。が、兵舎にある隊長のお部屋まで運んだ後は、腕の良い衛生兵に丸投げ――おほん、後を任せた次第です。その際、政務の状況は気になるでしょうが、数日はお休みを頂き決してせぬようにと耳に胼胝ができる程に言い聞かせたのですが……おや?」

 襟を正すコゥーハの後方で、クロウは懐から何かを取り出していた。コゥーハから説明を求められ、あぁ、とやや引き攣った笑みを浮かべる。

「コゥーハの姐さんが頑なに拒否するだろうから、持って行けって総大将が」

 特別手当、と説明したクロウの手には、一つの瓶が握られていた。透明の瓶に詰められているのは、日差しに照らされ黄金に輝く液体。彼の手に収まる小さなそれの中身をコゥーハが理解するのに、刹那の時間も要することはなかった。

「じ、自分がそのような、素敵な物で、簡単に釣れるような者だと、クロウは、聖上は、本気で思っていたのですか?!」

「……。ですよね、コゥーハの姐さんなら、いらないって言うと思って。現に――」

 慌てて懐へ入れようとするクロウの手をコゥーハは引き戻す。引き戻すどころか強引に奪い取り、光に照らされ輝く中身を吟味し始める。

「そ、そんなことは御座いませんとも! それなりの手当てであれば、ましてや聖上から頂けるものなれば、受け取らないわけには参りません、むしろ失礼というものです。それにこのハチミツは皇都にある老舗――」

 尻尾を振り乱し、ひっきりなしに耳を上下させ、紅い顔でハチミツ談義を始めたコゥーハから目を逸らし。クロウは笑いつつも、ひどく疲れた顔を手で覆った。

「いやー……もう隠す気ないでしょ」

 

 

 

 

 

 (オゥルォ)が政務を行う書斎の入口で、ゆっくりと靴を脱ぎつつコゥーハは微笑する。ひどく乾いた、カラカラした笑いが響く部屋の更に奥、書簡の山の谷間から部屋の主――ハクオロの枯れかかった叫び声が駆け抜ける。

「コゥーハ。笑ってないで。()()()を何とかしてくれ!」

「聖上。大声をお出しになると、書簡の山が崩れます。確実に御政務が長引くかと」

「――――…………」

 かたん、と机に突っ伏す音が、ハクオロの声がした方角から聞こえたものの、目を向けることもなくコゥーハは落ちかけた書簡を拾い上げる。そっと元の位置へと書簡を戻しつつ、冷静な視線で周囲の状況把握に全力を尽くす。

 書斎は決して狭くはない。棚を含めた全ての物を取っ払えば、二十人近くの寝床が確保できる広さはある。だが、床の三分の二以上の面積が、木簡で埋め尽くされている現状である。織りなす山々はコゥーハの腰下まであることから、数にして数百は下らない。書簡を巻く紐の種類からして、集まっている案件の分野はほぼ全て――政務のありとあらゆる物が集積している、とコゥーハは推測する。(オゥルォ)しか裁けない物から、分隊長でも捌ける些細な物まで、全て。おそらく、それらを理解し選り分けているベナウィが休んでいる事が要因の一つなのだろう、と眉を上げる。

(下手をすれば三日……いえ、今日を含めると四日分でしょうか)

 これが全て紙であれば圧迫感も和らぐのであろうに、と座ったコゥーハの隣、机に突っ伏したまま動かないハクオロが呻く。

「それは私も思うところではあるのだがな……」

「紙の大量生産が、資源的な問題で無理がありますから」

「それよりも手を動かしてくれ、頼む。木簡の山で窒息したくない」

 善処致します。とコゥーハは床に書簡を幾つか広げ、真っ新な木簡を左右に展開する。筆記具一式を用意したクロウに礼を述べた後、()()に持った筆を走らせ始めた。軽やかに滑る二本の筆同様に、軽くて柔らかな口を動かす。

「まさか。ベナウィ隊長のお風邪が、これ程までに長引いているとは」

 具合が悪いのであれば、無理に出てくることはないだろうに。ハクオロの声は、墨に浮かぶ波紋よりも小さい。半分本心で半分嘘なのだろう、とコゥーハは心中で苦笑しつつも、相手の話に耳を傾ける。

 ハクオロ曰く。朝一番に顔を合わせた時から、ベナウィは既に体調が良くないように見えた。顔にはそれ程変化が見受けられないものの、躰は時折ふらつき、返答もやや遅い、普段とは明らかに違う……エルルゥも同じ見解で心配し、今日は休んだ方が良いと提案した。だが当の本人は大丈夫と言い張り、再度エルルゥに促されるが「せめて朝議だけでも」と折れる事はなかった。結局、ベナウィは朝議を()()()()こなしたものの、朝議を終えハクオロの書斎に入った瞬間に倒れた。現在は皇城内の一室にて、エルルゥに付き切りで看病されているとのことである。

 エルルゥが変に抱え込まなければ良いのだが。息を吐くハクオロに同意しつつも、コゥーハは目の前にある案件を処理する。やってきた文官に書簡の山の一部を指し、それらを各部署に持って行くようにと書き終えた書簡と共に手渡した。文官を見送ったコゥーハの横顔を一瞥し、ハクオロは強く判を押しつける。

「心なしか、楽しそうだな?」

「いえいえ。聖上とエルルゥ様の御前で倒れたのであれば、アレにとって良い薬になったのではと思っただけです。尤も、その事に責任を感じて切腹なり――」

「現実味があり過ぎる冗談は、笑えんからやめろ」

 処理を終えた書簡をやってきた女官達に渡し、ハクオロは血走った目元を擦る。エルルゥ様からです、と差し出されたお茶に礼を述べ、そっと飲み息をつく。その隣へ、クロウはすまなさそうな顔で新たな書簡を積み重ね、おもむろに口を開いた。

「それで。大将の容態は?」

「命に別状はない。だが、エルルゥが言うには絶対安静、だそうだ。とはいえ、本人は今すぐにでもと部屋を飛び出しそうになったとかで、頭が……」

 この際だから、エルルゥにきっちり灸を据えてもらう事にするとして……。と、ハクオロは書簡に手を伸ばし、曇った瞳で新たな政務に取り掛かる。

「ベナウィが風邪をひくとは、思わぬ誤算だった」

 自分も同意すると頷きつつ、コゥーハも頂いた茶で一息入れる。

「アレ――いえ。隊長は、それはもう、伺う限りでは、御自身の体調管理に関しては徹底していらっしゃいますので。緊急の用が無い限り、ほぼ決まった時間に起床し、食事を摂り、仕事をし稽古をし、就寝される。遅刻などあり得ない。ですよね、副長?」

 え? と突然話を振られたクロウは手を止めて呆けたが、ハクオロに指で注意されすぐに作業を再開する。

「朝議に欠席する、ましてや遅刻するってのは、一度も見たことないですねぇ。食事も決まった時間に食べてますし。体調がすぐれなくてってのも、良く良く考えたらありませんぜ。ホント、遅刻欠席早退なんてのは、恐ろしく無縁な人っすねぇ」

 本当に人間なのか? とハクオロがぼそりと呟くと、コゥーハはククっと笑った。

「はい。ただのヒトです」

「……本当か?」

 はい、とコゥーハは小さく首を傾げる。

「聖上は、アレを何だと思っていたのですか? あぁ。聖上に仕事を運んでくる禍日神(ヌグィソムカミ)でしょうか」

「そうだ。ああ、全くもってそう――あ、いや! 違う。絶対に、断じて違うぞ」

 それほど断言されなくとも、とコゥーハは両耳を下げた。手を止めている彼女に注意を促しつつ、ハクオロは声を張り上げる。

「と、とにかく。だ」

 三日だ。と、崩れかけた書簡の山を押さえつつ、ハクオロはコゥーハを注視する。

「エルルゥが言うには。三日間は絶対に休養を取らせるそうだから、その間まで()()()()必要がある。だからコゥーハに――」

「現在の自分には無理です」

「よし、では早速対策を――――…………はぁ?!」

 動揺したハクオロの肘が書簡の山へと当たり、木簡の幾つかが落下する。ハクオロの手が必死に支えるも虚しく半壊し、彼の悲痛な叫び同様、机の上で大きい音を立てる。

「ちょ、ちょっと待て。待ってくれ! つまりコゥーハは、私に死ねと言うのか!?」

「そうは申しておりません。現在の、自分やクロウ副長には無理だと、いうことです」

 別の場所で崩れた山を整理していた、クロウの眉が上がる。

「悪かったっすね」

「違いますよ。立場上、副長にも無理な案件が数多くある、と申し上げただけです」

 権限の違いというものでしょうか、とコゥーハは尻尾を垂らし、作業を続けながらも意見を述べ始める。

 政務の全てが集まってきているとはいえ、現状でコゥーハやクロウが処理して解決できる案件は一割も満たない。というのも、九割近くの案件は(オゥルォ)もしくは唯一の侍大将であるベナウィの目を通り許可を得る形を取っているため、仮に内容が副長の一声で解決できる程度であっても、侍大将の許可がなければ動かない、保留となって動かない政策も存在する。これはケナシコウルペ時代、インカラ(オゥ)時代にベナウィが他の側近達の目を出し抜いて作った、半ばベナウィが好き放題できるようにする制度であるが、トゥスクル建國後も改正されることなく受け継がれている――他の政策が優先事項だった点、また政策を円滑に進めることやハクオロとベナウィの裁量の良さ故に役人達の不正を防ぐのに一役買っていたことが、継続させている理由と思われる。尤も、その要たる本人達、特にベナウィが倒れた場合を一切考慮に入れていなかったために、こんな事になったのではとコゥーハは意地悪く笑う。

「此処にある五分の一はおそらく聖上が処理された物でしょうが、誰も取りに来る気配はない。これは絶対的な人員不足、も否めませんが……停滞している政策を各所に説明し納得させるために奔走しているためかと。またそれを統括する者もいないため、混乱状態が続いていると思われます。ひょっとすると、聖上が現在処理しなくても良い案件も」

 そこまでコゥーハが言ったところで、ハクオロの手元にある山が瓦解する。埃と木板が舞い立つ中央、机にしがみつき離れようとしないハクオロにコゥーハは謝罪し、クロウは溜め息を吐く。

「だったらどうするんで? だとすると、このまま総大将を生贄に――いえ。何でもありやせん、今のは忘れて下さい」

 身体が痙攣しているハクオロに呻き、クロウは深々と頭を下げる。尚も相手に気を遣う言葉を続ける彼を一瞥し、コゥーハは――今日は無理でも、と言いかけ、心中にしまい、明日の仕事を()()にする妙案がないものかと頭を捻る。

「ほぼ同じ立場であるオボロ総隊長にやって頂ければ、それに越したことはないかと思います。そう、例えば」

 無理だ。とハクオロとクロウが即答し、コゥーハは首を傾げる。

「いえ、しかし今までにも幾つかの案件を解決してきたと伺って」

 無理だ。きっぱりとハクオロは言い放つ。

「……全部。ベナウィと私がやっていたんだ」

 コゥーハが伝え聞いた物は全部尾鰭が付いた話であり、実際のところオボロは建前みたいなものだ、とハクオロは半ば殺気だった赤い目で小さく呟く。

「やっていたんだ。全部」

「さ、左様で御座いますか。しかしながら、であれば……今回は隊長が御不在であるため、溢れた一部書簡が他方へ流れているかと思われます。総隊長が扱える物も少なからず御座いますから。故に今頃は」

 コゥーハの推測は、廊下からやってきた足音によって掻き消される。激しい振動は次第に大きくなり、駆け足の終着点たる書斎に彼らが到着した直後、最も大きな波で全ての書簡を薙ぎ倒した。

 足の踏み場が消失した部屋の有様に目もくれず、血相を変えてやって来たドリィとグラァはハクオロへ向かって叫ぶ。

「兄者様! 若様が! 若様が大変なことに!!」

「兄者様! 若様を! 若様を救って下さい!!」

 木と墨の香りと埃が交ざる空間で、ハクオロとクロウは驚く風もなく頭を抱える。

「やはりか」

「そのようで」

 とにかく。とハクオロはドリィ達に命令する。

()()のオボロと書簡の山を、こっちへ運んできてくれ」

 はい、今すぐに! とドリィとグラァは言い残し、来た道を引き返していった。彼らの様子に首を傾げるコゥーハに眉を下げ、クロウは起き上がったハクオロに質問する。

「で。結局どうするんですか?」

「……」

 ハクオロはしばし熟考し、おもむろに自身の髪を弄る。「若様とは……」とぶつぶつ呟くコゥーハを一瞥し、わざとらしく咳払いをした。

「今日は。捌けるものだけ行い、乗り切るしかなかろう。あの様子では、今日は全く役に立ちそうにないしな」

「明日以降は」

 眉間があると思われる場所を叩きつつ、ハクオロは疲れた様子で深く息を吐く。

「時期が早い――という訳でもないのだが、致し方ない」

 顔を上げたコゥーハを睨み、ハクオロは彼女の手元を力なく指差す。

「コゥーハの提案に半分乗ろう」

 いや、ですがね。と額に手を当てたクロウに、ハクオロは大きく首を振る。

「ああ、絶対に無理だな。だから半分だ。あいつにも出来るだけの事をやってもらう」

 でなければ私は死ぬ。はっきりと聞こえた(オゥルォ)の一言は、紛れもなく本心なのだろう、とコゥーハは垂れた尻尾を床に滑らせた。

 

 

 

 

 

 ベナウィが倒れた日の翌日、朝議から半刻した後。一人の男性に付いて行く形で、コゥーハは皇城の廊下を歩く。やがて相手が足を止めた部屋の前へ立ち、暗い雰囲気立ち込める入口からそっと中を覗く。

 此の場所は、普段であれば殺風景なのです、と説明した歩兵衆(クリリャライ)副長に、コゥーハは彼の丁寧さにつられる形で頭を下げる。そう畏まらんとってください、と若干間延びした声の調子で相手に手を握られ、ゆっくり顔を上げた視界に簡素な寝具が映る。

 目を丸くするコゥーハに、ああ、と男は――ニソルは細い目を更に細めて部屋へと促す。

「此処は確かに。オボロ()()()の書斎で御座いますが、同時に寝室でも御座いますゆえ」

「しかし、寝室は……書斎とは別に、皇城内にもう一部屋、聖上から賜ったと聞き及んでおりますが」

「はい。そのお部屋は、オボロ様の妹であらせられる、ユズハ様のお部屋になります」

 政務の効率を上げるためなのか、総隊長である二人には皇城内にそれぞれ書斎と寝室がハクオロから与えられている事になっている。しかし、オボロはその一部屋をユズハのために譲っている。ユズハの病気はエルルゥにしか診ることが出来ないこともあるため、ハクオロはユズハのための部屋を別に用意していたのだが、オボロはそれを拒否した経緯がありまして、とニソルは語る。

「おそらくですが。ハクオロ様、いいえ、聖上に御迷惑をお掛けしたくなかったのかと」

「ふむ」

「尤も。側付きが短くない私と致しましては。ベナウィ侍大将も寝室を御返上されている事が、気になって仕方なかったという印象の方が大きいかもしれませんが、ねえ。それを聞いて、一度はオボロ様も兵舎に身を置くと言い出した事も御座いましたし。とはいえ兵舎と皇城の距離を考えると……非常に失礼ですが、ユズハ様が大事になられた時の事もありますゆえ、現状に落ち着いた次第です。しかしながら……何故かは分かり兼ねますが、ベナウィ侍大将が兵舎に身をおいておられるゆうのは、先の戦の事を引き摺っておられるという見方でよろしいのですか、ねえ?」

「……。自分めにお尋ねになっても答えは分かりませんですよ、ニソル殿。本人に直接お聞き下さいませ。ですが、おそらく兵士達の怠惰を是正する意図があるのでは、と個人的に」

 正直言うと、安らぐ時間が少なくなるからやめて欲しいのだが、とコゥーハは両耳を下げ、急遽こしらえられたという簡素な机の前で正座した。ハクオロの書斎同様に連なる書簡の山を見渡しつつ、筆記具一式を揃え始める。

 本当に飾り気の無い部屋である、とコゥーハは心中で息を吐く。広さや構造はベナウィの書斎と同じだというのに、書簡や寝台、執務用の机を除けば、部屋の主の私物はほとんど見当たらない。湯呑が数客置けるくらいの台に、手元を照らす発光石の台が二台、刀を手入れする道具、コゥーハが目に出来る物はそれだけである。寝台近くにある台には引き出しが備え付けてあるからして、筆記具か茶器があるのかもしれないが、仮にそうだとしてもあまりに少な過ぎるのではとコゥーハは眉を上げる。故に、ベナウィの書斎よりも圧倒的に広く感じられる、というのがコゥーハの抱いた部屋の印象である。

 周囲に見とれているコゥーハにニソルは困ったように眉を下げるも、すぐさま手を叩いて相手の思考を引き戻す。

「はいはい。お部屋の御鑑賞は、またの機会に。それに、オボロ様、そういつまでも、机にへばっておられずに」

 ニソルが視線を向けた先、コゥーハは後を追って振り返る。そして、ある程度の予想通りの光景に耳と尻尾を揺らす。

「あにじゃあ~……」

 呪詛のような低い声が、机に突っ伏したオボロの全身から這い寄ってくる。おどろおどろしく響く声は、決してその場にいる二人を向いてはいないと思われるが、部屋の中を困惑の空気で満たしている原因に他ならない。

 自分が入ってきた時から、ずっと同じ言葉しか言っていないようだが、とコゥーハは尻尾を揺らし、前々から思っていた事なのだが、と切り出す。が、ニソルは理解した風に手を上げ相手の言葉を制す。

「はい。兄者様、と仰っている方は、ハクオロ様のことで御座います。数々の経緯が御座いまして、オボロ様はハクオロ様と義兄弟の契りを交わしまして。おや、意外そうなお顔」

 お気に障ったのであれば、御二人に謝罪を。とコゥーハは姿勢を正す。

「もう一つ、ドリィ・グラァ両隊長が若様、とお呼びになるのは」

「はい。オボロ様のことですよ」

「やはり。しかしながら、若様、というのは些か不思議な気が致しますが」

「その辺は、込み入った事情であります故ねえ。また今度、ということで、お一つ」

 はぐらかされたと心中で思いつつも、コゥーハはそれ以上の質問をすることはなかった。それよりもやるべき事が、文字通り山ほど存在する、と書簡を開く。これらを今日中に終わらせ、かつ他にやるべき事があると。

 ニソルはコゥーハに軽く頭を下げ、そっと席を立つ。死んだように動かないオボロの側に座り、耳打ちするようにそっと口に手を添える。

「オボロ様ー。ほらー、ユズハ様も、頑張ってください、と仰っていたではありませんか。応援しています、と。私も妹が一人おりますゆえ、兄と致しましては、妹の応援は無駄に出来ませんかとー」

 茶色の髪に隠れていた、オボロの耳が僅かに動く。直後、オボロはゆっくりと起き上がり、精悍な顔つき――若干泳いでいる目の輝きは全く感じられないものの――で机の書簡に向き合う。

 自分がやって来てから一度も身体を起こさなかったオボロの変化に感心するコゥーハに、ニソルは静かに首を振る。

「いえ。これで書簡三枚、案件にして二案が限界かと思います」

 ドリィ様やグラァ様であれば、もう少し気の利いたお言葉を掛けられると思いますなれば、とニソルは苦笑する。そして、コゥーハから書簡を受け取りつつ、嬉しそうな表情で頭を下げる。

「改めまして、コゥーハ殿が来て頂き助かります。侍大将の補佐というのは初めてなものでして」

 数刻前の朝議にて、オボロは侍大将の地位に就任する形となった。これにより、侍大将か(オゥルォ)にしか裁けない事案がオボロの方に流れる事となる。しかし、いきなりオボロにそれらを行えというのは土台無理であるため、(オゥルォ)の補佐の経験があるコゥーハを暫くの間歩兵衆(クリリャライ)副長、ニソルの部下となる歩兵衆(クリリャライ)一番隊へ異動させ、上官である彼の命令でオボロの補佐をさせる事となった――というのは、現時点においては、建前である。実際はこの数日の間……ベナウィが復帰するまでの間、オボロに代わって案件を処理するように、とコゥーハはハクオロから内密に命を受けている。しかし今後こういった同じ事が想定されるため、ベナウィが戻ってきた後もオボロを現在の地位に留める事とした上で、オボロやニソルに色々教えて欲しい、とも同時に命令されている。

 量はともかく、やることは総隊長の時とさほど変わりませんよ、と半分の冗談を挟みながら、コゥーハは終えた書簡の山を隅へ運ぶ。

「聖上は。これからもオボロ様に侍大将をお任せになるとの事ですから、大変だとは思いますが」

「いえいえ。私はそれ程苦では御座いませんゆえ、お気遣いなく。それよりも、二人の侍大将という状況になった事で、軍内部が割れそうな気は致しますが……」

 コゥーハの耳と眉がくっと上がる。

「そのお話は。大事なこと故、またの機会ということで」

「仰る通り、ですなあ」

 ピンとした緊張が部屋に張られる。が、それは一瞬で消える。申し訳ないと各々謝罪し、ぐったりと再び突っ伏す上官の様子に苦く笑う。気を取り直すように息をつき、ニソルは眉を下げつつ一つの書簡をコゥーハに見せる。

「して。この書簡についてでありますが――」

 あっという間に時が過ぎ、一通りの説明を終えたコゥーハにニソルは礼を述べる。手元にある茶で一息つき、そういえば、と思い出したように手を合わせる。

「現在の騎兵衆(ラクシャライ)は、大丈夫で御座いますのかねえ? 人の心配している暇なんて私にはとてもありはしませんが……ベナウィ侍大将が不在、コゥーハ殿も抜けた現在、クロウ騎兵衆(ラクシャライ)副長お一人で全てをおやりになっているとか。しかも、聖上の命で聖上の補佐もされているわけでありますし」

 さぁ。とコゥーハは息を吐き、死んだ魚のような目をそっと隠す。

「聖上を生贄にしようした者の末路など、自分が知る由もありません」

 廊下から入ってきた風に微かな悲鳴が交っていた気がしたが、コゥーハは聞かなかったという事で収めた。

 

 

 

 

 

 いつしか雲が晴れ、窓の縁が茜色に染まり始めた頃。部屋からすっかり書簡の山が消え去ったことに感嘆しつつも、コゥーハは渡された木簡へ目を通す。

「これで最後ですね。……はい、結構です。お疲れ様で御座います」

 コゥーハの一言に、上官二人がどっと息をついた。謝辞も文句もなく、各々最も楽な姿勢で倒れている二人にコゥーハは目を丸くし、申し訳なさそうに尻尾を揺らしながら補足する。

「大体の事は、本日の流れの通りに。お願い申し上げます。御二人の余裕に応じて徐々に増えていくかもしれませんが、それは聖上やベナウィ侍大将が良くして頂けるかと思います。後は。オボロ様には朝議に必ず御出席されるようにして頂ければ」

 コゥーハの予想通り、オボロは怪訝そうな顔で呻いた。

「な、なんで俺がそんな面倒な事を――」

「面倒、という理由だけではさすがに。侍大将が朝議に参加されないとなると、下の者達に示しがつかないことも御座いまして」

 尚も納得いかないとオボロは首を振るが、最終的には「聖上の御命令で御座いまして」という言葉で渋々了解の意を示した。強引ともいえる最後の切り札――とはいえ、ハクオロには「納得しなかったら、そう伝えるように」という旨をコゥーハは受けていたが――を切る形となってしまい、自分もまだまだ駆け引きが上手くないものだな、とコゥーハは心中で苦く笑う。

「ではこれにて」

「待て」

 オボロに呼び止められ、コゥーハは上げた膝を再び床につける。その正面で、伸びをしていたオボロが相手を見下げる。

「躰がなまった。ちょっと付き合え」

「……」

 立ち上がったオボロが佩く二振りの刀が、冷たい音を響かせる。同時に、鋭い視線がコゥーハの五感を刺す。

 相手の言わんとする事は、コゥーハは容易く理解できた。だが、普段であれば軽く受け流し断るところを、上手い言動に持ち込めない――上手く持ち込めないであろう、という直感は、身を持って知る事となった。相手に何故かと問えば、仮にも自分の配下に加わるのだから、実力を見ておくべきだろと答える。今から書簡を届けて後処理をすると答えれば、ニソルにやらせれば良いと返ってくる。用意されたかのような、綺麗な不自然が頭を過る中、冗談や話題の転換を画策するも、相手の威圧が思考を潰した。クロウのように、のらりくらりと接しようものなら、真っ先に叩き斬られる……同時に、侍大将とは事を荒立てたくはない、という打算が加わる。

 もう一つだけ宜しいですか、と前置きし、コゥーハは質問する。その問いに、ああ、とオボロはやや得意げな笑いで答えた。

「兄者には許可をとっている」

「…………。ならば、場所も人払いもされているのでしょうね」

 コゥーハは己の腰に手をやる。剣の鍔が擦れる音が満ちる部屋で尻尾を揺らし、鋭くなった目をもう片方の手で覆った。

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