斬られた箇所が生温い。斬った箇所が生温かい。十年を経て、ねっとりとへばりつくソレは改めて思い起こされた。
気持ちが悪い。今にも吐きそうな感覚。望んだ事だったが、望まぬ結果となった。それよりも、それに対して
自分が。私が失せていく感覚――何も動じず、ただただ問われた事に対しての最善策を吐き出す人形。十数年前にいた自分のソレに近い。戻り行く自分を受け入れ難かったのかもしれない。コゥーハは心に蓋をする道を衝動的に選んだ。感情的に、というのは自分なりのささやかな抵抗だったのかもしれない、とコゥーハは当時を振り返る。そこに後悔は無く、しかし心残りはあった。結果として、それは杞憂に終わったものの、それ故にぽっかりと浮いた感情だけが浮き彫りになっている。
「その感情、分からないでもないな」
ふっと、ディーの声がしたような気がした。以前にぽろっと吐きだした際に真逆の事を言っていた彼へと振り向くが、彼の姿は何処にもなかった。代わりに、"黒い光"が真っすぐ伸びた方向にすっと手を伸ばし――意識が暗転した。
※※※
はっと目が覚め飛び起きたコゥーハの真横で、今宵の任務の相方が間延びした溜息を漏らす。
「任務中に居眠りとは。おまんさんも相当肝が据わっているというか」
呆れの中に若干の訛りが含まれる男性の声。相手の名前を呼ぼうとして、彼に遮られる。
「ナカでよかよ」
そう言いながら、男性――ナカは徳利の中の水を呷る。至って真摯な視線――その顔は特に目立った特徴はないが、彼は元
「これでも夜目はきく方だと思っておったんだが――」
綺麗な月が真上に達しようとしている夜。皇城近くの物見櫓の上から、二人は眼下を見る。当然ながら、皇城入口に近づくにつれて警備の数は多くなっており、同じく当直の同僚たちがあくびをしながらも、不審者が居ないかと目を光らせている。
「ここからだと、全体が見渡せるってベナウィ侍大将は仰っていたが……さすがに全ては見えんとよ。おまんさんは見えとるか?」
「はい。"見えて"おりますよ」
左手の中指に嵌められた指輪を擦る真上、墨色の瞳に若干の黄色い光が陰る。その虹彩はまばゆい月明かりに隠れて消えた。
(ふむ。北西の二人は少しばかり元気がなさそうですね。ずっと夜番が続いているからでしょうか。南東の一人は怠けているようですね。微かにお酒か肴の入った気配がします)
コゥーハ殿? と首を傾げるナカに、なんでもありません、とコゥーハは笑う。そんな相手を訝しみながらも、ナカは遠方へ目を向けつつ頭を掻く。
「しかしながら。件の奴さんは
本当に、過去に侵入者が居たのか? という問いに、なるべく内密にして下さい、とコゥーハは声をくぐもらせる。
「少なくとも。一回は侵入されている形跡がありました」
コゥーハは決して嘘は吐いていない。シケリペチムからの侵攻直後にハクオロが警備体制の穴を指摘した折、コゥーハの問いに対してハクオロは侵入者が居た事を認めている。その後、それとは別に不備が発覚したのが、丁度半期前。同じくハクオロの口から、ベナウィもオボロも通さない状況で指摘を受けた。仮面の僅かな隙間、うっすらと見える目の下のくまを隠しながら。
ならば、どうするべきなのか――コゥーハが奏上した案の一つが、これである。
「わざと穴ひとつ作ってそこをお通り願うって……相手は相当の手練れと見た、そんな上手くいかんでしょ。それに」
それに。それはいわばハクオロを囮にするようなものだ、と若干の怒りを露わにした相手に、それはその通りなのですが、とコゥーハは情けない声で笑う。
「聖上自らお認めになってやる気を出してしまったのですから」
「奏上する方もするほうって言いたいんですがね」
「ナカ殿はスギ殿よりずっと真面目ですね」
笑って気を逸らすコゥーハに、ナカはうっと項垂れる。
「あいつの話はやめて下さい。同郷だからってよく一緒にされて迷惑してるんですから……」
ただまあ、あいつも根は真面目なんですよ。と息をつくナカに、仲が良いのですね、と適当に相槌を打ちながら、コゥーハは反対側の景色を見下げる。刹那。コゥーハの中に眠る"金色"の光が浮かび上がる。が。
(……――南西。木の根元に動く影、二つ?)
「ナカ殿! 鏑矢二本!」
「は?! そんな奴何処にも――」
早く! というコゥーハの強い声に、どうなっても責任取らんぞ!? とナカは矢を二本放つ。同時、半鐘を鳴らした後、コゥーハは備え付けられてある弓矢を手に取り階段を一気に駆け降りる。慌ただしく城内を右往左往する周囲を縫うようにしてコゥーハは最短距離を走っていく。
ふっと。腰に当てた手が長刀に重なり、コゥーハは苦笑する。彼女の胸の内を知らずか、息もそこそこに追い付いて来たナカは相手の刀を見つめた。
「そういや今日は槍じゃないんですね」
「流石に城内で槍をぶん回す訳にも参りませんでしょう」
「それもそこそこ長いと思いますがねえ?」
新調したのか? という問いに、コゥーハは適当に頷く。今はそんな事を考えている場合ではない――逃げられたら最期、同じ機会はもう二度と巡って来ない。そのような確信が心を打つ。
動きは演習の通りに、と声を飛ばしながら、コゥーハは二階の窓から一気に飛び降りる。若干右足を捻った感覚があったものの、別段痛む事はなかったので、問題なく目的地へと地を踏みしめて行く。真上からナカの怒鳴るような声を受けるが、二階から並行してやってくる相手に向かって、二つの印をつけた地図を投げる。
「おおよそですが、皆がバツ印の地点へ追い込みます。ナカ殿は丸印の付いた地点から狙撃援護して下さい。当てなくて結構です。足元で十分ですので」
「はぁ!? 阿呆か!? そないなことしたら、おまんさん達に当たってしまうやろうて!?」
「なに。出来れば、でよろしいので。どちらかと言えば、相手がどんな人物なのか観察して下さい。その夜目が利く、鋭い観察眼で」
※※※
「どちらかと言えば。捕らえるのではなく、まずは一瞬でも足止めをさせるのが目的と申しますか」
朝議が終了した午前。ベナウィとコゥーハしかいない室内。手持無沙汰に前髪をいじるコゥーハの正面で、ベナウィは小さく息をつく。
「もう少し分かりやすく話して下さい」
「おそらくですが。聖上をお連れした件の手練れは、相当な腕かとお見受けします。幾重もの修羅場を潜ってきた者、トゥスクルにいる誰も勝てる者がいない程に、強い御仁かと」
「……」
ベナウィは沈黙とずらした視線をもって回答する。口元に手を当て熟考する相手につられるように、コゥーハもすっと手を下げる。
「でしたら、捕らえるなんていうのは夢の話。かといってこのまま何もしないのも、此方としては悔しいものです。なので、侵入された事実、もしくはその者を見た、という事実をまずは作ろうかと。それにより、警備体制の強化に消極的な者達へ働きかけできるでしょうし」
つまり? と促してきた相手に、コゥーハは地図に手を伸ばす。
「侵入者に気絶させられた、という事実が欲しいのです」
改めて警備の穴が他にないかどうかコゥーハはつぶさに見直していく。そんな相手を一瞥し、ベナウィも居住まいを正す。
「気絶させられる、前提ですか」
「勿論。一人でも意識を保っていられるのが何よりですが」
まあ。とコゥーハはくっと眉を寄せる。
「先程の見解も含めて。直感、ですが」
「……――幾人も見てきた貴女の直感は、無下にできませんね」
褒め言葉として受け取っておきます。とコゥーハは微笑し、地図に印を二つ付ける。
「理想は、此処に引き付けて、こう――囲う。そして、此処から一人その様子を観察する形でしょうか」
「此処を含めて全体を見渡せる場所は――」
「此方。不幸にも一か所ですね。とりあえず今期は自分めが詰めましょう。言い出しっぺがやらぬは無責任というものでしょうし」
「さすがに一人で、という訳にはいきません。もう一人、部隊長の誰かを交代で付けます。良いですね」
「おや。自分が怠けるとでも?」
憮然とした視線を向けられ、コゥーハはすっと肩を竦めて見せた。
※※※
(そろそろ目的地に――……っ!?)
チリチリとした肌の痛みが走り、コゥーハは矢に手を掛ける。微かに震えてしまった手に強く力を込めながら、矢を番える。みしみしと悲鳴を上げる弓を申し訳なく思いながらも、更に力を込める。
(やはり、誰かいますね……)
十歩、五歩、三歩――ゆっくり呼吸を落ち着けながらコゥーハは立ち止まる。東に西に、南に北に、その場を見渡し、薄暗い中を歩いていく。反復動作をすること、三回。すでに壊れてしまった弓と矢を置き、左手の中指にある指輪をふっと緩めて"見る"。仄暗い霧の空間で、幾人もの"金色の光"が転がっている。そのどれもが動いていない。慌ててそこに駆け寄ると、コゥーハの同僚達が倒れていた。どうやら全員急所に一撃を入れられ気絶させられているようだ――命に別条は無いことにコゥーハはひとまずの安心を覚えた。
「とりあえず。一つの目的は果たせた、と思うべきなのでしょうか」
しかし、この殺気に近い空気は何だ。とコゥーハは咄嗟に自身の刀に手を伸ばす。刹那、するりと躰が動いた。
背後から、音も無い鋭い突き。ただ一つの救いは、正確な一点狙いだった事か、とコゥーハは逡巡する。左下で抜いた鞘を滑らせ、その筋を間一髪のところで弾く。強く重い反動が鞘を軋ませるが、考察している暇など刹那も無い。
音から察するに、峰で二回。振り向きざまに入れられた斬撃を、コゥーハは見る間もなく刀で受け止める。その双眸は、いつの間にか、月にも似た美しい金色を帯びている。
「――――」
重さに耐え兼ねず膝を折った、コゥーハが巻き上げた砂塵に惑う、息を呑む男の低い声。
(――……この声は)
刹那。来る――そう確信したのは何故であろうか、とコゥーハはふっと思う。見た事もないはずの速さ、聞いたこともないはずの音、感じた事もないであろう撃の重さ。およそ体感したことのないモノに自分は付いていっている。否、まるで――
(っ!?)
防衛に走った右足に激痛が走る。寸でのところで耐えるが、一度崩れた微かな歪みを見逃してくれるほど、相手の切っ先は甘くはなかった。数厘単位ですり抜けた一撃は、確実にコゥーハの意識へ襲い掛かった。
ぐらり、と意識が暗転する。その僅かな一拍、月明かりに照らされた相手の姿が金色の瞳に映り込む。
相応の齢を重ねた、武人のような男である。無表情で、持つは刀。他にある特徴と言えば、猛禽類を思わせる両耳と――
(――……っ!)
『貸せ』
不敵に笑う、
※※※
「と。いう訳でして」
そっと三回目の溜息を吐く相手に、コゥーハは人差し指で頬を突きながら同じ釈明を繰り返した。
「想定以上に。相手が異常なまでに強かったものでして。これ以上の事はあまり憶えておりません故」
「……これ以上は言えない、と」
「憶えていない事柄を、事実を捻じ曲げて言えと仰るのですか?」
そうは言っていない、とベナウィは立ち上がり、とりあえず今日は休息を摂るようにと言い残し、部屋を去った。自室に昼間から取り残されたコゥーハは伸びをし、痛む節々に手を回す。
空に雲が半々くらいの晴模様。それでもほのかな暖かさを感じる昼寝日和。せっかくだし、気の赴くままに行動しても良いか、などと思案していると、戸を叩く音がする。
どうぞ。と声を掛けた後、おずおずと覗くように入ってきたのは、コゥーハの知る意外な人物であった。
「おや。パララではありませんか。別に自室へ入るくらいでしたら叩く必要などないでしょうに」
いや……。と気まずそうに自身の頬を掻く。廊下を一瞥し、一歩だけ部屋に足を踏み入れる。
「ベナウィ侍大将に会ったらちょっとばかしマズいとおもってな……つい」
「おや。お酒でもくすねましたか? それとも仕事を未だ片付けずに抜け出して来たのですか?」
アンタと一緒にするな! とパララは眉を上げる。そんな彼女の肩をそっと叩く男が一人。
「まあ。似たようなものだ、私はな」
「これは。聖上」
ハクオロは立ち上がろうとしたコゥーハを制し、数歩下がって恭しく敬礼したパララに「後は頼む」と微笑んだ。了解の意を示し、パララが去ったのを見送って、部屋の主が設えた座布団に腰を降ろす。
「コゥーハと少し話がしたくてな」
「……」
簡素な茶を差し出したコゥーハにハクオロは手を回し、ほっと一息ついた。
「黙秘を貫いてくれているそうだな」
なに、人払いはパララに任せてある。とハクオロは笑う。
「彼女は真面目だな」
「ちなみに。どのように懐柔を?」
「いや? コゥーハの今日の平時の仕事の一部を請け負ってくれているからな。
「…………」
まあ、今日ばかりはベナウィも許してくれるだろう。とハクオロは茶を啜る。そんな相手に若干目を泳がせつつも、コゥーハは茶を持って向かいに座る。
部屋に沈黙が降りる。どうしたものか、とコゥーハはしばし待った後、そっと切り出した。
「ナカ殿がもう少し見ていたら、お話しても良いかな、とは思っておりましたが」
「それはかなり難しいだろう。暗がりで、遠くから、あのやりとりだ」
ということは。あの場にハクオロも居たのか。部下の問いに、ハクオロは肯定する。
「丁度帰り道に送ってもらうところだったのでな」
「彼の御仁は」
「問題なく」
左様ですか。とコゥーハはほっと息をつく。茶色の水面へ目を落としつつ、自身の墨色の目を覗き込む。その真上から、しかし驚いた、と感心するハクオロの顔が映り込む。
「コゥーハがあんなに腕が立つとは。槍より剣の方が余程強いのではないか?」
「剣は加減が利かない事が多い故、好みません」
そうは見えなかったが、と首を捻るハクオロに、コゥーハは更に目を逸らす。
「今回ばかりは、相手の技量に助けられましたが。生半可な相手だと誤って斬り捨ててしまいかねません」
なんと申しましょうか、とコゥーハはそっと窓の外へと目を向ける。
「制御出来ない程に意識が昂るか、冷徹なまでに非情に接するかのように。そう、まるで――」
言いかけて、コゥーハは黙って微笑に留める。そんな相手にハクオロは驚きも呆れも感嘆とも違う表情をそっと手で隠した。
「で、ここからが本題なのだが――」
これは、と差し出された小さな紙――おそらく矢に結われていたものだろう――を見据えるコゥーハに、ハクオロもやや困ったようにすっと顎を引く。
「なんでも。コゥーハに会いたいと言ってきてな、
「何故に」
「それはあれだろう。書いてある通り……ゲンジマル――あの男に一矢報いた事だろう」
(……――!?)
それ以外に考えられないだろうな。と空を仰ぐように目線を上げたハクオロの向かいで、顔から血の気が引いていくのをコゥーハは感じていた。小刻みに震えている躰とは対照的に、無感情の如く動かない顔の筋肉。墨色の瞳は例外で、躰と同様、取り返しのつかない事態を引き起こした衝撃でぐらぐらと揺らいでいる。
「私は――とんでもない失態を――」
コゥーハ? と訝しむハクオロに、項垂れるようにコゥーハの頭が向けられる。
「クンネカムンの要人に刃を向けてしまったなどと」
「まあ、待て。落ち着け」
落ち着いていられるものか、とコゥーハは首を振る。
「ゲンジマル殿といえば、は三大大國の一つと称されるクンネカムンの
ゲンジマルはそんなに偉いのか? という冷静な問いに、コゥーハははっと我に返る。そっと息を整え、ぐっと一回堪えてから返答する。
「
いえ。とコゥーハは僅かに走った違和感を呑み込む。
「確認で御座いますが。お会いになっていた
やや間があり。ああ、とハクオロは肯定の意を示した。なれば、隠れてお会いになるのは必定ですか、と溜息をつくコゥーハの向かいで腕を組む。
「クンネカムンについて、結構詳しいんだな。ベナウィ達にそれとなく訊いてみれば、謎の多い國という一言で終わったぞ」
「昔も結構稼いでいたので、大金はたいて義叔父上――商人にそれとなく定期的に各國の情報を仕入れているのですよ。理由は、ただの好奇心、という事にしておいて下さいませ」
謎多きクンネカムンの情報も取引する商人――会ってみたいような、そうでないような、と頬を掻くハクオロに、コゥーハは一息入れる。クンネカムンについての情報をもう少し詳しく語る必要はあるか、との問いにハクオロは首を振る。なんでも、大まかな話はアムルリネウルカ
一言で表すなら、一体どうやって? 不意に沸いた疑問にコゥーハは囚われる。ハクオロの交渉術は、内政、外交、軍事、いずれも秀でているのは過去の書物を見れば明らかではある。しかしながら、三大大國のクンネカムン
微かに悪寒がする――前にも同じような事を抱いた事を思い出す。
「……コゥーハ?」
現実に引き戻され、コゥーハは愛想のない笑みを浮かべる。頬の筋肉が上手く動かない事を自覚しながらも、尚も笑う相手に、無理をするなとハクオロは窘める。
「それで。……どうする?」
「どうする、と仰いましても……」
選択肢のない問いに、コゥーハは項垂れるしかなかった。