うたわれるもの 琥珀の軌跡   作:ななみ

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混淆

 自分が〝見なかった〟可能性を考える事がしばしばある。

 十年前、()が彼の(オゥルォ)に立ち向かう道。

 体裁は整っていた。後は()のひと声さえあれば、というところまで至っていた。

 彼女は問うた。「〝番人〟が動けば、戦局は変わるか」と。

 結局、〝番人〟はこの問いに答えていない。()()()()()()()を描くことはなかったし、〝見えた〟ものに確信を抱いていたこともある。事実、()は決断しなかったし、自國が他國に侵攻される事は覆らなかった。()の思惑通り、領地は削られ、集落は炎上した。そして、それを見かねた()が逃げ出すことはなく、しかし黙って殺される訳でもなく、抗うために自ら剣を取る事も。故に、止めればならなかった――()()抵抗だけは、避けなければならなかった。

 意見と意見のぶつかり合い――喧嘩、と俗にいわれるモノが起きようとした。だが、自分はそれを良しとはしなかった。何故ならば、力の強い()()の自分は本気の()に勝てない事を知っている。そして、意見を通されたときの未来も〝見えて〟しまった。血を血で洗い流す、果てなき茨道のその先が。

 ならば、どうするべきなのか。自分の意見を汲ませるのであれば、本気で掛かってくるように、と対峙する相手に悩む自分に、珍しく■■■(彼女)が応えた。相変わらず無機質な様子で一言、喧嘩をしなければ良い。と。どういう意味なのか。■■■(彼女)の考えはすぐに肌で感じ取れた。

 悩んだのは一瞬だった。〝先読み(ズル)〟をする事に抵抗がなかったとは言い切れないが、どうしても自分が描くその先に繋げたい思いが、■■■(彼女)の言葉が自分にとっては甘美なものに受け取ってしまった。

 当時の、濁った自分の目には〝見えて〟いなかった。双方に深い傷をつけ合うことに。故に、その記憶ごと封印したいと思う程に。

 真正面、袈裟に切られた傷痕が疼く。赤黒く滴る()の、動きが止まった一瞬、()()は見逃さなかった。手に持つ剣に伝わる動きに無駄は一切無く、相手の喉笛めがけ――

 

 

 

※※※

 

 

 

 ぴちゃり、と冷たい液体が天井から降ってきた。若干粘つくようなソレは、呆けていたコゥーハの目を覚ますのに一役買った。掌に、肩に、額に。空気を読まず、染み出た地下水は彼女の体を容赦なく這いずる。

 トゥスクル皇城内にある地下牢。ベナウィ――あるいはハクオロなのか――の命により、件の奴隷(ケナム)は此の地にひとまず入れられていた。コゥーハが側にいるのは、彼女の傷の手当てのため……とはいえ、彼女におおよその傷は見当たらない。

 恐ろしい。と袖の無い彼女の服を着せながらコゥーハは思った。女性独特のふくよかさ、しかし一切無駄のないしなやかな躰を持つ彼女の躰には、一つの傷も痣もなかった。奴隷(ケナム)あるいは剣奴(ナクァン)――娯楽や戦で、戦い殺し合う事に従属された者――であろうに、だ。強いてあげるのであれば、血糊がべっとりと付いていた両手と爪くらい――シロトゥクの藩主の情報は正しかったのかもしれない、とコゥーハは〝見る〟。〝黒い光〟は彼女の手の〝淡い朱の光〟を中心にぐるぐると回っている。そっと目を外し、コゥーハは爪についた細かな汚れを落としていく。

 一通りの処置を終えたコゥーハは、側に畳まれている彼女の上着、彼女の持つ斑模様の耳、そして彼女の首元に嵌められている巨大な首輪へと目を向ける。刹那、自身の躰がぐらりと動いた。

(――……っ)

 シロトゥクからの強行帰還、嵐による各所の被害状況の取りまとめ、件の彼女の治療及び監視……およそ二日は碌に寝ていないか、とコゥーハは冷静に分析する。更に今後の復興作業を鑑みるに、そろそろ休養を摂らねばいけない頃合いか、と己の腹部――古傷を無意識に擦っていた手を離す。同時、良く知る声が周囲にこだまする。

「コゥーハさん」

 エルルゥ様、とコゥーハは立ち上がろうとするが、エルルゥはやんわりとそれを制した。ゆっくりと牢の中へ入りながら、やってきた理由を簡潔に述べる。

「交代の時間ですので、コゥーハさんは休んで下さい」

「しかし」

「その……ハクオロさんの命令なので」

 うっ、と呻くコゥーハに、やはりと言いたげな表情でエルルゥは苦笑する。その反応に、多少なりともむっとしてしまったことを謝罪しつつ、コゥーハはゆっくりと立ち上がる。

「しかしながら」

「あ、ハクオロさんからの伝言なんですけど、多分コゥーハさんの心配する事は起こらないだろうから、きっちりと睡眠を摂るようにって」

「…………」

「ほ、ほら、護衛の方も一人来てくれてますし、ね?」

 気配を消すように外で佇んでいた男がゆっくりとこちらを伺う仕草を見せる。歩兵衆(クリリャライ)分隊長である彼に礼を取り、コゥーハは静かに肩を竦める。

「承知致しました。聖上の命であれば、致し方ありませんね」

 ふふ。と微笑んだエルルゥにコゥーハは疑問を投げ掛ける。その問いに、エルルゥは尚も笑う。

「あ……反応が、ちょっとベナウィさんに似ているなって」

「――……。隊長がまた無茶でもされたのですか?」

「そ、それは」

 肯定も否定もしないエルルゥに、また釘を刺しておくべきなのか、させて貰うべきなのか、とコゥーハは逡巡する。が、おぼつかない自身の躰を壁に預け、人の事は言えないものだ、と心中で苦笑した。

「では、自分はひとまず仮眠室におります故」

 何かあればすぐに駆けつける次第を付け加え、コゥーハは牢を後にした。

 地下牢を出た直後。疲れ切ったコゥーハの躰を、暖かい空気が包み込む。嵐の反動なのか、照りつける日差しは無遠慮に躰を突き刺す。チリチリと焦がれる痛み。存外疲れているのかもしれない、と目を伏せながらコゥーハ仮眠室へと向かった。

(さて――)

 皇城内にある仮眠室は幾つか存在するが、そのどれもが人で溢れかえっていた。そこに横たわる誰しもが疲れ切った表情をしている――雨嵐の被害の対応中であるからして当然と言えば当然なのだが、故に満室の中で貸してほしいというには躊躇われる空気が漂っていた。各所を右往左往し、地下牢から遠くなるが自室へ戻るべきか、と廊下で考えを巡らすコゥーハの正面からやって来る者が、一人。

「隊長……」

 軽装のベナウィは相変わらず涼しい顔をしているが、目元にうっすらと黒いモノが見えた。それを無視するようにコゥーハは視線を外す。

「隊長は仮眠をお摂りになったのですか?」

「貴女は」

 これから、とコゥーハが答えると、そうですか、とベナウィは自身の頬に手を当てた。何かを言いたげな、若干迷いの感じ取れる視線を彷徨わせる彼に、コゥーハは目を丸くする。

「よもや火急の案件が」

「それなら幾つも――いえ」

 目を伏せるベナウィに、言い知れぬ歯切れの悪さをコゥーハは覚える。切迫した用件では無いのだろう、しかしながら、コゥーハに用があるかのような。

 コゥーハは頬を叩き、器用にぎこちなく笑ってみせた。虚勢を張っていることは自覚している。それでも此処は、嘘を吐いてでも彼に食らいつく必要があるように感じられる――

「白状しますと。先程、仮眠を終えたところで。少々眠くは御座いますが」

「……」

 人差し指を頬に押しあてながら、コゥーハは笑い続ける。そんな相手に叱る事もなく無言の一息を浴びせ、ベナウィは自身の書斎へ来るように促した。

 

 

 

 相変わらず、木簡の山が多い書斎。部屋の主に言われるがままに、コゥーハは部屋の奥へ通される。西日が差す広縁の側に座るように指示され、疑問を抱きながらも敷かれた座布団の一つに腰を落とす。

「丁度。貴女と同じく、聖上から休むように命を受けまして。ですが」

 何故、と問う前にさらりと答えられ、コゥーハは舌を巻く。相手の様子を知ってか知らずか、ベナウィは普段の淡々とした調子で一つの湯呑を渡した。双方にツンとした香りを発している事にコゥーハは眉を動かすも、わざとらしく中身を飲み干し一息吐きながら、差し出された複数の書簡に目を通す。書簡の内容は全て、シロトゥクを治める藩主とのやり取り――暗に意見を求めて来た相手に、コゥーハは自身の顎に手を当てる。

「チセ殿は、知っての通り、裏表のない、自分の発した言葉に責任を持つ御方です。彼女が弓を引く、と決めたのであれば、本当に彼女は挙兵するでしょう。しかしながら、クロウ副長がいる中で、改めてベナウィ様に訊ねた意図は一つ、単純な事です。貴方もそれは理解しているはず」

「本当に戦う意思は無いと」

「そもそも。十年前ならともかく、彼の地を護るために藩領を焦土と化する覚悟を持たねばならない理由など理解出来ません。そこまで付き動かす忠義なり名分なり打算なり――もしや」

 寸でのところで言葉を呑み込んだコゥーハだったが、相手の冷ややかな視線に息を吐いた。

「もしや。彼女が件の皇太子あるいはご息女の消息をご存じなのでは」

「……」

 彼女の望みは、領地の安寧と、仕える一族の再興。それ以上でもそれ以下でもない、というのはコゥーハの見解である。ただ、やはり、コゥーハの意見は変わらない。彼女がその気ならば、既に担いで事を起こしている。どんな状況であろうと()()()はもう懲り懲りだ――十年前に呟いた彼女の一言も反芻される。

 それを聞いて少し安心しました、とベナウィは湯呑に手を付けた。ふっと息をつく彼の鼻梁は高く、緩んだ唇はしかし強さと固さが抜け切れていない。横顔に映る青みがかった黒い瞳は暖かさと明るさを内包し、遠くの定点を見据えている。

「十年前のような事は。特に彼の地での戦は、したくはありませんから」

 十年前ですか。言葉を置いたコゥーハは目を伏せた。数拍程度の、沈黙。しかしそれ以上に長く感じられた重いソレを、ゆっくりと瞼を押し上げるようにコゥーハは引き剥がす。

「色々と、御座いましたからね」

 ええ。と、湯呑を手繰り寄せるベナウィの声が、若干震えた。

現在(いま)でも、彼の地へ足を運ぶ時、ふっと思うことがあります。勿論」

 最終的にコゥーハの言を取った事は()()であったに違いない。と、現在の自分であれば理解できる。それでも、なお。一縷の()()が頭を過る事がある。

 十年前。もし、自分の意志が強ければ、自分に力があれば。もし――手が添えられている首元、一旦切った言葉は、十年前にコゥーハが捨てた一言と共に吐き出される。

「もし。自分が、貴女の言う通り、貴女を独り傷付けただけで怯むような臆病者でなければ。もっとマシな未来があったのでは、と」

「――……」

 コゥーハは晴天の蒼穹を仰ぐ。

 此処で意見を言うのは簡単である。何なら彼の言う()()を演算しても面白いやもしれない、とコゥーハは指輪を触りながら心中で嗤う。ただ、如何なる言葉を並べたところで、彼が納得する意見を差し出せる訳もなし。そう思える位には、ベナウィとの付き合いは長いのかもしれない、と息をつく。

 確かに貴方は臆病者だったのかもしれない。十数年前に、彼の道場が焼け落ちて以来、ベナウィの()()が消失していることも、まがりなりにも理解しているつもりである。しかし。と、コゥーハは手持無沙汰に湯呑を回す。

「それでも。()()と今もなお思っている貴方は決断してきた。逃げる事なく、抗い、血反吐を吐きながらも、最善と思われる道を探して、生きて、心を殺しても生き延びる道を選んだ。その責任は一生負っていかねばなりません。それが、数多の犠牲の上に立つ者の運命なれば」

 それに。コゥーハはそっと湯呑を置いて、目を合わせる事なく、震えたベナウィの片掌にその手をそっと合わせる。

「貴方が決めたことで。救われた命も多数存在します。それらの()()もくれぐれもお忘れなきよう」

「……――」

 批判でも、励ましでも、最善でも最悪でもない、月並みな言葉だ、と笑う。それでも本心を言うべきなのだと言葉を尽くした。届く、などという驕りは持ち合わせていない。それでも――押し付けなければ気が済まない。そんな気がしたのだ、と改めて空を仰ぐ。

 照りつける日差しの中、コゥーハはそっと相手の顔を流し見る。湯呑の水面を見つめる彼の顔は前髪に隠れて見えない。しかし口元は何かを噛み締めるよう微かに震えている。やがて湯呑の中身に手を付けた相手に「話題を変えましょうか」とコゥーハは笑って見せる。

「牢で監視している件の奴隷(彼女)ですが。どう見ますか」

 どう、とは。と意図を分かり兼ねている様子のベナウィに、そのままの意味ですよ。とコゥーハは続ける。

「戦力として引き入れるか、否か」

「……」

「戦に特化した躰を持つあのギリヤギナ族ですからね。それに」

 躰に痣などが無い等、私見を述べるコゥーハに耳を傾けながら、端正な顔立ちそのままに、ベナウィは一つの問いを、コゥーハと目を合わす事なく、しかしはっきりと口にする。

()()より、ですか?」

 コゥーハは一瞬言葉に詰まるが、すぐにふっと吹き出して笑ってみせる。

「何を仰いますか。自分めなど、比較にならない位に強いかと思いますよ。相手はおそらく剣奴(ナクァン)。潜った経験の数が違い過ぎるかと」

「――……」

「なんでしたら。実際ご自身でお確かめになっても宜しいかとは。今や三國にも鳴り響くそのご自身の槍を持って、ね」

 それは。息を呑んだベナウィとは対照的に、コゥーハの口調に淀みはない。

「聖上は。十中八九――雇い入れたい旨を示すはずです。……ええ。現状、貴方が危惧するナ・トゥンクの干渉の危険性よりも、眼前のシケリペチムの脅威の方が勝っている、と。無論」

 彼女の気持ちと実力次第ではあるが、とコゥーハは顎に手を当てる。

「遠からず彼女の実力を見定める機会は巡ってくるはずです。いえ、副長達が、と言いたい訳ではありません。納得行かないのでしたら、ご自身でお確かめになった方が早いのでは、という提案です」

 コゥーハに白羽の矢が立つ可能性もあるのでは、と指摘する相手に、実力不足だとコゥーハは尚も笑い飛ばしてみせる。

「そうそう。そういえば、こんな噂をご存じでしょうか」

 曰く。数年前、未だ幼さの残る少女がとある大会で闘覇者に君臨したと云う。しかしながら、彼女はあまりに強過ぎたために恐れられ、死組として戦場に送られた。しかし、それでも彼女は生き残り、今でも戦場から戦場へ渡り歩いていると云う。噂では、その少女は絶滅したと云われるギリヤギナ族だったとか――そよ風に身を任せながら、コゥーハはあくまで噂ですよ、と付け加える。

「その彼女では、とまではさすがに申し上げられませんが。自分めの期待値はかなり高いのですよ」

「それだけでは、ないのでしょう」

「……」

 空の湯呑を見下げながら、コゥーハは揺れる墨色の髪を撫でる。

「……良く。夢を見るのです。炎の中で、赤ん坊の私を抱いて、とある男から逃げる女性の夢を」

 その男が――言いかけて、コゥーハは口を噤んだ。いいえ、と頬を叩き、私用が過ぎますね、とぐっと伸びをする。

「さて。そろそろ眠気が回って来ても良い頃合いですが――未だ効いて来ないようですね」

 互いに薬には耐性があるようだ、と困惑してみせたベナウィに、どうしたものですかね、とコゥーハは肩を落とす。

「休めと言われている手前、運動する訳にも参りませんし……おや」

 いつしか目を向けられていた先、部屋の隅、布が掛けられた直方体の物体にコゥーハの尻尾が上がる。人差し指と中指を合わせる仕草をした相手に、久々に良いかもしれない、とコゥーハはソレに手を伸ばす。座布団が向かい合うように設えた一席、黒線で細かな賽の目状に区切られた盤上に各々駒を並べていく。

「ショウギなんて、いつ以来でしょうか」

 対局自体はかれこれ十年は経っているだろうか、と首を捻る相手の向かいでコゥーハは微笑み、五つの同じ駒を手に取り、床へと落とした。五つの内、二つが表面を向いていることを確認し、一言告げる。

「お先にどうぞ」

 コゥーハが並べ直したのと同時。素早い最初の一手をベナウィは打った。それに反応して、コゥーハも素直な一手を運ぶ。十手、二十手、三十手前で一時手を止めた相手の向かいで、コゥーハは先程のやり取りを振り返っていた。

(アレが仮定の話など――……)

 打たれた変化球に感心を抱きながら、迷いのない一手をコゥーハは取る。数手進んだ先で、またもや手を止めた相手から目を外し、周囲の景色へ視線を飛ばす。

(聖上――……ハクオロ様の影響、なのやもしれませんね。あるいは)

 コゥーハ。と名を呼ばれ、コゥーハは盤面へ意識を戻す。既に手が回っていた事を理解し、慌てつつも、着実に次の手を進める。その様子に、ベナウィはおもむろに口を開いた。

「考え事、ですか」

「私とて、考え事の一つや二つ御座いますとも」

 そういう意味ではない、と言いたげな視線を余所に、それに、とコゥーハは見下げる笑いを墨色の瞳に忍ばせる。

「駒落ちをしない以上、多少の――……おや、この局面。その手で本当に宜しかったのですか?」

「――っ」

「ふむ。……そう構えずとも。もっと自信を持って打って下さいませ。貴方の腕は確かなもの、なのですから」

 何かを言いたげにベナウィは息を吸うが、次の一手と溜息と共に閉口した。淡々と駒を動かす相手に、コゥーハはおもむろに本音を語る。

「私でもなし。貴方が仮定の話など、と思っただけです」

()()()ない、と」

()()()、とは思わなかった、だけです」

 かん、と押し付けるようにコゥーハは駒を動かす。黙々と進める事、互いに十数手。顔にこそ出さないが、じんわりと手汗滲ませながら長考する相手に、コゥーハは陽だまりの中でからからと笑う。

「さて。次は如何しますか?」

 黙るように、と言いたげな苦悶の表情を浮かべるベナウィの向かいで、コゥーハは居住まいを正す。ようやく眠気が回ってきた気配を掴みながらも、盤上の戦局をしっかりと見据える。

「後悔。しておいでですか」

 いいえ。沈黙の中、たった一言だけ置いた明確な否定。そっと抱くように、コゥーハは微笑って首を縦に俯かせた。

「ならば。今更考えるだけ無駄ではありませんか、ね」

 ぱちん、と爆ぜる音を響かせ、コゥーハは強く一手を打った。刹那、入口からやってきた気配に身体を向ける。

「これは聖上」

「二人共本当に休んでいるかどうか様子を見に来たんだが――……やはりか、とも思ったが、これはちょっと意外だったな」

 邪魔だったかな、と手を上げるハクオロに、ベナウィは静かに首を振る。明るい日差しの降りる中、やがて駒台の上に手を置き、対局者へ向かって頭を下げた。コゥーハも倣うように頭を下げ、取り出した木簡に棋譜を認め始める。

 残っている盤上を眺めながら、ハクオロは感嘆にも近い声を上げる。

「後手は――コゥーハか?」

「はい」

「これはまた――ショウギの腕は良いとは聞いてはいたが……相手が相手だけに、なのか。見事なまでに、隙が無いな」

 あまり長引かせるのも、と思いますので。とコゥーハは書き終えた木簡をベナウィへ渡した。片づけを終えた後、それで? と言いたげな様子で見上げてきた彼女に、ハクオロは言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

「件の彼女が、目を覚ましたそうでな。とはいえ」

 エルルゥ曰く、目を覚ましたのは一瞬で、また気を失ったようだ。と補足したハクオロに、コゥーハの眉が自然と上がる。

「それもあって。二人の意見を――と思ったんだが」

 急ぎでもなし、また出直すとしよう。と微笑するハクオロの視線の先、下を向いたまま動かないベナウィに、コゥーハは自身の外套を掛けた。何も言わない相手をそっと横にさせながら、コゥーハはおもむろに口を開く。

「ハクオロ様」

 ん? と自身の首元に手を当てるハクオロに、コゥーハは笑う。

「ありがとうございます」

 肯定も拒絶もせず、無言で自身の頬を掻くハクオロの向かいで、コゥーハはそっと目を閉じた。徐々に薄れゆく意識の中で、温かな空気に包まれながら、自身も固い床に身体を預ける。その口元は不思議と緩いものになっていた。

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