Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#014

 十月。本日の最高気温は二十九度、平均風速三・一メートル。

 秋めく深い色をした青空に雲はまばらで、しかし照りつける太陽は未だ力強い。

 

 今日この大会を以って、新人戦シーズンがスタートする。青八木とオレ、チーム2人のデビュー戦だ。

 

「おかえりー。どう? 大丈夫そう?」

 

 青八木との試走を終えて学校のバスへ戻ると、乗り口のあたりで瀬上が待っていた。

 

「いやもう注文通り。文句つけようもないわ、サンキュ」

「よかったー。青八木くんも平気そう?」

「大丈夫。ありがとう」

「青八木くんは分解点検修理(オーバーホール)後だしね。……じゃあ次は、最後のミーティングだ」

 

 瀬上はオレたちから自転車を預かると「私は見張りで外にいるよ」と言った。調整済みの自転車に細工されたりしないよう、必ず一人は外にいるようにしているのだ。

 

 バスの中では、監督と先輩たちが待っていた。おかえりと戻りましたの挨拶もそこそこに、金城さんはオレにコースプロフィール図を手渡す。

 

「今日のプランを聞かせてもらおうか」

「はい。……おそらくパレードラン直後に柏東あたりが逃げに出ます。そういう展開が得意なやつらが集まってるチームですから。だけど集団は追わないでしょう、終盤山岳後の平坦で捕まえられると踏むはずです。オレらも集団に残って脚を貯めます」

 

 コースプロフィールの上に乗せた指先を、先に進める。コース後半、山岳リザルトのマークを指差した。

 

「オレたちが仕掛けるのはここ。山岳リザルト地点の後です。ここでも逃がしてもらえると踏んでます。なんせオレらは有力選手でもなんでもないですから」

 

 そういう意味では、警戒されているのは柏東の方だろう。ゼッケン番号を見るに、今日もエースに据えられているであろう柳田は、中学の頃は今泉俊輔同様に表彰台常連だったからだ。

 だがそれも、二年生に進級してからはずっと二位以下──今泉には大差をつけられていたから、柳田も辛酸を嘗め続けた者の一人なのかもしれないが。

 

「集団とのタイム差は二分がベストかな。一分半を切らなければいい……そう考えてます。それ以上遅いと中長距離が得意な連中が黙っちゃいないので。柏東にも近付きすぎないようにします。しばらくは七十パーセントくらいで回して、二人で楽しいサイクリングと行こうかと。逃げも集団も出し抜くには、『威勢良く飛び出した割に先頭にも追いつけないのか』くらいに思わせておくのが丁度いいので」

 

 中長距離が得意な選手というのは、もう少し踏めば前を捕まえられるという状況になると飛び出してくる。それは戦略上有効だからではなく、心理的要因による行動らしい。

 目の前に恰好の獲物がいるから捕らえて腹に納める。腹が減っているかどうかは関係ない。……そういう生き物なんだろう。

 

「そんでここが最後の中間計測地点。ここを過ぎたら思い切りペースをあげます。残り五キロあたりで柏東を捉えて、そのあとは……」

 

 計測地点を過ぎてしまえば、それ以降のタイム差を逃げや集団に知られることはない。次にそれを知る時は、リザルトと共にある。

 そこを利用する。それまで「あいつらは走れない」と思わせていたのを、最後にひっくり返すわけだ。

 

「状況を見極めて、一番いいタイミングでおまえを前に出す。青八木」

 

 頼もしい相棒の目を見て言えば、そいつは力強く頷いた。しっかりとゴールを狙う、強い目をしている。

 最後の最後、一番大事な役を担うとなれば心理的負担もあるだろうに、青八木はそんなの微塵も感じさせない。何も言わないけど、やり遂げる、って顔だった。

 

「よく考えてあるな」

 

 金城さんが言った。

 

「当たりめえだろ金城。こいつはオレの弟子だからな」

 

 田所さんはそう言って誇らしげに笑い、それに巻島さんが「田所っちはそこまで教えてないショ」とため息交じりに言う。

 

「だが今日の優勝候補には、柏東の柳田のほかに幕張京葉の渥実(あつみ)もいるぞ。そちらはどう攻略する?」

 

 もちろん考えてあるんだろう、と金城さんはオレを見た。疑いではなく、信頼してくれている目だった。

 さすが金城さん。オレが喋らなかった方のプランのことまでちゃんと考えている。

 

 幕張京葉については、オレたちが策を講じて何かするまでもない、と思っていた。それはヤツらが弱いからではなく、集団の総意として対処されるべき相手だと考えたからだ。

 強いやつはマークされる。それはどんなスポーツでも同じこと。

 

「その時は──」

 

 

 プラン通りだ。全てうまくいってる。

 

 レース前のミーティングで話した通り、幕張京葉の重量級スプリンター渥実は山岳で落ちた。

 鴨高をはじめとする優れたクライマーを擁する代わりに有力スプリンターがいないチームが一致団結し、山で一斉にスピードを上げたからだ。

 

 その目的は、山岳でスプリンターを払い落とし、ゴール争いに絡ませないこと。ゴール手前に登坂がある今日、ド平坦のゴールをオールラウンダーに獲らせるプランのチームにとっては、それが安全な策だ。

 

 幕張京葉の渥実以外にも、急激なペースアップに対応できず多くのスプリンターが狙い通りそこで千切れた。平地で武器になる強靭な筋肉は、山では足枷に変わるからだ。

 エースナンバーを背負う渥実を集団に復帰させるべく幕張京葉のアシスト勢は足を緩めて後方へと下がっていき、集団にはもう残っていない。

 

 おそらく幕張京葉は、この先の下りと平坦で集団に追いつくつもりなんだろう。ああいった重量級の選手は、重さの分ダウンヒルも速い。そして最後数キロで逃げの柏東も捕まえて、それまで大事に守ってきた渥実をゴールに送り出す作戦なんだ。

 

 山頂を通過し集団のペースが一旦落ち着いたところで、オレは青八木を連れて集団を飛び出した。計算通り、ここでのアタックは容認された。ここから無名の二人が抜け出したとて、その先の平坦で捕まえられると踏まれたんだろう。

 

 まったく、舐められたもんだよ。けど仕方ないし、それでいい。こっちもそれを理解して策を組んでる。

 

 後ろを振り返った。予定通り、既に集団の視界からは完全に出ている。これで中長距離が得意な連中を下手に刺激することはないはずだ。

 ハンドサインを送って青八木に伝える。もう大丈夫だから寄れ、と。青八木は頷き、一歩間違えれば車輪がはすって落車するような位置まで前に出た。

 

 集団から飛び出すときに、同調直列走法(シンクロストレートツイン)は使わなかった。それが一番楽な方法だったが、これはオレたちの最大の武器だ。見せてやる必要はないし、それで手の内がバレようものなら今日まであれこれ熟考してきた計画が台無しになる。

 

 獲るんだ、オレたちが。今日のゴールを獲って証明してみせる。オレたち凡人も、エリートを食えるということを。

 

 山を下りきり、森を抜ける。

 地面の色が影落ちる黒から陽の当たる灰色へ変わり、湿った土の香りは消え失せて、焼けるようなアスファルトからの熱が鼻に抜けた。

 

 強い日差しだ。スタート前よりも日が昇って、気温も高くなっている。さっきまで森の中にいたから、余計に暑く感じるのかもしれない。

 高い気温はそれだけで体力を奪う。もっと早い時間、涼しいうちにレースやってくれりゃいいのにな。けど、ほかのやつらだって同じ条件だ。

 

 あと一キロちょっとで最後の補給地点だ。ボトルの中に残った水で喉を潤し、残りを頭から被る。気化熱で体感気温がグッと下がった。

 

「手嶋ァ! 青八木ィー!!」

 

 田所さんの声がする。視界の隅に、まだ遠く小さく、チーム総北の姿が見えた。

 田所さんがサコッシュを持って一番前に、その後ろに金城さんや巻島さん、瀬上がいる。寒咲さんと監督は対向車線のワゴンの中にいて、窓から身を乗り出していた。

 

 補給の受け取りで、オレがラインを外れる。

 

「おまえらの強さ、見せつけてやれ!」

「プラン通りだな。最後まで気を抜くなよ」

「意外とやるっショ、一年」

 

 サコッシュを受け取るその時だけ、周りが急に静かになったような気がした。先輩たち一人ひとりの声が、ちゃんと聞こえる。

 最後に聞こえてきたのは、一番後ろにいた瀬上の声だった。

 

「チーム2人、Allez(アレ)! 私の整備した自転車で表彰台上がって、私を正真正銘の天才メカニックにしてくれー!!」

 

 ははっ、なんだよAllezって。グランツールかよ。ここ日本だぞ。

 私の自転車で表彰台に上がって、まではわかる。でも勝って自分を天才メカニックにしてくれだなんて、なんつー注文だ。聞いたことねぇよ。

 

「だってさ、青八木。せっかく先輩方が気合い入れてくれたってのに、一人だけ私利私欲まみれ。とんでもねぇメカニック様だな」

 

 隊列に戻り、受け取ったボトルを追い抜きざまに青八木へ渡す。それを受け取りながら、青八木はコクリと頷いた。

 

「でも、できる。オレたち二人になら」

 

 激しい空気抵抗の中、それでもしっかりと、オレの後ろへ入った青八木の声が耳に届いた。

 きっとミーティングの時と同じ、強い意志を感じさせる顔をしているはずだ。

 

「……だよな」

 

 自然と力が湧いてくる。別にギアを落としたわけでも、空力で優れたフォームを取ったわけでもないのに、ペダルが軽くなったような感じがする。

 

「オレたちチーム2人で表彰台獲って、そのついでにあのとんでもオーダーにも応えてやるか」

 

 それも悪くねーな、と思う。

 レースで表彰台を期待されるなんて考えられなかった。今までは精々、怪我するなとか完走しろとか上位三十パーセント以内に入れとか、そんなもんだった。

 

 でも今日は違う。いつも指導してくれている田所さんがいて、見守ってくれている金城さんがいて、不器用そうに世話を焼いてくれる巻島さんがいる。世話になってる寒咲さんがいて、このバイクを準備してくれた瀬上がいる。

 みんなが表彰台を獲れと、一番になれと言っている。それは「できる」と信じてくれているからだ。

 

「青八木、今のうちに補給入れとけよ」

 

 返事をする代わりに、青八木はその動作で答えた。見たわけではないけれど、それが呼吸を通して伝わってくる。

 レースの本番は、まだ先だ。

 

 

 残り十キロのゲートを通過した。このゲートはゴールを兼ねていて、最後にここを起点として1周回ってフィニッシュ、というコース設定になっている。

 

 風切り音が耳を満たす。その僅かな隙間から、自分たちを応援してくれている人の声が聞こえた。先輩たちかもしれないし、総北を贔屓にしてくれている人かもしれない。わからないけど、もう空っぽに近いはずの体に、自分でも思う以上の力がまだ残ってるんだなって思えてくる。

 

 ここが最後の計測地点だ。緩めていた脚を存分に使うべき時が来た。

 決めた秒数でローテーションし、次のコーナーの先に見える逃げとの距離を詰める。計測地点でのタイムで「十分逃げを吸収できる」と判断するだろう集団を、ここで引き離す。

 

 計算じゃ、山で遅れたスプリンターが集団へ戻ろうと協調して全開で踏んでる頃だ。きっとそいつらの視界に、メイン集団の姿はもう入っているだろう。そうなったら、やつらはとんでもなく速い。

 集団に追いつき、スプリンターが平地での強さを見せつけてくれば、いよいよ手に負えなくなる。この逃げ集団にも追いついてきて、結局一位争いに絡まれちまう。それじゃ山岳でやつらを落とした意味がないし、柏東だってここまで逃げてきたのが無駄になる。

 

 柏東にも、そろそろ本気で踏んでもらわなきゃならない。

 

 残り五キロ地点、ちょうどゴールとは対岸になる位置で、予定通り柏東を捉えた。エース柳田を含む三人で逃げていたやつらは、アシストの数でオレらを上回っている。

 

 今度は青八木を前に出し、先行していた柏東の左側へ回った。隊列の最後尾でアシストに守られる柳田に並ぶと、オレはまるで知り合いみたいに声をかける。

 

「よっ、柳田くん。調子はどう?」

「ん? ……ごめん、誰だっけ」

「オレ、総北の手嶋純太。よろしくな」

 

 柳田とそのアシストたちは訝しげな顔をした。「知ってるか?」「さあ?」とでも言うように顔を見合わせている。こちらの狙いを考えあぐねているんだろう。

 

「すごかったよ、去年の夏のクリテリウム。柳田くん二位だったよな。オレもあん時同じレース出ててさー。まあオレは四十位で、もうどうにもならんて感じだったけど」

 

 だがこれを聞いて、少しだけやつらの顔つきが変わる。こいつは格下だ、て確信したからだろう。

 この一瞬でやつらも色々なことを考えたはずだ。たとえば「まぐれでここまでやってきた凡人が、協調する代わりに二位は譲ってくれと交渉しに来たのかもしれない」……とかな。

 

「へえ……そうだったんだな」

「そ。そのあと中学最後のレースも全然ダメで、オレめちゃくちゃへこんでさ。自転車やめようかと思ったね」

「でも、やめなかったんだ?」

「まあいろいろ……あってさ。なんだかんだ続けてんだ。でもせっかくやるならって、イチから鍛え直したんだよ」

 

 パシ、と軽く腿を叩く。なるべく思いつめたような顔を作って言うと、柳田は「ふーん」と面白くなさそうに返事をした。

 さて、ここが大体残り四キロくらいか。場も和んだことだし、そろそろ仕掛けますかね。

 

「……ところで柳田くん。楽しくおしゃべりできるこの速度って、もしかして君らの百パーセントの力だったりすんの?」

「は!?」

「ギア、もうアウタートップに入ってるみたいだけど」

 

 右手の人差し指を下に向ける。オレが指差したのは、自分のリアディレイラーの方向だ。

 

「オレまだあと二枚残してんだよ」

 

 柳田が動いた。

 アシストを置き去りにし、隊列の後ろから前へ一気に飛び出る。オレもそれを見逃さない。青八木を追い抜いて、一呼吸で柳田に追いついた。

 

「おっと、早駆けか? 柳田くんてロングスプリントは苦手じゃなかったっけ?」

「おまえこそロングスプリントなんざできねえだろ、四十位!」

「いやいや、だから言ったじゃん。オレも鍛え直したんだって」

 

 でも今の爆発力なかなかだったよ。笑顔で言いながら、柳田くんの背をぽんぽんと叩く。

 青八木もしっかりとオレの後ろについて来ていた。

 

「柳田、待て! 挑発に乗るな!!」

「っ、悪い……」

 

 柏東のアシストもきっちりふたりとも追いついて来て、状況はさっきとまた同じになる。

 だが確実に柳田の脚は削った。こういう瞬間的な踏み込みは、必ず後で響く。特に残り数キロという状況では尚更だ。

 

 後ろから追って来ている集団のことを考えれば、オレたちはせめてこの逃げ集団のみで優勝争いをしたい。

 それは柏東も同じことだ。だからこそ、やつらはここまで逃げて来た。生粋のスプリンターとのガチバトルなんてことにならないために。

 

「あんま無理すんなって、ここで無駄足使うのはよくねーからな。あ、ちなみにオレまだギアチェンジしてないんだ」

 

 だとすれば、アシストのオレがやるべきなのはただ一つ。逃げ集団のペースを上げ、なおかつ敵エースの脚を削ることだ。

 

「つまりこっからあと二段速くなる、て意味なんだけど」

 

 右手で「二」を作って柳田に見せつける。それは残したギアの枚数であり、オレたちチーム2人のことでもあった。

 

「その手には乗らない、総北。おまえこそ残りの重ギアが踏めないだけじゃないのか?」

 

 今度の挑発には、さすがに乗って来なかった。アシストに止められて柳田も少し冷静になっているのだろう。今の返事をしたのも、柳田本人ではなくアシストの片方だ。

 

「中間計測のタイム差からは考えられない追い上げだ。そこで脚を使い切ったんだろう」

「……そう見える?」

 

 わざと肩をすくめ、片目を瞑って見せた。

 苛立ちはミスを誘発する。こんなことしないで確実に勝てるならそれに越したことはないんだろうけど、念には念を、だ。

 

「忠告してやろうか。こっちはアシストを二枚連れている。その意味くらいはわかるよな?」

 

 このアシスト、相当頭がいいやつだ。冷静で、きっとオレたちを高くも低くも見積もってない。エースの手綱さえもちゃんと握ってるらしい。きっとこのチームの中心は、エースの柳田じゃなくこいつなんだろう。

 

「そうだな、ロードレースにおいて『数』は強力な武器だよ。それは間違いない……でも、どうだろうな。さっきの意見を参考にするなら『これ以上ケイデンスをあげられないから重ギア踏んでるだけ』かもしれないし?」

 

 ゴールまで残り一キロだ。長かったレースが、ついに最終局面を迎える。

 

 後方をちらりと見やる。オレたちが通過してきた最後のコーナーのあたりには、配色センスの悪い、やたらとカラフルな景色が見えていた。

 あれは集団だ。その先頭にいるのは、山で遅れたエースを連れて戻ったであろう幕張京葉。その隊列の後ろにはきっと、優勝候補のひとり渥実がいる。

 

「この状況どう思う? 『不動の二位』くんは。重ギア踏めない総北とケイデンスあげられない柏東、どっちが勝つ?」

 

 こりゃ、とっとと決めちまわねーと。

 

「それとも第三の選択肢が必要か? 仲良く幕張京葉に出し抜かれるってヤツ」

「……チッ!」

 

 柏東のアシストの一人が動くのに合わせて、ギアを一枚上げた。

 ゴールゲートまではまっすぐ直線。下ハンを握り、上体を下げて空気抵抗を減らし、一番綺麗で安全な路面を踏み抜く。

 

 ゴール直前、集団がすぐそこまで迫っているこういう状況で、逃げが一番やってはならないのが「駆け引き」だ。

 逃げ同士で牽制を続けてスプリント体制に入るのが遅れれば、そこを集団に飲まれてしまう。当たり前だ、集団の方が一人あたりの空気抵抗が少ない分、スピードが速いのだから。

 

 だから今だけは、柏東のこのアシストが優秀で助かった。そういう馬鹿げた判断をしなかったから。

 

 柳田が言うように、この距離じゃオレたちにロングスプリントで勝てる見込みはない。後ろから来る生粋のスプリンターたちとやり合うこともできない。

 勝利を確実なものとするためには、柏東にも一緒に速度を上げてもらうしかなかったのだ。

 

 オレが青八木をこのままゴールまで連れて行く。

 

 エース柳田を牽引する柏東のアシスト、先頭に出ていた賢いやつが落ちる。オレたちは残った隊列の後ろにピッタリと張りついたまま進む。

 これでアシストの人数は同じになった。ここからはやつらを置き去りにすることを考えろ。

 

 最後に一枚残してあったギアに入れる。シフトレバーを押し込んだ瞬間、脚が悲鳴を上げ始めた。言うことをきけ、と念じながら柏東のラインから外れてアシストに並ぶ。

 

 やばい、音が何も聞こえない。ゴールまで残り六百メートル、観客だってたくさんいるはずなのに、ありえないほど静かだ。

 手の感覚はない、脚だって最早なんで動いてるのかわからない。

 だが踏みやめるな、まだだ。後ろからは集団がすぐそこまで迫ってきてる。柏東もまだアシストを一枚連れている。

 

 踏め、踏み切れ、限界まで。まだ動ける、まだ動かせる。

 

 並んでいたはずの柏東のアシストが、自分よりも後ろになったのを感じた。オレが追い抜いたのか、柏東が下がったのか、それはわからない。だがどちらでもいい。ここはゴールまで残り約三百メートル、青八木が最も得意とする距離だ。

 

「……今だ青八木、出ろ!」

 

 青八木は最後に一枚残してあったギアを上げた。アウタートップ──一番重く、だが踏めば最も加速するギア比。完璧なタイミングでのシフトチェンジだった。

 

「獲ってくれ、ゴール!」

 

 オレを追い抜き、前へ出る青八木のケツを押す。あいつが「必」の字を書いたグローブをはめた右手で。

 

 いまこのタイミングでようやく下ハンを握り、深い前傾体勢を取った青八木が「任せろ」と言った気がした。同時に、ぶん回していたオレの脚はついに止まる。

 

 暑さのせいか酸欠のせいか、目がチカチカする。音も聞こえず、眩む視界の中に、ゴールゲートへと突き進む二つの影が見えた。

 二つのうち、より遠くに見えるのは、空色のジャージ。青八木だ。ゴール前、圧倒的な伸びだった。

 

 その光景を視認したとき、そこを中心として、急に視界が広がった。やっと聴覚も戻ってきた。

 

 後方からは轟音が迫る。熊蜂の羽音のような低音が耳に突き刺さる頃、見慣れたその背中は、この道の上にいる誰の手も届かないくらいに小さくなっていた。

 

 勝てる。残り数十メートルにして後続とこの距離。もうどんなに優秀なスプリンターでも覆せない。

 天からの授かり物を持たない凡人のオレたちが、玉座を奪う時が来た。

 

 初めてだ。ようやく報われたような気がする。今までやってきたことは間違いじゃないって。

 オレは自転車を続けていていいんだって、見えない何かに肯定されたみたいだった。

 

 たぶん、オレと青八木が拳を突き上げたのは、同時だったと思う。一緒に走るうちに呼吸が重なって、神経までもが繋がったみたいに、オレたちは同じ動作を取った。

 

「サイクルロードレース千葉新人戦を制したのは、総北高校、青八木一選手! アシストの手嶋選手と共に、ダブルガッツポーズでフィニッシュです!!」

 

 その次の瞬間には、オレは集団の中にいた。

 計画通りにいかなかった集団は、オレや柏東のアシストを飲み込んで3位争いにもつれ込んで行く。だがそのスプリントはもう、オレには関係のない世界だった。

 

 マジか、こんなに嬉しいのか、レースで勝つってことは。

 オレは表彰台には登れないけれど、そんなのはどうでもいい。これは二人で手にした勝利だからだ。それをオレが、オレたちがわかっていればいい。

 

 考えた策が通用した。シミュレーション通りにレースが動いた。集団を出しぬき、逃げを捉え、翻弄し、最後に青八木がゴールを獲った。

 

 オレたちも闘える。それがわかった。たとえこれを世間様が小さな一歩だと言ったとしても、今まで勝ちを得られなかったオレや青八木にとっては大きな一歩だ。

 

 ゴールゲートをくぐる。一度トップスピードまで到達した自転車は、もうペダルを回さなくても勝手に前へ進んだ。

 もうオレの順位なんてあってないようなものだが、それで構わない。

 

 色とりどりのジャージの中を彷徨う。総北はどこだ。あの空色は、どこだ。

 

 道のずっと奥、見つけた、と思った瞬間に青八木の声がした。

 

「手嶋!」

 

 汗で濡れた髪が、田所さんに撫でられてぐしゃぐしゃになっている。

 前髪の間から覗く左目と視線が重なった。目の輝きがいつもと違うような気がする。声も普段より大きくて、ずっと明るい。

 

 田所さんの横には穏やかに笑う金城さんと、引きつったぎこちない笑みの巻島さん。青八木を挟んで反対隣には、パチパチと拍手をする瀬上と、一歩下がって見守る監督と寒咲さんがいた。

 

 応援してくれた人たちがこんなに嬉しそうな顔してるの、初めて見る。

 勝ったからだ。オレたち、本当に勝ったんだな。

 

「よくやった青八木ィ!!」

 

 ハンドルから手を離し両手を広げて、その中へ飛び込んだ。察した青八木がオレを受け止める。左足だけビンディングを外して地面に足をつくと、どちらからともなく両手の力を緩めた。

 

「二人で獲った」

 

 そう言って青八木は人差し指を天に向けた。

 

「一番だ」

 

 初めて会った時と同じ、あの仕草。けどその表情はあの時よりもずっと生き生きとしてて、嬉しそうだ。

 

「やっぱその名前おまえにピッタリだよ、青八木一!」

 

 ぱしん、と音がなる。青八木の右手とオレの右手が重なって、「必勝」の文字が完成する。あの時は願掛けに近い思いだったはずだけど、今は違う。

 

「手嶋もよくやった! 最後のリードアウトよかったぞ! さすがオレの弟子だ!!」

「田所さん、応援ありがとうございました! オレ、最後の補給の時……痛っ」

「あーもう田所っち、加減しろショ。骨折れたらどうすんだ……これ使えショ手嶋」

「ありがとうございます、巻島さん」

 

 褒めてくれる田所さんの手がいつも通り背中に刺さって、ありがたくも顔を歪めていると巻島さんがボトルとタオルを差し出してくれた。お礼を言えば、巻島さんは「クハッ」と笑った。

 

「2人とも見事だ。プラン通り……素晴らしいチームワークだな」

「こりゃ来年のインターハイも楽しみだねえ」

 

 金城さんと寒咲さんもそう言って笑う。レースで勝って現主将と元主将の二人から褒められるなんて、考えたこともなかった。

 

「ありがとうございます、次のレースも精一杯やります」

「ああ、楽しみにしている」

 

 関係者エリアへ向かって歩き始めた先輩たちと入れ違いになるように、瀬上が一歩こちらに歩み寄った。

 

「二人ともすごい! 私、逃げに追いついた二人を見てたら、なんかブエルタでのモヴィスターの追い上げ思い出しちゃって……思わず叫んじゃったよ!!」

 

 熱く語る瀬上の言葉に、オレと青八木は顔を見合わせた。瀬上が言う「ブエルタでのモヴィスターの追い上げ」ってのは、きっと、

 

「手嶋、それって……」

「ああ……瀬上、それマジで言ってる?」

 

 瀬上はすごく嬉しそうな顔で、迷いなく頷く。どうやらお世辞じゃないらしい。

 

「うん、マジだよ。あの十七ステージ! 先行のコンタドールを追い詰めていくバルベルデと親衛隊みたいだった! あの時モヴィスターはステージ獲れなかったけど、二人はやり遂げたんだね。集団を使わずに自分たちの脚で追いつくなんて本当にすごいことだよ、おめでとう!!」

 

 やっぱりそうだ。

 ブエルタ・ア・エスパーニャの第十七ステージ。オレと青八木が初めてこの自転車部の扉を叩いた日、丁度その話をしていた。そしてその時オレたちは、

 

「あんなのやってみたい、て言ってたやつだ」

 

 オレが言うと、青八木は頷いた。

 

「こんなに早く実現すると思わなかった。……ありがとう、手嶋」

「いや、最後まで踏み切ったのは青八木だ。お礼言うのはオレの方だよ」

 

 青八木。おまえもあの話、覚えてたんだな。

 あの時は二人でチーム組むなんて考えてもなかったのに、あんな話してたとかさ。こういうの「キセキ」って言うんじゃないの?

 

「ふふっ。やっぱりロードレースっていいものだなー」

 

 瀬上の言葉を聞いて、ふと考える。

 

 オレもそう思っていた。「ロードレースは素晴らしいものだ」って。

 でもそれは当事者としてではなく、あくまでも見る側としての感覚だったのかもしれない。プレイヤーとして心の底からそう思えたのは、これまでを振り返ってもきっと今日だけだ。

 

「ほらおまえら、表彰式始まるぞ。ステージ上がる準備しろー!」

 

 

 表彰台に立った青八木は堂々としていた。

 

 自分の名前と同じ数字の上に登ったあいつは、もっと緊張するかと思っていたけれど、贈られた拍手喝采を壇上でしっかりと受け止めている。

 

「今のお気持ち聞かせてください!」

 

 だが表彰式の司会にマイクを向けられると、その様子が変わった。青八木が反射的に「あっ……」とこぼしたのをマイクが拾う。

 ステージ上の今日の主役から送られてきたのは、救難信号みたいな視線だった。明らかに困ってます、て顔でこっちを見ている青八木に、オレも先輩も頷いて返す。瀬上なんてそれに加えて、どっから出して来たのか「Allez」と書かれたボードまで掲げている。

 

 知らない大勢の前でしゃべるの、あんま得意そうじゃないもんな。頑張れ、青八木。

 

 意を決したのか、青八木は一呼吸置いてからマイクに向かって話し出した。

 

「……たくさんの人に支えてもらったから……ここに立つことができました。チームで勝つためにアシストしてくれた手嶋……くん。いつも指導してくれている田所さん、金城さん、巻島さん、監督……メカニックの寒咲さんと瀬上、さんに……心からの感謝を伝えます」

 

 ぺこ、と礼儀正しく背中を畳んだ勝利者のインタビューに会場が沸く。その次にマイクを向けられた二位の柳田は、笑顔だったが少し複雑そうにも見えた。

 

「不動の二位」。柳田が一番言われて嫌な言葉だろうからああ言って煽ったけど、ちょっとかわいそうなことをしたかもしれない。

 表彰台と圏外とじゃ感覚は全然違うんだろうけど、それでも「勝てなかった」ことに変わりはない。そのつらさはオレも知っている。

 

「熱いレースだったなー。手嶋くんも最後の引き、本当にすごかった。お疲れ様」

 

 インタビューに答えた二位、三位にも拍手を送りつつ、隣の瀬上はそう言った。

 

 オレも全力を尽くしたし、何より今日は青八木が結果を出してくれた。だからその言葉を素直に受け取ることもできた。

 だが一回立ち止まって考えて、たとえば青八木がアシストだった場合に同じ結果になったかといえば、それは違うような気がする。それに気がついて、結局オレは受け取るのをやめた。

 

「いや……一番すげーのは、きっちりゴールスプリント決めた青八木だよ。オレはもう脚残ってなかったからな」

「そう、それ! それが二人のすごいところでしょう?」

 

 それって、どれ? 測りかねていると、瀬上は続けた。

 

「あの土壇場で、勝たなきゃいけないプレッシャーの中でスプリント制した青八木くんはすごい。自分のリザルト捨ててアシストに徹した手嶋くんもすごい。逆に手嶋くんが青八木くんを出した後で失速しなかったら、『ああこの人、全力で引いたわけじゃないんだな』ってなったよ。そしたら勝ててなかったかもしれない」

 

 それは、オレには考えつかない話だった。

 失速するのは全力出したから……か。たしかに、そう言えるのかもしれない。

「失う」って字が入っているからか「速さこそ正義」みたいな感情からくるものか。失速と言えばどうしてもマイナス要因に思えるけど、プラスに考えるのならそうなる。

 

「もちろん全力で引く必要がない場面もあるけれど、今日は違うよ」

 

 なんでこうも瀬上の言葉は刺さるんだろうな。

 青八木もそうだけど、あいつは口数が少ないのに対して、瀬上は普段の軽口からは想像もできないような良いことをたまに言う。そういや今日も、

 

「……てかアレ、すげー笑ったわ。『勝って私を天才メカニックにしてくれ』ってやつ。そんな無茶振り聞いたことねーよ」

 

 思い出したら、なんかまた笑えてくる。あの時はレース中でゲラゲラ笑ってるわけにもいかなかったから、いま余計に響いて来てるのかもしれない。

 その時の分もいま笑っていると、瀬上は「えー」と言った。

 

「みんながバンバン勝ってくれたら私にもプロチームからお声がかかりそうじゃない?『その強さの裏には一体何が!?』ってなって、イネオスとかユンボから学校に使者が来ちゃったりしてさ~」

「いきなりワールドチームから? 貪欲だなー」

「グローバル人財候補と呼んで」

 

 瀬上は、いつも通りにしたり顔で笑った。これを可愛いと思うようになっちまったんだから、オレは自分で思う以上にやられてるんだろう。

 でもまあ、お声がかかるかどうかは別として、瀬上だったらいつか本当にワールドチームのメカニックにでも何でもなっちまいそうだ。

 校内でもたまに友達と一緒にじゃなくて1人で出歩いているのを見かけることがあるから、単独で何かをすることに関してフットワークも軽そうだし。でなきゃ、こんな男ばっかの部活に入ったりしないよな。

 

──オレはどうだろう、ワールドチーム。……そこまで高望みしなくても、その一個下のプロコンチとかでも。目指せるようになったりは、するんだろうか。

 

 昔はシキバに「世界で走ろうと思ってる」なんて言ってた。その道がどれだけ険しいものかも知らずに。その後、現実を見て、一回は心が折れた。

 けど今日こうやって青八木を表彰台に上げて、もしかしたらこの方法でなら、青八木と一緒ならオレもアシストとして十分やっていけるんじゃないかって、思い始めてる。

 

 ……いや、でもまだまだだ。これで満足するわけにはいかない。

 

 現状に満足せず、目標を高く設定するのが大事なんだ。それは世界で活躍した選手が言ってる。

 たとえば「インターハイに出たい」が目標じゃ、メンバーに選ばれたらそこで終わる。だから目標は、そのずっと先にある「ツールで勝つ」にすべきなんだ、て。

 

「でも言うだけあって最高のバイクだったよ。次も頼むな、瀬上」

「うん。任せて!」

 

 だけどその最終的な目標にたどり着くためには、いまの自分の立ち位置を知って、すぐそこにある小さな目標を見なきゃならない。それを一個一個こなしていかなきゃならない。

 オレたちは今日、その「すぐそこにある小さな目標」のひとつを達成した。その次にあるのは「勝ち続けて、この立ち位置を絶対のものにする」ことだ。

 

 その先にインターハイ出場があって、さらに先に田所さんたちを表彰台に乗せるってのがあって、そのずっとずっと向こうに世界があるんだろう。




彼らの言う「第十七ステージ」は2012年のブエルタ・ア・エスパーニャを参考にしています。
バルベルデ選手、プロ現役生活お疲れ様でした!
※先日の#012と#013の逆転投稿は失礼いたしました。修正済みです。
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