Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
元旦の君ヶ浜はとんでもない混雑ぶりだった。
犬吠埼の灯台の先から登る太陽を一目見ようと、遠方からも人が押し寄せている。
前に青八木とこの辺を走った時に立ち寄った海鮮丼屋の店主曰く、この人集りの中に地元の銚子市民はほとんどいないらしい。「地元の人間はわざわざ初日の出なんか見に行かないよ。家で紅白と行く年くる年でも見たら寝ちまうから」と笑っていたのを覚えている。
なかなか駐車場に入れず道路で待ちぼうけをくらう車の横を、オレと瀬上は自転車ですり抜けていく。
とはいえ、オレたちサイクリストもこうなっては普段のスピードでは走れない。車が動きそうにもないのを良いことに車の間から歩行者が横断しようと飛び出してくるかもしれないし、ずいぶん左寄りに並んでいる車もあるからだ。
ゆっくり慎重に通り抜けるなかで連なる車のナンバーを見ていくと、千葉はもちろん隣の東京や埼玉、茨城の地名のものもあった。
この人たちは、千葉への帰省ついでに来たのだろうか。それともわざわざ初日の出を見にやってきたのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、ようやく人がまばらなエリアが見えてきた。先を走っていたオレは、ハンドサインで瀬上に「ここで曲がろう」と合図した。
浜辺に降りる階段近くのフェンスに自転車を立てかけ、二台まとめてワイヤー型の鍵で括り、一息つく。吐く息は、当然のように白かった。
隣にいる瀬上は「止まったら一気に曇った」と文句を言いながら、外したアイウェアをヘルメットに引っ掛けている。ネックウォーマーを鼻まで覆って、マスクのようにしていたからだろう。
「ううっ寒い……グローブしてたのに手が凍りそう」
浜辺に降りて、適当な場所に腰掛ける。瀬上はグローブを外すと、その手をネックウォーマーの中につっこんだ。首の方が温かくて気持ちいいらしい。
「マジで薄くて超あったかいグローブ、誰か開発してくんねーかな。……ほら、これ」
ほかほかと湯気を立てる紙コップ。それを差し出すと、瀬上は良いマシンでも見かけた時みたいな嬉しそうな顔をした。
「わーっありがとう! 手嶋くん天才っ」
「相変わらず大袈裟だな瀬上は。褒めてもあとこれもう一杯しか出ねーよ」
「もう一杯もあるじゃん! 最高だよ」
中身は甘いホットココアだ。どうやらメカニック様のお気に召したらしい。
紙コップを両手で包んで「あったかーい」とニコニコする瀬上を見ながら、寒い台所に立って用意した甲斐があったなんて考えながらオレも自分の分を用意する。
普段付けたりしないフレームバックを、久しぶりに棚の中から探して取り付けたのはこのためだった。ボトルは二つのケージのうちの片方に突っ込むとして、紙コップの収納場所がない。いくらなんでも他人に渡す食器をサイクルジャージのポケットに入れるのは気が引けて、他に思いついたのがフレームバックだった。
「いただきます」
「どーぞ召し上がれ」
去年──いや、もう一昨年になったのか。あの時の合宿でも似たようなことがあったな。あの時はコーヒーで、今度はココア。夏で、冬。朝で、夜中だ。
あの時は、年始に好きな子と初日の出を見に来ることになるなんて少しも想像しなかった。
金城さんの次のキャプテンに選ばれるのだって、絶対に公貴だと思ってた。
どっちも、今でもたまに何かの間違いなんじゃないかって思ったりもする。けど、どっちも紛れもない現実だ。オレたちは変わり映えしない同じ毎日を過ごしているように見えて、案外そうでもないらしい。
「寒い日のホットココアは格別だよねー。なんでこんなに美味しいんだろ」
「隠し味の愛情もたっぷりだしな。当然だろ」
「あいじょう…………」
「ちょ……黙んなよ、ウケないと恥ずいだろ」
「お母さんみたい」
「誰がお母さんだ」
「てしママ」
「うまいこと言ったみたいな顔して……」
瀬上は声を上げて笑っている。まあ、瀬上が楽しいなら、なんでもいいか。
寄せては返す波を眺めながら、ココアを一口。作った時に味見したけど、やっぱうまいわ。昔シキバがうちに遊びに来た時に母親が作ってたのを真似しただけだけど、オレ、こっち方面は才能あるかも。
「そういや、ここって日本一早い初日の出が見られる場所なんだってさ」
「へー、そうなんだ。……おかわり下さい」
「反応薄っす……」
「だってココアが感動的に美味しくて……」
「……はいはい、もう一杯どうぞ」
「やったー!」
浜辺の向こう側の空はもう随分と明るく、もうあと数分もすれば太陽が顔を出す。
断崖絶壁の岬にそびえる灯台の影はどこか寂しげにも見えるのに、君ヶ浜はたくさんの人で溢れ、楽しそうに太陽を待つ声で満ちていた。オレたちの話し声も、そのうちのひとつだった。
そういえば、この後の予定ってどうなってるんだろう、瀬上は。
前もって約束してたのは、「今年の初日の出は銚子で見よう」というところまでだ。普通に考えりゃ、このあとは、適度に補給を取りつつ、来た時と同じ集合場所まで一緒に走って解散ってことになるんだろう。
けどもし時間があるなら、許されるなら、もう少し瀬上と二人でいたい。一般道走ってると並走も難しいから、今日はまだあんま喋れてないし。てか瀬上はたぶん何にも考えてない気がするけど、これって、やっぱその……オレからすればデート?みたいな。かんじなんだし。このまま戻ったら解散ってのも味気ないし。
……いや、そういうのは考えただけじゃ意味がない。伝えなきゃならない。
そうだ、オレは今日のためにプランを練って来たんだ。銚子までのルートは、前に青八木と一緒に走った時の反省を生かして、走りやすい道を策定しなおした。部活が休みの日に練習がてら走って、自分の目と脚でちゃんと確認して。補給にちょうど良さそうな、元旦の朝から営業しているカフェもいくつか見繕ってあるし。帰りに寄り道していく時のルートだって考えてある。
それを言えばいい。簡単だ。たった五秒で終わるだろ。
「……よかったら帰りにさ、成田山に寄って初詣して行こうぜ。あっちもありえんくらい混んでると思うけど、せっかくだし」
あー、言っちまった。こうなったら次にどんな答えが返ってきても受け止めなきゃならない。やっべー怖い。
いつもみたいに自然に言えてたか? 話の流れ的におかしくないか? てか若干声震えてね? 必死さ伝わってキモくなってたら──
「いいねー! 行こう行こう」
……マジで? いいの?
そう言いそうになるのをグッと堪えて「決まりだな」なんて答えて平静を装う。オレの心配なんて無駄だったかのように、瀬上はさっきからの高いテンションのまま、二つ返事をするだけだった。
は〜、よかった。まだ日の出も見てないのに断られたら、一人で落ち込んじまうかもって思ってた。
胸をなでおろしながら周りを見れば、いよいよ日の出時刻が近いらしい。去年同様に、今年も大勢の人がカメラを構えだしている。なんとなく、峰ヶ山の時よりも今日の方が一眼レフを持った本気そうな人の割合が高いような気がした。
やがて、水面がささやきのようにキラキラと輝き出す。犬吠埼の崖の奥から現れたのは、今年一番の太陽の光。それを受けて一斉に花咲くのは、人々の感嘆の声だ。
崖の足元に横たわる岩礁に、波が砕けて舞い上がる。その水しぶきの合間から日は昇り、そびえる灯台が生み出す光とは全く異なる明るさで、この大地を照らしていく。
瀬上とオレは、同じ景色を見ている。同じ朝に、同じ場所で。
彼女の見る景色の中に、自分もいたい。それは去年の今日、オレが望んだことで、あの時約束したことが、ちゃんと叶っている。
「綺麗。これが日本で一番早い朝日なんだね」
去年と同じように、瀬上はその瞳に太陽を映していた。今しか見られないこの光景を、忘れないようにしているみたいに。
その横顔は綺麗だ。
よく映画のヒーローがヒロインに言う、何かよりも「君の方が綺麗だ」なんてセリフは、本当に浮かんで来るものなんだな。いくらなんでもベタだろと思ってバカにしてきたが、脚本家に対して悪かったという気持ちにさえなってくる。
「なんだ、反応薄い割にちゃんと聞いてたんだな」
「まあねー」
冗談ぽく笑う瀬上はなお、太陽が照らす海と岬を見つめている。
オレが提案したルートで好きな子を案内して、そこの子がこんなにも嬉しそうに景色を見て楽しんでくれていて、オレはその姿を独り占めできる。冷静に考えてみればすごい贅沢な事だ。
瀬上なら、一人でもここまで来られただろう。だからオレが今日、瀬上にしてやれたことは、別に何も大した事じゃない。
何か特別な事ができたわけじゃないけど、この気持ちを得られたんだから、それでいい。胸の奥にじんわりと温かく広がる、たぶんこれがきっと、幸福感ってやつ。
「手嶋くん、ここまで前引いてくれてありがとね。おかげで良い景色が見られた」
まるで心の中を読まれたみたいなタイミングに驚き、心臓が跳ねる。陽の光を集めていた瞳が、その光を湛えたまま、今度はまっすぐにオレを見つめていた。
気恥ずかしくはあるけれど、逸らせない視線。重ねるうちに、自然とこちらも笑みが溢れる。
「いや、こちらこそだよ。瀬上がいなかったら、これ見に来てないかもしれないからさ。……田所さんみたいな強力な牽引はできねーけど、帰りもきっちり引いてくよ」
「ふふっ、よろしくたのみます」
わざとらしくそう言ってまた海の方へ視線を戻した瀬上の表情が、少しだけ曇る。どうした、と声をかける間もなく、瀬上は太陽を拝むみたいに両手のひらを顔の前で合わせた。
「初詣か……去年の私のお願いは、叶わなかったから……今年は叶いますように……」
それがどういう意味なのか、オレにはすぐわかった。それにハッとすると同時に、叶えてやれなかった自分を不甲斐なく思う。
瀬上が去年の初詣でした願い事。それは、
「……悪いな、せっかく瀬上が応援しててくれたのに」
「あっ……ごめん! そういう意味じゃなくて!!」
叫ぶような勢いで瀬上は振り返った。誤解だ、とその目が言っていた。
「やっぱり自分のことは自分でお願いしなきゃダメなのかなー……って思っただけ。だから今年は別のお願いの仕方にしようって。それだけだから!」
オレの「今後一年間の全戦全勝を祈願する」。それが、瀬上の去年の願い事だったはずだ。
瀬上自身が言い出したダウンヒルバトルにオレが勝って、約束通りに麓の神社にお参りして、そう願ってくれたのだ。
けど去年、オレがレースで活躍する機会はほとんどなかった。一番の目標だったインターハイは結局出られていないし、予定していたレースも怪我でいくつか見送った。峰ヶ山は総北で表彰台を独占するつもりで挑んだが、及ばなかった。
得られた結果は、とても「全戦全勝」からは程遠い。
「わかってるよ。まあこういうのは、他人頼みでも神頼みでもなくて、自分で掴まなきゃなんないってことだよな」
瀬上が悪い意味で言ったわけではないことくらい、言われるまでもなくすぐにわかる。
だが瀬上は、いまだに気まずそうに視線を落としている。
たしかに「瀬上の」願いは叶わなかった。というかそもそも、正当に成り立つ願いですらなかったのだ。
だが、もう一つ。去年の今日に願ったことは、ここにもう一つある。
「瀬上は、去年、良い一年になったか?」
「え?」
オレの問いかけに、瀬上は訝しげな表情をした。オレが言わんとしていることを考えあぐねているのだろう。
だけどオレがもう一度「どうだった?」と尋ねると、瀬上は一呼吸おいてから、控えめに頷いた。
「うん、良い一年だったよ。所属チームが総合優勝するところも見られたし、学校も楽しかった」
「そっか」
でもやっぱり要領を得ない、という顔をする瀬上に、オレは笑いかけた。
「ちなみにオレの去年の願いは叶ったよ」
「え……なに? どれ?」
「教えない」
「えー、もったいぶらないでよ」
「……そんなに聞きたい?」
「聞きたい!」
打って変わって興味津々といった顔になった瀬上は、前のめりでオレにそう言った。
元気が戻ってきたみたいだな。何よりだ。
「瀬上にとって良い一年になりますように、って願っといたんだ。瀬上がオレの分お願いしてくれたからさ、代わりにって」
オレがこの一年秘密にしてきたことを明かすと、瀬上は瞳を揺らした。
「そっ……うだったん、だ」
驚いたような顔をして、瀬上は固まった。
その時間は、ものの数秒だったと思う。だが瀬上が再び口を開くまでの時間は、やけに長く感じられた。
その驚きが、どういう所から来るかわからなかったからだ。
言ってから思い当たった。初詣で自分の家族でも恋人でもない男に、勝手に自分の幸せを願われたら、普通に考えて気持ち悪いだろう。
やばい、オレ失敗したかも。助けて青八木。
「……もう! だめじゃん!!」
「え?」
まさかの切り返しに、今度はオレが驚く番だった。
「だめじゃん手嶋くん! せっかくバトルに勝ったんだからちゃんと神様に自分のことお願いして、自分のと私ので二重取りするつもりでないと!!」
「えー……そこ怒られるポイントか?」
もちろん瀬上も本気で怒っているわけではない。よく部室で繰り広げているしょうもない会話の延長だ。
だが新年早々、なぜこんなことに。
「時には貪欲に成功を求める姿勢も大事だってこと! ボトルの中身なくなってへろへろになってる時に、別のチームのスタッフさんが親切にくれようとしたボトルを断るようなものだよ」
「んー……なんか違う気ぃするけどなあ……」
オレが首をひねると、瀬上はわざとらしく肩をすくめながら目を大きく見開いた。映画に出て来る外国人みたいな仕草だ。
「……でもそれは、ありがとう、だね。おかげで私も去年、良い思い出ができたのかもしれないよね」
そんな風に芝居をしていた瀬上が、突然真剣なトーンで言うものだから、受け取るこっちはペースを乱されるばかりだ。
照れくさくて、くすぐったくて、何と返すべきかわからない。出て来た反応はどうにもオレらしくない、いつも一緒にいる相棒が乗り移ったみたいな頷きだった。
曙色ににじむ東の空に視線を戻し、しばらくしてから浮かんできた言葉を、オレはそのまま瀬上に尋ねる。
「今年は何お願いするんだ?」
「そうだなあ……人事尽くして天命を待ちますので神様どうぞよろしくって感じかな」
「あはは。瀬上らしいな」
「手嶋くんは?」
「オレも似たようなもんだよ。願いは自分の力で叶えるから、運とかツキって言われるものに関しては味方して下さい、て」
どんなに準備をしていたとしても、ほんの少しの不運が舞い込んで来ただけで、全てが無に帰ることがある。
観客の持っていた応援の旗に引っかかって落車するとか、重要な局面でパンクして取り返しがつかなくなるとか。
大半のことは、自分の力でどうにでも変えていけるし、だからこそ自分で責任を持つしかない。
自分の力じゃどうしようもないところを、神様ってやつに祈ろうと思う。
せめて、不運でチャンスを逃がすことだけはないように。
「そっか。たぶん、なんやかんやこれが一番正しいよね」
「謙虚でささやかな願いだよな」
「うん。でもロードレースにおいてはすっごい大事な要素だ」
「だな。特に『パリ〜ルーべ』とか」
「そうそう。今年は誰が出るのかなー、楽しみ」
パリ〜ルーべ──そのあまりの過酷さから「北の地獄」なんて呼ばれる、格式高く人気のあるクラシックレースだ。
これが始まる頃には、田所さんも金城さんも卒業してもういない。
新一年生が入ってきて、オレたちはついに最高学年になる。
青八木と約束したインターハイに挑戦するチャンスを得られるのは、今年が最後だ。
瀬上は、オレもインターハイに出られると信じてくれているらしい。まあそんな話をしたのも、もう随分と前の話になる。
だがあの時瀬上が言ったように、オレも少しずつだが強くなれている。
初心者だと言われていたオレに気付いてくれた瀬上は、田所さんや青八木とともに、オレに期待を寄せ続けてくれている。
オレは、その信頼「にも」答えたい。
そしていつも瀬上を悲しませるインターハイから、彼女を守ってやりたい。今年こそは、最後まで笑って表彰式を見届けられるように。
「よーし、日本一早い日の出も堪能したことだし、そろそろこの謙虚で健気〜な高校生たちを贔屓してもらいに、神様に会いに行こうか」
「そうするか」
アイウェアのレンズをクリアタイプからミラータイプに付け替えた瀬上は、来る時と同じようにネックウォーマーを鼻まで引き上げる。
表情は完全に読み取れなくなったが、たぶん満足げに笑っているんだろう。
オレの想像を肯定するかのように、朝日に照らされた瀬上のアイウェアがキラリと光った。