Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
私いま最高な気分なんだけど、この先大丈夫かな?
ここから急転直下で落っことされるとかないよね?
第一希望の総北高校には無事に受かったし、入学式当日から大事に乗られているコラテックを見つけたし、同じクラスの古賀くんとは一緒に自転車競技部に入ったし、クラスの可愛い女の子たちとも仲良くなれた。
部活に女子部員がいないのは相当心細いけれど、そうかもなって予想も覚悟もしていたからダメージは少ないほうだ。それよりも、同年代の人とレースや機材のことを話せる嬉しさの方が大きいかも。
これ以上ないくらい、新生活は良いスタートをきれた気がする。
特に、あの日同時に入部した三人が、それぞれ自転車をとても大事にしているのが嬉しい。
私は自転車を大切にするサイクリストが好きだ。それだけで応援したくなる。
古賀くんは相当な機材オタクみたいで造詣が深い。単騎で高速巡航できる優秀な選手だけど、整備士にも向いていると思う。
自転車好き相手であってもなかなか理解してもらえないマニアックな話について来てくれるのも頼もしい。
青八木くんはチェーンやスプロケといった駆動系の清掃に相当時間をかけていると思う。丁寧に汚れを落としてから、リキッドタイプで一コマずつ注油しているんだろうな。
入学式初日に先輩だと思って話しかけて、驚かせてしまったことは本当に反省してる……でも「オレもそうなる」と言ってくれたから、彼も自転車が好きで、とても優しい人なんだろう。
それから手嶋くん。彼はネジの一本も落とさず潤滑剤を入れてやっているから、乗り込んでいる割には新品みたいに車体が綺麗。
だけどよく立ちゴケしているのか、フレームにはうっすら細かい傷がついている。
見たとき思わず声をあげてしまいそうになったけど、あれはSUPERSIX EVO……私が男だったら乗りたかったフレームだった。ニヤニヤしないように気をつけたんだけれども、抑えられていたかな……。
キャノンデールのカラーリングは私には似合わないと言うか「ロードに乗せられている感」が出てしまいそうな気がしたから選べなかった。でもここへきて自分が乗っていなくても間近で見せてもらえるのが、しかもそれがとても大事にされているものだから、嬉しくてたまらない。
このまま何もなく、手嶋くんの身長が急激に伸び始めるとかもなければ、たぶん私は三年間あのフレームを見られる。最高。ありがとう手嶋くん。
それに彼は私の自転車プロファイリングを聞いてもドン引きしなかったし、逆に「ありがとう」って言ってくれたなあ……。
あのとき先輩は「手嶋は初心者だろ」って言っていたけれど、私に言わせれば経験者であるのは一目瞭然だった。
一昨年出たフレームだから、まずそこが引っかかる。誰かのお下がりである可能性もあったけれど、それにしてはグローブが使い込まれている感じがしたし、クリートも傷ついていた。
帰ってきた手嶋くんに自転車を見せてもらえばチェーンが伸び始めていて、そこで私の見立てが間違っていないことを確信した。
もちろん保管状態が悪くてずっと雨ざらしにしているとかであれば、使わなくても自転車は傷んで行く。でもあれだけ綺麗な車体、注油もされずに屋外保管されていたはずがない。
あれは使い込んだゆえの結果に違いなかった。
でも手嶋くん本人は、一瞬反論したけれど、結局言葉を飲み込んでしまった。
一度そういう選択をした人に、いくら私が言葉だけで聞いたところで濁されるような気がした。そこには諦めの色が見えたから。
それで「本当は違うんだよね?」と聞く意味で、アレをやったわけだった。
ある種の賭けだった。私だって、これから仲良くやっていくべき初対面の相手にドン引きされるのは不本意だ。
だから、あの時「そんだけ勉強してるってこと」「瀬上さんの良い所の一つ」と言ってくれた手嶋くんには、本当に救われた。
オイルで真っ黒になった手のことも、彼は気にしないでいてくれた。
──ずっと悩んでいたことがある。自転車を好きでいると、ほかに大事にしたいものを失くさないといけないような感覚になること。
ロードで海まで走って晴れやかな気分で家に帰ってきたとき、近所に住む同級生たちから「凛ちゃんはいつも汗でドロドロで、女の子らしくないね」と言われたことは数知れない。
整備で真っ黒になった手を笑われたことも、何度だってある。
同じサイクリストにだって「ちょっと自転車見ただけでそこまでわかるなんて怖い」と言われる始末だ。
その度に、私らしさを表現することを否定されたような気がしていた。
私が夢中になっているものが、自転車じゃなくて料理やピアノだったらこんなことにはなっていないかも、なんて思ったこともあった。
でもそれを改めるというのは、私ではない別の誰かになるという意味に等しい。それだけは受け入れられない。瀬上凛が死んでしまう。
だから手嶋くんと話してみて、こういう風に考えてくれる人もいるんだなあと思ったら、救われた。私は私が在りたいようにしていいんだって思えた。
私は私でいることに誇りを持とう、と。
それは自転車の話がわからない人に無理に話を振るとかいう意味ではない。
私が自転車を好きであることを、私自身が肯定する。自転車が好きな自分を隠さない。そんな意味だ。
そのほうが絶対に楽しい。
自転車部の先輩たちも、私の技術に期待してくれている。
手嶋くんは私に「ありがとう」と言ってくれたけれど、本当に「ありがとう」と言わなければならないのは私だ。
あの時、私も一応言ったとは思うけれど、たぶん「ありがとうと言ってくれてありがとう」という意味で伝わっている。
でも明日「昨日のアレ、長年地味に悩んで諦めてた問題だったから手嶋くんがああ言ってくれて助かった~」とか言っても、「何言ってんの?」としかならないよね。
だからまあ、結局言わないっていうことになってしまうのかな……。
惜しいことをした。伝えたかったな。鉄は熱いうちに打たなければならないのだった。
「ちょっと凛、いつまでお風呂入ってる気? それとも湯船の中で寝てるの?」
「起きてる! 起きてるから大丈夫お母さん!!」