とある、美しい月が昇る夜中。休暇を申請していた夜に、コゥーハは誰にも会わないように細心の注意を払いながら、ハクオロの待つ禁裏にやって来た。理由は単純で、これからハクオロ達が会う予定の相手の要望通り、他の誰にも悟られないようにするためである。気まぐれにやってくるという相手との日程の調整に苦労した――如何様にして? という疑問をコゥーハは訊ねない事とした――と溜息を吐くハクオロに、心中はお察しします、とだけコゥーハは返した。
「さすがに私服は憚られる故に、軍服と多少の武装をして参りましたが……」
そこはコゥーハに一任する、と言われてコゥーハは静かに礼を取る。表情を固くしている相手に、ハクオロは、ところで、と地図を手渡す。今日来た経路を知りたい、という要望に、コゥーハは朱で静かになぞっていく。
「ご存じかと思いますが。此処に隠し扉が御座いまして」
「そこは前にベナウィに見つかった場所じゃないか……」
「逆に使わないと思われている節が見受けられましたので」
アテが外れていたらどうするつもりだったんだ、という問いに、その時はそのときです、とコゥーハは胸を張って見せる。刹那、唯一の出入口である階段が軋み、一同の纏う空気が一変する。えも言われぬ覇気と、微かに見え隠れする"淡い茶色の光"に当てられたコゥーハの姿勢が意識的に良くなる。
ハクオロよりも背の高い偉丈夫である。相応の齢を重ねているのは白髪を見れば明らかで、纏う独特の空気を除く他の特徴と言えば、紅い外套、右眼を覆う眼帯と、猛禽類を思わせるような翼の形をした両耳――
(やはり、エヴェンクルガ族――)
高地に住むと謂われる少数民族で、力の強いギリヤギナ族とは違った武の強さと、高潔な精神を持ち合わせている。「義」を貫くためなら死をも厭わない清廉さを持ち合わせているとされ、他の種族からは「義はエヴェンクルガにあり」とまで称されることもあると謂われている。
「――……」
しかしながら、コゥーハは、この男からは一般的な「義」たるものを感じ取ることが出来なかった――否、彼なりの「義」を貫き通している意志と覚悟と真摯さと実力は痛い程に伝わってくる。特に圧倒的な武は、齢相応の積み重ねと腰に佩いた年季の入った得物を見るだけで、どれほどの修羅場を潜り抜けて来たのか察するに余りある。その中で、彼だけは何故か信用を置けない、違和感。
コゥーハは目を瞑って無意識に目を向ける。
威圧するような視線。互いに相対し、じりじりと温度が上がっていく中で、それを制止する声が一つ。
「コゥーハ」
若干の窘めを含むハクオロの静かな一言にコゥーハは我に戻る。陳謝しようと頭を下げるコゥーハに、相手は、警戒する事は当然のことだ、と静かに首を振って返した。それでも一言謝罪を置きながら、ハクオロは続ける。
「臣下が失礼を。この者は――」
説明は不要にて、と男は目を閉じる。
「"番人"の噂はかねがね。コゥーハ殿。某はゲンジマルと申す者にて」
「コゥーハと申します。ゲンジマル殿。過去のお噂はかねがね」
じっと見つめ合う二人に、コゥーハ、と焦りを浮かばせたハクオロはコゥーハを小突きながら囁く。
「お前らしくもない。何でそんなに偉そうなんだ」
「偉そう、でありますか?」
目を丸くするコゥーハに、ハクオロは自身の仮面を叩くように指を動かす。
「トゥスクルが舐められたくない、と言い分はわからんでもないが、この戦場の睨み合いのような空気は私の精神が持たん……」
はあ、と自身の頬に手を当てるコゥーハの隣で、とにかく移動しようと一同は歩みを進め始める。
道中、誰とも会わない道の中で、尚もハクオロはコゥーハを何度も小声で窘めてきた。やれ相手への視線が強いだの、やれ無表情が過ぎるだの……どれもコゥーハには自覚がなかったので、平に謝罪した。極力、頬の筋肉を柔らかくするように努めながら、それでも警戒するようにチラチラと客の方へ目を向ける――ハクオロの言い分も一理あることは理解出来なくもないのだが、状況的に見て、コゥーハはハクオロを護衛する立場にあるわけであり、相手もクンネカムン
ふう、と、開けた場所に一行が出たところで、ハクオロから若干の安堵の溜息が漏れ出る。綺麗な月明かりを浴びつつ、ちょっと伸びをするハクオロをそれとなく注意を促しながら、コゥーハは辺りを見渡す。
(周りが森林で覆われているため、多少の警戒は必要ですか……しかし今のところ誰も居ないように見受けられますが……あの大きな岩の裏にいらっしゃるということなのでしょうか?)
刹那。幼さのある女性の一声が周囲を通る。
「遅いぞ、ハクオロ」
咄嗟に腰へと手を掛けようとしたコゥーハだったが、ゲンジマルが躰半分乗り出してそれを制した。走った緊張に一筋の汗を掻くコゥーハの一方、ほっとした様子のハクオロは、声の主に優しく返す。
「待たせてすまない、クーヤ」
全くだ。と上から目線の声が響くが、それが自然体なのか、不思議と偉そうな感覚は抱かない。ハクオロも特に気にしている風でもなく――それは、ベナウィに言わせるところの
アルルゥと同じくらいか、それよりも身長の低いあどけなさ残る女性である。手入れが行き届いている薄茶色の長髪は後ろで綺麗に編み込まれており、顔近くにある二つの耳飾りや上等な羽織物からは相応の気品が感じられる。そして目を惹くのが、垂れた長く白い耳――
(やはり、クンネカムン
ゲンジマルの後ろから盗み見ているコゥーハに向かって、女性は――クーヤは声を張り上げる。
「おお。そなたがコゥーハか! 女子だとは聞いていたが、本当に女子だったとはな」
どうした、近くに寄れ、というクーヤの誘いに、コゥーハはハクオロにではなくゲンジマルに目を向ける。目を伏せ、小さく首を振る臣下に対して、クーヤは更に眉を寄せる。
「……。そなた、何故ゲンジマルの顔色を伺う?」
「い、いえ。それは」
「今は余と話をしておるのだぞ。ちこう寄れ!」
不満を表すクーヤを前にしても、コゥーハの不安はなおも晴れない。ゲンジマルの前にでも出ようものなら、その一歩――確実に持っていかれるであろう殺気。尚も踏み出せないでいるコゥーハの一歩手前で、恐れながら、とゲンジマルは微かにクーヤに頭を下げる。
「此度は、このゲンジマルも同席させて頂きます故」
「ゲンジマル……そなたには関係ないことであろう」
そういう問題ではない。とゲンジマルは窘めるように首を振る。
「此処にいるは彼の"番人"。故に――」
ん? と一瞬首を傾げたクーヤだったが、一拍子も置かない刹那に、目をキラキラと輝かせる。
「そうか! そなたが噂の"番人"か! 商人から色々聞いておるぞ!」
何の警戒心もなく、つかつかとコゥーハに詰め寄り、クーヤはコゥーハの手をぐいっと引っ張る。なすがまま引っ張られていき、石の上に座らされたコゥーハの後方で、やれやれと言わんばかりの様子で項垂れるゲンジマルを意外に感じながら、コゥーハは決して目を離さないクーヤへ目を向ける。
「そ、その……」
「色々と聞いておるぞ! むぅ、何という名の商人だったか……ともかくそやつから、以前色々と面白い話を聞いた」
「…………」
"番人"の消息は十年前に途絶えているはず。なのに依然として"番人"の噂が大陸中に流布している事実――全身が強張るのを感じ取る中、一つだけコゥーハが気になったのは、閉鎖的にあろうクンネカムンに、しかも現在になって伝わっているという事実。
(考えられる理由は。元義叔父上ですかね。どうやら、クンネカムン
かなりの金額をむしり取られているのでは、というコゥーハの心配をよそに、クーヤは何故か自身の手相を見せようと手を差し出してくる。
「そなたは、いわゆる易者の類だと聞いた。ほれ、余の行く末を占ってみよ」
月明かりに照らされた眩しい笑顔の中、なかなかに応えにくい要求をしてくる相手に、コゥーハは対応に窮する。そんなやり取りに救いの手を入れたのは、同じく隣に座らされていたハクオロであった。
「クーヤ。実はコゥーハはそういう事は出来ない、はず……なんだ。そうだろ?」
なら、何が出来るのだ? と不満げに頬を膨らませるクーヤに、コゥーハは、あはは、と情けない笑みを浮かべる。
「さ、左様ですね……クンネカムンの明日のお天気くらいなら、予想できますが――っ」
数歩後方に控えているゲンジマルの、殺気に近い視線に、コゥーハは思わず肩を窄める。その隣で、それはちょっと面白い、というなんとも温度差のある
数拍思考を巡らせた後。金色の光を瞳の奥に隠しながら、コゥーハは迷いなく答える。
「クンネカムン皇都の明日の天気は、一日雨、ですね。明後日は一日中晴れます」
おぉ。と一瞬驚くも、むすっとした様子でクーヤは腕を組む。
「そうか……しかし、なんというか……地味、だな」
そう申されましても……と縮こまるコゥーハとは対照的に、そうでもないぞ、と切り出したのはハクオロである。
「明日の天気を予め知っておいたら、予定も立てやすい。雨なら雨の時しか出来ないことをやれるし、晴れだと確実に判っているのであれば、晴れにしか出来ない事をやれる」
そんなものか? と訝しむクーヤに、そんなものだ、とハクオロは笑う。そんな二人のやり取りを一部始終見ているコゥーハは、やはり一定の違和感を拭いきれない。
二人の近い距離感――さほどの時間は経っていないというのに、二人の仲はかなり近い。それこそ、カミュとの距離感のような。クンネカムン
「ではまたな。ハクオロ、コゥーハ」
※※※
トゥスクル皇都の城外までついてきたゲンジマルだったが、ハクオロ曰く、いつもより別れが早いという言葉通りに、彼はすぐに立ち去ってしまった。少し違和感がある、というハクオロに多少の同意をしながらコゥーハ達は歩いていると、白い巨体と小さな存在に出くわした。
「……アルルゥ様? それにムックル殿?」
皇城内の出入口付近で、眠たさを堪えていたアルルゥが二人の方を向く。
「あっ……」
アルルゥはムックルの陰に隠れるが、コゥーハとハクオロの存在を交互に見た後、ゆっくりと物陰から出てきた。下をずっと向いて左右に尻尾を揺らしていたが、やがてぽつりと呟くようにハクオロへ問うた。
「おと~さん……どこいってたの?」
ハクオロは目を瞬かせた後、周囲に誰もいないことを確認しながら、アルルゥの頭を撫でる。
「ダメじゃないか。もう寝る時間のはずだぞ」
「ん~……」
尻尾を振りながらも、質問には答えないハクオロに対して不満の様子を隠さないアルルゥに、ハクオロは静かに語り始める。
「ヤマユラに居た頃。夜中にユズハと会っていた事、アルルゥには話したことあったような気がするんだが」
「ん~……知らない」
「そうか」
「でも。ユズっちから聞いたことある」
そうか。とハクオロは尚も微笑し続ける。
「その時と同じようなものなんだ。ユズハの時と一緒で、夜しか会えない人がいるんだ。今日はその人と会ってた」
ん……。と耳を垂れ、アルルゥはハクオロの腰にしがみついた。やがてその小さな腕は強く相手を包み込む。
「――……。もう、どこにも行かない?」
ハクオロは一瞬言葉に詰まるが、やがてアルルゥを包み込むように手を回す。
「そうだな……今度会いに行くときは、アルルゥには断っていこう。それで許してくれるか?」
ん……と呟くアルルゥのそれは少し不満そうであったが、やがて、ハクオロの腕の中から聞こえてきた寝息は、至極柔らかなものであった。
ほっと息をつくコゥーハの隣で、ハクオロは眠ってしまったアルルゥを背負う。送り届けるか、と呟き、ムックルの方へ目を向けたハクオロだったが、やがて困惑の声を上げることとなる。
「――……」
ムックルは、その場で寝息を立てていた。その向かいで、半ば口を開いていたハクオロがコゥーハへと視線を向ける。
「
「どうするも何も。起きて頂く他ありませんでしょう」
「お前は、ムックルの寝起きの悪さを知らんからそんな事が言えるんだ……」
と申されましても。と二人は頭を抱える。吹き抜ける風は思いの外冷たく、彼らの身体に寒さを纏わせる結果となる。
尚。その後、二人はどうしたのか、ということは、当事者しか知らないものとなった。