Blank Paper 〜凡人サイクリストのオレが天才メカニックに恋してしまった結果〜 作:fuyu_plus
「ん?」
部室の窓から一瞬、外の光が差し込んだ。
車のライトのような光だが、そこまで大きな強い光でもない。光源は一つだけだったように感じたし、動きも緩やかだった。
たぶん、自転車のライトだろう。みんな帰ったはずだが、部員が戻って来たのかもしれない。忘れ物だろうか。
「手嶋くーん! 開けても平気?」
外から聞こえたのは瀬上の声だった。どうぞと返事をすると、ガラガラと音を立てて引き戸が開く。
「もうだめ……疲れた……」
「瀬上? 大丈夫か?」
部室に入ってくるなり、瀬上はヘルメットとアイウェアを外しながら、ふらふらとした足取りでロッカーにもたれかかる。額には汗が滲んでいて、ものすごい勢いで走ってきたのだろうということが読み取れた。
「お弁当箱、ロッカーに置き去りにしちゃったなあって思って……調子に乗って裏門坂から戻って来てみたんだけど、もう無理……二度とやらない」
「瀬上はいつも正門坂登って来てるもんなあ……お疲れ」
「あんなの毎日登って、本当にみんなすごいよ……尊敬する……横着しないで正門から登った方が絶対に早かった……」
そんな風に言いながら瀬上は自分のロッカーを開いた。中から弁当バッグを取り出して「君のためにこんなに苦労したんだよ〜」と瀬上は物に語りかけている。自転車が弁当箱に変わっただけで、いつもの光景ではある。
距離が長い代わりに斜度が緩い正門坂と、急斜面である代わりに距離が短い裏門坂。どちらを好むかは、その人の脚質次第だろう。だが少なくとも、裏門坂はオレたち自転車部のプレイヤーでなければ選択肢にすら入らない。ママチャリで登ってくるのなんて小野田くらいだ。
「手嶋くんは残って来週のレースのレギュレーション確認……と見せかけて自主練か。頑張るね」
瀬上は固定ローラーにセットしたままのオレの自転車を見ていた。現状オレは書類を眺めているのによくわかったなと思ったが、瀬上が帰る時には外のラックにかけたままだった自転車を、わざわざ引き入れてローラー台にセットしている意味に気がついたんだろう。
「まあな。……オレは凡人だからさ。合宿に向けて、他のやつらよりも努力しねーと──」
「ねえ、それ」
「ん? 」
がちゃんとロッカーが閉じる音を境に、部室から音が消えた。
聞き慣れているはずの無機質なその音が、やけに耳についた。
「手嶋くん、私の友達の悪口言わないで」
「え……ちょ、」
「いま手嶋くんに貶されてた人、私の大事な友達なんだけど」
──それってつまり、オレ?
オレが凡人だって、だから他より努力しないといけないなんて言うなって、そう言いたいのか?
「聞いててつらいよ」
ロッカーを閉めてくるりとオレを振り返るその顔は、どこか苦しそうに歪んでいた。痛みを堪えるような表情だ。
──バカだなあ、何でおまえがそんな顔してんだ。なんでオレのことでオレよりもつらそうなんだ。
オレが凡人である自分に失望したことなんて、とっくの昔の話だ。今はその事実との付き合い方を理解している。
オレにとってはもう、自転車選手としての才能がないことは、自分を卑下するための材料ではなくなった。鬼才ひしめくサイクルロードレースの世界で、平凡であることこそがオレの武器だ。
……いや、強がり言ってるってのは自分でもわかってる。そう思いたいだけかもしれない。そうやって自分を奮い立たせていれば、いつかはオレにもチャンスが……て。
だけど本当に、今はそれを信じてみようと思うんだ。諦めるのは簡単だけど、「やっぱり」と思ってから取り戻すのは苦労するって、オレが一番よくわかってるしな。
「急にどうしたんだよ?」
「急じゃない」
ずっと前から思ってた、と瀬上は言った。つらそうな──泣きそうな顔をしたままで。
「大事な友達がそんなこと言ってたら、誰だってそう思わない? 手嶋くんだって、青八木くんが自分を卑下してたらつらいでしょう?」
「……青八木はそんなこと言わねーよ」
あいつはそんな男じゃない。思うところはあっても、口に出さない。何も言わずに強くなる方法を模索し、実行するのが青八木だ。
「知ってる。手嶋くん、競技をやめた私がこんなこと言っちゃいけないのかもしれない。真剣に勝ちたいと思ったこともない、諦めたおまえにわかるわけないだろって思われるかもしれない。でも言わせて」
真面目なときはいつもより簡潔明瞭な話し方を好む瀬上だが、今日はやたらと用心深い前置きだ。
「手嶋くんが努力をするのは、弱いからでも凡人だからでもないと思う。自分との約束を守ろうとする人で、自転車が大好きだから、できているんだと思う」
瀬上はいつになく真剣な顔をしていて、なぜかと聞きたくなるほどに必死そうだった。
「私は、手嶋くんがあの柵の向こう側に行ける人だと信じてるよ。それだけの積み重ねをしているって、君に大切にされているキャノンデールが全部教えてくれる」
──瀬上と最初に二人で話した時。入部したあの日。オレは瀬上に「自転車を大切にしている人」と認識されていたいと願った。
そして瀬上の原点を聞いて、彼女の「勝ってほしいと思う選手」に、オレを数えていてほしいと思った。
そのどちらも果たされた今、浮かぶ想いをどう表現すればいいのかわからない。
心を動かされたのは事実だ。だが一方で、本当に自分に向けられた言葉なのかと、実感も湧いていない。
これは本当に、オレが、今、受け取って良いものなのか?
誠実に向き合おうとしてくれる瀬上に、オレはどう向き合えばいいのだろう。
言葉を返せばいいのだろうか、結果を出せばいいのだろうか。どうすればその誠意に報いることができる?
……わかってる、言葉と結果。その両方で返したい。
けど、何を言えばいいのか、うまく言葉にならない。
ありがとうと言えばいいのか? 嬉しいよ、って? こんだけ応援してもらったらからにゃ絶対にインハイ出るから安心してくれ? ……そういうことじゃない気がする。
きちんとした像を結ばない言葉を言いかけてはやめる。それを繰り返すオレは、水族館の魚みたいに見えたかもしれない。いつしか瀬上はいつもよりも随分と湿っぽい笑みを湛えて、オレに呼びかけた。
「手嶋くん、私のことどう思う?」
「……え、どう、って」
なんだ唐突に。その意味は? どんな了見でそんなこと聞いてくるんだ。
「私は信用に足る人間だと思うかな?」
なんだよそういう意味か。「瀬上は、」ずっと黙っていたことがバレたのかと思ってちょっと焦った。「信頼してるよ。心の底から」いやそんなはずねーな、あの瀬上だし。
「良かった。じゃあ、手嶋くんは向こう側に行けるって言ってる私の話も信じてくれるよね」
瀬上はいつもみたいににこりと笑って、それから正面からオレの目を見据えた。
「君は凡人なんかじゃない。私たちにとっては唯一無二の人だ」
思わず喉が詰まる。まっすぐな瞳に見つめられて、その言葉に嘘偽りがないと悟る。
支えられていると感じたのは、これが初めてではない。今まで何度も助けられてきた。その度に湧いて出てきたのは、
「──瀬上、オレ、」
瀬上が好きだ。
「なあんて、ね。邪魔してごめん。今度こそ帰るよ」
無意識のうちにそう口にしそうになっていたオレを、制したのは他ならぬ瀬上だった。無論、瀬上自身にそんな意図はなかっただろう。だが結果的にそういう形になり、オレはハッとした。
それを言うのは今じゃない。だから止めてもらえて良かった。そう思った。
だけどこのまま、瀬上に散々救ってもらっただけで帰すわけにはいかない。オレも何かを返したい。同じだけは無理かもしれないけど、言葉では表せないくらいなんだということは伝えないと。
「瀬上、オレは!」
引き止めないと、と思ったら想像以上にでかい声が出て、自分でさえ驚いた。瀬上もそういう顔をしていた。
入学式の時からそうだ、瀬上は言いたいだけ言って逃げるくせがある。今ちゃんと足を止めさせないとと思ったから、そうなっていたのかもしれない。
「……ウェルカムレースで鏑木たちと約束したこと、青八木と一緒に怒ってくれただろ。あの時も言おうと思ってたけど、次の日に瀬上が何もなかったみたいにしてたから、結局言いそびれちまってた。ごめん。
それから、今のも。マジでパワー出るし、頑張ろうって思えるよ。
ありがとう、瀬上。でも、安心してくれ。オレもう『凡人』て言葉を悪い意味では使ってないんだ」
そう伝えると、瀬上は不思議そうな顔をした。
「たしかに昔はマイナスの意味で使ってたよ、自分は何も持ってない、才能ないって不貞腐れるために。
自分で自分を『凡人』て言ってれば、オレはオレの力量をわかってるって予防線を張れる。
オレは夢見てばっかのイタいやつじゃないんだって、自分のやってることを正当化できると思ってた」
誰だって一度は経験したことがあるんじゃないだろうか。
真っ白な紙に、思いっきり描いた自分の夢。それを他人に見せるかどうか、躊躇ったことが。
そりゃ子どもの頃はできただろうさ。でも分別のつく年齢になればなるほど、追い求めるものが大きければ大きいほど、それを実現できるのは特別な人間だけだと思い込むようになる。
「けど今は、平凡である自分を認めて、その上でやれることをやり続けてみようと思う。凡人のオレにしかできないことがあるって信じてる。
そう思えるようになったのは、田所さんが面倒見てくれて、青八木と一緒に実績積んで、瀬上にこうやって助けられてきたからだ」
オレは世界で走るという夢を描いて、それをシキバに見せた。心の中ではそれを今でもずっと大切に仕舞っておいているのに、いつしか人に見せるのは、それよりもスケールの小さい、現実的に手が届きそうなラインのものだけになっていた。
「今の自分を受け止めて、インターハイは通過点にしたい。オレはその先に行きたいんだ。
……いつも近くで、先を見て頑張ってる瀬上が、オレのことこんな全肯定してくれてさ。感化されもするってもんだろ?」
オレがそんなことをしている間にも、瀬上は夢を自由に語り続けていた。自分で自分を天才と言ってみたり、活躍すればワールドチームから声がかかるかもとはしゃいでみたり。
その姿を見ていたら、オレもあの時仕舞った夢を、もう一度追いかけてみたくなった。
もちろん本気で自分を信じ切れているわけじゃない。でも望まなければチャンスにすら恵まれない。
夢を語る者の隣には、その夢を信じられる者がふさわしい。そして他人の夢を信じられる者は、自分の夢も無下にはしないはずだ。
「すげーんだ、うちのメカニック様は。得意なのはバイクのリペアだけじゃなくて、捻くれ者の根性だって治しちまう」
きっとここまで言えば、瀬上も理解してくれるだろう。オレがどれほど救われてきたのか、瀬上にそのつもりがなくても、多くのものをもらってきたのが。
「……そう、とても優秀な人なんだね。でも、その人たぶん、こうも思っていると思う」
瀬上の瞳が揺れる。一言目も少しだけ上擦り、震えているように聞こえた。
だが目頭を押さえてからもう一度開いたその目は、どこか晴れやかな色をしていた。
「本当は私の仕事じゃないけど、その人のためなら特別にやってあげてもいいなと思ったから、って」
ああもう、なんなんだ。嬉しいことばっかり言いやがって。こんなの、さ。期待しちゃうだろ。もう今、全部ぶちまけてしまってもいいかという気になってくる。
だけどそれは、やっぱり違う気がする。今ここで打ち明けたら、瀬上が言ってくれたから、ついでに言ったみたいになってしまう。それだけは避けたいと思った。
この気持ちを伝えるのなら、ちゃんとそのために用意した機会に言いたい。
それにオレはまだもうひとつ、返せていないものがあるのだから。
「結果で返すよ、必ず」
緩む口元を隠そうともせず、オレがそう言うと、瀬上は穏やかに笑った。静かで綺麗な笑顔だった。
「……じゃあ、本当に今度こそ帰るね」
「──ああ。悪いな、送ってってやれなくて」
「いいよ。結果で返してくれるんでしょ? それで許してあげる」
トン、と瀬上の手のひらがオレの背を叩く。強めで、遠慮のない、手のひらだった。
「瀬上」
「うん」
「ありがとな」
「どういたしまして」