Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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#021

 改めて一人になってじっくり考えて、それで浮かんできたことがある。

 

 「希望するレースに出られない」。それはきっとトッププロだって経験していることだ。コンタドールもカヴェンディッシュも、あのエディ・メルクスでさえ多分そうだ。そういう時もあったはずだ。

 なら彼らはその時、一体どうしてきたんだろう。

 

 落ち込む? 不貞腐れる? いや違うはずだ──まあそんなことが一切なかったわけじゃないかもしれないけど、きっとそれよりも多くの時間を、もっと有意義なことに費やしただろう。

 

 残念ながら、彼らを見習おうにも今のオレに「練習」という選択肢はない。まずはこの脚を治さなくてはならないからだ。

 でも、それだけなのか。その間にも、もっと他に出来ることがあるんじゃないか。

 

 そう考えた時、一番最初に思いついたのが、今からやろうとしていることだった。

 

 チームピットからは、水をホースから勢いよく噴射するみたいな音が聞こえてくる。

 中へ入ってみれば、瀬上が洗車をしていた。泡だらけになっているのは金城さんの自転車。雨が降って泥まみれになって、消耗品の傷みもいつもより激しかっただろう。作業するその横顔は、真剣そのものだ。

 

 さらに奥では寒咲さんが、田所さんの自転車を拭き上げている。オレに気がついて「よォ」と左手をあげた寒咲さんに「お疲れ様です」と返すと、瀬上もこちらに顔を向けて笑い、すぐに視線を戻した。

 

 二人とも忙しそうだ。でもこの脚じゃあ、手伝おうにも逆に迷惑かけるよな。

 だけど、……だからその分、オレは今、オレができることをやるよ。

 

「悪い瀬上、ペダルレンチ貸してくんね?」

「そこのツールケースに入ってるから適当に使ってー」

「おー、サンキュ」

 

 瀬上のツールケースから目的の道具を取り出してから、自分の自転車を吊り下げ式のバイクラックから下ろし、床置き型のディスプレイスタンドへ移した。このタイプは簡易的なメンテナンススタンドにもなる。

 

 怪我をして痛む足。ぎこちない動作で、その横に膝をついた。

 

 瀬上が直してくれて、ディレイラーハンガーが新しくなってる。倒れ込んだ時に曲がっちまったんだろうな。

 

……ああ、瀬上が言ってたのはこの傷か。昨日までは無かった。ごめんな。

 

 バーテープも新品が綺麗に巻かれてる。色がいつもの白じゃなくて車体に合わせたリクイガスグリーンなのは、きっと瀬上の趣味だ。前と比べてかなり派手に見えるけど、こっちの色も悪くない。

 

──世の中にはプロ並みのハイエンドモデルに乗ってるアマチュアがゴロゴロいるけど、それでもオレにとっちゃ、おまえが世界で一番のロードバイクだ。

 

……だから、おまえの一部を、オレはあいつに託してみたい。

 

 今年のオレには出来なかったけど、あいつならきっとおまえに、今まで見たことのない景色を見せてくれるはずだ。そしておまえも、あいつの力になってやれるはずだ。

 

 いつも瀬上や寒咲さんがメンテナンスしてくれているから、ネジも固着とは無縁で、レンチで回すだけでペダルは簡単に外れた。

 

 片足たった一二九グラム。手に取ると少しひんやりとしているそれは、自転車乗りが前に進むために必要不可欠な部品のひとつだ。

 だからこそ、その性能はレースパフォーマンスに直結する。たった数十グラムの差だって、何時間もサドルの上で過ごし、何万回とペダリングをしていれば、その運動量の差は計り知れないものになる。

 

 これをあの可能性の原石みたいな、いつだってみんなを驚かせる走りをする超弩級新人に託したら、一体どんな走りをするのだろうか。どこまで速くなるのだろうか。

 もしかしたら、オレが見たことのない景色を、あいつは目にするのかもしれない──。

 

「これ、このままちょい借りてくな」

「うん」

 

 高圧洗浄機を操り、一片の汚れも残そうとしない瀬上は、オレの言葉に生返事だ。たぶん作業に夢中になってて半分聞いてない。

 

 けどペダルレンチを使うなんて場面、この後そうそう起きないだろう。もし必要になっても寒咲さんのがある。これを借りて行っても大した問題にはならないはずだ。

 

 ビニール袋のなかにペダルとレンチを入れて、立ち上がる。ビリビリとした痛みが脚を駆け抜けた。

 

 小野田は今頃、どこを走っているんだろう。

 この雨だ。ペダルから足、滑るだろ。死ぬ気で走ってるとはいえ、寒いだろ。指先冷たくて、感覚なくなって、視界悪くて泥まみれになって、ぐちゃぐちゃで……それでも前向いて走んなきゃならない。時間内にゴールしなきゃならない。

 

 悔しいよ、おまえらに負けたのは。それこそオレは多少、雨の登りには慣れてる。だから、昨日もしあの時、雨が降っていたら……なんて思ったりもしたよ。

 

 だけどこの部活に入ったってことは、おまえらはもう、オレと同じチーム総北の一員ってことだ。

 だったら、オレがやるべきことは決まっている。

 

 チームの勝利のために、自分にできることを精一杯やる──惜しみなく力を捧げること。それができなきゃ、サイクリストは務まらない。

──だよな? 青八木、瀬上。

 

 

「戻りました」

「早かったな。ちゃんと休んできていいんだぞ」

 

 作業中の寒咲さんが顔を上げる。私がこのピットから出る時には鳴子くんのハンドルを元に戻し始めたところだったけれど、もう既に今泉くんのシフターも戻し終わっている。ちょうど変速の具合をテストしているようで、寒咲さんはペダルをくるくると回しながらSTIレバーを倒し、ディレイラーの動きを細かく目で追っていた。

 

「ちゃんと糖分もカフェインも入れましたよ。バッチリです」

「そうか。んじゃオレもパパッと補給して来ますかね」

「そうしてください」

 

 寒咲さんはペダルを回す手を止め、STIレバーからも手を離した。今泉くんの自転車のギアは、アウターローの組み合わせに入っている。

 

「フロントもリアもテストしてある。問題ない。あとはホイールはめりゃ終わりだ」

「わかりました、じゃあここからは私が。ごゆっくり」

「おう」

 

 頼むな、と言って寒咲さんはチームピットを出てロビーの方へ向かって行った。

 

 それにしても、ハンドルやシフターを変えられたあの状況で三人ともよく走り切った。しかも今泉くんと鳴子くんに関しては、かなりの時間的余裕を持ってのゴールだった。

 

 去年、私の同級生たちは一人も完走できていない。三年生でも達成したのは一部の人だけだった。それを考えれば、一年生から三人も完走者が出た今年は異例なのかもしれない。

 

 小野田くん──到底レースには向かないあの機材、それにボロボロの鉄下駄まで履かせられた状況だった彼が本格的なレーシングバイクを手に入れたら、一体どこまで行ってしまうのだろう。

 

 そういえばあの時、古賀くんに「あの二人の強さは機材性能の向上なんかに左右されない」なんて言い返したけど、本当にそうだったな。でもあの時の趣旨とは違う意味で、それが証明されてしまった。

 

──残っているのは、あと一台。その小野田くんの分の洗車と手入れだ。

 あまり私が感傷的になるのはよくない。さてと、もうひと頑張りしますか。

 

 今泉くんの自転車をメンテナンススタンドから戻し、ホイールをあるべきところへ納める。それから整備を終えた自転車が並ぶサイクルラックへと引っ掛けて、そこには互い違いになって八台の自転車が並んだ。

 完走した自転車も、できなかった自転車も、同じように一列に並んでいる。

 

「……あれ?」

 

 その様子をぼんやりと眺めていて気がついた。

 手嶋くんの自転車のペダルがない。左右両方とも。

 

 ペダルに異常はなくて、そのまま使えるはずだったのに。寒咲さんが外したのかな?

 ……ううん、きっと違う。そういえば、昼頃に手嶋くん本人がペダルレンチを貸してくれって言ってた。でも私は先に走り終えた三年生の分の洗車に集中していたから、何に使うつもりなのか碌に聞かなかったんだ。

 

 じゃあ、ペダルを外したのは手嶋くん本人ってこと? でも、何のために?

 

「あ、あの……」

 

 作業場の入り口から声が聞こえて、ハッとした。

 

「小野田くん。どうしたの?」

 

 振り返れば、なんだか申し訳なさそうにこちらの様子を伺っている小野田くんがいる。彼は一時間ほど前にこの千キロ合宿を完走してみせたばかりだ。その時は全身ずぶ濡れになっていたけれど、今はお風呂や食事を済ませて、顔色も随分と良くなっている。

 

「靴を干したいんですけど、いいですか? 鳴子くんから、みんなここに干してるって聞いて……」

「もちろん。このハンガー使って」

「ありがとうございます!」

 

 小野田くんは嬉しそうに笑って、私からシューズハンガーを受け取った。

 

「その靴──」

 

 彼がハンガーを受け取ったのと反対側の手に持っているのは、スニーカーではなくビンディングシューズだった。小野田くんは持っていないはずなのに。

 

 きっと洗ったばかりのそれは泥も付いていなくて綺麗だけれど、ソール付近には擦ったような細かな傷が所々についている。どう見ても最近買ったばかりの新品じゃない、使い込まれている。それに、その白い靴には見覚えがあった。

 

「あ……これは手嶋先輩が下さったんです」

 

 今の小野田くんの言葉で、全部の答え合わせができた。

 それが手嶋くんのビンディングシューズなら、ペダルの行方も決まっている。まだ洗車を終えていない小野田くんの自転車を見ると、やはりその車体には朝とは違うペダルがついていた。それも靴と同じく、見覚えのある傷付き方をしている。

 

「途中でいつものペダルが割れてしまって……それでもなんとか完走しなきゃって思っていたら、手嶋さんがペダルごと下さったんです」

 

 私が何を見ているのか、小野田くんは悟ったのだと思う。彼の補足を聞いて、私はようやく、おおよその経緯を理解した。

 

「……そうだったんだ」

 

 小野田くんには淡々と返事をしたけれど、内心では雷に打たれたみたいな衝撃だった。

 彼の自転車を預かった時に気がつかなかったことに、ではない。手嶋くんの選択に、だ。

 

──どうして君はそこまでできるの?

 

「手嶋さん、すごく良い方なんです。コースまで出てきてくださって、雨の中、随分歩かれたんだと思います。普通にしていたって歩きで行くのは大変な距離なのに、ケガをしている中で、こんなに大事な物を下さって……ボクにがんばれよってエールを送ってくれました」

 

 とても大事な思い出を打ち明けるみたいに、小野田くんは一つひとつを噛みしめるようにしてそう言った。

 対して私は、まるで本の朗読を聞くような気持ちでその話に耳を傾けていた。

 

 あまりにも優しい世界の話で、到底、現実に起こった話のようには思えなくて。どこかふわふわとした気持ちの隅っこで、泣けるお話だね、みたいに思っていた。

 

「いい先輩だね」

「はいっ、すごく尊敬してます!」

 

 でも小野田くんがそんな作り話をする必要なんてない。それに、彼のこの真剣な表情と、ここにある物が全てを物語っている。

 

 なんて気高い選択なんだろう。

 

 ロードレースは紳士のスポーツだ。だからライバルにアクシデントがあれば復帰を手助けしたり、ほかのチームの選手に補給食やボトルをわけてあげるなんてシーンも中継でたまに見かける。

 でもそれはプロの世界だからであって、とにかくその場で結果を出すことが全てのアマチュアの世界ならまず起こらないって、お父さんが言ってた。

 

 それにプロのレースでもないのだから、中継に映って全世界の人たちが見守っているわけでもない。小野田くんの口ぶりからして、彼らのやりとりは、ほかの誰も見ていない場所で起こった話だ。

 つまり、この選択をしたところで手嶋くんが誰かに賞賛されることはない。彼もそれを望んでいないから、こんな風にひっそりとやっている。

 

 得られたものはきっと、こうして小野田くんに感謝と尊敬をされるくらい。

 それがいつか、手嶋くんと小野田くんが一緒に走る時に何かの形で還ってくるのかもしれない。けれど彼がいくら策士だからといっても、そこまで計算したわけじゃないはず。

 

 だって打算だけでこんなことができる? 彼はさっき、「来年も自分の席があるとは限らない」と言っていたのだから。

 

 だったらきっと手嶋くんの行動の根底にあるのは、もっと前向きな気持ちに違いない。

 

「でも小野田くん、今度からはそういう時こそ私を呼んでね。レース中に自転車に不具合が起きて自分で直しようがない時は、スペアバイクや予備のホイールの出番だから」

「はっ、はい! すみません!!」

「……と言っても、私ずっとここで作業してたから声かけにくかったよね。ごめんね」

 

 私も先輩になったんだし、もっと周りを見なきゃ。自分の作業にばかり集中していてはダメだ。

 声をかけにくい雰囲気を出していたかもしれないと反省して小野田くんにそう言うと、彼は首と手を大袈裟なくらいに振って否定する。

 

「いえっ、瀬上さんは何も悪くないので! 次からは必ずそうします」

「うん」

 

 私が頷くのを見届けると、小野田くんは手嶋くんから譲り受けたビンディングシューズをハンガーにかけ、今泉くんのシューズの隣に吊るした。

 そのまますぐに立ち去るのではなく、その靴をじっと見つめる後ろ姿には、元の持ち主に対する敬意が表れているように見える。

 

──そうだ。ロードレースってこういうものだった。

 

 チーム全員で、一緒にゴールすることはない。チームから任された誰かひとりが、一番にゴールすればいい。

 ロケットの打ち上げみたいに、ひとりずつ役割を果たして、チームから切り離されて行く。きっと彼らだって、自分がエースになりたかったはずなのに。そうやって最後に残った人が、ゴールラインを争いに行く。

 

 チームメイトはエースに想いを託して、エースはチームメイトに敬意を払って──だから優勝した選手は必ず、自分を守ってくれたチームに感謝を伝える。

 

 手嶋くんが小野田くんに靴とペダルを託したのは、小野田くんが手嶋くんに深い感謝の念を抱いているのは、それと同じことなのかもしれない。

 

 手嶋くんは強いサイクリストだ。たとえ本人が否定したとしても、私にはそう言い切れる。

 

「小野田くん」

「はい」

「改めて完走おめでとう! これからも『その子』と走るの、楽しんでね」

 

 私がついやってしまう比喩表現に戸惑ったのかもしれない。小野田くんは丸い大きな目をより一層丸くして、でもそれからすぐに文脈を理解したようで、力強く頷いてくれた。

 

「……はいっ! ありがとうございます!! では、あの、遅くに後片付けを押し付けてしまってすみませんが、よろしくお願いします」

「大丈夫、それ見越してちゃんとお昼寝してあるから。あとは私に任せて! おやすみなさい」

 

 ぺこぺこと頭を何度も下げながら、小野田くんは自分の部屋に戻って行った。手を振って見送って、足音が廊下の先に聞こえなくなってから、私はもう一度ペダルの外れた車体に向き合った。

 

 あれだけ願っていたインターハイ出場が下級生のものになってしまって、自分の脚もボロボロ。

 欲しかった切符を手にした別の誰かのために動けるというのは、並の精神力ではないと私は思う。

 

 私は彼らのような闘争心がない。負けても悔しい思いをしたことがない。だから、想像するだけだ。

 それでも私が同じ立場になったとして、自分を打ち負かした相手に自分が大事にしているものを託すなんてこと、きっとできない。次は負けないって考えて、自分のためだけに時間を使うと思う。

 

──手嶋くん……私は君が勝つために、何をしてあげられるだろう。

 

 私は何度も救われて来たのに、私にできることは何もない。本当に、今回のことは私もすごく悔しいよ。

 だけど今泉くんや鳴子くんがとても努力をしてここまで来たのも、見ていればわかる。小野田くんもその類い稀なる才能にあぐらをかくことなく、部活以外でも練習をしているだろうことも推測できる。

 だったら彼らの努力も、手嶋くんや青八木くんの努力と等しく尊いものだ。報われるべきものだ。

 

「勝ってほしいと思う選手に貢献する」だなんて言葉で言うのは簡単だ。でも結局、私はレースには関われない。だから始まってしまえば、もう何も手助けはできない。なんて無力なんだろう。

 

 こんな風に考えるの、初めてだ。そんなのは最初からわかっていたはずなのに。好きで始めた整備士の仕事なのに。

 それでも今は、何もできない自分がもどかしくてたまらない。

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