Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#016

 もうすぐ一年が終わろうとしている。

 

 去年の今頃、オレはもう二度とロードレースなんかやらないと思ってた。

 思うだけにすれば良かったのに他のやつらに喋ったから、シキバや東戸は止めてくれた。

 

 いま思えば、本当は決めきれずにいたことを、ああやって周りに宣言することで自分に言い聞かせていたのかもしれない。自転車を嫌いになる前に辞めてしまえばいい、その方が幸せだ、て。

 

 その決心がこの春、青八木一がオレの前に現れたことで覆った。あれからもう半年以上経つ。

 

 去年のオレ。そんな思い詰めなくても大丈夫だよ。来年には、おまえは自分でもびっくりするくらい別人になってる。

 

 十二月二十八日。今日は総北自転車競技部の部活納めだ。

 

 金城さんが組んだ短時間高強度の練習メニューをこなし、フラフラで帰って来たオレらの前に差し出されたのは、タオルとボトル、それから──雑巾。

 

 その供給元である天才メカニック様は「こちら本日後半の練習メニューです」なんて言って満面の笑みを浮かべていて、オレは「マジ勘弁してくれよ」と返しつつも悪い気分ではなかった。

 

 要するに、今日は部室の大掃除の日だったのだ。

 

 監督や先輩たちに年末の挨拶をし、それからオレたちは自分の自転車をラックから下ろす。

 部活は年明け三日まで休みだ。青八木との自主練習もこの期間は基本的に休みで、三日の朝から再開する約束をしている。

 

 ……そういえば、まだ聞いてなかったな。

 

「瀬上はどうすんの? 年末年始の休み」

 

 ネックウォーマーに顔を埋め、寒そうに背中を丸めている瀬上に尋ねる。

 

「たまには自転車にたくさん乗る予定。二人は?」

「オレも親戚のとこ顔出したら練習だなー。あとは東戸とか中学のやつらとちょっと集まるくらい?」

「……オレは、茨城のばあちゃんちに行く」

「ロードで?」

 

 青八木は瀬上の問いに頷いた。

 

「あれ、でもお父さんとお母さんは? 一緒に行かないの?」

「親は車。現地集合」

 

 普通に考えたら親と一緒に車でってなるだろうに、隣県くらいじゃ当然自転車で行くもんだと思ってるのがローディーの悪いところだ。そして実際やろうと思えばできてしまうのが、ロードバイクのすごいところでもある。

 

「なんだ、結局みんな自転車漬けじゃん」

「いつもと変わんねー。休みだって言われても結局同じことしてんだよなあ、オレら……」

 

 本来、冬はロードバイク乗りにとってはオフシーズンだ。室内トレーニングに切り替えるか、シクロクロスやMTBをやるのが賢くて資金もあるサイクリストの選択だが、学生の俺たちはそんなことも言っていられない。

 

 幸い千葉は積雪も路面凍結も少なく、一年中外を走り回っていられる。だがこの時期の外練は、暑い夏よりも過酷だ。

 

 この辺りは北西から吹き付ける風が強い。それが向かい風あるいは横風となれば、平坦であっても激坂にいるのではと錯覚するほどの抵抗を生む。乾燥した空気は喉に刺さるし、発汗してるのに指先や足先はかじかんでるなんて訳のわからない状況にもなる。夏とはまた違う準備をして出かけるのが、冬季ライドの鉄則だ。

 

 こうした厳しい天候条件や準備の煩雑さから、冬は外を走らないというロード専門のサイクリストは少なくない。もちろん室内でのローラー練習も効果的だが、実走でしか得られない経験値は確実にある。路面の状況を捉える力だったり、寒さの中でもいつも通りのパフォーマンスを発揮することだったりが、そうだ。

 

 つまりこの時期にどれだけ過酷な練習をしたかが、次の春の結果を左右するわけだ。雪に耐えて梅花麗し。であればこの年末年始の「休み」を、本当に休むわけにはいかない。

 

「瀬上はどこ走りに行くんだ?」

「まだ計画立ててないんだよねー。でも初日の出を見るのに良さそうな所、とは考えてるよ」

「初日の出ライドか。お父さんと?」

 

 それを最初に始めたのは、一体誰だったんだろうか。元旦の朝七時頃、SNSはロードバイクと太陽とを写真に納めた人たちの投稿で溢れかえる。

 

 企画する自転車店が多いせいか、初日の出は愛車と共にというサイクリストは多いらしい。寒咲さんも、お客さんを引いて海まで日の出を見に行く緩いイベントをやると言っていた。

 

「あー……うん、たぶん」

 

 瀬上から返って来た、なんとなく歯切れの悪い答えが引っかかった。

 

 え、なに、その「間」。

 

 瀬上が発したのは肯定の言葉だが、間があることでその意味は反転する。つまり「お父さんとは行きません」という意味に取れる。

 

 たぶんて、本当は誰と行くんだよ。まさか自転車乗りの彼氏とか?

 

 いつもの調子でそう聞いてみればよかったのに、オレの口から出たのは「ふーん」という当たり障りのない返事だった。

 

 

 新しい一年が始まってから、まだたったの六時間。一月一日の午前六時。勝手知ったる道を、愛車でひた走る。

 

 まあ詰まるところ、オレも瀬上の初日の出ライド計画に感化されたのだ。練習ついでにいい景色でも見れたらラッキーかな、なんて発想だった。

 

 ここは峰ヶ山へ続く平坦な一本道、よく練習で走る田園区間。いつもと違うのは、真っ暗で見通しが利かない事だ。

 

 自転車のライトと数少ない街灯が道を照らしてはいるが、この田舎道は街中に比べて圧倒的に暗い。本来この自転車が得意とする速度域で走るのには恐怖を感じるほどだ。練習で怪我したら元も子もない。安全第一、自然とケイデンスもギア比も落ちる。

 

 幸いしたのは、オレがこの道を走り尽くしていることだ。アスファルトがひび割れて危ないのはどこか、路肩の砂利が張り出していて滑るのはどの辺りなのか、すべて体が覚えていて適切に回避できる。

 

 だから暗さよりも問題なのは、気温だ。

 

「さっみー」

 

 オレの冬用グローブ、防寒性能はそれほど良くない。ブレーキやシフターの操作を邪魔しない薄さで、なおかつ寒さで指が動かなくなるようなこともない……そういうグローブを選ぶのなら、多少の冷えは覚悟しなければならない。冷気は指先からじわじわと熱を奪っていく。ネックウォーマーを引き上げても、頬は針を刺されているかのように痛んだ。

 

「よくこんな中走り回るよな、世の中のローディー……」

 

 きっと瀬上も、今頃どこかを走っているんだろう。

 

 この辺で初日の出ライドって言ったら、やっぱ九十九里か銚子か、そのあたりかな。もしかしたら瀬上もオレと考えることは一緒で、この峰ヶ山の上の駐車場にいるかもしれない。元旦からそんな会い方できたらすごいよな。もはや運命、みたいな。

 

「いや万が一鉢合わせて古賀とかと一緒にいたらどうする!? ショックでかすぎるだろ、そん時はオレも茨城行って青八木に泣きつこう」

 

 近くに誰もいないのを良いことに、独り言は言いたい放題だ。そうでもしていないと、自分のネガティブな妄想に気が滅入りそうだった。口に出せば楽になる。

 

 そんなに気になるなら聞けば良かったんだよ。これは全て憶測でしかない。だったら余計な想像をするな手嶋純太。

 

 本格的な登りになれば、寒いだの恋煩いがどうだのと余計なことは考えなくなった。特に峰ヶ山名物「壁坂」は、考え事をしながら臨むやつを踏破させてくれるような、そんな生半可な坂ではない。

 

 心拍数の上昇、ダンシングのリズム、ギア比、取り込む酸素、そして何より回す脚のことを考えなければ、止まってしまう。

 

 そうしてやっと辿り着いた峰ヶ山の頂上は、いつもよりもずっと賑やかだ。練習じゃ、こんなに人がいるところなんて見かけない。

 

 年齢も性別もバラバラで、色もデザインも違うジャージを着たサイクリストたち──たぶんどこかのショップコミュニティに、車で来ている家族連れやカップルたち。どこもかしこもペアないしは団体さんで、オレみたいに孤独を満喫しているやつは──オレ以外に一人だけだ。

 

 団体さんから距離を取るように、ぽつんと立っている女性のサイクリスト。その後ろ姿は、なんとなく瀬上にも似ている。柵に寄りかかって海を見る彼女の隣には、鮮やかな水色のロードバイクが立てかけられていた。

 

 あれってファクターの……フランス籍のワールドチーム、AG1Rのチームレプリカモデルじゃないか? ホイールはレーゼロだし、コンポはもちろんデュラエース。おそらくパーツを自分で選んで組み上げた、所謂バラ完てやつだ。こだわり抜かれたレーシングバイクって感じがする。きっと乗り手は相当な、

 

「手嶋くん?」

「瀬上?」

 

 聞き慣れた声がする。その自転車の主が、こちらを向いていた。それが瀬上だった。

 

──嘘だろ、会えたらすごいなとか思ってたらマジで会えるとか。キセキじゃん。

 

「すっごい偶然! 練習?」

「そんな感じ。残念ながら暗すぎてそれどころじゃなかったけど」

 

 本当にいるとは思っていなかったから、後ろ姿が似ているなとしか思わなかった。バイクだって通学に使ってるラレーじゃない。でも良くみれば、靴やヘルメットはいつも瀬上が使っているものと同じだ。

 

「やっぱり真冬でも走ると暑いねー。かと思えばこうやってじっとしてるとやっぱり寒いしさ」

「そうそう、キツい思いして登ったら今度は風切って降りなきゃなんねえし。ダウンヒルはマジで凍えるよなー」

 

 答えながら瀬上の隣に並び、オレもバイクを柵に立てかけた。

 

「うっ、帰りのこと考えるだけで嫌になってくる……」

「でも結局、寒いとか風強いとか文句言いながら乗っちまうんだよなあ、ロード」

「サイクリストってどうかしてるよね」

 

 ヘルメットを外してブラケットに引っ掛ける。

 

 ふと目線を上げた先には、車から降りてくる家族の姿があった。日の出を待ちきれないとばかりにはしゃぐ小さな男の子と、その子に上着を着せようと追いかける父親、眠る女の子を抱きかかえる母親。まともな神経をしている人たちは、ああやって車で見にくるんだろう。

 

「まさかここで手嶋くんと会うとは思わなかったよ」

「オレも。初日の出って言ってたから、海行ったかと思ってた」

「去年はそうだったよ。でも今年は峰ヶ山もいいかなって思ったんだ。みんなが練習でよく走ってるから、私もって。登り始めてから後悔したけどね……勾配緩い方のルートで来たのになあ~」

「ははっ。じゃあ来年はもっとラクに登れるように瀬上も練習する?」

「絶対にいや」

「そいつは残念」

 

 家を出た時は真っ暗だったが、今は水平線がぼんやりと明るい。空は夕焼けとは少し違う優しい茜色を纏い始め、手前に見える暗いビル群とのコントラストは幻想的ですらある。

 

「ほんと手嶋くんたちよく登ってるよねーあの壁坂。今日もそっちから来たでしょ?」

「まあ一応。……自分でも信じらんねーわ。昔は足ついちまって、自転車引きずって歩いてた場所だから。あの頃は、ここを登れるようになる日はもっとずっと先だと思ってた」

 

 シキバと一緒に壁坂を歩いてた頃が、ずっと昔のことみたいだ。

 

 あいつ、どうしてるんだろう。まだロード乗ってるかな。それともピアノの方を頑張ることにして、ロードは辞めちまったかな。またいつか、どっかで会えたらいいんだけど。驚くだろうな、あんなこと言ってたオレがまた自転車に乗ってるって知ったら。

 

「来年は峰ヒルで表彰台目指しちゃう?」

「そうだな、できることなら。まあトップはぶっちぎりで巻島さんだろうけど……でもまずはその前に、インハイかな!」

 

 答えながら柵を背もたれにして上を向いた。頭上にはまだうっすらと星が煌めいているが、夜明けはすぐそこまで近付いてきているのだとはっきりとわかった。

 

「なんだろ。ここ登ってるとさ、会得が早い遅いの差はあるんだろうけど、ちゃんと練習すりゃやってやれないことはないんだなって思うよ。……まあ凡人がそう思いたいだけかもしんねーけど」

「凡人、て……」

 

 隣にいる瀬上が顔を歪める。そんな言い方しなくても、と言いたいのかもしれない。

 

「別に卑屈になってるわけじゃないさ。自分の立ち位置を把握してるだけ……エリートと対等に闘うための工夫ってやつだよ」

 

 オレが笑って言っても、瀬上はまだ納得していなさそうな顔だった。やべ、こんな顔させるつもりじゃなかったのに。話題変えよう。

 

「今日はいつものラレーじゃないんだな」

「あ、うん。これレースで使ってたやつで。登るならランドナーよりこっちだよね」

 

 瀬上が通学に使っている自転車はクロモリフレームだが、今日のマシンはそれより圧倒的に軽いカーボンフレームだし、このメーカーが売り出している物の中でもクライミング向けのモデルだ。

 

 ラレーのクロモリはとても優秀で、重い素材の良さを活かしながらも軽量化の努力がなされているという。とはいえ勾配がキツいこの峰ヶ山を登るなら、こっちに分があるだろう。

 

「それにしても良い自転車だな。ツール走ったマシンのレプリカだろ? それにこれもしかしてバラ完?」

「そう! さすが、わかる!?」

「なんかすげーこだわり感じるよ。正に瀬上家で組まれたやつって感じ」

「私よりもお父さんの方がノリノリでねー。まあ私の脚には見合わないほど良いやつだからちょっと恥ずかしいけど……」

「まあ、こういうのは愛着湧くかどうかが一番だからさ」

 

 東の空がいよいよ明るくなってきた。青と橙のグラデーションは、時間の経過とともに色合いを変えていく。

 

「もうそろそろ時間だね」

 

 サイコンの時計を見た瀬上がそう言った。オレは頷いて正面から柵に寄りかかる。

 

 ふと周りを見ると、薄明の中にはいくつもの四角い光が浮かんでいた。みんながスマホを構えている。そうして、今年一番の太陽が昇る瞬間を待っている。

 

 瀬上とオレは、カメラを構えなかった。

 

 橙に色付いた東の空には、やがて一筋の白い光が射した。その光は瞬く間に大きくなっていき、全容が海より出でる。

 

 水面は黄金に輝き、まるで太陽の裾野から光の道が伸びているかのようだ。

 

 静かだった。もちろん周りは待ち侘びたご来光にどよめき、騒がしい。でもここに、瀬上とオレの間にあるのは、静謐な空気だ。

 

 世界の色が変わっていく。

 

「綺麗だな」

「うん。ここまで登った甲斐があったよ」

 

 いつもは夜明けと共に起きて練習を始めるから、陽が昇る瞬間をこんな風にじっくりと見たことはなかった。

 

 瀬上は写真を撮るでもなく、その光景をじっとその目に焼き付けている。

 

 この眩しい朝日のせいだろうか。瀬上の目が、一際強く輝いているように見える。

 いつもの自転車を見る時の楽しそうな目とはまた違う。それよりも落ち着いているけど、静かに感動しているみたいな、穏やかで幸せそうな光を宿していた。

 

 ファインダー越しの世界には、あまり興味がないのかもしれない。レースをやめたという話をした時も、そんなようなことを話していた。本物の空気感とか、臨場感とか、きっとそういうのが好きなんだろう。

 

「あ、そういえば」

 

 瀬上が声と共にこちらを向いて、目が合った。

 

「あけましておめでとう。今年もよろしく」

 

 こうして瀬上がニコリと笑う姿は、これまでに何度も見てきた。なのに、この顔を今日初めて見るみたいに新鮮に感じるのは、きっとこの朝日のせいなんだろうな。

 

「そういやそうだった。今年もよろしくな、瀬上」

 

 なんか、こんなの前にもあったな。

 たしか入部初日だ、瀬上に初めて自転車を見てもらった時。あの時はまだ「瀬上さん」て呼んでたし、瀬上が優秀なメカニックだという所だけしか見えてこなかった。

 

 でも今は、随分違う。

 

 上を見ると空の青は淡く寝ぼけたような水色へと変わってきて、藍色は空の果てに消えて行こうとしていた。

 

 人は変わる。──まるでこの朝焼けの空みたいだ。

 

 それからしばらく、お互いに何も話さなかった。けど気まずさはない。むしろ心地いいとさえ言える。

 

 風に吹かれる瀬上を横目でぼんやりと眺めていると、オレはあることに気が付いた。

 

「そういえば瀬上、お父さんは?」

 

 それらしい人が近くにいない。バイクもない。オレが邪推していた自転車乗りの彼氏もいない。

 そうだ、最初に見つけた時から瀬上は一人だった。

 

 約束もしてないのに会えた。そのキセキに驚いて頭から全てが抜け落ちていたが、瀬上がこの光を誰と見るのかを、オレはずっと考えていたんだ。

 

「あ……えーとですね……」

 

 瀬上の目が泳ぎだす。その反応を見て、事のあらましが大体わかった。

 

──あの時の歯切れの悪さはこれが原因だったのか。あれこれ考え込んで自分にとって都合の悪い想像して一人で落ち込んで、何やってたんだかな。

 

「おまえ……この真っ暗な中、さては一人で来たな」

「……やだなー、それはお互い様じゃーん」

「最初からこうするつもりだったんだろ。まったく、こっちは特に予定ないって言ってたんだし頼れよな」

「えー、東戸くんたちと遊ぶとも言ってましたー」

「じゃあオレも別に今日の予定だとは一言も言ってませーん」 

 

 お互い投げやりに言い放って、それから顔を見合わせてどちらからともなく声を上げて笑い合った。

 

 ああ、今、同じ時間を共有できてるって感じがする。学校でも部活でもないところで、これが初めてだ。

 

「ほんと前科持ちの悪い娘だわ。新年早々補導されるぜ? 女の子が暗い中一人で出歩くなよ」

「だってお父さんと走るとフォームとかライン取りとか、あれこれ言われそうで面倒だし……」

「だからってなー……まあいいや。そういう時は今度からオレに言えよ」

 

 瀬上はいつもみたいに「はーい」と返事をするんだろうなと思ってそう言ったが、実際の反応は少し違うものだった。

 

「……いいの?」

「当たり前だろ? ……友達なんだし」

 

 目を丸くしてパチパチと何度か瞬きを繰り返し、驚いたような顔をしている瀬上に、オレは余計な予防線を張ってしまった。そう言葉が出てから思った。

 

「うん、じゃあ今度からそうする。ありがとう。……まあそんなわけで、手嶋くんに会えて良かったよ。寒いし暗いし周りはみんな団体様で楽しそうだし、なんとなく居心地悪くてさあ」

 

 一息ついてから、そう言って瀬上は屈託なく笑った。 

 

「……そりゃ嬉しいな、光栄だよ」

 

 会えて良かった、て。そんなん笑って言うなよ。期待してもいいのかな、なんて思いたくなっちまう。

 

 なんだか目を合わせていられなくなって、もう一度海の方を見た。

 

「瀬上って毎年これ見に自転車乗ってんの?」

「うん。私の中では恒例行事だね」

「そっか」

 

 遠くに揺らめく水面にざわついた気持ちを預ける。それから、今度はオレが瀬上の方を向いた。

 

「来年もそうする予定ならオレも一緒に行っていいか? うち親戚も千葉に住んでるから正月って言っても普段とあんま変わんなくてさ。どうせ走りに行くしかやることねーんだ」

 

 今言ったのは全部本当のことだ。だけどこの提案をしたのは「やることがないから」でも「放っておくとまた瀬上が真っ暗な中ひとりで出歩きそうだから」でもない。

 

 一番の理由はたぶん、瀬上が見る景色の中に、その端の方でいいから、自分もいたいと思ったからだ。

 

「うん、それはもちろん。でも本当にいいの? 私のペースに合わせると練習にならないよ」

 

 そんなこと考えもしない瀬上は、ちょっと驚いたような顔をしながらも、すぐに頷いた。

 

「じゃあその代わり前日にペダルぶん回しておくよ。そもそも、ああも暗いとぶっ飛ばす気なんか起きないけどな」

「あははっ、それもそうだ。じゃあ回復走にはちょうどいいかもね。私も風避けくらいにはなれますよ」

「女の子に前引かせるほど落ちぶれちゃいねーよ」

「ごめんごめん、悪い意味で言ったつもりはないよ」

「知ってる」

 

 オレが答えたちょうどその時、スマホがジャージのバックポケットの中で鳴った。メッセージの受信を知らせる音で、手にとってみると、そこにはよく見慣れた名前が表示されている。

 

「お、青八木からだ」

「青八木くんも新年の挨拶?」

「みたいだ」

 

「今年もよろしく」と書かれた通知をタップして画面を開くと、ちょうど同時に写真が送られてきた。写っているのは「家内安全」と掲げられた鳥居と、巨大なガマガエルの像。関東のサイクリストの中じゃ有名な場所のひとつだ。

 

 その画面を見せると、瀬上もそこがどこなのかすぐにわかったらしい。

 

「これ筑波山の上の駐車場だね」

「みんな考えること一緒かよ」

 

 青八木から「すごい人」と、また一言だけメッセージが送られてきた。どうやら筑波山は、初日の出や神社を目当てに来た人で混雑しているらしい。読む人が読めば意味を履き違えそうなくらいの短文だ。

 

 青八木に「こちらこそよろしくな! 今年は絶対インハイ行こうぜ」と返信して、それから隣にいる瀬上を見た。

 

「オレらも写真送るか」

 

 インカメを起動してスマホを横に向ける。せっかくなら朝日を入れようと太陽を背にしているから逆光で顔が暗いけど、まあ仕方ないよな。

 

 そんな風に考えていたら画面の中の瀬上がスーッと画角から消えて行って、オレは振り返った。

 

「瀬上も入れよ」

「え、私が撮ってあげるよ」

「いいから、ほら」

 

 そう言えば、瀬上は画角に戻って来た。オレのスマホの画面を使いつつ髪を整えて、写真を撮られる人の表情になっている。画面越しに目が合って「いいよ」と言われているような気がした。

 

「あー、そうだな……『一九九八年のツール・ド・フランス総合優勝者は~?』」

「『マルコ・パンターニ』~!」

 

 いい笑顔で答える瀬上の声にシャッター音が続く。一枚の静止画が出来上がったところで、瀬上が吹き出した。

 

「なにそれ! 普通そこはイチ足すイチは~とかでしょ」

「それじゃ普通すぎてつまんねーじゃん。たまには新鮮でいいだろ?」

「そうだけど……ふふっ、私も今度部活で写真撮る時使おう」

「ウケたみたいで何よりだわ。ほかにもあるぜ? リアディレイラーに付いてる歯車の名前はとか、チェレステで有名な自転車メーカーはどこだとかな」

「あはは、よく思いつくな〜。……ところで写りはどうなの?」

 

 肩越しに瀬上がスマホの画面を覗き込む。

 

 ……近い。いや写真撮る時から割とそうで、今更なんだけど。なんか花みたいないい匂いもするし……いやいや動じるな。気にするな。

 

「これ。逆光にしては結構よく撮れてるだろ?」

「うーん、まあ……送ることを許可しよう」

 

 自分ではよく撮れていると思うが、何か引っかかるんだろうか。瀬上の反応はそこまで良いものではないものの、合格ラインではあるらしい。

 

「女子って写真判定厳しいよな……」

「あったりまえでしょ。ゴールの写真判定が選手の運命を左右するものなら、女子にとっての写真判定はその後の人生を左右するものなのですよ」

「んな大袈裟な」

 

 瀬上から利用許諾をもぎ取ったその画像を青八木に送る。「山頂に瀬上もいた」と添えて。

 もちろん、ここがどこなのかは言わなくても通じるだろう。空の色はいつもと違うけれど、それくらいオレたちは見慣れている景色だ。

 

「よーし、風強くなる前に帰ろっか。麓の神社まで競争ね!」

 

 瀬上はヘルメットを被り、自転車のテールライトを灯しながらオレを振り返った。

 

「おー、負けた方の罰ゲームは?」

「自分の事はそっちのけで、勝った方の今後一年間の活躍をとにかく祈願する」

「それいいな! 全戦全勝を天才メカニック様が祈ってくれんなら効果ありそう」

 

 フレームを跨いだ瀬上はハンドルバーに頬杖をついて、いつものように誇らしげに笑う。

 

「言っておくけど私、ダウンヒルだけはそこそこ得意だったよ~?」

「そうなんだろうなって思ってたよ。けどオレも総北自転車競技部で走ってる身なんでね。プライドにかけて負けねーよ」

 

 答えながらバックポケットにスマホを入れる。オレがヘルメットに手をかけたところで、瀬上はブラケットに手を添えた。

 

「言ったなー! よし、じゃあ早速スタート!!」

「あ、ずっりー! オレまだ何も準備してねえのに!」

 

 もう駐車場の敷地外まで到達している瀬上が「ハンデだよー」なんて言って笑ってる。

 

──にしても、新年早々こんなことが起きるなんて。

 

 ここで一年分の運を使い果たしたのか、逆に良い一年になるぞって目に見えない何かに言われてんのか。どっちかなんてわかんないけど、きっとそれはオレ次第で、どうとでも変えられるんだろうな。

 

 今年はきっと、良い一年になる。もちろんキツいことだってこの先いくらでも起きるんだろうけど、今はそんな気がしてるんだ。

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