Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
峰ヶ山ヒルクライム。そのゴールゲートを一番に駆け抜けていったのは、夏のインターハイを思い起こすような二枚のジャージだった。
小野田くんが一位、二位は箱学のマリア・ローザくん、そしてその後三位でゴールしたのが今泉くん。
その後に見えたのは、黄緑色のヘルメット──手嶋くんは四位か。表彰台には届かなかったけれど、それでも私の知る限り、今までで一番の成績だ。
ゴールした手嶋くんは小野田くんを讃えると、出しきりすぎたと言って左側に倒れ込んだ。
手嶋くんはそんな彼自身を、かっこ悪いと言う。
全力で走って倒れたサイクリストをかっこ悪いと思うような人が、わざわざこんな山の上にまで自転車レースを見に来るわけがないのに。
幹ちゃんは手嶋くんに笑いかけ、彼の手元に新しいボトルとタオルを置くと、上に重なった自転車を起こした。
「お疲れ様でした、手嶋さん」
「悪り、マネージャー。助かるわ」
「いえ。……小野田くん今泉くん、早くクールダウンしないと、表彰式始まっちゃうよ」
「あ……はい! 行きます」
幹ちゃんが促すと、小野田くんと今泉くんは通司さんが待つ駐車場の方へ向かっていった。そこにはクールダウン用に固定ローラー台が準備してある。
幹ちゃんも私にニコリと目配せしてから、倒れた衝撃でサドルの向きが少し曲がったキャノンデールを引いて、彼らの一歩後ろを歩いていく。
たぶん「同級生同士で話したいこともあるでしょうから」ということなんだと思う。なんて気の利くマネージャーなのだろうか。ありがとうの意味を込めて私も笑い返してから、未だに寝転がったままの手嶋くんの顔を覗き込んだ。
「さすが新キャプテン。倒れる方向を心得ていらっしゃる」
自転車界では冗談半分に「どうせ転ぶなら左側に」というようなことがよく言われる。右側に倒れると、地面に叩きつけられた衝撃でディレイラーハンガーが曲がったり、左側通行の日本では車と接触したりする可能性があるからというのがその理由。本当に転んでしまう時にはそんなこと考えられないのだけれど、真理だなとは思う。
「まあな、伊達に何年も自転車乗ってねーよ。……はー、やりきった……」
「そんな所で寝てると、せっかくのレギュラージャージに轍ができちゃうよ……」
坂の下の方からは声援が聞こえてくる。四人に篩い落とされた他校の選手たちが、もうそろそろゴールにやってくるのだろう。
こんな時、青八木くんがいればすぐに助け起こしてあげるはず。でも青八木くんは取材の車に乗って行ってしまって、ここにはいない。
──仕方ない。
私が青八木くんの代わりにと手を差し伸べると、手嶋くんは驚いた顔をして、躊躇いがちにその手を重ねた。グローブ越しに触れた体温と、直接触れた指の温度との差がはっきりと伝わってくる。
あれ。よく考えたら私、とても恥ずかしいことをしているのでは……?
だけど、そんな今更。ふと思い浮かんだそんな言葉を沈めるように、私はその手をぐっと引っ張った。
「うっ、重っ……」
手嶋くん、細いからもっと軽いと思ってた。
予想外に自分のほうが持って行かれそうになるのをぐっと踏ん張り、後ろに体重を載せて引っ張り上げる。
「凛ちゃんひど〜い。オレ今日のためにそこそこ絞ったんだぜ?」
立ち上がった手嶋くんは、そう言って声を上げて笑った。
その時にはもう手は離れていて、特にそれについては何も言わない手嶋くんにどこかホッとしている私がいる。
「ごめんごめん、単純にメンズの重量を侮っていたって話」
ほかのスポーツの選手や俳優さんの役作りと同じように、自転車選手もシビアな体重管理を行っている。軽さが大きな武器になるクライマーであれば尚のことだ。
手嶋くんもこのレースに照準を合わせて減量していたのは、見ていてわかる。食べても練習で消費してしまう彼らはみんな、元から無駄なものなどなさそうだけれど、それでもまた一段と薄くなるような感じ。
必要な筋肉は削ぎ落とさないよう、最低限のエネルギーは摂りながら、狙いをつけたレースに合わせてそれぞれに適した体重まで落とすというのが、彼らサイクリストの仕事のひとつだ。
それがどれほど大変なことかは想像に難くない。彼らの場合は成長期でもあるからそこまで厳しい減量はしない方が良いのだけれども、それでも今の自分に対する適正なラインを保つに越したことはないのだ。
余計なものは入れない、でも入れなければハンガーノックになってしまう。その収支のギリギリを攻略し、照準を合わせた舞台に向けて身体を作り変えるのがプロの世界だという。
「表彰台まであと一歩だったね」
「でけぇ一歩だよ。今泉まであと数センチとかいう話じゃねーからな。……けど小野田がタイトル獲ってくれた。それで十分だ。総北が表彰台独占てわけには行かなかったけど……そんな上手くはいかねーな」
「でも手嶋くんもトップテン入りだよ。おめでとう」
ただでさえ一位以外に意味を見出さないロードレースの世界で、四位という順位には一体どれほどの価値があるのだろうか。
「ははっ、何気にそうなんだよな。四位、オレ今まで出たレースで一番良い順位だわ。凡人なりに一応成長してるってことなのかなー」
手嶋くんも駐車場へ向かって歩き出す。彼の足の動きに合わせて、靴底のクリートがカチカチと鳴った。その後ろ姿は、疲れとビンディングシューズの不安定さとで、少し歩きにくそうだ。
──やっぱり。口ではこう言っているけれど、言うほど嬉しそうではない。
小野田くんが復調して優勝したことは、きっと心から喜んでいる。だけど自分のリザルトには満足していない、ということなのだろう。
私はこれだけ上位に来られたのなら十分すごいと思ってしまうけれど、彼にとってはそうじゃない。トップの小野田くんとのタイム差ゆえか、表彰台に登れなかったからか、はたまた小野田くんも届かなかった巻島さんの記録か──その理由はわからない。
いま私に見えているものは二つ。そのうちの一つが「手嶋くんにとって四位は意味のない順位である」ということ。そしてもう一つは「彼にとっては意味のないものでも、他の人にとっては重要な意味を持つかもしれない」ということ。
「……本当の凡人は四位にすら入れないと思うけど」
「え?」
手嶋くんが私を振り返った。汗で濡れた髪先が重たそうに揺れる。
「気をつけた方がいいよ。上位の人がそんな風に言ってたら、もっと下の順位の人から恨まれる」
先を歩いていた手嶋くんに追いついてから、私は彼の目を見ながらこう言った。
言われた手嶋くんは驚いたような顔をしている。見開いた目で何度か瞬きを繰り返して、私が言ったことを反芻しているようだった。
「え……いや、今日はたまたまうまく行っただけだ。
「私がその原田くんだったら怒ってるよ。侮辱されてるんだなって思う」
それ以上は言わせない。私は知らない人だけれど原田くんのためにも、手嶋くんのためにも。そう思って私は手嶋くんの言葉を遮った。
「……そうだな。不用意だったよ」
手嶋くんはそう答えて目を伏せると、首からかけたタオルで顔を拭った。
彼の目標はもっと高い所にある。だから彼は、今の自分とその目標とのギャップに苦しみ、その差を埋めて先へ進もうと努力している。
だからこそ、きっと気がついていない。山頂しか見えていないから、その間に彼が追い抜いてきた人たちがいることに気がついていない。千切られた人たちが、手嶋くんをどう見ていたかを考えたことがないんだ。
まだ思うところがあって、もう少しだけ手嶋くんに意地悪してやろうという気になった。いま私、ムスッとした顔をしているんだろうな。
「手嶋くんはもっと自分の価値を理解するべき」
「なっ……んだよ今日は。煽てたってチップなんつー文化は日本にないぜ?」
「私は思った通りのことを言っているだけ」
私が怒っているのなんてとっくにわかっているだろうに、それでもなおおどけているのが余計に腹立たしい。歩く速度を上げて、目を合わせずに手嶋くんを抜き去った。
青八木くんが来たら言いつけてやろう。それで青八木くんにも怒られればいい。
「瀬上」
しばらく歩き続けて、進む先に小さく総北のジャージが見えたところで手嶋くんが私を呼んだ。
「ありがとな。……悪い、せっかく『おめでとう』って言ってくれたのに。言い忘れてた」
私が肩越しに見た手嶋くんは困ったように眉を下げて笑っている。
その顔を見ていたらなんだか胸が苦しくなってきて、私は前を向き直してから八つ当たりみたいな無愛想で答えた。
「わかればよろしい」
もう少しだけ進むと、クールダウン中の後輩たちの姿がはっきりと見えてきた。こちらを見つけてぺこぺこと頭を下げる小野田くんと、小さく頭を下げつつも淡々とペダルを回している今泉くん。手嶋くんもそこへ合流し、二人と何か話しながら軽いギアでくるくると脚を回し始めた。
その姿を視界に収めながら、今のレースを振り返る。
実況によれば、途中までは手嶋くんが箱学のマリア・ローザくんとトップ争いをしていた。
その時に手嶋くんがマリア・ローザくんの脚を削ったから、小野田くんの優勝と、今泉くんの三位入賞が実現したのかもしれない。
でも、リザルトはそんなことを加味しない。このレースには敢闘賞だってない。そういう意味では、たしかに四位は特別な意味を持たない順位だ。上位入賞者リストの中に名前は上がってくるだろうけれど、それだけ。
前に手嶋くんは、今泉くんに「散々負けてきた」と言っていた。
きっとすごく悔しかったんだと思う。相手の名前を覚えてしまうほど、何度も何度も負けて。
その相手に、今日も届かなかったんだね。
今はチームメイトになったわけだけれど、それでもやっぱり、悔しいのかな。それとも強い仲間がいて、嬉しいのかな。どっちもなのかもしれないし、どっちでもないのかもしれない。
手嶋くんは仲間の勝利を自分のこととして喜ぶことができるサイクリストだ。だけどいつかは、手嶋くん本人にも表彰台に登ってほしい。相棒の青八木くんがそう願うように、私もそう思っている。
君が君自身の勝利で喜ぶ日が一日でも早く訪れるように、私にも何かできること、ないのかな。