Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
#001
四月七日。
澄んだ青空に、散り始めの桜がよく映える。そんな景色の中で、オレは青八木一と
*
はじめは、一番の「一」。
新しい制服をリュックに括り、青いコラテックで激坂を登ってきた彼は、小さくはにかんだような笑みを浮かべてそう名乗った。
この寡黙な自転車乗りと、オレはもっと話してみたい。
反応は薄いが、青八木くんは別に人嫌いというわけではなさそうだった。入学式当日で、まだ定まっていない自転車置き場を探して歩く彼の隣を、オレは勝手について回って話しかけた。
基本的にキックスタンドが付いていないロードバイクは、サドルを引っ掛けられるスタンドに吊るすか、フェンスや壁に立てかけて置くしかない。
自転車競技部がある学校だからロードバイクスタンドの一つや二つあっても良さそうなのに、部室の方にしか置いていないのか見当たらない。とりあえず駐輪場のポールにでも立てかけるのがいいんじゃないか、なんて声をかけると、青八木くんはコクリと頷いた。
「……今日は自転車、乗ってきてないのか?」
長い前髪から片方だけ見える目が、『おまえも乗るんだろ』と訴えかけている。ように見えた。
「ああ、まあな。初日だとこうやって置き場に困りそうだったからさ、下見してからと思って」
すまねえ青八木くん。これ、本当は嘘なんだよな。
『自転車やめようと思ってたんだ』とは、なんとなく言えなかった。別に言ったっていいのに、今はまだ青八木くんに言いたくないと思ったのだ。
そんなやりとりをしていると、後ろからまた別のラチェット音が近付いてきた。ママチャリの音とは違う。ロードバイクの音。
オレたちサイクリストは、日常生活の中でこの音を聞くとそちらに意識を向けてしまうようにできているらしい。一度ロードバイクの世界に魅了されちまったヤツには、脊髄反射のように起こるものみたいだ。
例に洩れず、青八木くんもオレと同時に音のする方を振り返る。
「お、ラレーだ」
サモアブルーが鮮やかなクロモリのロードバイクが、オレと青八木くんの横を通り抜けた。
そのクラシカルで美しいデザインは、ロードバイクに慣れ親しんでいるオレでも目を惹かれる。競技者が選ぶカーボンやアルミのフレームには、こういうデザインが少ないからだ。オレもクロモリフレームには乗ったことがない。
コンポーネントはアルテグラか。たぶん初期装備だった
一体どんな人が乗っているんだろう。フレームや駆動系に注いでいた視線を上げると、女の子とバチっと目が合った。
そう、ラレーに乗っていたのは、女の子だった。
きちんと体幹で乗れていて、お手本みたいに綺麗なフォームだ。肩や手にも余計な力はかかっていなさそう。制服が真新しそうなところを見ると、オレたちと同じ新入生っぽい。
その子は減速しながらビンディングを外し、ストンと軽いタッチで地面に降り立つ。
この丘の上まで登って来た所を見てもそうだが、最近ロードに乗り始めたって感じじゃない。むしろ、自転車を手足の一部のように扱える者の佇まいだった。
「……あの! そのコラテック!!」
自転車から降りるなり、女の子は青八木くんをまっすぐ見つめて声を上げる。
「自転車競技部の方ですか!?」
その子はカチカチとビンディングシューズ特有の足音を響かせながら青八木くんに駆け寄り、期待に満ちた眼差しを向けた。
なんつーか、もう、それこそキラッキラって表現が相応しい。憧れのアイドルとかに会ったみてーなテンションだ。
「いや……」
対照的に、青八木くんは戸惑っている。長い前髪の奥でぱちぱちと瞬きして、助けを求めるようにオレの方を見た。
『答えてやりなよ』という意味を込めて、うんうんと頷きながらオレは片目を瞑る。
すると青八木くんも一度だけ頷いて、
「まだ。……これから、入る」
言葉少なに、それでいて力強く答えた。
その言葉を聞いて、ラレーの子はぱあっと嬉しそうな顔をした。花が咲いたような眩しい笑みだった。
「そっかぁ、あなたも新入生! じゃあ部活一緒ですね!! 私も自転車部に入るって決めてるんだ」
そう言うと、ラレーの子はスカートの裾を押さえてスッとしゃがみ、青八木くんの自転車を観察しはじめた。
「ふふ……いい色……RTシリーズかー。振動吸収性がよくて長く乗っても疲れにくい、良いバイクだね」
クランクは初期装備から交換してるかな、きっと身長に合わせて変えているんだね。チェーンもピカピカだし……。
なんて、ちょっと見ただけで『わかる人にはわかる』ことをスラスラと話すその子は、相当ロードバイクに詳しいようだ。
たぶん、各メーカーのカタログが頭の中に入っているようなタイプ。
自転車雑誌を隅から隅まで読むだけでなく、実際に店舗やイベントに足を運んで実機も見ているんだろう。
その横顔は、ただ青八木くんの自転車に感心しているというよりも、犬猫を撫でて可愛がっているような優しい雰囲気でもあり、うっとりしているようでもあった。
女の子が目線をサドルの方へと上げていくと、青八木くんと目があったらしい。ハッとした顔をして慌てて立ち上がる。
「あっ、一人でわーわー喋ってごめん。また今度自転車見せてね! じゃっ、そのうちまた部活で。よろしく!!」
あれは、語りすぎてやばいなと思ったんだろうな……。
名乗りもしないし、青八木くんの名前も聞かないまま、女の子はラレーを引いて逃げて行った。ほんとに、嵐みてーな勢いだった。
「……なんか、すごい子だな。まさしく自転車オタクってかんじ」
「…………うん」
いろいろとすごかった、とぽつりと青八木くんが呟く。
でも、彼女のオタクぶりにドン引きしているわけではなく、むしろ満更でもなさそうだ。
青八木くんはほとんど表情を変えていないけど、オレには喜んでいるように見える。
あの子が、機材の選び方や手入れの仕方を褒めるようなことを言っていたから、まあそうなるよなぁ。
自転車乗りは、手をかけているバイクを褒められると、まるで自分が褒められているかのように思えるものだからだ。
「きっと、かなり走れる人だと思う。フォームが綺麗だった」
「……そうだな」
青八木くんの方も、ラレーを駆るあの子の姿をばっちり見ていたらしい。やっぱりサイクリストって生き物は、他人のフォームや機材を見ちゃうもんだよな。
「あれ、でもここって女子自転車部ないよな? 作るつもりなのかな」
「それか、マネージャー志望とか」
『作る』じゃなくて『入る』って言い方してたから、と青八木くん。たしかにそう言ってたな。
「面白そうじゃん、自転車部」
青八木くんは頷いた。
「手嶋……も、入るだろう?」
──自転車部に。
青八木くんは静かに、オレの目を射抜くかのように見て言った。
「…………そのつもりだよ」
そう青八木くんに返事をしながら、他人事のようにこう思った。
──なんだよ。結局、手嶋純太は自転車続けることにしたのか。さっきまでやめるって言ってなかったか?
まあ、でもそうだよな。同じような偏差値の普通科高校なんて他にいくらでもあるのに、わざわざ自転車部があるところを選んでんだから。しかも総北は県内随一の強豪校だぜ?
……シキバ、東戸。
オレさ。やっぱ、もうちょい自転車続けてみるわ。
*
オリエンテーションだの新入生歓迎祭だのが終わると、今度は部活を決める時期がやってくる。
青八木一に出会ってからは自転車をやめる気なんかすっかり無くなっていて、オレは入部届に迷わず「自転車競技部」と書いた。
仮入部なんてありがたい制度は全く使わない。新歓の部活紹介だけを見て即決。
というより、青八木に自転車部に入るのかと聞かれて答えたあの時から、腹は決まっていた。
「あの時のブエルタの一七ステージさあ、コンタドールが強いのもそうだけど六秒差まで追い詰めたモヴィスターが一番やばかったよなー」
ずっと前から自転車競技部に入ると決めていた青八木とともに、キャノンデールを押して部室へ向かう。
青八木は言葉数こそ少ないが、自転車の話となると心底楽しそうだった。顔色はほとんど変わらないけれど、目の輝きが違うから何となくわかる。
特にツールやジロといったワールドツアーや、この辺りで有名な練習場所の話を振れば、彼にしてはよく喋った。
「ああ。アシスト二人の引きには心震えた……」
「だよな!? あんなレース、一度でいいからやってみたいよなー」
「……その時は6秒差を詰めて追い抜いて、一番でゴールしたいな」
「それな! コンタドールも好きだけどオレはあの瞬間バルベルデを応援したね」
青八木が隣でコクリと頷いた。
なんて話のわかるやつなんだ青八木、入学早々すげえ馬の合う奴に会っちまったよ。
「お、あれだな自転車競技部の部室ってのは」
二階建の部室棟の隣。独立した一階建の建物が、総北高校自転車競技部の部室だそうだ。
目の前にはサイクルラックも出ていて、すでに上級生のものらしいロードバイクが数台吊るされている。引き戸の横には「自転車競技部」の表札も出ているし、ここで間違いない。
「……なんか、緊張するな」
二人並んで愛車を支えたまま部室の扉を見つめる。青八木は隣で頷いていた。
まだ今日は仮入部期間の初日。ほかの新入生は来ていないのか、静かだ。
「よし、一回深呼吸して落ち着いたら行くぞ」
「……!」
オレの言葉に頷こうとした青八木が振り返る。その方向からは足音と話し声、それからロードバイクのラチェット音が聞こえた。
──自転車競技部の上級生か。
「レースで使うなら105以上、できればアルテグラを積みたいな。ヒルクライムならスラムも魅力的かもしれないが、値段がなあ」
「うん、カンパやスラムはコスパがね……。変速性能見てもシマノかな、ローグレードであの滑らかさだもん。でもそれぞれ魅力的だから、お金があればもう一台組んで──」
振り返った先から歩いてきたのは、入学式の日に青八木と一緒に遭遇した、あの女の子だった。
右手ではあの時と同じサモアブルーのラレーを引き、左手は口元にやって考えるような仕草をしながら、これまた随分とマニアックな話をしている。
その話し相手は、銀縁の眼鏡をかけた長身の男子だ。筋肉質で肩幅が広い。顔立ちもやたらと大人っぽい雰囲気だけど、制服はパリッとしてるし、カバンも新しい。
一年なんだろうけど、なんだあの体格は……同い年とは思えねー。自転車はメリダのスクルトゥーラか?
おー……、コイツ、きっと相当走るな。どっかのレースで見かけた事あるかもしれない……。
「あ! あの時のコラテックの」
オレが男の方を観察しているうちに、女の子が青八木に気がついて声をあげた。青八木がほんの少し緊張した風なのが伝わってくる。
「あの時はいきなり話しかけてごめんなさい。ロード乗ってる人……特にあなたみたいに自転車大事にしてる人見ると嬉しくなっちゃって。私の悪いクセなんだよね」
女の子は眉を下げて苦笑しながら、青八木に軽く頭を下げる。
……いやでも自転車大事にしてるって言われて悪い気するローディーもなかなかいないと思うけどな。
すみませんでしたという彼女に、青八木は首を横に振った。
「いや……わかる。オレもそうなる。……気にしないでくれ」
オレもそうなる、とは言っても青八木のキャラだと本当に話しかけるには至らないんだろうけど、自転車の話になると青八木が饒舌になるのは本当だ。
女の子は青八木の言葉を聞いてホッとしたような顔をする。表情の変わらない青八木だが、ちゃんと伝わったみたいだ。
「ありがとう。私、二組の瀬上凛です」
「……青八木一」
青八木の名前を聞くとニコッと笑って、瀬上さんの視線が今度はオレに移る。
……と思ったけど、違った。正確に言うなら、青八木からオレの自転車、そっからオレに、という順だった。
この子、今ヘッドチューブのロゴ確認してたな。
しかも、オレの自転車に視線を落としたほんの一瞬だけ、すごく嬉しそうな顔をしていた気がする。まるで偶然、虹でも見かけたみたいな──。
よっぽど自転車が好きなんだな。
「──四組の手嶋純太。二人ともよろしく」
よくも悪くも、瀬上さんは正直そうな子だなと思う。どうしたって自転車への興味が前面に出過ぎている。
「オレは古賀公貴だ、よろしく。……二人は同じ中学か?」
今度は瀬上さんの隣の銀縁眼鏡の男が名乗った。
こが、きみたか…………思い出した。去年、二時間エンデューロでいい成績残してたやつじゃなかったっけ。
マジかよ、すげえな……頭の裏っ側ではそんなことを考えながら、オレと青八木に尋ねた古賀くんに返事をする。
「いや。オレらは入学式で知り合って、そっから。二人は?」
古賀くんと瀬上さんは同時に首を振った。横に、だ。
「クラスが一緒なんだ」
「そうそう。自己紹介の時に古賀くんが自転車競技部入りますって言ってて──」
「瀬上も自転車部でメカニックやるって名乗ってたからな。気付いたらお互い話しかけてた」
「へぇー…………え、
プレイヤーでもマネージャーでもなくて?
聞き返すと瀬上さんは頷いて笑った。
「うん。私、自分がレースに出るよりも機材見る方が好きなんだ」
そう話す瀬上さんは楽しげで、澄まし顔には自信が満ちていた。
*
総北高校自転車競技部には、期待のルーキーが二名入部した。
一人目は、古賀公貴。
彼は中三の時、二時間エンデューロで優勝している。
二人目は、瀬上凛。
彼女は部で唯一、専任メカニックとしての入部だ。
「レースメカニックの父に、小さい頃から自転車のことを教わってきました。みなさんに安心して自転車を預けてもらえるよう励みます。よろしくお願いします」
古賀がレース優勝経験者だということと、瀬上のその言葉とで、上級生が沸いた。
総北にはメカニック志望の部員がおらず、選手が兼任するほかない状況だったらしい。
そこへ入部してきたのが現役メカニックの父親に教育された瀬上ということで、新入生への期待が高まっていたんだ。
入部希望者はオレや青八木、それに谷口、ほかにも何人かいたのに、まるで今年はその二人しかいないみたいなざわつきようだった。
*
裏門坂。その名の通り、総北高校の裏門へと続く急勾配のことである。オレは今ちょうどその坂を登りきって、裏門から学校の敷地へ入った。
はぁ~何だこれ、きっつ。この登りアタック。
でもサイコンを見れば、結構いいペースで登れていた。正直、自分で期待した以上だった。初心者だったら、ここはこんなスムーズに登れないだろ。斜度二〇%超えてるんだぜ。
……なのに、な。
なんで、とか、どうせ、とか。そんな言葉ばかりが頭に浮かぶ。
とりあえず部活は終わったんだから、荷物引き上げて帰ろう。家に着いてからまだ外が明るければ走りに行けばいいし、そうでないなら筋トレでもするか。
愛車を降りて、部室まで押して歩く。吹部の演奏や野球部の打球音が、やけに遠く聞こえる。自分の足音やラチェット音ばかりが耳についた。
──古賀はいいよなあ、みんなから期待されてて。それに比べてオレは……。
自嘲しながら部室棟の壁に自転車を立てかけたその時、ガラッと勢いよく引き戸が開く音がして我に返った。
「あれっ手嶋くん、練習終わり?」
自転車部の部室から出てきたのは、スーパールーキーの一人瀬上さん。埃をかぶった古そうなホイールを抱えていた。
「……ああ。古賀以外の一年は、今日はここまでだって言われてさ」
たぶんほかのやつらも補給しながらぼちぼち戻ってくると思うと説明すると、瀬上さんはなるほどと頷いた。
「じゃあ手嶋くん、私にキャノンデール見せてよ。早々に全員分のカルテ作っておきたいんだよね」
そう言って瀬上さんが腰に下げたツールバッグから取り出したのは、メジャーだ。すごく生き生きとした表情でツメを引っ張ったり巻き取ったりしながら、オレが『うん』というのを待っている。
なるほど。サドル高とかステムの長さとか、そういうの全部控えておこうってことなのか。
やっぱりこの子は、ちょっとロードに詳しいだけの女の子じゃなさそうだ。入部初日からカルテ作ろうなんて、メカニックの信念みたいなものを感じる。
「うん。サドル高とかなら携帯にメモってあるけど使う?」
「本当? 助かるよ~、見せて見せて」
オレが携帯の画面を見せると、瀬上さんはノートにスラスラと書き写していった。
手書きで自転車の絵が描いてあって、そこに対応する数値を書き入れている。オレがメモしてなかった部分はメジャーで測って、そのあとは現物を確認しながら各パーツのメーカーと型番を控えていた。
瀬上さんのノート通りに自転車を組んでいったら、オレのキャノンデールの完全コピーが出来上がるだろう。
「……よし、終わった! ついでに軽く点検するね」
「悪いな、頼むよ」
瀬上さんに自転車を預けて、二、三歩離れたところで水分補給しながら点検の様子をぼーっと眺める。
瀬上さんは、心底楽しそうに作業していた。
今にも歌い出しそうなくらいにニコニコしてる。心の中では何かアップテンポの曲でも流れてるんじゃないか。
……そういやシキバ、今頃何してるかな。あいつも部活入ったかな。元気なら、それでいいんだけどさ。
メカニックの仕事は油や土で汚れるから、そう美しいものじゃない。
手袋をしないで作業すれば、指先や爪の間は真っ黒になる。とはいえ手袋をすると細かい作業がやりにくいから、しない自転車屋も多い。瀬上さんも素手で作業している。
だけど、そんなの何も気にしていないって顔だ。自転車いじるのが本当に好きなんだろう。
オレは、好きなことは好きでいられるうちにやめた方がいいよな、なんて考えちまう。
瀬上さんと今のオレとは、正反対だ。
待望の専任メカニックと、特に光るものが見つからない新入生。
正直、今はあんなに嬉しそうな顔できる気がしない。もちろん新しい学校で初対面の人の手前、愛想良くはできるけど。つか今、オレどんな顔してるんだろう。
──今日は大した練習じゃなかったのに、なんかすげー疲れた。
練習時間は中学の方が余程長かった。じゃあ練習時間が短い代わりにすごく負荷をかけたかって言ったらそういうわけでもないし、前を走る先輩に千切られたわけでもない。
仮入部初日からハードな練習をさせないっていうのは、まあわかる。
でもこれじゃポタリングだろ……ってのは、さすがに言い過ぎか? だがとにかく練習というよりは単に自転車で走ったというだけな気がする。
……そうだ、ちょうど初心者の腕前を見るのにちょうどいいくらいの緩さだ。
要領のいいヤツは難なくこなすし、要領悪いヤツにはちょっと厳しいくらいの内容。
『おまえ初心者?』
あー、またこれだ。走っている間、先輩から言われたこの言葉がずっと頭の中でぐるぐるしてた。
先輩から『一年はここまで』と言われたから帰って来たけど、上級生から期待されてる古賀だけは、そのまま先輩たちの練習に連れて行ってもらってた。
ってことはつまり、そういうことだろ。
ジャージの真新しさと体格だけじゃない。走りまで──全部見られた上で、オレはやっぱり経験者として見てもらえなかった。先輩たちの練習について来られると思ってもらえなかった。期待されなかったんだ。
さすがにへこむよ。なんなんだろな、オレの中学三年間。
自転車を辞めようとした罰なのか? 三〇位以内にも入れない凡人にはそれすら許されないのか?
「なーんだ。手嶋くん初心者だって言われてたけど、どう見てもそこそこの経験者じゃん」
「え?」
今、なんて?
オレは驚いて、瀬上さんを見た。『あの先輩もまだまだですなあ』なんて、嫌味なく言って笑っている。
いや最後のそれは入部早々聞かれたらヤベーよ?
オレはそう思うけど、瀬上さんはやっぱり何も気にしていない。まあ今は近くに誰もいないから、それでもいいんだけど。
「このフレームって一昨年出たモデルだよね? このカラーは人気だから型落ちはまずあり得ない。それにこっちも……まだ交換するほどじゃないけど、ブレーキシューすり減ってるし、チェーンも伸びてきてる。それだけ乗ってるってことでしょ?」
瀬上さんは自転車のチェーンをぐいっと引っ張り、ほら、とチェーンとアウターリングの隙間を指した。
このタイプだと、チェーン交換は走行距離三千キロが目安と言われている。
「それにしても手嶋くん、自転車丁寧に扱ってるね」
瀬上さんはチェーンから手を離し、オレの自転車を優しい眼差しで見つめていた。その指先はオイルと土で汚れて真っ黒だ。
「洗車しないで放置してた感じとかないし、パーツも綺麗。ラスペネ細かいとこまで挿してあげてるでしょ。この子は大事にされてると思う」
やっべ。なんか泣きそう。なに、メカニックって自転車見ただけでそんなことまでわかんのかよ。
どうせオレのことなんて誰も見てねーし、評価されねーんだって思ってたのに。
……オレは才能ないから、経験者にすら見えねーんだって。
でも、今の言葉で救われた。
わかる人にはちゃんとわかるんだなって思ったら、あれくらい別にいいじゃんって思えてきた。
「どう? 当たってる?」
瀬上さんは笑いながらオレを見上げた。口調こそ控えめだけど、自分の見立てに自信があるんだろう、得意げな表情だ。
「当たってる。そのフレーム、中二ん時に新調したんだ。急に身長伸びてさ」
「やっぱり! 男子は大変だなあ。きっとまだまだ伸びるから、今後は都度、一緒に見直していこう」
見立てが当たったと聞いて、瀬上さんは嬉しそうだ。
「そん時は頼むわ。つーか、すごいな瀬上さん。名探偵じゃん」
「まあね。……父さんの名にかけて! ってね!!」
「ハハッ! そっか、お父さん本職のメカニックなんだもんな?」
自己紹介の時、彼女はそう話していた。安心して自転車を任せてもらえるように励みたいと。
「そう。でも今のセリフは青八木くんに言ってほしいよね」
「はじめちゃん?」
「そう、一ちゃん」
そんな話をしながら二人でひとしきり笑ってるうちに、なんか元気が出てきた。
そうだ、オレは先輩に認めてもらうために自転車に乗ってるわけじゃない。オレは自転車が好きだからやってるんだ。
「ありがとな、瀬上さん」
「ん?」
瀬上さんには、オレの言うありがとうの意味がわからなかったみたいだ。目を丸くして、不思議そうに首を傾げている。
──まあいいか、オレがわかってれば。
「いや、なんかそう言いたくなった」
「……そっか。私もこういう話してもドン引きされないの嬉しい。ありがとう」
瀬上さんは照れたように笑う。この反応を見るに、本当に今までドン引きされることばかりだったんだろう。
だから青八木の時も逃げてったわけか。
「へえ、そんなやつもいるんだ。そんだけ勉強してるってことなのにな」
「そう言ってもらえるとありがたいんだけどね。どっかで見られてたみたいで気持ち悪いって言う人も多いんだよ」
「いいじゃん、言わせとけば。瀬上さんの良い所の一つなんだからさ」
なんて、数分前のオレなら出て来なかった言葉だけどな。さっき言われてたら、『そういうの地味にキツイよなァ』なんて同調してしまったかもしれない。
「……手嶋くんって人を褒めるの上手だね」
「瀬上さんこそ」
まあ、それも無自覚みたいだけど。
だからこそ、この子に『最近練習サボってるでしょ』なんて言われた日には、それは本当にオレが手を抜いてるってことになるんだろう。
これから三年間、そんな日が来ないようにしたいと思う。この優秀なメカニックには、これから先もずっと『自転車を大切にしている人』として認識されていたい。
それは見栄を張りたいからとかじゃなく、オレがそう在りたいと思うからだ。
できればオレはこの先ずっと自転車を好きでいたい。大切にしていきたい。
これからも『やめときゃよかった』って落ち込むことはあるかもしれないけど、最後にはまた戻ってこられたらいいなって、思ってる。
「改めて、これからよろしく。瀬上さん」
オレはグローブを外した右手を瀬上さんに差し出した。男の方から女性に握手を求めるのはNGって話を聞いたことあるけど、まあ、いいや。
瀬上さんもニコリと笑ってオレの手を取ろうとしてくれたが、途中でハッと手を止めた。それからは苦笑いで、チェーンを触って黒くべたついた指先を見せてくる。
その様子がおかしくて、吹き出して笑ってしまった。
そんなの知ってるよ、オレの自転車みてくれたから汚れたんじゃん。
「や、ごめん嫌だったらいいよ」
「ああっ、待って違う違う」
よく知らねえ男と握手なんてマジで嫌だと思っている可能性もあるから手を引っ込めようとしたら、瀬上さんは慌てたみたいに声をあげてオレの右手をそっと握った。
「こちらこそよろしくね、手嶋くん」
「ああ」
と、自分から握手を求めたわりに、どうしたもんかよくわからない。
いい言葉が浮かばず、離して手持ち無沙汰になった右手を誤魔化すために、オレはそのままグッと伸びをした。
「さーて、青八木が帰ってきたら誘って一緒に自主練にでも行くかな」
きっとあいつだって、今日の練習量じゃ全然足りないはずだ。
「いいね。……楽しくなりそうだなあ、自転車部」
「そうだな」
これから三年。
その間にオレはどこまでやれるかわからない。本当に望む結果を出せるのか、自信はない。
それでもゴールに辿り着いた時、自転車を続けていてよかったと言えるといいなと思う。