曰く。アルルゥとユズハ宛の私的な文なのだとコゥーハは聞かされた。一体誰から、と思うも、二人の共通点は少ないこともあり、おおよその察しはついた。
ユズハの寝室近く、昇りはじめた大きな月を仰ぎながら、コゥーハは奇妙な木簡の一部に指を滑らせる。トゥスクルでは至って
「夜分に申し訳御座いません」
いえ……と、寝台の上でユズハは静かに首を振った。降りようとした彼女を制し、コゥーハは側にある椅子を示す。微笑んで頷くユズハのすぐ隣、たどたどしい手つきで果物の皮を剥いていたアルルゥが顔を上げた。ムックルは側で静かに目を閉じている。
妙な空気だ、とコゥーハは思う。二人の間に会話はなく、俯く各々の表情は暗い。やはりカミュが帰國した事が大きいのか――無意識に観察の目となっていたのであろう、探るような両眼を向けてくるアルルゥに、あはは……とコゥーハは情けない顔で頬を掻いた。
「本日は、御二人宛の文をお持ち致した次第です」
「お手紙……ですか……?」
首を傾けるユズハに、はい、とコゥーハは頷く。木簡を二人の間へと置いた後、アルルゥの手から果物と小刀を受け取った。我ながら上手くなったものだと苦笑するコゥーハをじっと見つめ、訝しむ声でアルルゥは問うた。
「……おと~さん?」
「いいえ」
適当な形に切り分けた果物を乗せた皿を差出し、コゥーハは答えた。
「カミュ皇女からです」
「カミュち~!?」
二人は各々驚きの声を上げた。最近沈みがちだった顔はなく、さながら、カミュが居る時のような輝きがある。無論、驚いたのは二人だけではない。いつの間にかムックルは起き上がり、急いで書簡を広げたアルルゥの後ろから覗き込むように首を動かす。
「カミュち~の字……」
ほんのりと、品の良い香が広がる。感嘆の声を上げたアルルゥから目を離し、コゥーハは帰り支度を始める。小刀を鞘へ納め、皮くずを整理し、不必要な物を選り分ける――手を休めることはないが、ぼうっとアルルゥを眺めているユズハに目を丸くする。
「如何されましたか?」
声を掛けられ、はっとしたようにユズハは身体を揺らす。不思議そうに首を傾げる二人に顔を向け、恥ずかしそうに顔へ手を当てる。指には包帯が巻かれている様子はコゥーハの目を惹くが、彼女の告白に耳の意識は自然と向いた。
「お手紙……もらったのが……初めてで……その」
どうしたらいいのか、わからない。彼女の問いに、簡単なことです、とコゥーハは目を細める。
「ユズハ様がお感じになったことを、そのまま仰せになれば宜しいのです」
アルルゥの持つ書簡が、ユズハの足元に移る。膝上に広げられた気を吸い込むように顔を上げ、ユズハは小さく、しかしはっきりと口にする。
「うれしいです……」
紅くなった頬を撫でながら、ユズハは書簡を近づける。差出人の彼女らしい、たどたどしい文字を、何度も視線を往復させる。
「カミュちゃんのお手紙……うれしい……」
手紙を見つめている二人に微笑み、コゥーハは皮くずを入れた皿を持ちつつゆっくりと立ち上がる。
「では。自分はこれにて」
退出しようとしたコゥーハだったが、その行動は制される。アルルゥに袖を引っ張られた事もあるが……彼女の気持ちを察したのだろう、ムックルの巨体が見事に出口を塞いでいる。アルルゥはムックルと意思疎通が出来るようだとコゥーハは推測しているが、それ以上のものを見せつけられ、感嘆と困惑で肩を落とした。
読む。と言いたげに手紙を示すアルルゥにコゥーハは目を丸くする。書簡を渡され、ユズハに目を向けている彼女に、ああと納得しかける。が、よくよく考えてみれば、アルルゥが読み上げれば良いのでは、とコゥーハは口に手を当てる。エルルゥの側で読み書きを習っている光景もコゥーハは見ているし、それほど問題ないと思われる――嘘か真か、アルルゥの書いた書簡が交り、朝議の場でエルルゥがうっかり読み上げてしまったという事があるという。何でも先日の内容は「おね~ちゃんが寝言をいっていた、不気味」のことで、その場の空気は和んだものの、エルルゥは顔を赤くし、残りの仕事そっちのけでアルルゥを追いかけていったとか――と言いかけるが、目をそそくさと逸らしたアルルゥに、茶色の長い耳が動いた。経験則でしかないが、アルルゥの態度にコゥーハは違和感を覚えた。人見知りとは違う彼女の態度、さながら、エルルゥに隠し事をしているかのような耳の動き方に。
受け取った書簡に目を通し、成程、とコゥーハは苦笑する。不思議な顔で首を傾けるユズハを気遣いながら、二人の視界が入るところに書簡を広げた。
「前文と末文は省略致しましょう。定型的なもので御座いますなれば、差出人の伝えたい内容はほとんどないかと」
おお~。と手を合わせたアルルゥに意地の悪い笑みをこぼし、コゥーハは改めて手紙へ目を向ける。間に挟まれた本文との温度差にますます微笑むも、きっちりと読み上げていく。
□■
ヤッホー! アルちゃん、ユズっち、元気してる?
カミュは元気だよ。ちゃんとご飯食べてるよ。でも、エルルゥ姉さまの温かいご飯、また食べたいなあ。ううん、絶対食べるもん。もちろん、二人やみんなと一緒にね!
そうそう。帰る時にエルルゥ姉さまから貰ったお弁当、すごく美味しかった! お姉さまがエルルゥ姉さまに宛てたお手紙にもちょっと書いたんだけど、もう一度お礼言ってくれると嬉しいな。
なんか不思議なんだけど、お家に帰ってからそんなに退屈じゃないんだよね……ムントがうるさいのは相変わらずだけど。だって、この手紙、最初の挨拶のところで五十回も書き直されたんだよ? それで、木簡が無くなっちゃって、練習用の木簡で書いたら上手くいっちゃって。で、綺麗な物でもう一度書いたら失敗して……あれ分厚くて書きにくいんだよねえ。結局、一番良い感じに繋いだのがコレ。あの木簡で書けるまで~、とか言い出さなくてホントよかったよ。もしかしたら、おじ様がコレ読んでいるかもだけど、許してほしいなあ。ムントの手紙、謝っている理由って、コレなんだ……。結び目あったり、ザラザラだったりツルツルだったりの理由もね。
あわわ。なんか文句と謝ってばっかり。しかもムントのこと。カミュのこと書かなきゃ。
でも、何を書いたら良いんだろ? ううん、書きたい事はいっぱいあるの。でも上手く言葉にできない、もどかしいなあ。友達に出す初めてのお手紙だから、緊張してるのかな?
コゥーハ姉さまはお手紙たくさん書くって言ってたし、聞いておけばよかったかなあ。そういえば、コゥーハ姉さまの知り合いにオンカミヤリューがいるって話を前に聞いたけど、誰だろ? なーんか、知ってそうなんだよねぇ。直感っていうのかな? 気のせいかな。
やっぱり、手紙より直接お話しするに限るね、うん。カミュはそっちの方が合ってるよきっと。早く二人に会いたいな。
あ、大事なことを忘れてた!
実はね。今度、お姉さまの補佐するお仕事貰えたんだ。お父様が、あんな話が分かる人だとは思わなかったなあ。
覚えること、難しいことが増えたけど、何故かそれほど嫌じゃないんだ。お姉さまのお手伝いが出来るなんて、嬉しくてうれしくて。それに――
もうちょっとしたら、お姉さまはお務め先に行って、カミュもついていく予定。お土産なにが良いかな? ハチミツは……う~ん、アルちゃんのハチミツを超えるものって持って行けない気がする。ご本も読みつくしちゃったしなあ。あ、何か考えて欲しいな! お返事くれたら、それ持って行くからね!
待っているね! 絶対だよ?
■□
読み終え、コゥーハは小さく咳払いをする。微かに赤くなった頬を逸らしつつ、ぼうっと手紙を見つめるアルルゥとユズハに向って微笑んだ。
「お返事、お書きにならないといけなくなりましたね」
「ん……」
二人は各々に頷くが、アルルゥの表情は少しの曇りを見せている。理由の推測に戸惑うも、困惑に近い視線をユズハに動かす彼女に、コゥーハの目も泳ぐ。
(……、失言でしたか)
コゥーハさま? と首を傾げるユズハに、コゥーハは何もない意を伝える。月明かりに照らされながら、努めて平静を装うその後方――部屋の外からエルルゥの声が入って来た。
「ユズハちゃん。ちょっと良いかな?」
薬の時間だというエルルゥに、コゥーハは慌てて席を立つ。二人の了承を得て返答する側、窓からは月が白い光で帳を照らし、蟲の音は心地良い風と共に部屋を抜けていく。
「では自分はこれにて。ああ」
書簡の用意は必要かとコゥーハは小さく訊ねるが、首を振ったアルルゥ達に頷く。やって来たエルルゥに会釈し、退出した側で立っているオボロと目が合う。互いに目を逸らした二人をよそに、エルルゥは小さな溜め息を吐いた。
「もう。こんなところに居ないで、中に入れば良いのに」
「さ、さっき来たばかりだ。それに、そんな所で突っ立ってられたら入れないだろ」
謝罪するコゥーハの前に立ち、エルルゥは両手に腰を当てた。たったいま出てきたコゥーハは関係ない、と庇った後、エルルゥはオボロが此処へやって来た理由を訊ねる――単にユズハの様子を見に来ただけという訳ではなく、切り傷に効く薬が欲しいと言ったオボロに、コゥーハは小さく首を傾げる。というのも、オボロがここ数日で怪我をしたという噂さえも聞いていない。現に彼の躰には、傷らしきものも包帯も見受けられない。何より、エルルゥの漏らした一言がコゥーハの気を惹いた。
「またですか?」
曰く。オボロはここ十日近く、エルルゥに薬が欲しいと依頼している。エルルゥは相当の量をオボロに渡してはいるのだが、なくなる頻度があまりにも早い。
「付け過ぎじゃないですか?」
「ちゃんと言われた通りの量しか付けていない」
「うーん。おかしいなあ、オボロさんの躰に大きな傷は……あ、もしかして隠しているんじゃ――!」
「無いっ。おい、こらやめっ――」
「時々いるんですよね、怪我を軽く見ている人って――」
もの凄い剣幕で相手の服を引っ張るエルルゥに、静観していたコゥーハも流石に割って入った。何とかして場を収めた後、指輪を外しそれとなく"見る"が、オボロの躰に異常は見当たらなかった。"淡い朱の光"は瑞々しさと勢いがあり、"金色の光"はしっかりと地に足を付けていたまま流れていく。
指輪をいじるコゥーハの疑念はますます深まる。同様にエルルゥも眉を寄せ、無理をしていないのかと再度促す。
「本当ですか?」
無い、と尚も否定するオボロだったが、その目は明らかに泳いでいる。さながら、嘘をついているカミュのような……顔が重なり、コゥーハは思わずくすりと笑ってしまう。案の定オボロに怒鳴られ、軽く頭を下げた。
「件の戦で、怪我人が多く出てしまいましたからね。それを恥じてなのか、遅くまで鍛錬する
「ちが――だから、その呼び方はやめろと」
「そういうこと、なのかと」
断言したコゥーハに、オボロは押し黙る。コゥーハは微笑み、エルルゥの方へ姿勢を正した。
納得は出来ていない風のエルルゥだったが、コゥーハの追加の説得に頷いた。
「分かりました。お薬はいつまでに持って行けば良いですか?」
「出来れば今欲しいんだが」
「えっ、今ですか?!」
これにはコゥーハも目を見開く。頼む、と頭を下げる様子からして、急ぎであることは推測できるが――コゥーハとは違った意味で俯いたエルルゥが、申し訳なさそうに口を開いた。
「丁度いま、材料を切らしていて」
傷薬の材料は、決して希少な物ではない。どれも近郊の山へ行けば手に入れることが可能で、ある程度の保存も可能である。一度に多くの量を使用する訳でもなく、故に、コゥーハは一つの懸念を抱く。
(もしや。エルルゥ様を補佐している者の采配が悪いのでは)
先の戦で倉の医薬品は減少したが、三日前に規定水準まで補充された旨の報告をコゥーハは書簡整理の際に見て記憶している。虚偽の記載の危惧はあるか、関連する事項を含めて見直す事をベナウィへ提案するべきか……心中で悩みつつ、コゥーハはオボロへ薬を手渡した。
「少ないですが。数回分御座います、お持ちください」
「あ、ああ……」
礼を述べる二人に、いえいえ、とコゥーハは微笑する。様子を見に来たアルルゥに応えるエルルゥの後ろで、ではこれにて、と踵を返す。が、おい、と呼び止められ、振り向いた。
「何か」
「……いや、何でもない」
「?」
コゥーハは再び会釈し、冷たくなりつつある廊下を足早に歩いていった。さながら、追ってくる視線と不安を遮るかの如く。
結局。その後ベナウィに会わずに今日の任務を終えた事もあり、件の提案は未だ誰にも口にしていない。それだけが理由ではない事を承知しながら、コゥーハは薄暗い廊下を歩く。兵舎近くの訓練場の側、今宵も空を切る音が響く夕刻、一際澄んだ一閃を耳で感じとり、思わずそちらへ歩き出す。ベナウィの慈悲無きものでも、クロウの重いものでもない、双が織りなす独特の波長――
「そろそろお休みになった方が宜しいかと」
コゥーハが足を止めた先、開けた場所で素振りしているオボロだが、その手を休める気配はない。
「自分の躰だ、俺が一番良く知っている」
「そう言って。躰を壊した者を、自分めは何人も見てきておりますなれば」
ふん。と鼻を鳴らし、オボロは兵舎の反対側、コゥーハが歩いてきた方向とは違う場所を睨む。
「あいつにも同じ事を言ってやれ」
茶色い耳の中で、凍つく疾風が反響する。オボロのものとは違う、聞き慣れた音に耳を痛めながら、ああ、とコゥーハは苦い顔で無理矢理の微笑を作る。
「……アレがまともに聞くとは思いませんが」
「なら。俺も取り合う気はないっ」
ぽろりと出てしまったコゥーハの本音もどこ吹く風で、オボロは腕を振る。長さが若干異なる二刀、それらを動かす体躯に、活かす剣閃、重心を乗せる足運び――根幹となっている部分は誰かに教わった節が見受けられるものの、良い意味で荒削りの技である。しかる所に打ち込めば、確実に致命傷なり得る撃……だが、それは受けてしまえばの話だ、とコゥーハはいつしか腰の剣を抜いていた。以前、オボロと手合せした際の感覚に染まりつつあることを自覚するも、相手の刀を滑らせながら、懐にある薬を呷った。
苦々しい薬を飲んだかのような表情をオボロは一瞬見せるが、絡まる一振りに自然と身体が動いていく。月影が白刃に乗り、押しが鎬を削る、切っ先が地面を抉り……しかし、どの閃もコゥーハの躰に迫る気配が無い。避けているのか、はたまた、避けていくのか――風に流るる音はしばし月下に満ちては、綺麗な刀は演武の如く落ちる。
当然、相手の顔に焦りが滲むのは早かった。同時に身体も強張り、早く大振りな立ち回りが増える。拍車をかけるように、コゥーハの言葉が並ぶ。
「切り上げからの、突き。受けた後、回し斬り」
「――っ」
オボロの思考が切り替わるより先に、躰がコゥーハの予想通りに動く。突きをいなした後、均衡が微かに崩れた相手の懐にコゥーハの剣は突き立てられる。
相手から距離を取り、小さく舌打ちしたオボロは一旦納刀した。
「まさか、"予知"と抜かすんじゃあないだろうな」
「まさか。強いて言うならば、経験からくる予測です」
自分の場合は記憶力の良さに頼り過ぎているだけですが、と付け加えるものの、独自の見解を示す。
同じ武器を使用する者や似通った性格の者の言動、我流といえど根本にある型、重心や視線の動き、ヒトがヒトという構造の躰ゆえの癖、等々。途中から呆れ顔になった相手に笑いつつ様々な物を割愛し、コゥーハはそれらの情報から次の一手を予測しているに過ぎない。
「ショウギや双六でしたら、はっきり申し上げて誰にも負けない自信が御座います。ずっと独りで棋譜を並べて遊んでおりましたからね。隊長はおろか、聖上にも負ける気が致しません」
「ふん。盤上遊戯の強さを自慢されてもな」
「ええ。仰る通りなのですよ。……ですが、オボロ様を
ますます険しい表情を取るオボロに、コゥーハの語気が平淡になる。
「同じことなのですよ。自分の場合、見えた手の先を打っているにすぎない。そして、見え過ぎる手を逃すほど彼はヒトがよろしくない。たとえ、組手であってもです」
オボロの手の下で、コゥーハは彼の刀の柄を握っている。彼の背後、片方の手には懐に忍ばせている小刀が首元で光る。
ふっと息をつき、らしくない事を喋った、とコゥーハは緊張を解いた。背中を向けた先、小さく吐き捨てた一言を聞かぬ振りを取りながら、独り言を口走る。
「焦る必要はない。アレが逃げることなど、断じてあり得ない」
ふっと目が合ってしまった事に苦笑し、コゥーハは廊下へと視線を逸らす。
「ベナウィ隊長とて、万能では御座いませんよ。クロウ副長には力で押し負けますし、オボロ様の速さはない。それに、ヒトがヒトである限り、過ちはついて回るが宿命。つぶさに観察すれば、一つの一手で読み間違っていることなど良く見えるものです」
「っ! だからその気色悪い呼び方をやめろと何度――」
聞き飽きたオボロの叫びが途中で止まる。二人が目を丸くしている先……寒くなりつつある廊下に立つ柱の側で、ユズハがそっと顔を覗かせていた。
「おにい……さま……?」
オボロの顔がみるみる白くなるのがはっきり見て取れた。すぐさま二人は駆け寄り、ユズハの体調を気遣うように身体へ手を添える。部屋へ戻るなか、微熱があることを指摘されユズハは終始謝罪を繰り返したが、何故出歩いたのかという問いに恐る恐るこう答えた。
「おにいさまが……いつもよりもお部屋へくるのがおそいので……しんぱいで……」
どういう事だと漏らしたコゥーハの隣で、オボロは苦い顔を俯かせた。
◆◇
兄者には言うなよ、と釘を刺された後、コゥーハは再びユズハの部屋の入口を潜る。ユズハと二人きりの室内、熱を和らげる薬を処方しながら待つことしばし。丁度ユズハが薬を飲み終えた頃、オボロが道具箱と小さな丸太を割ったもの二つ抱えてやって来た。これは、という質問に答えることなく隅にある小さな机と天板を取り出し、後者をユズハの膝元の上に設置する。
「お二人は何かを作っておいでなのですか」
コゥーハの問いに、ああ、とだけオボロは返し、急拵えの机に小刀と木材を置く。傷薬の入った小瓶も揃え、ようやく相手へと目を向ける。
「お前もやるか?」
「いえ。自分は精々桂剥きが精一杯の身であります故」
「……。念のために言っておくが。包丁の使い方を教えている訳ではないぞ」
幾許かのやり取りの後、オボロはユズハの手にそっと木材と小刀を握らせる。鞘から刀を抜く間、周囲に強い緊張が掛かる。が、ユズハが木材を掘り始めるにつれ、重い空気は僅かずつ分散されている。
恐ろしい程の集中力だ、とコゥーハは目を見張る。アルルゥ達とお喋りを楽しむ時と同じ微笑みだが、向き合う手元は実にしっかりしている。それだけではない――盲目だとは俄かに信じ難い。つけた凹凸は実に正確な像を描き出し、彼女らしい繊細さと優しさがはっきりと伝わってくる。
(どなたかの、お顔でしょうか?)
ユズハの側、コゥーハが微かに向きを変えた刹那、ユズハの手元が狂った。彼女の小さな呻きとほぼ同時、白い包帯が巻かれた箇所から赤い染みが広がった。
ああ、成程。と心中で頷き、コゥーハはユズハを慮りながらも、指を瓶に入れるオボロへ注意を促す。
「付け過ぎです。確かに、これでは三日も持ちません」
「だ、だが――!」
「付け過ぎで御座います。御心配は汲みますが、半分も必要ありません故」
「し、しかしだな! 治りが遅くなったら――」
本当に効くのか?! と取り乱すオボロに、「御自身の御躰で実証済でしょう」とコゥーハは小さく言い放つ。それ以上の反論を止めて押し黙る相手に苦笑しつつ、ユズハの手当てを完了させた。
傷薬なら自分に言えば用意する、と伝えた上で、コゥーハはゆっくりと立ち上がる。
「……エルルゥ様には事情を御説明されてもよろしいかとは思います」
それは、と視線を逸らしたオボロをコゥーハはじっと見据える。が、べとっとした薬の匂いがする手に腕を引かれ、その緊張を解く。
ふるふると、首を横に振りながら、ユズハは僅かに涙を溜めながら兄を庇う。オボロは悪くない、黙っていて欲しいと頼んだのはユズハなのだと――が、理由を問われると二人から目を逸らし、白い頬を赤く染めながら小さな肩を揺らし始める。
口を開いたオボロを制し、コゥーハは静かに時を待つ。三、五、十拍……蟲の音が一息入れる僅かな間に、ユズハの艶やかな口が震える。
「その……びっくり、させたくて……」
やや恥ずかしさの混じる告白に、墨色の目は丸くなる。更に縮こまっているユズハの肩をそっと撫で、コゥーハはゆっくりと相手の言葉に長い耳を傾ける。
曰く。エルルゥやアルルゥ、ハクオロは常にユズハへ新しいモノを――驚きを持ってきてくれるという。特にアルルゥに対しては、カミュが帰國して以降は何かとユズハを気にかけてくれるらしく、お礼がしたいのだと、率直な気持ちを手元に落とした。
もしかすると、アルルゥを驚かせてみたい気持ちがあるのかもしれない。推測は心に留め、コゥーハはユズハの額へそっと手を伸ばす。眉を上げるオボロには問題ないことを告げながらも、そろそろ休むべきなのだろうと促す……だが、荒れた片手に、純真な一粒が落ちる。
「でも……わたし……アルちゃんに……」
コゥーハを握る手は、祈りに近い。さながら、懇願と懺悔をするかの如く顔に近づけ、指先は芯まで震えている。それ以上、ユズハは語らない――声なき悲しみが満ちつつ中、宥めるコゥーハの側で、オボロが小さく補足する。
アルルゥは勘の良いところがあるし、ユズハは嘘を吐けない――他人を驚かせようということどころか、嘘を吐くという考えすら知らない子だった。故に……以上を語らなかったが、つい先刻の事だ、という言葉にコゥーハは口に手を当てる。加えて、数刻前のアルルゥとハクオロのやり取りが頭を過る。
何とも。と、目を伏せるコゥーハの隣、壁にもたれたオボロは天を仰いだ。無骨な手の平で顔を隠すが、失笑がこぼれた口元は弱々しく動く。
「……まったく。こんな事も気づけないとはな」
オボロの言葉が、コゥーハの心に深く突き刺さる。こんな時、何と言葉を掛けるべきなのか……不器用な兄の問いかけの答えはコゥーハの中にも存在しない。不意に、養弟の微笑みが瞼の裏に映し出され、正面で濡れる両眼は謝罪と自責の念で揺らぐ。後悔、という言葉は酷く不適切である、が、言い訳も弁明も口にしたくない苦さが、握られた手の内側で固くなる。
逆に心配され、コゥーハは努めて微笑した。寒かろうと無理矢理に話題を逸らし、側にあった薄手の肩掛けへと手を伸ばす。同時、入口から物音が聞こえ、オボロが険しい顔で扉を開け放つ。
「あっ……」
蟲の声が止む。息を呑んだユズハの視線の先、オボロの真下に、アルルゥは立っていた。が、すぐに後方のムックルの躰に隠れ、様子を窺うようにオボロを見上げる。そんな彼女に眉一つ動かさず、オボロは堅縁を微かに動かす。
「もう遅い。用がないならさっさと戻れ、エルルゥに怒られたくなかったらな」
扉は閉められることはなかった。アルルゥは片足を跨ぎ、その場でユズハを見つめていた。やがて、ユズハの呼ぶ声に耳を上げ、彼女の身体に飛び込むように抱きついた。包帯が巻かれた綺麗な指が撫でる中、小さな声が、静寂の部屋をゆっくりと解いていく。
コゥーハはそっと立ち上がり、二人に肩掛けを掛けた。尚も開いたままの入口へと問いかける。
「御二人は。入らなくてもよろしいのでしょうか?」
ムックルはその場に座り込む。その側で、エルルゥが穏やかな様子でアルルゥ達を見つめる。
「いいんです。……あ、それと」
事情は説明してくれますよね? とエルルゥはにっこりと笑った。
二人との仲が落ち着いた後。三人はユズハの部屋を後にした。アルルゥはムックルと共にユズハの部屋に残り、寝室に帰る道すがら、オボロがエルルゥに経緯を説明していく。
「オボロさんが許すなんて、ちょっと意外でした」
意外とはなんだと不満を述べるも、オボロはふっと息を吐く。丸い月を仰ぐ顔は白く、出来た影はどこか薄い。
「ユズハには。いろんなことを、させてやりたいからな」
それ以上、二人は何も言わなかった。柔らかな笑顔で歩く後ろを、コゥーハはただただ静かに付いて行く。しばしの後、分かれ道でエルルゥと別れ、再び二人で兵舎への道を無言で歩き始める。
「……言い出したのは、ユズハの方だった」
ふっと、オボロは語り始める。
随分と昔。トゥスクルにユズハを診て貰うより前、山で遭難したという男がオボロ達の住む家に転がり込んできたことがあった。衰弱が激しく、外も豪雨、ほとんど何も持たぬ身だった故に無闇に追い出すことも気が引け、一日だけ泊める事を許した。曰く、男は
「監視されているっていうのに、全く物怖じしない変わったオンカミヤリューでな。最近はまっている趣味とかいって、目隠しをして指で仮面を彫りつつ、みょうちくりんな諸國の噂話を相手に聞かせていたとか。それをユズハが見ていたらしい」
妙に痛くなったこめかみに手を当てながらも、コゥーハは茶色の長い耳を立て続ける。
男とユズハを引き合わせることをオボロはしなかったが、男はユズハの存在に気づいていた節があった。去り際、お嬢さんは存分に可愛がってあげるといい、と言った男の言葉を思い出したと付け加えられる。
守ることだけが、愛情ではない。はなすこともまた、相応に大切な愛なのだろう――
(……)
コゥーハは耐えきれず、場違いと思いながらも一つの質問を投げてしまう。
「どんな御仁だったのでしょう」
一瞬呆けたオボロだったが、難しい顔で唸る。
「なんせ随分と前の話だ、ユズハが話さなかったら忘れてる位にはな。昔は転々としていた事もある、はっきり言って、ほとんど憶えていない」
「左様で、御座いますか」
「が。まあ。当時で兄者より少し上の男だったか」
ふっと息を吐き、コゥーハは頭を下げた。疑問の目を向けるオボロに「なに、知り合いに似ていたもので気になっただけです」と笑って首を振る。
兵舎近くの丁字路、指を頬から離し、コゥーハは礼を取った。角を曲がるまでその場に見送るつもりだったが、オボロがじっと見据えてくる様に困惑する他なかった。
脊椎に汗が這う感覚に苛まれつつ、何か、とコゥーハは無理矢理口角を上げる。何でもない、と手を振るも、オボロは背中越しに呟き、廊下の影へと消えていった。
「兄者には、言わないでくれ」
「……はい」
承知致しました。微笑し、オボロが視界か消えた、刹那。肩を叩かれ、コゥーハの茶色い尻尾が逆立つ。手甲の重みからハクオロではない、指の長さからしてクロウでもない、寒気が走る静かな呼吸はゆうに百回の既視感と同じもの――防衛は不可、ならば逃げるが是か、と考えるよりも先に躰は動いていた。しかし、悲しきかな、手の主も百回以上の経験を有する猛者である、逃亡を許す事は無かった。
「今回の件に関しての報告書を」
淡々としたベナウィの声に、コゥーハは眉を痙攣させる。
「どの、一件、ですか?」
ユズハと指の包帯の件、オボロと傷薬の件、エルルゥとアルルゥの夜間外出の件……つらつらと案件が積み上がっていく中で、コゥーハの釈然としない心情が沸き上がっていく。
「聖上と、クロウ副長の件に関しては。既にご報告申し上げたはずですが」
「聖上の一件に関しては、改めて、事実のみ記載した報告書をお願いします」
「他者の報告との摺り合わせで穴を見つけ、聖上に詰め寄るおつもりですか? 本日は物理的に逃げられた、ばかりというのに。しつこい殿方は嫌われますよ」
「いえ。警備形態を見直した上で、例の経路を監視する事の方が優先でしょう」
つまりハクオロを追及する事は諦めていないのか。何処となくハクオロに甘いベナウィがはたして出来るのか、と心中で吐きつつも、了解致しました、とコゥーハは抑揚の無い声で肩を落とした。逃げる事は叶わぬと悟り、睡眠時間を計算しつつ、絶望的な数値に項垂れる。
(貴重な睡眠時間が……明日は朝議も控えている状況だと申しますのに……)
何か言いましたか? と冷徹な声に引き摺られ、コゥーハは腹を据えるように意識を集中させた。