Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#020

 結末なんて、迎えてしまえば大抵は呆気ないもんだ。

 

 そこへ辿り着くまでの間にどれだけの情熱を注ぎ、どれほどの時間を費やしていようと、決する時はほんの一瞬。だからこそ、そのたった一瞬を色鮮やかに彩るために、人は入念な準備と最大限の努力をするんだ。

 

 オレと青八木もそうだった。おそらく、あいつらもそうだった。

 

──敗北。

 それがオレたちの得た結果だ。

 

 今年、オレたちチーム2人がインターハイに出る可能性は、潰えた。

 世話になった田所さんをオレたちの脚で表彰台へ、という願いはもう叶わない。

 代わりに、あの柵の向こう側には一年が行く。

 

 チーム2人が負けたのなんて、いつ以来だ。……ああ、役割交代してオレが集団から抜け出せなかったあの時以来だ。

 

 あのレースを除けば、オレたちはいつも表彰台を獲っていた。二位に甘んじることもあったが、それでも毎回最前線で闘って最低限の結果を出してきた。

 

 やつらを侮っていたわけじゃない。この合宿が始まるまでに集めたデータを見て、やつらが脅威になるのは明らかだった。だからこそこちらも対策して、それでもあの方法なら大差をつけて勝てる──そういう計算だったんだ。

 

 ……そう思ってたんだけど、な。

 

 今、オレと青八木の視線の先には雨粒で景色がにじむ窓があって、その向こう側には先輩たちが走っているコースがある。見えているのはホームストレート──昨日、オレたちが獲り損ねたゴールラインだ。

 

 それを四日目の今日、室内のベンチから見下ろすことになるなんて考えもしなかった。ほんと、人生って何が起きるかわかんないよな。

 

 喉が乾いて、横に置いていた水入りのペットボトルを手に取る。気がつけばもうほとんど残ってない。それを全て飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。こうやって力を入れるときが一番痛い。

 

「水買って来るわ。青八木もなんかいる?」

 

 青八木はオレを見上げてから、自分の手の中にあるペットボトルに視線を落とした。中身はまだ半分以上残っていて、青八木は首を横に振る。

 

「いや、大丈夫だ。ありがとう」

「了解」

 

 肉離れだと診断されてから一晩経って、あの時と比べると、普通に歩く分には随分と良くなった。けどいつもの速度は出ないし、壁伝いに体重を預けて歩いた方が楽だ。手すりを掴んで階段を下りれば、ちょうどその先の部屋に人影が見える。

 

 瀬上だ。

 そこはピットスペースで、去年と同じようにそこが瀬上と寒咲さんの仕事場だった。寒咲さんはコースの方に出ているのか、姿は見えない。

 

 ……そういえば、オレたちの自転車、どうなったんだ。

 

 中には入らず、外からそっと確認するだけのつもりで近づいた。

 そのはずだったのに、なんでこんな時に限ってこうなるんだろうな。足に鋭い痛みが走り、けつまずいて入り口の壁にぶつかった。その音で瀬上は振り返り、目があう。

 

「おはよう、手嶋くん」

「……おはよ」

 

 こちらが拍子抜けするほどに、瀬上の反応はいつも通りだった。笑顔で挨拶する瀬上に、オレはうまく笑えてるかな。

 

 ……いやいや、さっき鏡みたじゃん。ひでー顔してたし無理だろ。

 まあいいか、きっと瀬上はわかってくれてるはずだ。同学年のよしみで許してくれ。

 

 瀬上と目を合わせられなくて逸らした視線の先には、二台の自転車が掛かるサイクルラックがあった。

 その自転車が誰のものかなんて、よく見なくても、考えなくたってわかる。オレと青八木のだ。

 

 昨日、道の上でぶっ倒れてから診断が下りるまでの間のことは、あんまよく覚えてない。覚えていたくないから、記憶が曖昧なのかもしれない。

 

 だが敗北した事実と、田所さんにもらった言葉だけは、しっかりと覚えている。

 

 でも自分で自転車を片付けた感覚はないから、たぶん先輩たちの誰かが、ここまで運んできてくれたんだろう。瀬上が回収してくれた可能性も考えられた。

 

 オレのキャノンデールも、青八木のコラテックも、売り物みたいに綺麗になっている。

 チェーンのコマのひとつひとつから、細かいネジまでピカピカだ。

 

 瀬上、きっと昨日のうちに手入れしてくれたんだな。オレら、どうせ今日は走れねーってのに。

 この合宿中は睡眠時間削って作業してるだろうから、一晩放っておいて寝てても良かったのに、こんな丁寧に……。

 

「ディレイラーハンガー直しておいたよ。バーテープも少し傷んでたから巻き直した。フレームはちょっと傷付いちゃってたけど問題なし。またいつでも走れるようにしてあるから」

 

 オレが何を見ているのか察したんだろう。瀬上はいつも通りの口調で報告する。

 

「そっか……。ありがとな」

「どういたしまして」

 

 それだけ言うと、瀬上は作業に戻って行った。

 静かなチームピットは、窓を叩きつける雨の音で満たされていく。

 

 濡れて危険な路面状態を考慮しても、田所さんや金城さんたちなら、きっと昼頃。もう間もなくゴールするはずだ。

 

 いま瀬上がやっているのは、田所さんたちを迎える準備だろう。瀬上が机に並べているのは工具でもパーツでもなく、タオルやボトル、軽食や、濡れたレインウェアや靴を干しておくためのハンガーだ。

 

 自分の自転車に、正面から向き合う。

 

 あの時、オレが脚を止めていなければ。ゼロからの加速でなかったら。たとえ数百メートルでも先に進んでいて、そこから二人で追い上げていたら、あんな無駄脚を使わなくてよかったんだ。

 

 そうすれば、青八木だけでも勝てていたはずだ。

 いつものオレたちのように。

 

 弱いオレは、他人の何倍も練習しなきゃならない。計算を、時間をかけて練り上げた策すらも乗り越えてくるような奴らと戦っていくには、結局は死ぬほど努力を積み上げるほかない。圧倒的な力を前にすると、戦術だけでは勝てない。それを昨日思い知った。

 

 本当は立ち止まってる暇なんかねえのに、しばらくおまえにゃ乗れねえわ。

 悪いな、自分で手入れもしてやれなくて。

 ……今年のインターハイ、おまえと走ってやれなくて。

 オレなんかじゃなくてもっと速いやつの持ち物になれば、おまえはもっと遠くまで、遥か高みへと行けたかもしれないのに。

 

「っあー、やっぱ悔しいわ、」

 

 言わないでおくつもりの言葉が飛び出した。

 そうしたらもう止まらなかった。

 

「悪い、瀬上。いろいろ協力してくれてたのにな」

 

 やっぱダメだったわ。

 

 変な改造されてハンデついてるバイクに乗ったやつらに負けた。

 この間はじめてロードに乗り始めた初心者の、ビンディングもついてない、重くて競技には向いてないクロモリフレームにも、負けた。

 

「せっかくおまえが、こんなに手入れしてくれてもさ、」

 

 オレの自転車は、カーボンフレームだ。

 レースに出るなら、中高校生でもクロモリやアルミのエントリーモデルではなく「カーボン」のミドルグレードを選ぶべきだという自転車屋の話に、親はなんの文句も言わずに投資してくれた。

 

 身長が伸びるのに合わせて交換していったクランクやステム。

 もっと速く快適に走りたいという願いに合わせて変えたハンドル。

 交換する時は瀬上の意見も聞いた。

 サドルも寒咲さんに何種類か貸してもらって、一番乗り心地のいいやつを選んだ。

 

 機材は悪くない。

 問題があるのは、エンジン(人間)の方。

 

「オレにはこいつの性能、全然引き出せねー」

 

 あーあ、こんな話されても瀬上だって困るよな。

 オレらが本気でインターハイメンバー入りを狙ってたことを、瀬上は知っている。どんな反応すればいいのか困らせてるかもしれねぇ。

 

 でもいま、瀬上の顔、見れねーや。

 オレ超カッコ悪りぃ。最悪だ。マジで。

 

「……手嶋くん知らないの?」

 

 瀬上がオレの隣に立つ。オレは瀬上を視界のどこにも入れていないけど、気配でわかった。

 

「メカニックはね、レース中メカトラが起きずに、選手と自転車が無傷で帰って来てくれたらそれだけで満足なんだよ。前に言わなかった?」

 

 隣で瀬上が、ふふんと澄まし顔で笑っている。たぶん。

 見えてないけど、とてもじゃないけど見られないけど、そんな気がした。

 

「ついでにトロフィーでも持ってたら、それは泣いて喜んで大満足ってかんじだけどさ、まずはそこなんだよね」

 

 覚えてる。瀬上と話したことは、些細なことだって覚えている。その話は去年聞いた。

 けど、今オレが言うべき言葉は何も見つからない。

 

「だから私も悔しい」

 

 それは、やっとの思いで絞り出したみたいな声だった。

 道を閉ざされたのがオレと青八木じゃなくて、まるで瀬上本人かのように聞こえてきて、もしこの結果に何か瀬上が責任を感じているのだとしたら、それは絶対に違う。

 

「だから、って。これは瀬上がミスしたから落車したとかじゃねーし」

 

 ほぼ反射だった。これまでまともに上げられなかった顔を隣にいる瀬上に向けて、一年に負けてから初めて彼女の顔を見た。

 それでわかった。これは、責任を感じているとか、そういう話じゃない。

 

 なんでそんな、自分のことみたいに悲しそうな顔してるんだ。

 

「わかってる。それでも、悔しいよ。でもこれはたぶん……私がメカニックだからじゃなく、もっと個人的な問題で」

 

 そのあとは、オレも瀬上も言葉を発さなかった。降りしきる雨の音だけが聞こえていた。

 沈黙を破ったのは瀬上の方だった。

 

「……手嶋くんてさ、機材に問題があるんじゃないか、とか言わないね。この子を信用してくれているんだね」

 

 ありがとう、と瀬上は続けた。瀬上が言う「この子」とはもちろんオレのキャノンデールのことで、その手はそっとサドルに添えられている。

 

 礼を言われるようなことなんて、何もしていないのに。本当に強いやつらは、昨日のあいつらみたいに機材がなんであれ勝つんだろう。むしろオレは瀬上に責められたっておかしくないんだ。

 

 あれだけ相談に乗ってやったのに、これだけ完璧に整備してやってるのに、なぜおまえはこの自転車に見合うだけの働きができないんだって。宝の持ち腐れだと言われても仕方ないはずなんだ。

 

「そんなの思ったことねーわ。……瀬上と寒咲さん、これ以上ないってくらい信用できる二人が診てくれてるのに」

「整備士冥利に尽きるよ」

 

 けど瀬上がそんな言葉を口にすることは、絶対にない。無傷で帰ってくればいいと言い、どんな時でもマシンを通してオレたちに寄り添って、解決策を考えてくれるのが瀬上だからだ。

 

 瀬上は眉を下げて笑って、それから今度は上を向いた。

 

「私、来年のインターハイでは手嶋くんのキャノンデールの整備してる気がするんだ」

 

 穏やかに、将来の夢でも語るみたいに瀬上はそう言った。

 だが、オレの胸はチクリと痛む。ほんの小さな棘が刺さったみたいに。

 

 その言葉の意味はわかる。本来は嬉しいはずの言葉だ、励ましてくれてるんだろう。でも、だからこそオレは首を横に振った。

 

「……そう言ってもらえるのはありがたいけどさ、三年になったからって、そこにオレの席があるとは限らねえよ」

 

 来年はきっと古賀もレースに戻ってくる。青八木や今泉はそのアシスト、平坦は鳴子に獲らせる。小野田に山を制させて、まだ見ぬ一年の天才クライマーに山を引かせて。

 

 オレのいない、そんな編成だって容易に想像がついちまう。

 

 昨日の今日でこんなこと言ったら、「インターハイには二人で行く」って言ってくれた青八木は怒るだろうな。

 けどオレは、オレだけはあの柵の向こう側に行くことが叶わないんじゃないかって思っちまったりもするんだ。

 

 青八木はこの一年で相当伸びた。元々持ってたものを正しく使えるようになって、田所さんに鍛えてもらって……ウェルカムレースで最下位になった時のあいつとは、もはや別人だ。

 

 オレもこの一年間、同じだけ積んできた。だけど、あれほど劇的に変わったわけじゃない。

 だからたまに、本当にたまに。青八木がいつか遠くに行ってしまうような予感がすることがある。

 

 いや、青八木はいつでも側にいてくれる。それはわかってる。あいつはオレを見捨ててどっか行っちまうようなやつじゃない。

 

 たとえこの地の底みたいな暗い場所から、先に青八木だけが光の降り注ぐ地上に辿り着いたとしても、そこからずっとオレに手を伸ばしていてくれるはずだ。そういうやつだ。

 

 だけどオレは、底に取り残されたままになるんじゃないかって。どんなにあがいたって、あと少しが届かないんじゃないかって。そんな風に感じることが、たまにあるんだ。

 

「そうだね、実際にそういうこともあった。でも、私の勘はよく当たるんだよね。それに」

 

 続く言葉をちゃんと聞こうとしたんだろう、自分の体なのに何かに操られているみたいに、俯いていたオレは自然と顔を上げて瀬上を見た。

 

「手嶋くんもこのままじゃないよ。一年後はもっと強くなってる」

 

 迷いや疑いのない目だった。自分の見ている未来に間違いはないと言い切るような口調だった。

 

「何より私が、チーム2人が一緒に表彰台に立つ瞬間を見たいと思ってる。……やめないでしょ? 自転車。やめられないっていう方が正しい?」

 

 なぜオレが強くなると言い切れるのか、その具体的な根拠を瀬上は並べてこない。だけど根拠がないことは言わないのが瀬上だ。自転車を続けるのならその分、必ず成長できると──それが断言する理由なのかもしれない。

 

 まだ信じていてくれるのか。

 

 一回自転車をやめようとしたオレだ。また年下に負けて、初心者に負けて、弱音吐いて励ましの言葉すら突っぱねて、今度こそやめちまうんじゃないかって思われたって仕方ないのに。

 

 オレは自転車をやめないと、オレもいつか表彰台に登れる日がやって来ると、信じていてくれるのか。

 

 オレが口を開こうとしたその時、瀬上のスマートフォンが鳴った。メッセージの受信を知らせるための、気が抜けるような着信音だった。瀬上はちらりと画面を見ると、返信も何もせず、そのまますぐにポケットにしまう。

 

「田所さんと金城さん、完走したみたいだよ。お迎えしなきゃ」

 

 きっと監督か寒咲さんからの連絡だったんだろう。瀬上は机の上に用意してあったタオルやボトルを持って駆け出した。

 その後ろ姿は扉の向こうへ消えていって、やがて足音すらも聞こえなくなる。

 

 ……まったく、自分が言いたいことだけ言って、怪我人を置いて走っていきやがった。まあ先輩たちが戻ってきたとなりゃ当然だけど、オレの返答も聞いてけよ。

 

 けど──ありがとう、瀬上。おまえの言う通りだ。

 

 結局どれだけ悩んだって苦しんだって、オレは自転車をやめられない。

 ペダル回して辿り着いた先で見たい景色が、まだ山のようにある。

 

 それを見ないで終わっちまえるほど、オレは自転車を嫌いになったりはできないんだ。

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