Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜   作:fuyu_plus

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瀬上視点のお話です


#029

 寒咲自転車店は夜八時まで営業している。

 すっかりと暗くなった中に寒咲さんのお店の明かりが見えて、私はなんだかとてもホッとした。

 

 寒咲さんのお店は……というかスポーツバイク店は、平日だと夜七時を回って社会人が訪れやすい今が、客足の伸びやすい時間帯のはず。なのに今日は、外のバイクラックに自転車が一台もかかっていない。

 

 珍しいこともあるなあ、でも空いているタイミングで良かった。そう考えながら、私は愛車をラックに引っ掛けた。

 

「こんばんは」

「瀬上か、いらっしゃい」

 

 扉を開けて声をかけると、発注作業でもしていたのか、パソコンを操作していた通司さんが顔を上げた。やはり今日もプレッツェルを咥えている。一体、一日何箱消費しているんだろう。

 

「幹ならさっき帰って来たぞ。呼ぶか?」

「いえ、大丈夫です。チェーン交換したくて寄っただけなので」

「なんだ、言ってくれりゃ明日部室に届けたのに」

 

 そう言われて思い出す。そうだ、明日は備品補充のために寒咲さんが来てくれることになっている日だったのに。

 

「あー……、たまには自転車屋さんの空気感に浸りたかったんです」

「ふーん。チェーンならそこだぞ」

 

 今の反応で、もうこれ寒咲さんは理解したんだな、と思った。私が単に買い物しに来たわけではないという事を。

 さすが総北自転車競技部キャプテンの系譜に連なる方だ。私の行動がそもそも不自然だからというのは当然だけれど、バレちゃうものなのだなあと思う。

 

 でも、いいんだ。最初からそのつもりで来たんだから。

 

 いつも使っているのと同じアルテグラのチェーンを手に取って、私は寒咲さんのいるカウンターへと持っていった。

 

「……これにします」

「たまにはこっちで交換しようか?」

 

 もちろんサービスだ、と寒咲さんは続ける。こういう提案をしてくれるのも、やっぱりわかっているからなんだろうな。いつもの寒咲さんならこんな風に聞いてこない。「瀬上は自分でやりたいんだよな」と言って、会計を済ませてくれる。

 

「じゃあせっかくなので、お願いします」

「おう」

 

 寒咲さんは、外のバイクラックに立てかけていたラレーを店の中に引き入れた。ギアをインナートップに変えてメンテナンススタンドに引っ掛けると、迷いなく今付いているチェーンを切る。

 私は寒咲さんが作業する様子を、お客さん用の椅子に適当に腰掛けながら眺めた。

 

──相変わらず、早い。

 

 ショップのメカニックとレースメカニックとでは、要求されるスキルに少し違いがあると言われている。ショップでは純粋に自転車の整備が上手い事が大事だとされているけれど、レースメカニックはそれ以上に、レースで要求されるスピード感に適応する事が最優先事項となる。

 

 寒咲さんなら、レースメカニックとして声がかかってもおかしくない。でも、たとえ有名なチームから声がかかったとしても、この人は断って総北の後輩たちを見守って行くような気もする。

 

 総北が強くあれるのは、寒咲さんがいてくれるからなんだろうな。

 

「寒咲さん、質問があります」

 

 そんな人だからこそ、私は訊きたいと思った。

 

「どうした、急に改まって」

「……普段からきちんとトレーニングしてる、バイクも本人の予算に合わせて軽量化してアップグレードしてる、ソフトもハードも良い状態なのに、それでも結果に伸び悩んでいる……そんな選手に、その人がレースで勝つために、メカニックがしてあげられることって何でしょう?」

 

 寒咲さんは珍しく、驚いたように目を見開いた。ガリっとプレッツェルが折れる音がする。なかなかお目にかかれない表情だ。

 

 自転車絡みではあるけれど、私がマシンよりも人間寄りの相談をしたのが珍しかったからかもしれない。

 

 数回パチパチと瞬きをした寒咲さんは、私の質問の全てを理解したらしい。ふっと笑って、手嶋か、と言った。

 

 それはそうなのだけれど、ハッキリそう言われてしまうとなんだか気恥ずかしいものがある。少し顔が熱い。バツが悪くなって私は寒咲さんから目を逸らした。

 

「私が男なら、レースでも全力でアシストするんですけど……いや私の性格だとやっぱり無理かな……?」

「まあそれは、青八木の役目ってことでいいんじゃねぇか?」

「そうですよね……私、青八木くんには全幅の信頼を置いてるし、そこは何も心配してないんですけど」

 

 彷徨わせた視線の先、天井の方を見ると、そこにはちょうど「CAAD」のフレームが吊るされていた。それは手嶋くんが使っている自転車メーカーが出している、アルミモデルである。

 

「手嶋くんてCAADみたいな人だなって、私思うんですよ」

「ん、CAAD? …………ああ、『カーボンキラー』か」

「はい。本人はCAADじゃなくてSupersixに乗ってますけどね」

 

 キャノンデールはアルミフレームの性能に定評がある。「下手なカーボンフレームを選ぶくらいならキャノンデールのアルミに乗れ」とまで雑誌に書かれるほどだ。

 

 カーボンロードが全盛期を迎えた今なお、キャノンデールは本気でアルミロードをつくり続けている。だからその高性能なアルミフレームには「カーボンキラー」なんて鮮烈なコピーライトを与えられたこともあった。以来、そのフレーズはキャノンデールの代名詞のひとつとなっている。

 

 私は手嶋くんの走りを、その闘い方を見るうちに、「キャノンデールは彼によく似合っている」と思うようになった。彼のためにあるような自転車メーカーだと錯覚するまでに。

 

 彼が駆るフレーム自体は、アルミではなくカーボン製だ。けれどカーボンファイバーという優れた素材を、革新的な発想で凌駕するというキャノンデールのアルミバイクの設計思想は、優勝候補たちを知略で追い落としてきた手嶋くんの闘い方そのもののように思えるのだ。

 

「今じゃアルミはカーボンの格下素材扱いだが、CAADの反応の良さと高剛性は、乗るやつ次第で下手なカーボンを打ち破るだけの力がある。……一昔前だが、実際ジロじゃCAADに乗ったクネゴが勝っちまったもんなあ」

「たしか周りはカーボンロードに移行し始めたのに、彼は好きでCAADを選んだって話でしたよね」

「そうだな。……なるほど、たしかに策士手嶋の闘い方と似てるかもしれねぇな」

 

 寒咲さんは私の抽象的な話にも確実な受け答えをしながら、しかしその手は止めなかった。

 

「……正直、私にやれることは全部やったって気はしてるんです。もちろん私、本番前に絶対にミスなんかしないし。でもだからこそ、これ以上力になれないのはもどかしくて……私にも何か、出来ることはないのかな……と」

 

 手嶋くんは、私が本当に必要としているものを、押しつけでもなんでもなく、ごく当たり前の事のように与えてくれる人だ。

 

 私には思いつかない考え方だったり、前に向かう力だったり、ぽっかり空いてしまった大穴を埋めるための言葉だったり、崖から落ちないように手を引いてくれたり。

 

 夜道を照らす光とか、道しるべだとか。そんな存在だ。まるで星灯り……北極星のような人。

 

 だから、私もそうなりたいのだ。手嶋くんが私にしてくれたように、私も手嶋くんが本当に手に入れたいと思っているものを掴み取る手助けをしたい。

 

 ……のだけれど。もう何も思いつかない。万策尽きてしまった私は、立場的に直接言葉にして応援することもできず、ただ彼のこれまで積み上げてきたものが形を成しますようにと願うことしかできない。

 

 青八木くんが教えてくれたところの、念じるということしかできない。少し前までは、それで良いと思っていたはずなのに。

 

 頭ではわかっていたはずだけれど、それがこんなにも歯痒いものだとは知らなかった。

 

「……おまえはいるだけで、充分だろ」

 

 そう言って寒咲さんは今だけ手を止めて、優しく笑う。その顔を見て、ああやっぱり幹ちゃんのお兄ちゃんだな、とぼんやり思った。

 

 けれども私は、その返答が不満だった。

 

「寒咲さん、これでも私すごーく真剣に聞いてるんですけど」

「オレだって真剣に答えてるよ」

「えー……本当ですか?」

 

 だって、それじゃ何の解決にもならない。既に作業に戻った寒咲さんの横顔を、私は睨みつけた。

 

「メカニックの仕事は、選手が納得して、メカトラや故障の可能性を0.1%も考えることなく走れる百二十点のバイクを保つことだ。……その点お前は腕が良い、信頼もされてる。そのお前が診たバイクなら何も心配せずレースに挑めるじゃねえか」

「……そうですかね」

「そういうもんだ。これは選手からすると結構デカいぞ、心配事が一個消える。レース前なんて大なり小なりみんな緊張してんだから、その荷物取ってやるだけでも大分助かるはずだ。軽量化がどれだけ意味のあることか、瀬上もサイクリストならわかんだろ」

「……」

「それに、あれこれ心配されるより『おまえならできる』って信じててもらう方がよっぽど力になったりするもんだぞ」

「そうか……。たしかにそうですね」

 

 心配してもらうのは、ありがたいことだけれど、確かにそんなに嬉しいことではないか。

 

 自分が大事に思われているのはわかるけれど、同時に頼りない存在だと思われているとわかってしまう。信用されてないんだな、と思ってしまう。

 

 もしかするとそれは、心配してくれた相手そのものではなく、言われた自分への失望に繋がってしまうかもしれない。

 

「心配」。一見、親切そうなワードに隠れているが、それは「見下している」のと紙一重だ。

 

「……そうだ。私もうやることないな! 信じて自分の仕事して放っておくしかないですね」

 

 結局、メカニックはレースが始まってしまえば「信じて応援する」ことしかできない。

 ただその時、青八木くんが言っていたようにその念が選手に届くのなら、彼らの中にある私が「心配してくれる人」ではなく「信じてくれる人」の方が、力になれる気がした。

 

「両方経験したオレはそう思うけどなァ。瀬上の親父さんに聞いたら、また別の答えが返ってくるかもしれねえけど」

「あ……それもメールで聞いてはみたんですけどね。『ありません。最後は人です』……って」

「じゃ、なおさらそれで間違いないな」

 

 そんな話をしているうちに、チェーン交換作業はもうとっくに済んでいた。前後のギアには新しいチェーンがかかっていて、寒咲さんが手でペダルを回しながら変速の具合を確かめている。ディレイラーは滑らかに動き、チェーンは暴れることなくギアと噛み合う。

 

「ほら、できたぞ」

「ありがとうございます、寒咲さん」

 

 人も自転車と同じだと思う。違和感や心配事があれば、何かが本当に綻んでしまう前にメンテナンスをした方がいい。

 寒咲さんはすごいな、両方なおせちゃうんだから。私もそういうメカニックになりたい。そのためにも、

 

「私、もっと頑張ります。応援したい人のこと、あれこれ心配するんじゃなくて、心から信じてあげられるように」

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