うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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「うたわれるもの 偽りの仮面」の続編、「うたわれるもの 二人の白皇」が2016/9/21に発売という発表がされたそうです。
現在のところ詳細および新情報はほとんどありませんが、お気になる方は公式等を定期的にチェックされることをおすすめいたします。


陣風

 琥珀(コゥーハ)の指輪が嵌められた指は、自然に曲がっている。口腔にある苦々しいものを噛みしめながら、至極冷静さを装ってコゥーハはウマ(ウォプタル)から降りた。

 シシハル、キヌハン両藩が放置した城を見渡せる崖の近く、木々の茂る一角でコゥーハ達は部隊と合流する。道中、何事もなかったのは幸いであった。しかしながら、案の定エルルゥ達の存在に周囲へ動揺が走るが、適当な理由と話題の転換でコゥーハは流す。納得されないのは百も承知だが、最後はハクオロのせいにして無理矢理決着させた。ハクオロが裏を合わせる可能性は微妙なところだが、この場を一時的に治める事が重要であるため、それは全く問題ではない。結果的に彼らをひとまず落ち着かせることが出来た事は、ハクオロへの信頼が高いのだなと改めて目を見張る。

 ハクオロのいる場所へ案内するコゥーハの隣で、エルルゥはそっと口を開く。だが、艶やかな唇が言葉を発することはなかった。

「これは。自分めの勝手な判断故ですので」

 道中で掛られた何度目かの一言と共に指を口に当てられ、エルルゥはすまなさそうに眉を下げる。此処へ来たのはエルルゥの意思、彼女なりの心情があるのだろうが、とコゥーハは思うが、心中で微笑むに止めた。切り立った崖、遠くに見えたハクオロの背中と周囲を注視した後、道を示す。

 生温い突風が、墨色の短髪を持ち上げる。ずれた外套を引っ張りながら、コゥーハは深く礼を取った。

「自分はここまでで御座います故」

 エルルゥは何も言わずにコゥーハへ頭を下げ、アルルゥも無言でコゥーハの腰に抱きついた。コゥーハも言葉を返すことなく膝を折り、二人の肩をそっと撫でた。

「では」

 コゥーハは二人を促した。しっかりした足取りで歩いて行く彼女達を見送った後、じっと側で見つめてくる相手へ眉を寄せる。

「おや。ムックル殿も行くべきでは御座いませんか?」

 小さく唸ったムックルに、コゥーハは右手を乗せる。

「エルルゥ様達は、無防備です。なればこそ、ムックル殿がお側にいる必要があるかと、自分めは思います」

『ヴォ』

 解っている。と言わんばかりに、ムックルはその大きな顔をコゥーハの頬へ摺り寄せた。加えて尻尾で躰を叩いてきた彼にコゥーハは苦笑するが、振り返ったアルルゥへ駆けていった様子を見送り、踵を返した。

(……)

「五十四」

 部隊の駐留する地の真上、暗い空を見上げていたコゥーハは、口走った言葉を訂正する。雲が星明りを遮り、殺風景な岩肌と共に隠れた金色の双眸は瞼の裏で残像を焼きつける。

「五十七。少ない、ですね」

 何の数か。やって来たワッカに、コゥーハは冗談で茶化す。懐から取り出した薬を飲みながら、墨色の瞳は星明りの下で精一杯笑う。

「貴方がこれまで姫を口説いた数の予想ですよ」

「七十一です」

「……」

 冗談なのか、あるいは。返答に困ったコゥーハに、ワッカは肩を竦めて訂正する――ただ、「七十一ではない」という、これまた反応を取りづらい一言に、コゥーハは無視を決め込んだ。

(さて)

 部下達の元へと赴き、コゥーハは彼らと自身の準備を確認する。作戦と任務の再確認、ウマ(ウォプタル)の調子、装備の欠損……悪い事に、幾つか引っ掛かる点が見受けられた。

「あ。あの~……」

 合流するや否や、ススはコゥーハへ声を掛けてきた。彼が何か言ってくることはよっぽどの事なのだろう、と眉を上げるコゥーハに、ススの顔は酷くびくついた。

「なななんでもあありません! お返ししてきますっ!」

「――……」

 失礼します! とその場を去ろうとしたススの背中をコゥーハは引っ張る。ガクガク震える彼を一瞥し、握り締めている武器に更に眉を顰める。

「その弓は?」

「こ、ここれはででありまして」

 溜め息を吐き、コゥーハはススをひたすら宥めた。自分は怖い顔を向けてしまったのだろうか、と尻尾を下げながらも、ようやく会話が出来るようになったススの話に耳を傾ける。

弓衆(ペリエライ)の方に、お借りしまして、その」

 弓を使用させて貰えないだろうか。ほぼ許可を取りに来た風の提案を、コゥーハは保留した。彼に理由を問いながらも、己の槍から紐を解きつつ、他の隊を巡っていく。

 騎兵衆(ラクシャライ)の兵士が使用する主な武器は、剣である。武術の基本となる剣が扱いやすいことや、槍は重さと長さ、弓は疾走しながらの使用が求められることから、ことウマ(ウォプタル)に騎乗したままで振るうには相応の腕が要求されることが、一つの要因として挙げられる。逆に、相当の実力を持つのであれば、どのような武器でも上官が許可すれば使用する事が可能である。特にウマ(ウォプタル)に乗ったまま弓を扱えるものは軍内部で貴重である――演習中でコゥーハが拝見した限りでは、ドリィとグラァ、弓衆(ペリエライ)の一部の者、騎兵衆(ラクシャライ)四番隊の数人、そしてススだけである。

 コゥーハも必要なのかと他の隊の者から弓を渡され、断ったコゥーハに、ススは軽く首を傾げる。

「そういえば。コゥーハ隊長は、弓を使わないんですか?」

 一回引いて、弓を壊してしまっては矢がもったいないですからね、とコゥーハは肩を落とす。

「それに。我々の任は、討ち漏らした敵輸送体を牽制、特定の場所へ誘導、および殲滅です。弓という装備は些か、特に接近されると自分めには厳しい」

「……」

(かといって)

 ススの弓は、上官の贔屓を抜きにしても優れているのだと、コゥーハは口に手を当てる。迅速な任務の遂行という側面から判断すれば、ススに弓を持たせる事はそれ程迷うべきことではないと思われる。が、今回は初陣――コゥーハは、この立場において初めての戦。ススの提案は想定内ではあったが、万一彼に何かあった場合、彼を庇えるかどうか……コゥーハの不安は、相談した一人の同僚によって一蹴される。

「七番隊は最前線ではありませんから、問題ないでしょう。何でしたら、我々四番隊も弓兵を増やし、貴公の隊に支援をして頂くように奏上致しましょうか」

 騎兵衆(ラクシャライ)四番隊隊長、ノヤハルの事も無げな提案に、コゥーハは息を詰まらせた。固まっている彼女を緑がかった黒い瞳で一瞥するも、ノヤハルはウマ(ウォプタル)を撫でながら微笑する。

「私は、ススをかっているのです。なに、彼の興味を惹きたいだけ、嫉妬は肯定しますよ」

「ススに弓を持たせたのは、貴方でしたか」

 むっとしているコゥーハに、ノヤハルは尚も笑ってウマ(ウォプタル)に餌を与える。

「私の隊から数人、皇城へ部下を残してきました。尤も、私の懸念を貴公は無にした訳ですが」

「……」

 別に非難をしたいわけではない。とノヤハルは歩き出し、他のウマ(ウォプタル)へと手を伸ばす。

「お二人が無断で、供を連れず戦場へ行かれるかもしれない推測は、上官二人が話しておりましたから。感謝ことすれ、責めることなど出来るはずもない」

 ただ。人数が少なくなったことで、今回の戦における任務に些か支障をきたしている。特に、各所へ指示を伝達する者が少ない……全くもって恥ずかしい限りである、と口を曲げたノヤハルの顔つきは、険しいものとなっていた。

「……ウマ(ウォプタル)達に過度の緊張が見られます。現在、部下達と総出で対応しておりますが」

 通称補給部隊たる四番隊は、名の通り食糧および武具の管理、進行経路の模索や確保といった後方支援を主な任務とするが、その中にはウマ(ウォプタル)の体調管理や調教も含まれている――騎兵衆(ラクシャライ)の兵士はウマ(ウォプタル)に関しての基礎知識は一通り学んでいるが、突発的な事項に関しては全ての者が対処出来る訳ではない。故に、知識の深い者が多い四番隊がその対応に当たっている現状である。

「個体差はございますが、ウマ(ウォプタル)は存外臆病なもの。しかし、初陣が多いとはいえ、この怯え方は尋常ではない」

「ムックル殿、の影響でしょうか」

 ムックルは常日頃アルルゥの側から離れないが、一応の寝床は厩舎近くに存在し、食事や睡眠を摂ることもままある。これはムックルの食事の半分が厩舎で賄われることや、万一の時のためムックルの存在をウマ(ウォプタル)に慣らす意図がある。しかし此処は戦場、コゥーハでさえ感じ取れるピリピリとした殺気は、普段のムックルが持っている訳ではない。

 一理ありますが。とコゥーハの真正面を向いたノヤハルの眉がくっと上がる。

「貴公は。他に理由をご存知なのでは」

 それは――喉を詰まらせたコゥーハの遠方で、答えは爆ぜた。

 遥かに離れた場所だというのに、昔に聞いた音と全く同じモノがコゥーハの長い耳を突いた。同時、近くにいたウマ(ウォプタル)の嘶きが湧き上がる。

 一瞬呆けてしまったコゥーハとは異なり、二人の対応は素早かった。手綱を取り、落ち着けるべくウマ(ウォプタル)を撫でる。無駄な動きのない彼らの手腕は見事という他なく、コゥーハが自身のウマ(ウォプタル)を鎮める間に、二人は他のウマ(ウォプタル)の対応に移っている。特にススは、暴れているウマ(ウォプタル)に臆することなく乗り込み、瞬く間に収めて見せた。

 彼をしばらく貸して欲しい、というノヤハルの要請にコゥーハは了承する。不安な顔を向けるススに微笑み、すっと頷く。

「弓の使用を許可します。護身用に剣も携帯すべきだと自分は思いますが、判断はススに一任します。これより以降、ノヤハル隊長の指揮下に加わって下さい」

 七番隊は四番隊の任務の補助――各隊の状況把握と伝令の一部を持つということを、コゥーハがハクオロへ奏上する旨を互いに確認し、コゥーハも部下達に任務を割り振っていく……暫定であり、ハクオロに話が通った後に、改めて指示を出すと強調する。自身のウマ(ウォプタル)には今一度、注意を払い、その上で他の者への配慮を行うようにと口頭で伝えるも、筆を走らせた書簡を必要な人物達へと渡していく。

 自分のウマ(ウォプタル)を一時ワッカに預け、コゥーハは歩兵衆(クリリャライ)とも話をつけるべく人波を分けていく。

 先程までの穏やかさが感じられない、冷たい空気が肌を刺激する。呼声と怒声は入り混じり、動揺と不安は虚声となって広がりつつある……当然であろう、とコゥーハは煙と炎柱が靡く遠くを眺める。撤退した城の顛末、推測ではあるが、此処に居る彼らはハクオロが如何にして城を焼き払ったかについて知らされていない。作戦概要から敵が城を使用している事は理解しているだろうが、相手が強大故に、禁忌の威力故に、敵が執った作戦の一つと考えても不思議ではない。

 何か知っているのではないのか。ハクオロを視界に捉えた刹那、コゥーハは胸倉を掴まれる。あまりに冷静な顔でそれとなく周囲を宥めていたことが、逆に反感を買ったらしい。どこまで、否、どこから何を話すべきなのか。今にも殴りかかりそうな彼らに囲まれ、コゥーハのこめかみから冷たい汗が滴る。下手をすれば一触即発、微かに黒煙が混じる空気の中、全体の緊張が頂点に達しかける――かに思われた、が。

 土の香りがする大きな手が、割って入った。

「――作戦は問題なく進んでいる」

 ハクオロの声は大きく響き、部隊全体を、ウマ(ウォプタル)さえも惹きつけ、沈黙させた。誰しもが離さぬ視線の中心、コゥーハの肩を軽くついた彼は丘の頂へと歩いていく。微風に揺れた青い服の背中、ちらりと垣間見えた横顔は冷静そのものであり、実に落ち着いている……そんな彼の仮面へ、ぼやけた視界へコゥーハは手を伸ばし――名を呼ばれたところで、一気に脱力して空を掻いた。

 半ば混濁していた意識が覚醒する。振り向いた先、座ったムックルの側で、エルルゥとアルルゥが顔を上げた。

「ありがとうございました」

 ですから礼は……慌てて礼を取り、エルルゥの顔を覗き込んだコゥーハの動きが、ゆっくりと止まる。

 抱えていた気持ちは、全て伝えられたのだろうか――コゥーハが唯一心配していた不安は、エルルゥとアルルゥの表情を見た瞬間に吹き飛んだ。穏やかではあるが、芯の強い視線。曇りなく、迷いのない澄んだ瞳は普段通りの、否、いつも以上の力強さが相手の心を打つ。

 杞憂だった。心中で吐きながら、コゥーハは膝を付いていた身体を上げる、刹那、底から突き上げる雄叫びが周囲に沸いた。

 ハクオロの演説は終わっていた。コゥーハは話の大半を聞いていなかったが、ハクオロが何をしたのかは集う面々を見ればある程度の想像がついた――一応は敵に見つからぬよう隠れている体だというのに、彼を讃える声は後を絶たない。先程までの不穏な雰囲気は何処へ消えたのか、あらゆるモノを釘付けにしたハクオロの鼓舞はコゥーハの想像の斜め上を貫き、肌を駆ける熱い声は奥底にある重い蓋を微かにこじ開ける。臣下として考えるべきではない心配が、どうしようもなく拭えない不安が、別の意味でコゥーハの全身を粟立てる。

(――……彼がいなくなれば、トゥスクル國は)

 こんな時に。心中で吐き捨てた怒りと侮蔑が、柔らかい唇から鮮血となって滴り落ちる。雲の陰で隠した瞳の真下、恐怖で震える手で、コゥーハは“黒い光”を握り潰す。”黒い光”は指の隙間をすり抜け、いつもと同じ風にコゥーハを嘲り煽って四散した。指輪を弄り、薬を飲み込みつつ、コゥーハは気持ちを切り替えるべく動き出す。大丈夫か、と胸に手を当てているエルルゥに問題ないと微笑み、最終確認を行っているハクオロの元へと歩みを進めた。

 コゥーハの奏上を各部隊長で確認した後、ハクオロはしばし熟考する。何かを計算するかの如く右の指を左手の平になぞり、険しさ混じる眼で部下に命令する。

「コゥーハの部隊長権限をワッカに委譲。コゥーハは前線部隊と共に、指示通りの任務に就かせる。ああ、時間もないし、外套はそのままで構わん」

 外套を外そうとしていた手を戻し、コゥーハはくっと口端を下げる。

「あくまで前線へ行けと、と」

「すまない。精鋭を集めているとはいえ、オボロ達が居ない以上、お前を下げてしまっては初動の戦力が心許ない。エルルゥ達がいる以上、より一層、長引かせるわけにもいかん」

 買い被りされても困ります。コゥーハはわざとらしく肩を上下させるが、ハクオロの微笑む横顔は冷たい。全く笑っていない黒い瞳は、コゥーハの心中を落ち着け、同時にざわつかせる。

「私が最初から前線に出るという策も残っているわけだが」

「……いやはや、総大将も、おヒトが悪う御座いますね」

 前線に出る事に不満がある訳ではない、という意をコゥーハは呑み込む。ハクオロが安易に前線へ出ないようにと改めて釘を刺し、自身の任務に対して了解の意を示した。各所へ最終決定を伝達と調整をしつつ、持ち場に着いたところでコゥーハは騎乗した。

 仰ぎ見た帳の下で、銀色の鉄扇が垂直に掲げられる。初めて姿を見た時から妙に気になっているソレに、コゥーハの瞳は丸みを帯びる。不意に吹いた風が墨色の前髪が睫毛の上を滑り、直後、下知が下った。

 無意識に首元を押さえていた手を戻し、コゥーハはその手で手綱を引いた。強く握った槍は想像以上に重い声を上げたが、幾重もの心情と吹き荒れる風に塗れて落ちた。

 

 

 

 

 

 コゥーハの読みは概ね当たっていた。食糧を運び出そうとする敵の大半は、殲滅部隊が待ち構えていた経路を使って脱出を試みていた。

「敵を道の端へ――深追いはなりません!」

 敵の騎兵は沼地へと誘い込むように並走し、待ち構えていた部隊に処理させる。しかし言うは易し行うは難しか、とコゥーハは苦い唾を呑み込む。

 城の側を通っている小道、得物を交えて拮抗していた現状を破るように、コゥーハは槍で相手をウマ(ウォプタル)ごと弾き飛ばす。大きく踏みしめたウマ(ウォプタル)の躰が上下したことを理解しながら、手綱を引っ張る。相棒の足が僅かに沈んだことに眉を上げつつも、強きを崩すことはない。

 左手で手綱を捌きながら、コゥーハは相手の剣を寸でのところで躱していく。一太刀、二突き、四度目の攻撃……背後を取り、ウマ(ウォプタル)の駆ける勢いを利用した、正に大振りになった相手の一瞬を、コゥーハは見逃さない。

 手綱を取る手を離す。コゥーハは体躯をゆらりと右へ寄せ、刹那、猛進してきた得物の根元を左手で掴む。磨かれた剣は若草色の外套の右側を通過し、勢いが削がれ――槍で貫かれた主の血で染まると同時に、敵の手元に収まった。

 誰も乗っていないウマ(ウォプタル)は優先しなくて良い指示を飛ばしながら、コゥーハは剣に付着した血を素早く振り払う。折れた柄を投げた音とは別に、どさりと鈍い音がした真下のモノを見下げ、刺さった槍を一旦地面から抜き、別の場所へと打ち捨てた。

 焦げる臭いを大きく取り込みながら、コゥーハは黒く染まった軍服の襟を正す。

「すみません。手柄を取ってしまったようで」

 構わん、といって去って行った兵士へ頷き、彼の背後に迫った凶刃をコゥーハは剣で受け止めた。驚いている兵士に目配せしながら促し、一定の距離が開いたところで軽くいなし、右手を振り下ろした。

 金属が悲鳴を上げ、歪な音が茶色い耳の中で爆ぜる。剣が割れてしまったことなど、コゥーハにとっては正しくどうでも良い事である――飛沫を掻き分け、両断した武器の先、息吹を把握した一拍で、折れた刀身の隅で相手の喉元を正確に刺し切った。

 若草色の外套は斑な模様に靡き、墨色の髪先は色濃い水で滴っている。化粧の香と体臭でむせ返りそうになる中、しかしコゥーハの表情に変化はない。投げた武器を追う事のない瞳は暗い周囲を見渡し、遺体の側に転がっている剣へ近づく様は淡々としている。冷静、と言えば聞こえが良いが、無表情、という方がしっくりくるかもしれない、とコゥーハはウマ(ウォプタル)から降りた。

「妙なものだ」

 膝を折る際、不意に、口元が上がった事にコゥーハは戸惑いを禁じ得なかった。ほんの一瞬、意識が飛んだかのような錯覚……だが戦場という状況下、コゥーハの思案は紙よりも軽く吹き飛ばしていく。

 剣を拾い上げる速度が少しでも遅ければ、危なかった。ウマ(ウォプタル)の上から繰り出された一撃を受け止めながら、コゥーハは歯噛みする。柔らかい地面を抉る足の感覚が、想像以上に重く圧し掛かる。押し切ろうとした相手の力で、じりじりと上体が起き上がっていく事態――汚れた頬の隣で、一滴の汗が手甲に落ちた。

 吹いた風が渦を巻き、流れゆく火の粉が舞う地の底で、金色の光が鈍く光る。

(……――)

 ゆっくりと押し返し、コゥーハの躰が低い位置へと移動していく。相手の目に焦燥が見えた瞬間、矛先を受け流した躰は自然と動いた。だが――

「姫!」

 味方の――ワッカのウマ(ウォプタル)が敵のウマ(ウォプタル)と接触し、コゥーハの勢いは一歩踏み出したところで停止する。敵の体勢が崩れた状態に間髪入れず、ワッカは剣で槍の柄を器用に絡め取り、懐に入ったその肘と躰で相手を押し出した。

 ウマ(ウォプタル)から相手が離れた機会を、見逃すコゥーハではない。集中するべく構えた後、受け身を取った敵へと疾走する。数歩先、相手は体勢を立て直し腰に手を添えていた、が、コゥーハの一閃に対応するには些か遅かった。柄を握っていた方の腕が吹っ飛び、驚きで躰が弛緩した正にその瞬間、振り下ろされたコゥーハの二撃目によって儚く散った。

 やはりもう使えない壊れた武器を手放し、コゥーハはやって来たワッカに礼を述べた。

「すみません。助かりました」

 騎乗し、頭を下げたコゥーハに、ワッカは微笑した。

「ご無事でなによりでございます」

 敬礼を取る彼に、普段の仰々しい下りはない。彼なりに状況を理解しているのだろう、とコゥーハは息をつき、周囲を眺めながら外套で頬の汚れを拭う。

「一通り片付いたとみて良さそうですね」

「はい。前線の被害状況については把握しておりませんが、本隊に被害はございません」

 熱気と冷気が混じる異質な空気の中、コゥーハは月の見えない空を仰ぐ。

「総大将は?」

「城内部にいる敵勢力が想像以上に大きく、聖上は加勢に向われました」

 苦い顔で俯いたコゥーハに、心中お察し致します、とワッカは軽く頭を下げた。

「ですが。そこを殲滅すれば、今回の任務および戦の決着へと繋がる形となります故」

 自分達も参りましょうか。肩を落としたコゥーハの側で、ワッカは女性殺しの微笑みを浮かべた。

 御心のままに。手の指へ口づけしたワッカに溜め息を吐きつつも、コゥーハは周辺の戦闘の収束と味方をかき集める事に奔走する。過程で現在の状況を整理しつつ、怪我どころか返り血一つない部下にくっと眉を上げる。

「負傷していないのは幸いでは御座いますが」

 申し上げたつもりですが、とワッカは笑って剣を振る。

「私が真正面から勝てる相手など滅多におりませんこと、姫もお分かりでしょう。なれば他の支援を行うが、隊としては得策」

 ご安心下さい。軽く身を乗り出し、コゥーハの進路と垂直に、ワッカは剣を突き出した。ウマ(ウォプタル)を並走させる手腕は言うまでもないが、コゥーハの隙をついた斬撃をいとも容易く相殺した動きに無駄はない。

「もし、姫がお望みならば。この手を血で染めることも厭いませぬ」

 相手の剣を手放させ、体勢を崩すのみの技を魅せる彼の瞳は、女性をもてなすものとは全く異なる。奪った剣で急所を両断したコゥーハから距離を取った手は艶やかな唇を撫で、くすんだ目の隣で鋭い音を立てた。

「お望みとあらば」

「……いえ」

 本当に聞きたいことを尋ねる前に、コゥーハ達は目的地へと到着した。門をくぐった城内、未だに怒号が鳴り止まぬ体だが、一方が圧倒的に優勢であることは火を見るよりも明らかである。それでも、未だに混沌が点々と存在している場所へ、コゥーハは足を進める。

 黒色の煙の下、残滓が入り乱れる地の上で細かな火花が舞う。城は延々と火柱を突き出しているが、落ちた部分が半数を越え始めている――物資の回収を手伝うべく、ウマ(ウォプタル)から降りたコゥーハの背中から一陣の風が墨色の髪を抜け、光を含む諸共巻き上げる。

 気が緩んだ一瞬、後方から襲われた切り下げにコゥーハの動きが遅れる。辛うじて身体を動かすものの、斑模様の外套は剣に絡め取られた。

 ぎりり、と繊維が引っ掛かる音をコゥーハは躊躇いなく手放す。吹いた微風も重なり、若草色の布は相手の躰へ絡みついた。だが、コゥーハを狙う下方の切っ先は、確実に三本の傷痕を捉えていた。

(――っ)

 ワッカの声が響く中。懐の小刀か、腰の剣か……一拍迷った事が、コゥーハの躰と精神の乖離を生んだ。左腰へ手を伸ばす右手は僅かに届いておらず、後ろへ落とした躰は踏ん張りがきかない。固唾を飲むしかないのか、否――左腕を盾にするように捻った肩のすれすれの隣で、一本の矢が通過する。

 若草色の軍服が裂け、血飛沫が左頬へ付着する。だが、コゥーハの腕はしっかり繋がっていた。浅い、と安堵を噛みしめ、コゥーハはつま先を軸に躰を回転させる。同時、十数歩先、矢を放ったと思われる彼の、ウマ(ウォプタル)に騎乗したススの精悍な顔が視界を通過した。

「動かないで下さい!」

 ススの一言に、柄を掴んだ右手が止まる。刹那、右肩に刺さった矢に怯んだ敵への追撃が、コゥーハの頬から指一本離れた場所を貫き、確実に相手を沈黙させた。

「助かりました。ありがとうございます」

 いえ。彼らしい弱い微笑みが見えるが、迫った白刃によってすぐに変化する。下から突き上げられた槍は矢筒と躰の隙間を通過し、動いた穂先が相手の躰を崩さんと猛威を振るう。が、ススはウマ(ウォプタル)から意地でも降りることはなかった。

 無数の矢が筒から拡散する――筒の底を突き上げ、立ち上がることでススは器用に穂先を利用して肩掛けを切った。手綱を使い、ウマ(ウォプタル)の足を敵の真後ろへ付け……目標の真上、一本だけ握り締めた矢をくるりと回し、派手に鳴った矢筒と同時に、敵の頭を地面へ打ちつけた。

 瞼の上に付着した滴を拭い、周囲を窺った後、ススはようやくウマ(ウォプタル)から降りた。

「い、いえ。それよりも」

 左肩の傷にあわあわしているススに、問題ない、とコゥーハは応急処置を始める。

「しかし。ススが想像以上に頼もしくて、安心しました」

 刺々しくなってしまったことを自覚しながらも、コゥーハは訂正しない。普段と変わらずおどおどしつつも、しっかりと処置を手伝いながらススは答えた。

「戦いは、初めてではないので、その」

 成程。とだけ頷き、コゥーハは立ち上がる。手伝いに礼を述べ、やって来た上官へ頭を下げた。

 無事で何よりだ、と息をついたハクオロにコゥーハはくっと詰め寄る。

「総大将」

「解った。説教は全部、後で聞こう」

「いいえ」

 側にいるエルルゥ達から目を離し、ハクオロは小さく呟く。

「……エルルゥ達が、離れてくれると思うか?」

「その件と、総大将が前線に出られたことは関係御座いません。とはいえ」

 今回はエルルゥ達にも必要かもしれない。冷たく言い放ったコゥーハに、四人の表情が固まる。似ている――誰かが言った言葉を視線で黙らせ、コゥ

ーハは盛大に溜め息を吐いた。

「確かに、此処で行うのは適切ではありませんか。では総大将、状況確認を」

 ハクオロがコゥーハ達と会話が出来る程度に、ほぼ全てが敵の輸送隊鎮圧に成功していた。ススによると帰路もきっちりと確保しており、敵から奪った物資を運ぶ手筈も整っている。後はハクオロの指示のみで、ハクオロは改めて命を出した――ススとワッカにはハクオロの指示の伝達と、先行して帰還するように命令する。コゥーハの想定通りワッカが噛みついてきたが、適当に飴を与え、何とかして言ったことを聞かせて送り出す。

 コゥーハを含めた数人が残る件について、コゥーハはたどたどしく答えた。

「総大将がオボロ侍大将をお待ちになるというのであれば、合流されるまでは、念のため」

 先程から、嫌な予感がする。口に出さないが、せり上がってきた感情は否応なくコゥーハの喉を詰まらせる。

 酸の強い唾液が、乾いた舌へとねっとり絡みつく。身体が強張り、鞘を握る左手は離れようとしない。灼けつく空気は禁忌の結果の何者でもないが、肺に侵入してくる煤に混じって黒いモノが心の奥底へ沈む。禁忌へ抱く物とは異なる、得体の知れぬ不安が錘となり、警鐘の鈴となる。

 チリチリと焼ける音が茶色い耳を刺し、同時に、パララの一言が反芻された。

(いえ)

 コゥーハは確かに気になっていたが、笑って斬り捨てる。丁度オボロ達がやって来たことも重なり、彼らに現状を簡潔に話した。早々に撤退するべく、踵を返した、真後ろ――外套の無いコゥーハの身体を、物体を持たない槍が貫いた。

 熱気ではない。殺気にも近い威圧感が、広場全体を歪ませる。当然ながら、作戦成功後の穏やかな雰囲気はさながら灰と共に裂き散らされた。

 独特の口調を持った甲高い男の笑い声が、崩れた城の残骸が立てる音よりも大きく鳴り響く。渦巻いた疾風は声の中心から放たれ、振り返ったハクオロを取り巻く風と衝突する。各々の優劣はコゥーハには判別つかない、だが、双方の気は互いに一分たりとも違わぬ同じ距離、二十歩先で爆ぜた。反発し合った風は煙に塗れた空を消し去り、数拍、相手の主の姿を鮮明に映し出す。

 ハクオロよりも背が高い、初老というにはやや歳のいった男である。だが、大きな身丈と包む武装、不相応な若い口調は全く老いを感じさせない。むしろ真っ直ぐ獲物を捕らえている眼光は若々しく、彼の耳同様に鋭い。白い髪を後方で団子状に留めている顔の隣、カン、と打ち付けた片刃の槍は持ち主の二倍近くあるが、片手で握り締めているあたり、相応の腕力があるのではとコゥーハは推測する。

 ハクオロは咄嗟に鉄扇を抜き、構える。その行為が切欠かの如く、男が一歩踏み出した。

(来る――)

 乾いた砂を蹴る重い声、刻む間隔が狭まっていく足音は、相手がどんな行動に出たのか誰にでも分かる。だが、コゥーハの肉体と精神は非情なまでに別った。

 擦り出した足が、それ以上進まない。動かぬ重心に、小刻みに震える剣、再び舞った薄い煙を吸い込めば吸い込む程、金縛りに遭ったかのように躰が重くなる。コゥーハは、似たモノを経験している。あえてソレを言葉にいうのであれば――

(巫山戯るな。この程度で)

 辛うじて振り絞った力で、コゥーハは剣を突き立て膝を折る。白い刀身の奥、金色に光っている瞳にはっとなり、目元を手で覆いつつ周囲を逡巡する。

 男が現れてから二拍も経っていないのは幸いである。だが、その場に居る者はコゥーハと大差ない現状に思えた。悪い状況が迫っているということは理解しているが、場の気に呑まれ、足が竦んでいる――例外は、ハクオロ、弓を取ったドリィとグラァ、そして構えようとした二人が躊躇う理由となった人物。

「オボロ!」

 オボロの判断は適切で、なにより早かった。叫んだハクオロと男の間に入り、低く構えた彼はいつも以上に精悍である。咄嗟の判断であろうが、迎撃出来る時間と体制は十分にあった。しかし、渦巻く薄い煙が男の姿を隠した一瞬、降り積もったコゥーハの不安は、分れた尻尾と共に最高点に達する。

 いけない、というコゥーハの言葉は、男の一蹴と共に掻き消される。

「どけぃ、小童――――!!」

 オボロが前へ駆けた――ハクオロから数歩先、霧を掃う一閃が激突する。二振りの刀と、ベナウィの持っているそれよりも大きい槍……交えた圧は双方を支える地面を抉り、拮抗するかのように制止する。と思われたが、勝敗は刹那よりも早く、圧倒的な力と技量の差をつけての決着となる。

 助走を乗せた槍は重い音を振動させ、切り上げるような一撃でオボロの上体を反らせる。力技だけで押し切られるオボロではない、が、槍は刀に次の行動を取らせず、くっと鎬の上を滑る。上方から下方へ、両手から伝わる力を相手の弱い一点へと叩き込み、刀の主共々吹っ飛ばした。膠着状態を待って構えていた、ドリィとグラァの元へ、正確に。

 軽くあしらったオボロへ目もくれず、男はひたすらに目標、ハクオロへと迫った。その距離、五歩強――叫ぶと同時にハクオロの元へ踏み出していたコゥーハにとって、十分な時間であろう、ハクオロを突き飛ばし、時間を稼ぐ程度には。自分に腕があるとは思えないが、自分に槍を突き立てさせている間に一太刀浴びせられるかもしれない。痛覚が邪魔をするのであれば、一時的に麻痺させれば問題なかろう――心の底へ語りかけるように閉じた表情に、ハクオロの命令が突きつけられる。

「エルルゥ達を!」

 コゥーハは踵を返していた。今にもハクオロの目の前へ躍り出ようとしていたエルルゥとアルルゥの躰を掴み、ハクオロから遠ざけた。家族の名を叫ぶ二人に許すわけもなく足を運び、殺気だっているムックルへと躰を押し付けた。

「なりません! いま貴方が行けば、不自然に体勢が崩れた場合にハクオロ様を傷つけてしまい兼ねない!」

 左手の甲に走った痛みによって、コゥーハは我に返った。抵抗する二人とムックルを放すことこそないが、目を向けた先でハクオロと男が鍔迫り合いしている様子に――命令だったとはいえ、この状況で、武人として、臣下として、愚かな行為を取った自分に震えた。

(――自分は、っ)

 状況は予断を許さない。ハクオロは鉄扇で槍を受け止めているが、相手はオボロを軽く吹き飛ばした男、いつ力尽きてもおかしくない。かといって不用意に飛び込めばハクオロに太刀を浴びせかねないどころか、狗死(いぬじに)もあり得る。オボロはドリィ達に支えられて体勢を立て直している最中、そしてコゥーハは、エルルゥ達を力ずくで止めるだけで精一杯――整理していたコゥーハの中に、ふと、妙だ、という感想が生じる。

 ハクオロは武芸に長けていない、一方で、男は周囲をその覇気で、かつオボロをいとも容易く伸した猛者である。差は瞭然、だというのに、男の槍はハクオロの鉄扇と鎬を削り()()()()()()

 彼の理由は、コゥーハが望むまでもなく、男の口から語られた。

「どうした、それで終わりか。余をもっと楽しませてくれるのではないのか」

 男は、この状況を誰よりも楽しんでいた。見下す、のではなく、ただ純粋に。

 ハクオロは得心がいったように目を見開き、鉄扇を握る手をより一層強くする。

「っ。貴様……ニウェか!」

 ハクオロの問いに、何を今更、といったような顔で男は笑って肯定した――シケリペチムの(オゥルォ)、ニウェであると。

 名乗った際に緩んだ隙を突いて、ハクオロは槍の力点をずらし穂先を左側へ受け流す。反動で手元へ鉄扇を引き寄せ、牽制するように相手の懐へと薙いだ。無論、躱されることも承知だったのだろう、数歩後退した相手から一定の距離を取るように躰を動かした。

 ニウェは尚も笑いながら、ハクオロから目を離すことはなかった。根本は違えど、相手を見据え続けているハクオロと同じ目で。

「その方か、ハクオロという者は」

 ハクオロは肯定も否定も示さなかった。だが、相手の当否など必要としていないのか、ニウェは続ける。獲物を前にした狩人の如く炯々たる瞳の奥底で、相手の本性を見定めようとする視線を隠すことはない。

「陣ごと糧を焼き払う――まさか、このような策を平然と使うとはな」

 白々しさ混じる口調ではあるが、至って感心しているようだとコゥーハは眉を寄せる……その事が、彼が尋常ではない傑物であると理解した瞬間、鳥肌が立った。

 ハクオロは、やはり答えることはなかった。間合いはそのまま、ニウェを睨みつけながらゆっくりと構え直す。が、オボロの呼ぶ声に全員の視線が宙へと移る。

 二人の(オゥルォ)を結ぶ道の丁度真ん中、巨大な屋根の一部が落下した。二人を分かつ物としては十分な大きさであり、双方が一歩引いたことにより、コゥーハはエルルゥ達から手を離した。ハクオロ達へ駆けよる一同とは対照的に、その場で立ち尽くしたまま指輪を弄る……好奇心、は至って肯定する。しかしながら、このまま相手を逃がしてはいけないという警告が、否、逃がして()()()だけという事が耐えられなかった。一矢報いたい訳ではない。

「ハクオロ。また会おうぞ」

 彼が言った通り、()があるからこそ――相手の意図が分からぬ以上、一つでも敵の情報が欲しかった。

 去り際、"灰と茶を帯びた白い光"が火の粉と塗れるニウェの背中、赤色の武装が作る陰の奥、三色が明滅し合う底で黄色の目はナニかを捉える。

(……――)

 静かな視線だった。刹那、頭が割れそうな高音がコゥーハを襲う。膝をつく事だけは意識を持って堪えるが、指輪を嵌めた左手は吐き出された鮮血で潰れる――いずれも一瞬、ひゅっと吹いた風に、コゥーハの右手が的確に動く。

 額の中央、指先一本の距離でコゥーハの右手は降ってきた端材を叩き斬った。折れていない剣を振り直し、俯いていた顔をゆっくり上げる先、熱で揺らぐニウェの横顔が、コゥーハを見る目が睥睨に変化した事が、彼の一言と共に、金色の双眸へと焼き付く……瓦礫が四散する音で声は聴こえなかったが、動いた口元の形だけでコゥーハにとって意味を理解するには十分だった。

(全くだ)

 炎の中へ相手が消え、剣を納めた瞬間、コゥーハの全身から力が抜けた。今にも服へ燃え移りそうな瓦礫の側で膝をつきそうになるが、空を切った左手が、大きな手で強く引っ張られる。

「ハクオロ様、私は――」

 今は、言わなくて良い。ハクオロの一言が、取り繕おうとしたコゥーハの奥底へと響く。笑ってしまいたい程に頭が冷えたが、頬の筋肉は全くもって言う事を聞く気配は無い。尚も覚束ない足へ懸命に力を込め、コゥーハは温かい手を振り払り、背を向けた。

「追撃は推奨出来ません。早急な離脱と撤退を提案します」

 平静とした口調のコゥーハを心配する声が聞こえたが、コゥーハは手を振って大丈夫の意を彼女達に示した。撤退の準備を改めて行うべく歩み始めるが、重い手が頭に乗せられ、足を止めてしまう。不意に俯いた先、踏みしめているどす黒い水面は炎の光に照らされ、ありのままを墨色の瞳へ見せた。酷い顔も、耳を撫でる優しさも。

「落ち着いたら。……言いたい事だけ言ってくれれば、それで良い」

「――」

 ハクオロが、望むのであれば。彼女の声は、撤退する、というハクオロの声に重なり、誰にも聞こえなかったように思えた。

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 シケリペチムがトゥスクルへ侵攻し、トゥスクル側が阻止した事実は内外へ瞬く間に伝わっていった。各諸國の反応と思惑はそれぞれではあるが、國外で諜報活動をしている者達の働きもあってか、ハクオロが如何ような策を用いて敵を退けたのかという点は、有耶無耶にされている――侵攻を食い止めた事実が他國からの侵攻を躊躇わせるように働ければ良いが、三大大國と内乱で新たに樹立したばかりの小國という現状故に、トゥスクル側が「神秘的な力を使った」と捉えられ、その「力」を求めてより関心をもたれたのではないか、という心配がコゥーハにはあった。が、それよりも國内、正確には軍内部で今回露見した問題の改善を優先するべきだ、というベナウィの意に同意する。

「……だからと言いましても。と思いませんか?」

 冷たい牢の中、コゥーハは数日間、今回の戦の報告書をひたすらに書かされた。体調がすぐれない事など、瑣末な事……謹慎、というのは文字通り名ばかりで、容赦なく仕事を押し付けられた。それこそ、自身の状態を考える暇など、与えない程に。場所が場所、机から離れられない事を良いことに、些細な情報まで書くようにと命令され、書簡を取りに来た同僚達に普段と変わらぬ文句を言いながらも、コゥーハはきっちりやり遂げた。なお、一日に一回、上官二人のいずれかから私的にハチミツの差し入れがあった事は、コゥーハのやる気に火を点けた要因の一つとなっているのだろう、というのはコゥーハの同僚の弁である。

 ただ。その間、厠へ行くため牢を出る時でさえ、彼女の表情を見た者はいなかった。誰一人としていない所へ彼女を閉じ込め、仕事を強制してきた、二名を除き。

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