うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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撞着

 先端が欠けた刀が真っ直ぐな軌跡を描き、剣戟の響きは二人しかいない場所に散った。

 暮れなずむ広場に、各々の浅い呼吸が落ちる。絶えず砂が流るる場所に、光と影が曖昧な境界に、吸い込まれるように汗が一滴消えていく。

 立会人もいない中で静かに火蓋が切られ、槍と二刀、軽く交わること五回を超える。十歩強の距離で対峙するコゥーハとオボロの表情は共に崩れない。眉間に皺を寄せ、激しい闘争心を瞳の奥底で燻らせたまま少しずつ場所をずらしていく。暗がりのせいなのか、踏みしめた足の両側に発生した土煙は夕日に照らされることなく、緊張に包まれた空間へ溶け込む。直後、穂先を僅かに下がったと同時に、オボロが仕掛けた。

「はあああっ――――!」

 二拍も許さぬ速さで迫った相手に、コゥーハの眼光が鋭くなる。オボロの左手、逆手に持つ小太刀の攻撃を柄で押し返し、コゥーハは躰を引く。柄の中央部分でもう一振りの突きを、ぐっと上から押さえつけた。刀はコゥーハへ向かう軌道から逸れる、が、相手の……オボロの表情に余裕が見えた。

 強い力で押さえられていた刀が、地面に突き刺さる。その真上へとオボロは地面を蹴った。柄と刀が拮抗する、力の向きが変化した正に一瞬――コゥーハの首元へ向かって、小太刀が振り下ろされる。

 貰った、と聞こえたような気がしたものの、コゥーハは努めて冷静に息を吐く。

 左手を穂先部分へと滑らせ、コゥーハは半歩踏み出す。間髪入れず、刀との接点を軸として槍を回転させ、相手の切っ先を石突き近くで受けた。反動を利用しつつ左足を大きく引き、穂先を大きく後方に下げる。次の攻撃態勢、狙いは一点、飛び退ったオボロの着地地点を睨む。

 地面すれすれを辿った槍の先端、切り上げるように疾走するも冷たく宙を切る。オボロはその上を高々と跳躍し、コゥーハの空いた背中へと迫った。真っ直ぐな、しかし決して遅くない攻撃、だが、コゥーハの表情がふっと緩む。

 低い位置を通過した穂先が、主の足を軸にして切っ先を変える。衰えの感じられない速さをそのままに駆け抜け、相手の得物をしっかりと捉える。

 切っ先をずらし相手の上を取り、コゥーハは踏み出した一歩に体重を掛けた。相手が望む、本気の一撃を。

「はあっ――!」

 槍は悲鳴を上げるも、コゥーハは構わず柄に強い力を込める。力の反動を利用して距離を取られぬように、しかし近づき過ぎぬ場所へ目がけて相手を叩き付けた。轟音と共に首元の額当てが落下し、無数の砂が荒い風に乗って渦を描く。視界が悪いその中央で、槍を構えながらコゥーハは息を吐いた。

「降参致します」

 砂でくすんだ墨色の短髪が、折れた槍の柄と共にすとんと落ちた。

 槍を持っていた右手を、コゥーハはゆっくりと上げた。その手を後方へと運んだ先――露わになった、首元にある刀の切っ先に苦く笑う。

 コゥーハが狙った場所よりも近い、地面に刺さった槍の隣。膝を付きつつも鋭い視線を向けるオボロから、コゥーハはゆっくりと距離を取った。

「これは鍛錬の一環で御座います故」

「仕合なら、腰にある物を抜くのか」

「ですが、やはり負けです。試合は規則がありますので」

 左手を離し、コゥーハは両耳を下げつつ半歩踏み出す。だが、薄い苦笑いの裏に隠したはずの動揺は、直ぐに滲み出た。

 先日のクロウとの組手と同じ気味の悪さが、背中にやった左の指を震えさせる。剣を抜く事はなかったが、一件と同様、コゥーハは無意識に手を動かしていた。左手だけではない、次の一手を予想してたかの如く半歩後退していた躰。振り返るだけで、手の平の汗は尋常ではなく吹き出し、滑る指は更に大きく揺れていく。

 易々とはいかないと考えていたとはいえ、勝ちにいったのだ、とコゥーハは唇を噛む。現在の実力では、オボロの素早い動きには付いていくことは難しい。事実、相手は想像以上の速さで攻め立てた――動きは追えるが、躰は付いて行かず、柄で受け流すのが精一杯である。故に間合いの取り方は最悪、終始オボロに翻弄され続けた、コゥーハの考えた事は、単純に一つ。やや動きの鈍い攻撃を見せかけ、相手の大振りを力で対抗する。上手くいけば相手を弾き飛ばして距離を作り、あるいは自分の得意とする場所へとねじ伏せ、反撃の一手を講じる前に切っ先を急所へと突きつける。しかしながら、オボロに受け止めた力の重点を上手くずらされたことで予想がずれ、同時に槍は二つに折れた。後者は珍しくない事だが、前者はコゥーハの判断と技術の甘さ……実力不足が招いた結果である。

 次の事象を考える隙などあり得ない。コゥーハは心中で反芻するも、動揺から生じた悪寒は消えない。むしろ先日ベナウィが詰問してきた記憶が妙に引っかかり、欠落した幾つかの過去の記憶が寒気を更に助長する。

(……)

 ふらついた頭を支えながら、コゥーハは思考を中断した。体調がすぐれないのか、と視界にチラついた"淡い朱色の光"に眉を上げ、黄色の目を咄嗟に隠しつつ即席の微笑で話題の焦点をずらす。

「お聞きしている言動とは違い、オボロ様は真面目な御方のようで」

「っ、てめえ、馬鹿にしているだろ?」

 いえ、全くとコゥーハは即答する。口元を押さえながら隅へ移動していく相手に首を傾げつつも、ややおぼつかない足取りを追う。

「確かにこのような言動ゆえ、誤解なさる方もいらっしゃいますが。決してオボロ様を」

「っぐ、その白々しい呼び方をやめ――――っぷ……」

 木陰でうずくまり、肩を上下させているオボロに、コゥーハは目を丸くし、やがて尻尾を垂らした。 

「……。了解致しました。ですが、こうも、吐くほどに拒絶されたのは、オボロ様が初めてなもので。自分めの心中は少々複雑と申しますか」

「お、俺は決して吐いてなど――――っぐ……」

 確かに、オボロは吐いていない。だが、吐き気が止まらない様子にコゥーハは相手の背中を軽く擦る。薬師(くすし)らしく、二日酔いではないか等々の質問をやんわりと訊ね、別段問題がないという結論を出したところで、複雑な感情が交ざった息をついた。水を飲めば落ち着くのではと促しながら、腰にある小さな徳利を渡す。

 本当に辛かったのか、コゥーハから受け取るや否やオボロは中身を呷り、むせた。

「さ、酒を渡すやつがあるかっ! というか、さっきからわざとやっているだろっ!?」

「まさか。決して心の底で弄りやすいお顔をされているなどと――いえ、これはお酒ではなく、お酒の味付けをした水で御座いまして」

 丁寧に説明を繰り返すが、相手が一向に理解して貰えない様にコゥーハは頭を掻く。しかしやり取りの中でオボロが落ち着きを取り戻し、先程のような緊張感が薄まりつつある現状にふっと微笑をこぼした。

 結局、オボロは納得しないまま「もう良い」と打ち切り、地面を指差しつつコゥーハにきちんと座るよう指示した。居住まいを正しつつ、無念で揺れる相手の尻尾と女性らしからぬ手をしげしげと見つめる。

「槍は誰から教わった」

「オボロ殿――さん――侍大将……でも御不満となれば。自分は何とお呼びすれば」

 普通に呼び捨てで良いだろ、とにべもなく言ったオボロに、コゥーハはひどく眩暈を覚える。クロウの場合も似たようなやり取りがあったものの、今回は相手が妥協を許す様子は微塵も感じられない。一応の提案と自分の事情――ベナウィに殺されるかもしれない、と呟くも「知るか」と尤もな言葉で一蹴され、策が尽きたコゥーハは相手の要求をひとまず呑む他に道はなかった。

「ベナウィ侍大将と同じ流れを組む流派の師範から教わりました。しかしながら、槍の師はベナウィ侍大将では御座いません」

「なら誰が……あ、いや」

 何でもないと口を噤んだオボロに、コゥーハは耳を上げた。幾つかの憶測――主にベナウィに関わる物を胸中にしまいながらも、冷静さに欠けている相手に向かって苦笑する。

「師は――そうですね。真っ直ぐで、とてもお優しい御方でした」

「……」

「本来であれば、女に武器は似合わぬ、刀は触る必要もないだろうと。優しさと同時に頑なな一面も御座いましたけれども。ベナウィ様曰く、先代の……道場の前身となる孤児寮をお建てになった御方の意思をしっかりと後世に残された御仁であったと」

 俯くオボロを一瞥した後、コゥーハは刺さったままの穂先へ手を伸ばし、そっと地面から引き抜く。

 コゥーハが槍を教わるきっかけは、コゥーハ自身が望んで頼み込んだ訳でも、ベナウィに勧められた理由でもない。コゥーハが力の制御を上手く出来ていないと判断したアトゥイが、当時の師範に相談を持ちかけたことに発する――事実、特に当時はコゥーハは強すぎる力を制御しているとは言い難く、度々物を壊しては周囲から痛い視線を向けられていた。故に、教わった物のほとんどが槍を通した躰の使い方であり、全体の約半分は体術であったといっても過言ではない、とコゥーハは息を吐く。 

「槍の技術は、大体が師とベナウィ侍大将の見よう見まねで粗末な物。また、鍛錬しようにも体質が災いすることもあり、上手く参りません。力任せに振ればに頼り過ぎれば折れ、力を緩め過ぎれば、躰の均衡が崩れてやはり折れるか打ち込まれる。クロウ副長に頼めば、鍛錬にお付き合い頂けるのでしょうが……」

 数回刃を交えてコレでは、財政を圧迫してしまう。穂先を目の前に置きつつ、聖上にも御迷惑をお掛けする訳にも参りません、とコゥーハは建前を使う。

 本心を言えば、コゥーハは、ただただ怖いのだ。腕力のある種族やヒトは存在するものの、コゥーハと同じ種族の者で自身と同等に近い力を持つ者をコゥーハは目にかかった事がない。故に、それが発露すれば己が奇異な存在である事を自身や周囲が認識せざるを得なくなる。こと"アレ"に関してならば、黙っているなり目の色は見間違いだろうと誤魔化すなりできようが、誤って家の支柱と同じ直径の丸太を折ってしまえば、言い訳も苦しい。実際、ここ半期で壊した武器の数々の方便も――ベナウィやクロウが様々な方法で働きかけているものの、限界が来ている。いつ公になるのか、いつ自分へ向けられる眼が冷たいモノへと変化するのか……慣れた、と吐く一言はいつも軽く簡単に吹き飛ぶ。

 正直なところ。多少の事情を知るエルルゥやハクオロ、クロウがいつその態度を変化させるのかと、コゥーハは時折怯えに近い感情を抱く事がある。自分に関われば、関わるほど……そしてそれは、薄々感づいていたであろうオボロも例外ではない。

(いつから、なのでしょうか)

 八方美人は自他認めるところではあるが、全くもって、己が都合の良さを嘲笑する、とコゥーハは首元へと手を伸ばす。そして、額当てと外套が無いという違和感に、更に嗤った。

 地面に置かれた穂先の反対、折れた柄の部分を睨むオボロに、コゥーハは拾い上げた額当てを付け直す。

「お金を貯め、自分にあった武器を捜し求めるまでは、少なくとも同じように()()()()所存です」

「気に食わんな。兄者にもそうやって隠していくのか」

「聖上がお求めになるのであれば、いつでもお応え致しますとも。されど、そう簡単に習慣を変えることは出来ません故」

 後方の木陰から目を逸らしたコゥーハの正面で、オボロは突然立ち上がった。背中にある刀の柄を握り、それを相手に見せつつ静かに歩き始める。

「もう一回だ」

「ですが」

「槍と腕っぷしは分かった。だが、さっき見えた黄色の眼と……腰にある物は飾りじゃないだろ」

 見据えられている一点を、コゥーハは咄嗟に手を伸ばす。柄と手の平の間を伝う汗をひしひしと感じつつ、墨色の眼を前髪の下に隠した。

「……」

「あんたは弱くない。適当に木簡も処理するし、兄者が使うのも分からんでもない」

 だが、全くもって気に食わん。静かに刀を抜き、オボロは切っ先をコゥーハへ向ける。鋭い輝きが放たれた十数歩先、広場の中央に戻ってきたコゥーハの心を切りつける。

「手の内を晒すなら、全部晒せ。半端な歩み寄りなんぞ、胸糞悪い」

 立ちくらみを起こしかける程の、清々しい直球。受け止められず、コゥーハはその場で硬直する。こめかみを這う一滴が動きだし、乾いた地に吸い込まれていく。口に入った砂の粒子が不快な音を噛み、思わず呟きと共に吐き出した。

 怖くはないのか、という言葉に、はっ、とオボロは鼻で笑う。

「何かに怯える今のあんたに、恐れるどころか、負ける気がしない」

「…………」

 随分と下に見られたものだ、とコゥーハは心中で苦笑する。だがそれ以上に、ふつふつと沸いた感情を抑えられずに表出させる。

「分かりました。そこまで仰るのであれば……お望み通り」

 コゥーハは左手にある指輪を外し、同じく外した額当てへと結んだ後、相手へ向かって投げた。抜き身の小太刀で器用に受け取り、しげしげと指輪を見つめる相手を睨む。

 図星を突かれた事を隠したいのか、先程の敗北が悔しいのか、甘く見られていることが堪えないのか……らしくもない、相手へ抱く怒りの所在をコゥーハは探る。おそらく、相手にとっては――オボロにとって、コゥーハがどんなに異常であろうと関係なく、ハクオロの近くにいる得体の知れぬ存在を見定めたいという意思が伝わってくる。故に、コゥーハという存在自体を見ていない事が気に食わないのだろうと己を嗤う。加えて、裏表無く対象と真正面からぶつかろうとする様は、自分が逆立ちしても出来ぬ事……羨望に混じる焦げたモノが駆り立てる。

 過去に抱いた妙な既視感がコゥーハの片隅で引っ掛かるが、オボロの軽い一言に思考が吹き飛ぶ。

「あんたって案外、気が短いんだな」

「この場の勢いで申し上げましょう。調練の度に、ベナウィ総大将の煽りに全部乗っていらっしゃる貴方だけには、言われたくありません」

「ぐ。あいつやっぱり――」

 矛先を変えたオボロに口元を緩ませ、コゥーハは己が刀身を鞘から離していく。質は悪くないが、安い剣の擦れる音が向かってきた風に逆行する。赤い陽に照らされる傷みと悲鳴を上げる相手に、これまでの活躍に対して小さく謝辞を述べた。

「剣の扱いは、知り合いが付け焼刃で身に付けたものを教わっただけですので」

「ほう。そいつは強いのか?」

「ただの天才学者が、書物片手に編み上げた程度のものです。しかし、割と強い、かと」

 彼の奢り諸共、叩き斬って下さいませ。宣誓でもするかのように、コゥーハは切っ先を真上へと掲げる。

 右足で一歩踏み込み、輝く先端を躰と垂直に振り下ろす。シュッと流れた風に触発され、躰の動きが静止した。鈍くも鋭い刃は一分の狂いも無く目標を捉え、離さない。

 槍よりも恐ろしく躰に馴染む、奇妙だ、とコゥーハは思う。同時に、己の自我が変化していくことに焦りも抱いていく。彼の構えを取る時は、大抵二つ……抑えられない程に気分が高揚するか、あらゆる感情が得物へ吸われていき無感情になるか。いずれにしても定めた目標が停止するまで続き、上手く衝動を制御することが出来ない。端的に言えば、やり過ぎる。故に他の構えを模索しているものの、一からの鍛錬故に腕はまだまだ弱く、違和感ある立ち振る舞いと武器の破壊は数知れない――故にコゥーハは普段から、ある程度の制御が出来る槍を使用する事が多い。

 冷たくなっていく金色の眼で、"淡い朱の光"を見定めるコゥーハの正面。別段驚く風もなく、しかし好奇心の見える黒い瞳でオボロは相手を上から下まで観察する。

「見かけない構えだな……」

「手ほどきを頂いた知り合いによると、西方のとある(オゥルォ)が取っていた構えです」

 何処で体得してきたのかは分からないが、とコゥーハは補足する。

「彼の(オゥルォ)は恐ろしく強く、バケモノじみたその腕で、大陸統一を一歩手前まで成し遂げたとか」

 疑いの籠る呟きを漏らす相手に、コゥーハはくっと眉を寄せる。徐々に尻尾が分かれていく感触を理解しつつ、低く構えた相手の一挙手一投足に注意を払う。

「……その強さを再現できると申したら、お信じになりますか?」

 というのは冗談です、とコゥーハは抑揚の無い声で呟く。

「ですが。彼女のように"予知"が可能だとするならば」

 というのも冗談です、というコゥーハの言葉は、左下から突き上がった殺気によって分断される。

 得意とする間合いからの、問答無用の速い突き。音も無く忍び寄り、躊躇のなく放たれた一閃に――迷いがない、素直が故に、酷く読みやすいとコゥーハはゆっくりと右腕を動かす。

 無駄が一切無い、とある一点への最短距離を剣が描く。鎬を当て、離れようとする相手の刀を絡めるように、コゥーハは己が分身を滑らせた。得物同士が叫ぶ声など聞こえない、相手の表情など関係ない、刀が裂いた右腕の擦り傷など痛くない。ただただ目標に……"朱い光"の奔流を裂く事だけに躰が動く。しかし、相手はそう簡単に終わるはずもなかった。

 亀裂の走ったコゥーハの剣が、オボロの首元すれすれを通過していく。離れ行く相手にコゥーハは剣の軌道を変えて追撃を試みるが、絡まったままの刀が許さない。体よく弾かれ離れた歪な音に耳を上げるも、構うこと無く次の一手を模索する。受けた力を溜め込むよう左足を踏みしめ、低く構えを取る。腰よりも低い姿勢から、相手がよろめいた僅かな時間を逃すことなく地を蹴った。

 軽い衝撃がコゥーハの鳩尾を貫き、口から零れた赤い液体が、地に落ちた。刹那、第三者の声が割って入る。

「そこまでだ」

 ハクオロの一言が、コゥーハの身体に沁み渡る。その直後、コゥーハの全身から力が抜け落ちた。

 跪くと同時に、右手から剣の柄が転げ落ちる。半分の刀身に鮮血が滴り、空中からやってきたもう半分が、コゥーハの影に突き刺さった。溢れ出る、気持ちの悪い血を手で押し止めつつ立ち上がろうとするも、コゥーハの膝は正常に機能しない。頭が締め付けられ、節々が硬直し、呼吸が止まっていく錯覚――体内でのた打ち回る激痛はやがて麻痺し、無音の場所で、無臭の中で、無味の感覚が、理性を奪っていく。

 年に何度もやってくる現象に似たモノに焦燥し、コゥーハはぐっと目を瞑る。このような場合は得てして、見たくないモノまで"見る"羽目になり兼ねないと。

(朔ではない。なれば)

 感情に任せて制御を誤ったか、とコゥーハは懐から薬を取りだそうと手を動かす。が、その手を引っ張る、大きく温かい手につられて思わず片目を開いてしまう。その片眼の暗い奥底で、彼女特有の虹彩が歪む。

 硝子の瓶が割れ、飛び散った薬草の匂いが頬を掠める。だが、コゥーハの瞳は全く別の視界を取り込んでいく。

 真っ暗な視界が、コゥーハの心を侵食していく。ただ暗いだけではない、夥しい量の"黒い光"が渦巻き、巨大な壁を形成している様は更なる寒気と感情を目覚めさせる。誰かが己が名を呼ぶ声は歪み、不完全な響きは重圧という鎖で縛り上げる。過去に"見た"記憶と重なる事でソレはますます全身に食い込み、どす黒い鮮血を表出させる。

(……、焦るな)

 問題は。源泉が何処にあるのか――

 ふっと浮かんだ一つまみの冷静が理性を起こし、コゥーハは膝を浮かせる。

「聖上。御政務は」

「……お、終わらせたに決まっているだろう」

 口を尖らせつつも、ハクオロは半歩後ずさる。ように、コゥーハは感じ取った。

「全く。お前も最近ベナウィに似てきたんじゃ――コゥーハ?」

 申し訳ありません。とコゥーハは再び膝を付く。

「少々立ちくらみがしただけです。決して執務に影響は……っ」

 無理にでも微笑しようとするが、硬直しきったコゥーハの筋肉は命令を聞かない。握った手を離し咄嗟に顔を覆うも、別の要因で視界が翳む。

 いま倒れる訳には――コゥーハの儚い呟きは、地に落ちた衝撃と共に飛び散った。

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