Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#010

 金城さんが福富さんとサイクリングに行き、ほかの部員も全員練習に出た。

 

 だが福富さんに自転車を貸したオレは、外に走りにいくこともローラーを回すこともできず、ウェイトトレーニングを言い渡されて部室に残っている。まだ納得のいかなそうな顔をする瀬上と一緒に。

 

「二セット目終了……っと。外はいい天気だなー、オレも自転車乗りてぇ~」

「だから言ったじゃん、嫌ですって」

 

 ありゃ。いつもなら何でもないことだけど、今のタイミングでこれは失言だったか。

 

 瀬上は口を尖らせつつ、部の備品のホイールをオーバーホールしていた。

 オレはその辺りを全部購入店に任せていて、これは知識として頭に入れているだけだが、組み付けや加工に繊細な技を要求されるため難度の高い作業だという。

 

「けど貸さないって選択肢もないだろ? スペアバイクもないし、あの人だってちゃんと誠意見せに来たんだしさ」

 

 瀬上は福富さんに、駅前のレンタサイクルでも借りろと言おうとしていた。

 

 全力でペダルを踏んでいい状況じゃない金城さんと、実力者である福富さんなら、ロードとママチャリでも無理なく一緒にサイクリングはできるだろう。でもわざわざ神奈川から千葉まで頭を下げた人にそれを要求するのは酷だと思う。 

 

「そうだけど……でも嫌だよ私のSUPERSIXがボロボロになったら……!」

「いや、オレの! オレのSUPERSIXだからな!」

「おっといけない、つい心の声が」

 

 瀬上はそう言って冗談っぽく笑ったが、そのあとすぐに表情を曇らせた。

 

「私だってあれが単なる事故だったらこんなに怒らないよ。ゴール前スプリントでほかの選手を落車に巻き込んじゃって自分よりも酷い怪我を負わせたとかで叩かれる選手もいるけど、私はしょうがないって思う。でも、あの人の場合は……」

 

 その先は言葉にしなかった。しなくても伝わるし、やはり福富さんがきちんと謝罪に来たということで引っかかるものがあったのかもしれない。

 

「……いや、でも瀬上がどれほどオレらのこと考えてくれてるかは伝わってきたよ。かっこよかったぜ、あれ」

 

 片目を閉じてそう言うと、驚いたように瞬きを繰り返す瀬上の顔が赤く染まっていく。整備のことでは誰に褒めらても当然だって誇らしげな顔してるから、これはレアな光景だ。

 

「……まあ一応、そういうポジションだし?」

 

 三セット目を始めるためにプランクの体勢を取りながら、オレは内心なるほどなと思っていた。だがそれは瀬上の発言にではなく、反応の方にだ。

 

 瀬上は手元に目線を落とし、いかにも作業中ですって姿勢を見せている。だが肝心の指先はあまり動いてない。どう見ても特に意味などなさそうな単調な動きを繰り返すばかりだった。

 

 ふーん、照れるとそういう反応するのね。こりゃ意外と揶揄い甲斐ありそう。

 

 オレが笑っていると瀬上はおもむろに立ち上がり、机の上に並んでいるドリンクが入ったボトルを何本か手に取った。

 

 いきなりどうした? 今ボトルなんか必要ないだろ。

 

 そう問おうとしたとき、ふと花のような香りがした。瀬上はオレのすぐ隣にしゃがみ込み、

 

「なっ……おまえ鬼か、よっ……!!」

 

 そのボトルをオレの背中に並べ始めた。

 

「まさか。私は手嶋くんのためを思って……あ、動かないで。ボトル落ちちゃう」

 

 重い。約六百ミリリットルのボトルを三本、二kg近い重さだ。プランクの負荷としてはまだまだ全然なんだけど、負荷なし前提でもうすぐ三セット目が終わろうかというところにこれは結構くる。

 

「そんな一気にやるなって……ゆっくり行こうぜ? どうせ時間はあるんだしさ」

「時間には限りがあるのだよ手嶋くん。何事も素早く効率よくやらなきゃ」

「だからってな……!」

「あ、お腹落ちて来てますよー」

「意外といい性格してんだな……」

「よく言われます」

「褒めてねーよ」

「ごめん。……あんまり機嫌よくないから八つ当たりしてる」

 

 その声と共に背中の重りは消え去る。オレはそのまま床に崩れ落ち、入れ違いのように瀬上が立ち上がった。

 

「なんか嫌だなー、私も走りたくなってきた。手嶋くんこれ代わりにオーバーホールしといてくれない?」

「それができれば今まで瀬上にいろいろ頼んでねーな」

「そうだよねー」

 

 瀬上はため息をついて、ボトルを机の上に戻した。作業台へ戻り、再びベアリングを手に取る。

 

「そういう走り方はやめとけよ。機嫌悪い時に自転車は危ない」

「うん」

 

 なんて、オレが言わなくても瀬上だってそんなのは十分承知しているだろう。

 

「まあ気持ちはわかるけど。瀬上ほど走れりゃそう思うよな。……レースとか出ないのか?」

「うん、自分が出るのはそんなに好きじゃないからね」

「そんなに好きじゃない、てことは出たことはあるんだな」

 

 出ないでも出たことないでもなく、好きじゃないというのはつまり、好みを判断できるような体験をしたということだ。尋ねると瀬上は頷いた。

 

「父は私に、レーサーになって欲しかったみたいだから」

 

 その返答には、さすがに驚いた。

 

 たしかに瀬上はよく走る。別にスプリントを目の当たりにしたわけでも、ヒルクライムを見たわけでもない。だが通学の様子やCSPでのことから、基礎をしっかりと叩き込んだサイクリストであることはわかった。

 

 だけど瀬上のお父さんと言えば、プロのチームに所属するメカニックだ。娘もそうだというのなら、元からそうなるべく育てられたんだろうと思ってたのに。

 

「レースやめたの、なんでか聞いてもいい?」

「これが聞くも涙、語るも涙な話なんだけどね~」

 

 それでも聞いちゃう?と瀬上は困ったように眉を下げて笑った。

 

「聞いてみたい。瀬上のそういう話聞いたことないからさ」

「別におもしろエピソードとかは何もないよ?」

「笑い取れる話じゃなきゃしちゃいけないってこともないだろ?」

 

 たしかまだ春先、ジロが開幕する前の話。

 

 やめたいことを無理して続けるよりも自分の好きなことを探すほうがいいと言った瀬上を見て、何かをやめたことがあるやつなんだなとオレは思った。

 

 そしてそれはレースのことなんじゃないかと、CSPを走る姿を見て思った。

 

「ずっと気になってたんだよ。瀬上のフォームめちゃくちゃ綺麗だしさ、その辺で練習してるローディーよりはよっぽど走れるはずだ、て……もちろん話したくないならいいんだけど」

「いや、話したくないわけではなくて。長くなりそうだから」

 

 本当に嫌だったら明確に拒否するよ、と瀬上は言った。たしかに、そう話す瀬上の口調にそういう様子は見えない。

 

「じゃあやっぱ今が最適だな。金城さんたちどこまで行ったかわかんねーけど、しばらくは帰って来なさそうだ」

「……だね、結構かかりそうな雰囲気」

「もしくはオレが極めたタグセンのモノマネでも披露するけど。どっちがいい?」

「あはは! それは非常に気になるけど、激似だったら確実に寝ちゃうからなー」

 

 タグセン──化学の田口先生のことだが、穏やかな心地良い低音で教科書そのまま音読する様は、まるで子守唄だ。いつも真面目に授業を聞いているやつでもタグセンの化学の時間だけは眠ってしまう、そういう力がある。

 

 特に瀬上はタグセンの授業に耐性がないようで、六時間目に化学がある木曜日はよくコーヒーを煽っていた。

 

「じゃあたまには、私の昔話でもしますか」

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